神の悪夢による恐怖劇の世界、それが断章のグリムだ。
この世界で特殊能力を得ようと思えば、相応のリスクを負うことになる。
なにしろ事件で死ぬ確率と、能力の暴発で死ぬ確率は変わらない。
それは特殊能力が、神の悪夢を起源としているからだ。
これらの能力は断章と呼ばれ、アクティブではなくバッシブだ。
自分の意思で発動するものではなく、すでに発動している。
すでに発動している断章を抑制し、断章の暴発を防いでいるに過ぎない。
断章保持者は日常生活の中でも、常に悪夢へ抗い続けなければならない。
あるいは悪夢を日常として生きるのだ。
断章という爆弾を抱えて、そのカチカチという死の音を聞きながら。
悪夢の被害者による秘密結社、その拠点をロッジという。
通る車も少ない、古い通りにある古物商も、その1つだ。
神狩屋と刻まれた看板横の出入口から、慣れた様子でボクは入る。
するとカウンター横の丸テーブルに、見慣れない人が座っていた。
ここの店長である神狩屋さんと、その店員である颯姫ちゃん。
断章保持者の中でも事件の解決にあたる、騎士と呼ばれる時槻ちゃん。
見慣れないのは最後の1人、制服を着た男子学生だ。
「こんにちは、球磨川さん!」
『え?』『どうして初対面なのに、ボクの名前を知ってるの?』『こわい』
最初に元気よく挨拶してくれたのは颯姫ちゃんだ。
こちらも元気に挨拶を返したいけれど、性格のネジれているボクは素直に返せない。
颯姫ちゃんは太陽のように眩しく、思わず目を逸らしてしまう存在だ。
見ているだけで息苦しく、思わず発作的に殺したくなってしまう。
颯姫ちゃんが死んでくれたら、ボクは安心して正面から彼女を見れるだろう。
「彼女は球磨川禊くん、彼女も断章保持者だ。こちらは白野蒼衣くん、雪乃くんによって発見された断章保持者だ」
『やあ、久しぶりだね白野くん!』『小学生の頃に別れて以来かな!』
「え?」
ボクと会った記憶のない白野くんは、呆けた表情でボクを見る。
ボクも白野くんと会った記憶はないから、その反応は当然だ。
同じ町に住んでいるから、奇跡的な確率で擦れ違った事はあるかも知れない。
『もしかして忘れてしまったのかい?』『日常を愛する白野くんなら、ボクのことも覚えてくれると思ったのにーー』
「ごめん。どうしてか、覚えてなくて」
白野くんは思い出そうと頑張ってくれている。
しかし、そもそも存在しない記憶を思い出すことは不可能だ。
『いや、白野くんの気持ちも分かるよ』『あんな事があったんだからーー』
「球磨川さんの戯れ言は良いから、話を先に進めて、神狩屋さん」
ボクの茶番は、時槻ちゃんに打った切られた。
いわゆる美少女な時槻ちゃんは、ボクの嫌いな人だ。
何を嫌っているのかと言えば、美少女という部分に殺意を覚える。
あの綺麗な顔を焼いて潰せば、もっと普通に付き合えるかも知れない。
「えーと、とりあえず、話は昨日の続きになるんだけどーー」
神狩屋さんは白野くんに説明している途中だったらしい。
白野くんは昨日、1章の開始から、わずか3ページ目で異形に遭遇した。
その異形とは、両目を抉り出されて顔面から血を流す、かつて人だった物だ。
白野くんは危うく目を突き刺される寸前で、時槻ちゃんによって救出された。
時槻ちゃん自身を傷付ける事で解放された業火は、異形を炭化させたのだ。
「颯姫くん、見せてあげて」
「あーーはい」
颯姫ちゃんはイヤーウィスパーを入れている。
英語で格好よく言ってみたけれど、要するに耳栓だ。
それを外すと小さな蟲がワラワラと溢れ出て、颯姫ちゃんの体を這い回った。
えっちい。
しかし、白野くんの性癖はノーマルだったらしい。
椅子に座っている事も忘れて、飛び退こうとした白野くん。
そのままでは机も引っくり返して、コーヒーカップも割れる大惨事だ。
コーヒーを出してくれたのは颯姫で、破片を片付けるのも颯姫ちゃんだ。
それは可哀想なのでボクは、白野くんの背後に回っていた。
そうして引っくり返らないように、白野くんの椅子を押さえる。
『あっ』
残念なことに貧弱なボクの体は、椅子と共に引っくり返された。
白野くんと共に落下した椅子は、そのままボクを下敷きにする。
跳ね上がったテーブルは、白野くんに対面していた神狩屋さんへ襲いかかった。
コーヒーカップは床に落ちて割れ、黒い血のように中身を広げる。
「ごめん! 大丈夫!?」
椅子と共にボクを押し潰した白野くんは、慌てて立ち上がった。
その白野くんによって、椅子の下敷きになったボクは救出される。
『あー』『死ぬかと思った』
起き上がろうとしたものの、胸から感じた激痛に顔を歪めた。
そんな様子を見た白野くんに頭を支えられて、ボクは上半身を起こす。
『おいおい』『軽々しくボクに触れるなよ』『軽々しく恋しちゃうぜ?』
「ごめん。胸が痛むの?」
『ボクの胸に興味があるのかい?』『それなら確かめてみるといいぜ』
「いや、そういう訳じゃなくてーー」
『ごほっ! ごほっ!』
「血が!?」
白野くんの体重と重力による加速は、椅子の角に力を加えていた。
それによって折れた骨が肺に刺さり、出血しているようだ。
肺に開いた穴から空気が漏れ、呼吸も苦しくなってきた。
胸が内側から破裂するように痛む。
『そんなに 顔を 覗いてくれるなよ 白野くん』『恥ずかしい じゃないか』
途切れる呼吸を繋いで、白野くんに思いを伝える。
「どうしようーー神狩屋さん! 救急車を!」
慌てる白野くんに対して、神狩屋さんは落ち着いて尋ねた。
白野くんに対して、ではなくボクへ。
「どうする、球磨川くん。救急車は必要かな?」
『いいや いらないよ』『白野くんの 腕の中で死ねるのなら 本望さ』
「そうか。では、君が死ぬまで、もう少し待ってあげよう」
神狩屋さんは平然と、ボクの死を見逃す。
「なにを言っているんですか、神狩屋さん」
信じられないような震える声で、白野くんは聞いた。
「颯姫くんと同じように、球磨川くんも断章保持者だ」
『おっと そこまでだ』『ボクの秘密は ボクから伝えるよ』
「球磨川さん! それ以上、喋ったら、血が!」
『おとなしく 聞いてほしいな 白野くん』
血の泡を噴き出しながら喋るボクに、白野くんは仕方なく黙る。
汚い口を隠したい所だけど、もはや手を上げる余力も残っていなかった。
『覚えてるかな』『あの小さな女王様が殺されて』『あの小さな王国が崩壊した日を』
「え? ええ?」
白野くんの記憶に、ボクの姿はない。
事実として会っていないのだから、それは当然の話だ。
だからボクの言っている事を、白野くんは理解できなかった。
『忘れているのなら 思い出して欲しいな』『だって白野くんはーー』
セリフの途中で、ついに喋れなくなった。
パクパクと口を開けるものの、もう細い空気しか漏れない。
諦めた表情のボクを見て、白野くんは悲しそうだ。
まあ、いいや。
それよりも死ぬまで時間が掛かりそうだ。
肺に穴は開いたけれど、ぶっちゃけ致命傷ではない。
だからボクは舌を噛み千切らなければならない。
やりたくはないけれど、やらなければならない
何度やっても慣れる事はなく、その行為に対して恐怖を覚える。
この世界における特殊能力は断章だ。
神の悪夢の、その欠片によって引き起こされる。
アクティブではなくバッシブであり、すでに発動している。
日常生活の中で、それらが暴発しないように条件を付ける必要があった。
舌を噛み千切る。
それはボクの最初の死因だ。
思い出そうと試みた、それだけで吐きそうになる。
なぜならば、そうなった原因を思い出してしまうからだ。
自殺だった。
よくも舌を噛み切って死んだものと他人事のように感心する。
前世の俺は、今のボクよりも、遥かに強かったのだろう。
無駄。
無意味。
無価値。
ボクを黒く染める感情が、記憶の底から這い上がってくる。
ボクなんて、いない方がよかった。
ボクなんて、存在しない方がよかった。
ボクなんて、生まれるべきではなかった。
だから死ななければならない。
いつも目を逸らしていたボクの痛み。
それを意識すれば、一気に闇へ引き込まれる。
坂道を転げ落ちるように、容易には止まらない。
こうなればボクは死ぬしかないのだ。
舌を噛み千切る。
涙を流し、獣のような悲鳴を上げる。
柔らかく弾力のある舌へ、自身の歯を突き刺した。
いつも、どうしても、噛み切れなくて、重ねて力を入れる。
半分まで千切れて、狂乱した思考で、残り半分を食い千切る。
歯と歯を擦り合わせて、舌を噛み千切った。
グチャリと鳴って、血が溢れた。
吐き気を覚える血の味に感覚は侵される。
歯と歯が合わさって、ガチリと不快な音を立てた。
電気に焼かれるような激痛が、口から顔面へ這い上がる。
ガクガクと口が震えて、唾液と混じった血液が零れ落ちていく。
その赤い血の中にある小さな肉片は、切り離された舌の先端だ。
ボクの体の一部だった物は、もはや異物に過ぎなかった。
何も分からなくなる。
そしてボクはーーボクの決死の覚悟はなかった事になる。
ああ、ボクなんて消えてしまえば良かったのに。
もしも神様がいるのなら、そう願ったはずなのに。
この世界の神様は幸せな夢を見ているだけなのだ。
切り離した悪夢を、ボクらに押し付けて。
白野蒼衣は同級生のために、プリントを持っていった。しかし、その途中で異形と遭遇し、時槻雪乃に救出される。白野蒼衣の愛する日常、そこから外れた世界について神狩屋から教えられた。その翌日である今日、時槻雪乃に案内された白野蒼衣は、引き続き神狩屋の説明を受けていた。そこへ現れたのは球磨川禊だ。
田上颯姫の耳から這い出た虫に驚き、飛び退いた白野蒼衣は球磨川禊を下敷きにしてしまった。打ち所が悪かったらしく、球磨川禊は血を吐く。慌てる白野蒼衣へ、まるで最後の言葉のように球磨川禊は語りかけた。その昔から白野蒼衣を知っているような口調に、まったく記憶のない白野蒼衣は動揺する。
『忘れているのなら 思い出して欲しいな』『だって白野くんはーー』
ついに喋れなくなって、球磨川禊は口をパクパクと開ける。陸に上げられた魚のように、それは今にも死にそうな有り様だった。白野蒼衣の腕の中で、独りの少女が命を終えようとしている。それも驚いて倒れた白野蒼衣の下敷きになって、白野蒼衣のせいで死にそうになっていた。
その光景が白野蒼衣の記憶に引っ掛かる。なにか恐ろしい物を見てしまったような感覚だった。白く塗り潰されていた記憶の盲点が、白野蒼衣の現実に浮上してくる。バリバリと剥がれるような頭痛と共に、腕の中の少女が別物に見えた。かつて同じように白野蒼衣のせいで死んだ、独りの少女だ。
ーー白野蒼衣に拒絶され、異形となって果てた溝口葉耶
球磨川禊の、その口から血が溢れ出る。さきほどまでの吐血と異なる、致命的な結末を告げる量だった。飛び散った血液と唾液の混ざった赤色の液体は、間近にいた白野蒼衣を同じ色で染める。それと共にボトリと落ちた肉片は一瞬、生きているように床で跳ねた。球磨川禊の肉体は細かく震え、やがて消える命の鼓動と共に止まりつつある。
白野蒼衣は震えていた。体の外側は熱いのに、体の内側は冷えていた。目前で零れ落ちて行く命の感触を実感した。その血で汚れた白野蒼衣は、まるで球磨川禊を殺したようだった。白野蒼衣の手によって、生者から死者へ変質する。目を逸らせない現実は、白野蒼衣が目を逸らしていた過去と共に、想起した。
空気が変質する。重苦しい圧力となって、周囲へ広がる。倒れたままだった椅子も、アナログのレジスターも、店内に置かれたアンティークも、外形に変化はない。しかし、まるで異なる世界へ飲み込まれたような違和感を覚えた。まるで目前の空間に、巨大な穴が穿たれたようだ。
「え?」
その一瞬、夢から覚めたように世界は変わった。倒れたはずのテーブルは倒れておらず、割れたはずのコーヒーカップを載せたままだ。球磨川禊の死体はなく、白野蒼衣は椅子に座り直していた。あるいは最初から座っていたのかも知れない。そんな中で白野蒼衣の心臓だけ、大きな鼓動と共に異常を知らせていた。
『ボクが死んだという事実を無かった事にした』
背後から伸びた亡霊のような腕は、白野蒼衣を抱き締める。しかし、それは血に濡れているわけでもない細い腕だ。あまりにも細く、ちょっとした事で折れてしまいそうに思えた。生温かい吐息が、白野蒼衣の首筋を撫でる。反射的に振り返った白野蒼衣は、髪の毛が触れ合うような距離で、球磨川禊と顔を寄せ合っていた。
『これがボクの見ている悪夢の効果さ、白野くん』『これで少しはボクの事を思い出してくれたかな?』
互いの空気を吸い会うような距離で、それでも白野蒼衣は思い出せない。けれども直前まで忘れていた、異形となって果てた溝口葉耶の記憶があった。白野蒼衣は自身の記憶に不審を覚え、知らないと言い切ることはできない。忘れている記憶の可能性を捨て切れず、自身の記憶を疑った。
「君はーー誰だ?」
『白野蒼衣と溝口葉耶と、そして、もう1人』『思い出したら自然と分かるさ』
「教えてくれ、球磨川さん。俺は何を忘れているんだ?」
『溝口葉耶の事を思い出した程度でコレだ』『ここから先は不安で、とても教えられないぜ』
白野蒼衣から体を離すと、球磨川禊は立ち去って行く。椅子から立ち上がろうとした白野蒼衣は、体に力が入らない事に気付いた。見て分かるほど手足は震え、思うように動いてくれない。球磨川禊が神狩屋から見えなくなるまで、その後ろ姿を追うことしか叶わなかった。
「球磨川さんの戯れ事は聞き流した方が賢明よ。思わせ振りに意味深なことを言っているだけだから」
そう言ったのは白野蒼衣を異形から救った時槻雪乃だ。しかし白野蒼衣は、その忠告を素直に受け取れなかった。溝口葉耶の小さな王国と、その唯一の国民であった白野蒼衣。そして球磨川禊の告げた、もう1人。もしかすると球磨川禊という少女も、そこに居たのかも知れなかった。