「お嬢様、確認終わりました。やはり博士は外出されたようです」
「確認ありがとう」
休日の生徒会、束外出の報を聞き、クロエに確認をとった虚がそこに入室すると、懐かしい柑橘系の香水の香りが鼻腔をくすぐった。夏は近く、虚はもう今年の半分も終わったのだと意識する。
「……どうしたの?虚ちゃん」
「いいえ。今年もつけられているのですね、と」
「そうね。もう、決まり事みたいになってしまったわね」
楯無は虚の言葉に頷きながらも、手に持った香水の入った小瓶を弄ぶ。それはおてんばで、おっちょこちょいなところもあった、元所有者が壊さないようにと樹脂製となっている。小瓶を眺めながら、楯無は座っている椅子の背もたれに体を預けつつ、天井を見上げた。
「もう、8年ですか」
「えぇ、そうね。私が“楯無”になってね」
「…時が経つのは早いものです。同時に、世界が変わっていくのも」
「もう少し、早く、変わって欲しかったわ」
「“楯無”にはなりたくなかったですか?お嬢様」
「まさか。それが私の運命よ。違う道はありえなかった。それが早かった。それだけよ」
笑みを僅かに浮かべながら、楯無はそのまま表情から力が抜ける。そう、彼女が“更識楯無”となるのは決まっていたことであり、避けることはできない運命だった。それがただ、早まっただけのこと。先代よりも優秀だと言われても、所詮は小娘でしかなく、更識の力は日に日に下がっている。
現代の忍者と呼ばれた更識はもう、既に過去のものとなっている。
「盛者必衰。ロシアの件もあるでしょうし、お偉方は果たして私たちをそのまま使ってくれるかしら」
「我々を切り捨ててどうするのですか、この国は」
「篠ノ之博士を手に入れれば世界を征すると言っているんだから、してもおかしくないでしょう?」
「そんな妄言をお嬢様は真に受けるのですか」
「まさか。ただ、人間というのは強すぎる力を目にしたとき、それを欲するか、滅ぼすかの二択をするものよ。今回は前者」
小瓶を仕舞い込み、楯無は席から立ち上がる。体が動けば、ふわりと、楯無を包み込むように香りが舞った。まるで、最後に見殺しにした“彼女”がそこにいてくれているようで、楯無はほんの僅かに瞑目する。
「(私がこんなふうに考えるなんて、ダメね。かんちゃんが許さない)」
「楯無様?」
「もし切り捨てられたとしても、私たちの役目は変わらないわ。いつの時代も私たちは影に潜み、敵の楯を剥がしてきた。たとえ主人に疎まれようともね」
更識楯無としての言葉を彼女は従者へと告げる。いつの世も変わらない更識の役目を彼女は自覚している。誇りと思わずとも、脈絡と紡がれてきた歴史が、血が、それを捨て去ることを許さない。
「無論、我々、布仏も弁えております」
「ごめんなさいね、こんな代の当主に仕えさせて」
「誰がなんと言おうと、お嬢様は私の主人です。……それに、あなたを見捨てるほど、私は薄情に見えるのかしら?」
虚が従者から友人としての態度で言えば、楯無もそれまでの硬い空気を脱ぎ捨てて「それもそうね」と笑う。
「ま、虚ちゃんに見捨てられちゃったら私も年貢の納めどきね」
「ならそんなときは来ないでしょうね」
「頼もしいわ」
先代の“更識楯無”は一人で戦い続けていた。それは単に、先代の戦闘能力が高すぎたがゆえに。楯無は先代とは違い、どちらかといえば更識本来の間者としての能力が高かった。だから、布仏の娘がしきたりに倣って与えられた。
最初はただの主人と使用人であったが、同じ姉で、互いに性格の相性もよかったおかげで、公私ともにパートナーとして彼女たちの付き合いはあった。
「さて…雑談はそこまでとして、お嬢様。どうされますか?博士の護衛は」
「そのことだけど、もうオータムがついているそうよ。さすがね」
「彼女が…そうですか。ISは」
「もちろん持たせてるわよ。ロールアウトしたばかりの九尾ノ魂“3尾”をね」
「3号機ですか。2号機は確か、ミステリアス・レイディのデータを移植中でしたね」
「えぇ。それに、私が乗るつもりだし、1号機と3号機は誰でも乗れるように調整をお願いしているわ」
「なるほど」
九尾ノ魂シリーズは楯無主導で量産が進められている。キナ臭くなりつつある情勢に合わせ、学園を守るための力として。平和利用を推進させるために生まれたはずの学園の地下で粛々と。まるでその様は、コズミック・イラにおけるオーブの“アストレイシリーズ”のように。
「1年生の校外学習…無事に終わってくれればいいけど」
「…何かが起きたとしても、我々で万全の体勢を敷く、そうでしょう、お嬢様」
「もちろん。簪ちゃんや本音ちゃんもいるのよ?姉としても、更識の長としても、ちゃんとしないとね」
「はい」
「じゃあ、虚ちゃん、本題いいかしら」
「かしこまりました。……内通者の調査の件ですが、やはり自衛隊がらみで彼女が——」
バビロン島へ向かうマコトたちが次に立ち寄ったのが『箱舟』と呼ばれるアクアラインの中継点であった。かつてはバビロン島を初めとした人工島の生成のためと拠点となった巨大な建設指揮所であり、多段で開放式の重層フロア構造の中に大型重機を多数格納・整備可能な「巨人の国」などとも呼ばれていた場所だった。
ただ、今こうしてマコトたちの前にある箱舟はその面影は多層式であることぐらいで、現在は巨大な商業施設と化している。
「——というのが、この“箱舟”のあらまし」
「ニュースで名前とかは聞いたことあったけど、すごいね…」
簪から箱舟についての説明を受け、マコトはこの世界の技術力もかなり高い水準にあることを改めて認識する。束でなくとも、EOS自体はISが存在する以前より研究は進んでいた。箱舟の中にあるブティックエリアを目指しながら、マコトは簪の手をとって自然と人混みの中を歩いていく。
「簪さん、人混み大丈夫?」
「…あんまり、得意じゃない」
「そうだよね。ちょっと抜けたら休憩しよっか」
「ありがとう」
休日ということもあって内部はそれなりに人で混み合い、マコトは簪に配慮してそうすることを決めた。今二人が歩いているのは入り口からすぐのフードコートに近い場所で、もう少しで人の波は途切れそうであった。
そんな二人を追う束はというと、
「(いやぁ、無理)」
束も人混みが苦手であり、二人を追うどころではなかった。入り口で早々に見失うという失態を犯しながらも、無理なものは無理だと束はため息をつきながら通路の隅まで移動してゆっくりと前へ進む。
「(まーちゃん、さりげなく手をとってくから彼氏力高いよねぇ)」
元が男だからかもしれないけど、と束は思いつつも想い人の優しさを認識する。それが自分に向けられていないのが辛いところだが、今は簪の番だ。
「(それにしても、海のど真ん中なのにこんな人が多いなんて思わなかっ——)わっ」
「きゃっ」
トスっ、と束は何かにぶつかった。体の強い束とぶつかれば当然相手のほうが弾かれ、束は面倒だな、と思いながらもぶつかった何かへと視線を向ける。すると、そこに倒れていたのは束ですらも目を奪われる美女であった。
「………ッ!」
栗毛色の肩まで伸ばした髪、透き通るような肌の艶、紫水色の瞳。顔の作りはまさに天性のアイドルと呼ぶに相応しいもので、体つきもバランスの良すぎる、整ったもの。一度見れば忘れることのないもの。
“正しくあろう”とするインフィニット・ストラトスのコアに内蔵された“ユグドラシルの欠片”に誰よりも触れている束の脳は弾けるようにその記憶を呼び覚ます。マコトから聞いた『彼』との特徴と一致する。
篠ノ之束は二人を追うどころではなくなった。
「いたたっ…あ、ごめんなさい!私ったら、全然前見てなくって!」
発せられたのは明るい声音。アイドル、ならばこうであろうなというもの。立ち上がり方は軽やかで、よく体が鍛えられていると束は感じた。変装している顔は極力自然体に、束は目の前の少女と言葉を交わした。
「こちらこそ、ごめんなさい。お怪我はないですか?」
「大丈夫よ!こっちこそ、ぶつかって失礼しましたわ!」
「そうですか、よかった」
可愛く振る舞っているのが露骨なのに、全くクドくなく、束は想像以上だと感じる。篠ノ之束の中にある魅了の技術を持つ者たちの中で、間違いなく目の前の少女は最強と言ってよかった。
「(あの金ピカババァとは格が違う。こいつ、本当に……)」
カリスマとはまさにこのことを言うのだろう。無意識に相手を惹きつける強烈な魅力。それを損わせない立ち振る舞い、容姿。なるほど、と束は納得する。これならば世界を手にすることも不可能ではない。
「ミア!」
「ん?…鈴!」
目の前の少女を呼ぶ声に、束は目を見開く。人混みをかきわけて、小柄な体はすり抜けてくる。ツインテールに茶色の髪、束もよく知る凰鈴音がそこにはいた。
「まったく、急に『おいしそうな匂いがするわ!』とかいって走らないでよ!」
「ご、ごめんなさい。私、こういうところ来るの久しぶりで」
「はぁ……まぁいいけど。それで、この人は?」
「わ、私がぶつかっちゃった人で」
「あー…すいません、あたしのツレが」
頭を下げる鈴音に束はいいですよ、と笑顔で対応する。どういうことだ、どういう組み合わせだ、と束は思う。ミア、と鈴音が呼んだ少女は間違いなく戸山キララであった。束の愛する…マコトを殺した張本人であり、この世界では忽然と姿を消し、明らかに不自然な記憶の抹消で忘れ去られた幻の世界的アイドル。マコトに頼まれて探していた相手が、何故、地元の馴染み深い相手と一緒にいるのか。
「というか、この人IS学園の人じゃん。どうすんのよ、偉い人だったら」
「いや、それ鈴音本人のいる前で言う?」
「……まぁ、それもそうだけど、実際どうなんです?」
「そんなことはないから大丈夫ですよ」
露骨によかったぁ、という顔をする鈴音に束はいつもの鈴音だとちょっと安心する。一番の警戒対象といる以上、鈴音の身も少しだけ束は心配だった。マコトの友人であり、変装して神社にいるときは世話になっている食事処の看板娘だ。何かあっては困る。
「じゃ、すいません。あたしたちはこれで。行くわよ、ミラ」
「えぇ、そうね。ごきげんよう!」
「あぁ、すいません。よろしければ、ここで会ったのも何かご縁ですから、お名前でも」
束が自然な微笑みを浮かべて二人にそう声をかけると、鈴音の目つきが鋭くなる。野生の勘で、束の思惑を何か感じ取ったのかもしれない。
「(うーん、鈴ちゃんはやっぱこういうとこ苦手だ)」
隠し事をするのを嫌うからこそ、鈴音は人の腹の中を感じ取るのが上手い。束とは相性の悪い相手だった。呼び止められたミアはそんな鈴音のことなど気にすることもなく「それもそうね」と束に向いた。
「私、戸山ミア、っていいます」
「そうなのですね。どなたか、双子のお姉さんでもいますか?」
「え?私は——」
「あー、あー、すいません。あたしたち急ぐんで、ほら、いくわよっ」
「え、ちょっと、鈴音!?こっちが失礼したんだしこれぐらい——」
「いいから行くわよ!」
「あ、あなたのお名前は〜……!」
鈴音が強引にミアを引っ張っていく。束はそれを見送りながら、ついに目の当たりにした戸山キララ…今はミアと名乗っていた彼女を考察する。
「(事前にまーちゃんから聞いていた通り、あれがポップな曲を歌う時の感じなのかな?アレが素?いやでも、途中で鈴ちゃんが遮ろうとしたってことはなんかあるかな。——真逆の声音、性格、立ち振る舞い……大方、二重人格、もしくは二層人格。今出ていたのはそのうち片方。どっちがキラ・ヤマトなのかはわからないな)」
今すぐにマコトへ聞きたいところであったが、今は簪とデート中だ。それを邪魔するのは憚られる。何よりも、今、戸山ミアは鈴音のところに身を寄せている可能性が高い。いつからは不明だが、最近のことだろうと束は推測する。
「(まーちゃんに話すべき、れーちゃんに話すべきか)」
地元に彼女がいるとマコトに告げるのはよくないと束は思った、飛び出しかねない。ならば、レイラに、とも思ったが彼女も彼女で、マコトの仇を討ち、殺した相手である。どちらも言っていいものかと束は悩むしかない。
「(はぁ。ともかく、今は何か悪さをするってわけじゃないだろうし、あとで考えよう)」
見たところ、鈴音とミアは単純に買い物をしに来たようで、束は一先ず放置してもいいと判断する。何より、現在の最重要目標はマコトたちだ。
「さてさて、どこに…」
水着を買いに行くのであればそのフロアに来るだろうと束は読んで、先回りすることにした。
鈴音と彼女がそこにいたのは偶然福引で旅行券が当たってしまったためです