断章の大嘘吐き   作:292299

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黄色いゼリーをスプーンにのせて

杜塚眞衣子は、空を見上げていた。それは暗い縦穴の遥か上に見える、光の差し込む小さな円だった。杜塚眞衣子にとって世界の多くは黒で占められ、世界に存在する白は少ない。世界に存在する光は、手で隠せるほどの大きさだった。光の差し込まない穴の底は冷たくて、杜塚眞衣子は寒さに震える。そんな所にいると杜塚眞衣子が悟ったのは、小学生の頃だった。

 

杜塚眞衣子を誰も助けてはくれなかった。唯一の家族である母親は、杜塚眞衣子の横で腐っている。白い虫に全身を這われ、溶け崩れた体に卵を産み付けられ、その卵から産まれた幼虫に内側から食い破られている。そんな無数の虫に全身を隙間なく這われ、それでも生きている母親は、必死に杜塚眞衣子の左足を掴んでいた。この穴の底から杜塚眞衣子が逃げ出さないように、傷痕が残るほど強く握り締めていた。

 

この穴を覗いた人々は、そんな母親を最低の人間という。そう言うだけで、杜塚眞衣子を助けてはくれなかった。なぜならば人々は、穴へゴミを投げ捨てているに過ぎない。杜塚眞衣子のことを考えて、そう言っている訳ではなかった。杜塚眞衣子を救うためではなく、ただ自分が気持ち良くなるために、そう言っている。

 

舞い落ちるチリは、杜塚眞衣子へ降り積もる。やがて窒息して死に至るまで、少しずつ少しずつ積み上げられる。この息苦しい穴の底から、杜塚眞衣子を引っ張り上げてくれる人はいない。杜塚眞衣子の髪はチリで、灰を被ったように白く染まる。そうして人々の捨てた罪に埋もれた、灰かぶり。人々に罪を押し付けられた、シンデレラ。

 

「痛っ」

 

杜塚眞衣子の目覚めた原因は、寝ている間に感じた左足の痛みだった。不安になって見たものの、いつもと左足の状態は変わらない。いつもと変わらず、押し付けられた煙草の痕は染みになっていた。それは母親から刻まれた、いくつもの焼き印だ。奴隷の証のような。まるで、そこだけ老けてしまったように肌は変色していた。

 

結局、痛みは幻痛だったのか。少しだけ不安に思いながらも、すぐに忘れる夢だった。いつもは母親の呼ぶ声に起こされる。すぐに今日も母親に呼ばれ、杜塚眞衣子は寝床から起き上がる。杜塚眞衣子が学校を休んで尽くしても、それを当然の事として感謝もしない母親だった。

 

本来ならば入院しているはずなのに、家で死にたいと母親は願ったのだ。

 

それが杜塚眞衣子の日常だ。友達を知らない。遊ぶことを知らない。母親と家で完結し、他人の存在しない世界だった。人の語る普通の日常は、杜塚眞衣子にとって他人事に過ぎない。やがて人に対する共感は失われ、当然の事として心は人から外れる。そうして生まれた怪物は、人に憧れていた。

 

『こんにちは!』『眞衣子ちゃんの友達の禊ちゃんだよ!』

「ど、どうして!?」

 

インターホンの受信機に映っていたのは昨日、恐ろしい死を迎えたはずの球磨川禊だった。食い破られた頭蓋も、肌から生えたハトの部品も、今はない。まるで悪夢だったように何も残っていなかった。それでも球磨川禊を見ていると、昨日の忌まわしい光景を幻視してしまう。

 

『ボクは魔女だからね!』『あの程度じゃ死なないさ!』

 

杜塚眞衣子はインターホンの受話機を置く。すると通信は切断され、球磨川禊の姿は消えた。聞こえる呼出音から耳を塞ぎ、インターホンの画面から目を逸らす。そうして嵐が過ぎ去ってくれる事を願った。何度も鳴らされる呼出音に、反対側から聞こえる母親の怒声も混じる。すると外から聞こえたのは、周辺に響き渡るほどの大声だった。

 

『扉を開けていただけますか!』『杜塚眞衣子ちゃんの、お母さん!』

「やめてください!」

 

杜塚眞衣子は受話機を手に取る事もなく、耳を塞いだまま悲鳴を上げた。

 

『友達なんだから、中に入れてくれるよね!』

「嫌です! 友達なんかじゃありません! 帰ってください!」

 

『そんな!』『君の家まで来てくれる友達なんて、ボクくらいだぜ?』

「迷惑です! 帰ってください!」

 

泣いて、怒って、恐がって、心は弾けそうだった。

 

『他に家まで来てくれる友達はいるのかい?』

 

友達。

 

『君が困っているのを見ても、誰も助けてくれなかったんじゃないかな?』

 

思い浮かんだのは、従姉妹の黒磯夏恵だった。杜塚眞衣子の母親が嫌いな親に秘密で、杜塚眞衣子を手伝ってくれていた。杜塚眞衣子が学校へ通えていたのは、黒磯夏恵のおかげだ。しかし、杜塚眞衣子を心配する余り、母親の事で口論になった。それを最後に黒磯夏恵は行方不明になり、母親の介護で杜塚眞衣子は学校へ行けなくなった。

 

「助けてくれる人はいます。だから貴方は必要ありません」

『君の代わりに母親の面倒を見てくれる人もいないじゃないか』

 

「います!」

『いいや、君の従姉妹だった黒磯夏恵なら、もう死んだよ』

 

昨日も同じ言葉を言われたはずなのに、杜塚眞衣子は絶句する。冷たさに体は震え、カチカチと歯を鳴らす。それは恐怖だった。扉の向こうにいるのは正体の知れない怪物だ。杜塚眞衣子はインターホンの画面を覗こうとして、もう見ることはできなかった。杜塚眞衣子を守ってくれる鉄の扉は1枚限りで、とても頼りない。

 

『勘違いしてるみたいだけど、殺したのはボクじゃないぜ』

「夏恵お姉ちゃんがーーそうなる訳ありません」

 

杜塚眞衣子は、死という言葉を恐れて避けた。

 

『訳ならあるよ』『ボクと同じようと、君の母親を悪く言ったからさ』

「そんなこと、夏恵お姉ちゃんはーー」

 

『母親の事で喧嘩して、それっきりだ』『そしてボクと同じように目玉を喰われた』

「おかしいですよ。どうして、そんな事まで知ってるんですか?」

 

『ボクは魔女だからね』

『私達のことを見張っていたんでしょう。夏恵お姉ちゃんを隠したのも貴方です』

 

『証拠ならあるぜ』『昨日、ボクはハトに喰われた』『彼女に起きたのは同じことさ』

「あんなのトリックです。貴方は怪我も無いじゃないですか」

 

『そう言われると、困るぜ』『何でもトリックの一言で片付くじゃないか』

 

トリックと言って、正体の知れない物に形を与える。そうする事で杜塚眞衣子は、心の安定を得たかった。それによると球磨川禊はストーカーで、杜塚眞衣子を見張っている。それはそれで身の危険を感じるけれど、人の行いによって説明のできる範囲に収まるものだ。

 

『どんなトリックだと思う?』

「そんなの、知りませんよ」

 

『じゃあ今、この扉には鍵が掛かっているだろう?』

「ええ、まあ、そうですけど」

 

『あまり気は進まないけど』『仕方ない』

 

やる気の感じられない、そんな抜けた声と共に世界は変質した。室内の空気は動き、玄関から流れ込む。外と繋がった所から、風は入り込んだ。その扉の隙間から流れ込むのは、空間ごと体を絞られるような圧迫感だ。形のなかった曖昧な恐怖は、今や明確な形をもって襲いかかる。

 

『鍵が掛かっていたという事実を』『無かったことにした』

 

鍵の掛かっていたはずの扉は、チェーンロックすら見当たらなかった。それらは根本から消失し、一片も残っていない。完全に無防備となった扉は、もはや鉄の板に過ぎなかった。その光景を受け入れられず、杜塚眞衣子は呆然としている。説明のできない事が、目前で起きてしまった。

 

『君の従姉妹だった黒磯夏恵は死んだ』『ボクと同じように母親の悪口を言った事で、ボクと同じようにハトに目玉を食べられたのさ』

 

穴の上から見下ろ人々の、目。母親を悪く言う人々の、目。人に罪はなく、在るとすれば、それは目だった。悪い目さえ無くなれば、人に罪はない。悪いのは人ではなく、目だ。目は罪の証である。母親に向けられる人々の視線は、杜塚眞衣子にとって恐怖の対象だった。

 

『黒磯夏恵を殺したのは、君だぜ』『眞衣子ちゃん』

「違う。私は、そんなこと、しない」

 

『君は向きを間違えた、それだけさ』『それを向けるべき相手は、君の外側ではなく、君の内側にいるんだ』

「悪いのは、私?」

 

『いいや、君は悪くない』『本当に恐かったのは他人の目ではなく、母親の目だったんじゃないかな?』

「お母さんの、目?」

 

『母親が君へ向けた悪意の目だよ』

 

杜塚眞衣子の左足が痛む。それは幻痛で、すでに火傷は治っていた。しかし激しく叩かれ、その後タバコを押し付けた時、どんな目で見られていたか。その時、母親は杜塚眞衣子を見ていなかった。タバコを押し付けながら、その左足を見ていたのだ。けして杜塚眞衣子を見てはいなかった。悪いのは杜塚眞衣子ではなく、この左足だ。

 

『君は母親の目を取り出したいんだよ』『そうすれば罪はなくなる』

「ちがう! お母さんは悪くない」

 

『じゃあ、君は母親を愛しているのかい?』

「そうよ。嫌いなんかじゃない」

 

『それなら君は、やっぱり母親を殺さなければならないね』

「そんな訳ない! どうして私が、そんなことを」

 

『君は病気で死ぬのと、君の好きな人に殺されるの』『どっちがいい?』

「私は、どっちも嫌。どっちも選ばない」

 

『人生の最後に、どちらか選べるとしたら』『病気で死ぬよりも、好きな人に殺された方が幸せなんじゃないかな?』

「そんな変人、貴方だけよ。死ぬのは嫌に決まってる」

 

『君だったら、どっちがいい? 最後に王子様に会えるとしたら』

「私はーー」

 

言葉は出てこない。喉に詰まって、止まってしまった。もしも杜塚眞衣子が最後に、白野蒼衣と会えるとしたら、それは幸せなのではないか。このまま学校に行けなくなって、白野蒼衣と永遠に別れるとしたら、それは死んだ方が幸せではないのか。なぜならば、この先の人生には何もないのだ。母親は死んで、学校にも行けなくなって、これまで生きた理由の全ては失われる。

 

『愛しているから殺されたいんだ』『それは君の母親も同じはずだ』『だって君の母親は、君を愛しているんだろう?』

 

「ーー分からない」

 

それは球磨川禊に対する返答ではなく、自問だった。愛しているのならば殺されたい。しかし殺されたくないのならば、どういう意味なのか。通常であれば人によって意見は異なると分かるだろう。しかし杜塚眞衣子は虐待によって、母親と自分を同一視している所がある。

 

母親の虐待に煙草を押し付けられた、杜塚眞衣子の左足。それを杜塚眞衣子も母親と同じように、悪い足と思って傷付けた。学校でもイジメを受け、親しい友人もなく、頼れる人は従姉妹の黒磯夏恵だけだった。その黒磯夏恵も死んで、もう存在しない。杜塚眞衣子は社会から孤立し、関係性と共に他人の視点も失っていた。

 

もはや杜塚眞衣子は人の心が分からない。

杜塚眞衣子と同じ母親のように。

 

『まるで病魔が感染するように』『心に傷を付けられた人間は、その心に傷を付けた人間と同じものになるのさ』

 

杜塚眞衣子はスプーンを持っていた。母親の好物である桃やプリンを食べさせるための、大きめのスプーンだ。いつも母親は自分で食べるのではなく、杜塚眞衣子に世話をさせていた。自分で食べる事もできるのに、そうさせていた。まるで奴隷のように杜塚眞衣子を扱っていた。まるで自分の手足のように。

 

スプーンの先が、目の内側を撫でる。その痛みに母親は、弱りきった体を跳ね上げた。マンションの室内に響き渡るのは絶叫だ。内側を確かめるように手を前後へ動かし、ブチブチと細かい血管や神経を千切る。ジョリジョリ、ジョリジョリと、金属の先端で丁寧に擦り上げた。いつものように、桃を切り出すように、スプーンの先へ目玉を載せる。

 

杜塚眞衣子はスプーンを口へ運んだ。ガンで黄変し、腐ったように濁っている。血と涙の混じった、その味に吐き気を覚えた。軽く噛めば弾力を感じ、口の中の異物に拒否感を覚える。噛み切ることはできず、喉を押さえて無理に呑み込んだ。その大きさから胃の入口を抉じ開け、歪んだ球体は体内に落ちる。そうして体内に入れば、何も感じなくなった。

 

「これで、お母さんの罪は、なくなるのね」

『お母さんも愛する人に食べてもらって、きっと最後は幸せだったね!』

 

ガンで死ぬ前に殺されて、よかった。

杜塚眞衣子は自らの手で、虐待の日々を乗り越えたのだ。

母親に虐待された苦痛と恐怖から、真の意味で解放されたのだ。

 

『これで君を囚えていた檻は、もう存在しないぜ』『どこへだって飛んで行ける』

 

祝福するように、どこかで夕刻を告げる鐘が鳴った。

 

ベッドに血を撒き散らして死んだ母親、その体を球磨川禊は蹴り落とす。すると床の一面からハトの口が生え、死体を突っつき始めた。着ていた服ごと皮を破って穴を開け、赤い血管と白い神経を引き千切り、内臓を引きずり出して、骨すらも砕く。後には残ったのは白い毛髪や砕けた骨の混じる、ブヨブヨとした肉の塊だった。

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