「見たい」
彼女にそう答えてから、いやそれ以前に絵の話を持ち出した時から、彼女との間の空気は一変した。
気まずいとか険悪といった類いのものではなかった。
ただ今までにない緊張し張り詰めた空気が、一気に場を支配した。全てを染め上げ、まるで世界に二人きりになったみたいにしんと静まりかえる。空は赤く染まりはじめていて、まるで知らない世界に迷い込んだような気分になった。
もしかしたら、普通ならここで「冗談、気にしないで」とでも言うのかもしれない。でも僕は・・・・・・知りたかった。いや、知らなければならないと感じていた。
彼女は真剣な表情で、答えた後もしばらく僕の目を見つめていた。
僕よりも背が低く小柄なのに、どうしてそうも力強く貫くような視線で見る事が出来るのだろう。にらむ訳でも何かを訴える訳でもない、むしろ逆の目。何かを伝えたいんじゃなく、僕という存在そのものを見定めようとしているかのような目をしていた。カメラのレンズのように、判定するようにただじっと彼女は無言で僕を見つめ続けていた。
それがどれ程の時間だったかは分からない。恐ろしく長く感じたけれど、実際は一瞬だったのかもしれない。
「・・・・・・分かった。兄さまになら、見せる」
低いままのトーンで、彼女はそれだけ言った。そして僕達は、彼女の家に向けて歩き始めた。
余計な会話はなく、歩きながら訥々(とつとつ)と話す彼女の言葉を僕は慎重に聞いた。
美術予備校以外では誰にも自分の絵を見せたことがない事。家にはデッサンしたものもあるけれど、“自分の絵”を見せるのならオリジナルで描いたものを見て欲しいという事。絵に関しては、偽る事が出来ないという事。
“自分の内臓を・・・・・・晒すようなものなんだよ”
絞り出すように、彼女はそう言った。
そこには普段見せない、別の顔があった。明るく活発に話す彼女とは、一線を引いた表情だった。
一切の余裕を彼女はなくしていた。それくらい、真剣になっているのだという事が嫌でも伝わってくる。これが彼女の“本来の姿”なのかもしれない。いや、人に本来の姿なんてなく、ただただ“大切な物と接している時の自分”があるだけなのかもしれない。そして今、僕はその状態の彼女と“会っている’’。
冷淡と思われるかも知れないけれど、燃えるような何かが確かに存在し、それは彼女の中にあるという事を、僕はその様子から確信していた。
彼女の家を見るのは、それがはじめてだった。
後ろから太陽光で照らされていたから、正面が影になっていて、まるでそびえる城のように見えてしまう。決して怖い訳ではないのにそう見えるのは、たぶんここで、彼女の絵をはじめて見る事になるからだ。
彼女の部屋は二階の奥だった。至って普通の家で、彼女自身もそう言っていた。両親はまだ働いている時間らしく、二人しかいない家の中は驚くほどしんと静まりかえっていた。
「準備するから、待ってて」
それだけ言って、しばらく彼女は出てこなかった。
部屋から物音だけが続いて、やがて止んだ。部屋から出てくる彼女はより一層張り詰めた表情をしていて、そして入るようにと言った。
「私、外で待ってる」
そう言って彼女は廊下から動こうとしなかった。僕は一人、彼女の部屋に入った。
そこにはキャンバスがひとつ中央に置かれていた。布がかけられていて、何の絵かは分からない。“自分で、外して。準備が出来たら、自分で”彼女はそう言っていた。夕日が差し込む部屋は、キャンバスと僕の影だけが、異様に長く後ろにのびる。僕はキャンバスの前に立ち、軽く一呼吸置いて布を取った。
それは、風景画だった。
そして次の瞬間、僕は風景画の中にいた。風景画の中の丘に、確かにそこに“立っていた”。その絵を、光景を見た者と同じように、そこにいるかのように、僕は絵の世界に入り込んでいた。
目の前には、さっきまで室内に満ちていた夕日の色にさえまるで負けない、鮮やかな夕焼けがあった。弧を描く丘の向こう、山々の先、地平線の真上に、静止した彗星のように燃える太陽があった。
空は見事に赤く染まり、鳥の群に見える影だけが太陽と雲の合間に小さく見える。そして・・・・・・丘の上には、奇妙なシルエットの影が浮かび上がっている。それは、恐竜だった。
そこでようやく、この風景が有名な児童書「恐竜の影」のワンシーンなのだと気づいた。主人公が数々の困難を乗り越え、恐竜達が絶滅しなかった世界と隣接する、地球上で唯一の場所にたどり着く場面。そこで主人公は、ついに念願だった恐竜達の影を夕日の中に見つける。
別々の世界だから行く事も直接見る事も出来ない、けれど隣接した世界の影だけが、太陽光が赤々と燃える日にだけ、世界の境界を越えて見る事ができる。主人公は息をのみ、その光景を一瞬たりとも見逃さないようただただ見つめるというシーン。
僕は絵の中で、その主人公の真横に立っていた。いや、正確には主人公そのものになっていた。全身を覆う朱色の光、冷たい湿気を帯びた風、夜に向かう間際の空気。そして今、焦がれた光景が目の前に浮かび上がっている。
影しか見えない恐竜達の悠々とした動きが見える、巨大すぎて霞んでいる長い首の先の頭部が見える。重なりあった別々の種類の影が見える、奇跡のような瞬間が、見える。
僕は主人公と同じように、呆然から立ち直り素早くカメラを構えてシャッターを・・・・・・。
そこで僕は、彼女の部屋に戻った。
正確には、彼女の部屋に居てこの“絵”を見ていたのだと思い出した。
引きずり込まれた。体験した事なんてないはずなのに、僕は“絵の中に引きずり込まれ“てその場に立ち、目の前でその光景を見た。無論、物理的にそこに立った訳でも絵の中に入り込んでいた訳でもない。
それでもその絵を見た瞬間、僕は確かにそこにいた。
今まで素晴らしい本や理論に出会った時にも、まるで新しい世界にトリップしたような気持ちになる事があった。本を読み終えたら朝になっていた時などは本の世界と、今本を閉じ眠りにつく世界のどちらが自分の住む世界なのか、一瞬混乱してしまったりする。
けれど、それを一枚の絵で体験する事なんて、今までなかった。
そして何より、理屈や理論に関係なく描かれた世界そのものに、否応なしに引きずり込まれた。間違いなくさっきまで、確かに僕は“丘の上に”立ってカメラのシャッターに指をかけていた。
しばらくは、呆然と絵の前に立っていた。
部屋を出て狭い廊下に立つと、彼女が少し離れた所に立っていた。
「・・・・・・どうだった?」
僕は、今したばかりの“体験”を、素直に話した。
「・・・・・・ありがとう」
彼女は、それだけ言った。
僕はそのまま彼女に挨拶し、彼女の家を後にした。
翌日の待ち合わせ場所は、何故かお台場にある人気の少ないカフェだった。海が見たくなった、彼女はそう言っていた。
「ごめんなさい、昨日は。私、余裕なくて・・・・・・こんなことはじめてで」
彼女は口を開くなり、そう言った。何故か少し大人びて見えた。
「・・・・・・でも、嬉しかった。ありがとう、本当に」
瞳が潤んでいて、彼女は必死に涙をこらえていた。僕までつられて泣いてしまいそうになる程。
落ち着くのを待つと、ずっと続いていた緊張の表情がようやくほどけた。そしていつもの、いやそれ以上に屈託のない笑顔で彼女は言った。
「伝わるって、嬉しいね」
僕は、何も言えなかった。
それから彼女はゆっくり、けれどいつもの調子に近い感じで話しはじめた。本だけではなく他にもたくさんものを、例えば実際に見た風景を描いてみたいという事。一番のお気に入りが、六本木ヒルズのスカイデッキから一望出来る海と空の景色だという事。今は時間もお金もないけれど、絶対に美大に合格して思うままに色々な所に出向いて、その風景を描きたいという事。今年の夏は勉強ばかりだったけれど、来年の今頃はきっと今まで以上に以上にたくさんの絵を描いているだろうという事。その日の勉強会は、彼女の話を聞いて終わった。
カフェを出てからモノレールの到着を待つ間、プラットホームに立つ彼女は暮れる夕日を食い入るように見つめていた。
「描きたいな・・・・・・」
独り言のように、そう小さく呟いた。海風が彼女の髪を揺らす、オレンジ色の太陽光が愁いを帯びた顔を照らす。
「ねぇ、兄さま。これあげる」
手渡されたのは一本のシャーペンだった。
「兄さまのペンケース、見てびっくりしちゃった。鉛筆もシャーペンもないんだもの」
「あんまり、使わないから」
「それでも使う時はあるかもしれないじゃない。それ、すっごく使いやすい私のおすすめ。ずっと使ってても疲れにくいし、何より書きやすいから。今日、私の話に付き合ってくれたお礼。高いものはあげられないけど、使い心地は絵を描く者として保証します」
彼女はそう言って、おどけてみせた。
「・・・・・・ありがとう」
こんな風に物をもらう事なんてはじめてだった。そうして手渡された時の感覚は、とても不思議なものだった。彼女と別れひとり帰路につく間も、その事をぼんやりと考えていた。
きっとこれから先も、ポケットの底に入ったこのシャーペンのケースに触れれば瞬時に同じ感覚がよみがえるだろう。そう、思った。