小説 真夏の空席   作:Nagi.rekka

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小説 真夏の空席 Episode.Ⅸ -Kouichirou Phase-

 

【挿絵表示】

 

 

 

 帰ってからはすぐに、ベッドに身を投げた。仰向けになると、窓から夜の青い光が白い天井に向けてのびていた。それを見つめながらぼんやりと考える。

 彼女の語った絵の事、見ている世界。

 正直、今まで勉強を教えては来たけれど美大に入る事については関与しなかった。その先をどうするのか、美大で何をするのかも分からないし分かる必要もないと考えていた。勉強さえ教えれば、あとは立ち入らないと無意識に決めていた。

 理解しろと言ってきたのは自分なのに、彼女の一番大切な絵について、今ようやく知る事が出来た。これからも、出来る事は変わらないかもしれない。それでも気がつけば、僕は彼女を応援せずにはいられなくなっていた――。

 

 いつの間にか、少し眠ってしまっていた。起きたのは真夜中だった。

 しんと静かな部屋の中で、またあの絵と彼女の様子を思い出す。真剣で、すべてに翻弄されながらそこにただ邁進する姿。まるで太陽そのもののような熱、エネルギー、眩しさ。目の前に太陽が現れたとき、人は何を想うだろう。僕は・・・・・・。

 彼女の持つものを、僕は持っていない。その事が際立つようで、いても立ってもいられない気持ちになった。感化されたのだろうか。

 けれど、それを解消する術も対抗する手段も僕にはない。僕には絵の技術も絵にしたいという感覚もない。それでも・・・・・・それでも、この衝動をどうにかしたかった。そうしなければ、どうにかなりそうだった。

 不意に机に置かれたヴァイオリンケースが目に入った。少しは気が紛れるかも知れない、そう思って手に取ると僕は部屋を出た。

 

 この家には、屋根裏に防音ブースがある。それは音楽家の義父にとっては必須の設備であり、また自由に使ってもいいと言われたゲスト用スペースは昼夜関係なく配慮せず使える場所になっていた。

 扉を閉めると灯りさえつけるのも億劫で、防音室の窓から入る僅かな光の中で、ヴァイオリンを構えた。そしていつものように弾けば、美しい音が鳴り響く。けれど・・・・・・。

 僕の頭には、彼女の絵が浮かんでいた。

 あんな風に、あんな風にどうして形に出来るのだろう。もしも、僕もあんな物を作る事が出来たら、あんな世界を作る事が出来たなら。

 静かな苛立ちと、訳も分からず叫び出したいような衝動が駆け巡った。それらの感情は発散先を求め、不意に手元へと向かった。今までそんな事をしたことなどなかった、でも・・・・・・。

「――っ」

 叫ぶように、動かす手に“感情”を込めた。

 その瞬間、今までに聞いた事のない迫力の音色がヴァイオリンから鳴り響いた。それに一番驚いたのは、僕自身だった。

 

 僕の手は加速した。感情が腕から、手からヴァイオリンの弦へとなだれ込んだ。演奏するなんて意識はなく、そこに僕の“叫び”を流し込むような感じだった。そしてヴァイオリンに飲み込まれ終わるかと思ったその叫びが、感情が、震えとしての音に変わる。

 今まで演奏の理想は正確無比を意識してきた。むしろそれが当然で、ロックアーティストのような音楽と自分は無縁なのだと思っていた。

 けれど、今の僕は何だ?

 押し寄せる濁流のような感情を持って、それを楽器へと流し込み叫ぶように奏でている。昔見たヴォーカリストが、インタビューで“肺から泣きそうになるような、訴えるような音が出る”と言っていた。何故か今、その感覚が分かる。

 気がつけば、汗だくで数十分演奏していた。どんなメロディが流れていたかさえ、覚えていなかった。

 

 部屋を出ると、倒れそうなくらい身体が熱くなっていた。息も荒く、とにかく水分が欲しくてキッチンへと降りた。水を飲み、服を着替えてようやく落ち着いた。こんな事は今までになかった。何もかもが初めてで訳が分からない、それなのにどうにも晴れやかな気分だった。

 ふと、あの防音ブースには自動録音機能がある事を思い出した。戻ると確かに録音されていた。

 恐る恐る、再生ボタンを押しさっきの演奏を聴いてみる。こんなところを弾いたのか、こんな風に弾いたのか。聞けば思い出すところもあれば、無我夢中で本当に覚えていない部分もあった。普段なら絶対しないようなペースの乱れや音程のミスがたくさんあった、それなのに・・・・・・。

 そこには確かに鮮やかな色彩の音があった、声があった、体験があった。

 本当に今まで使っていたヴァイオリンの音なのか、これが本当に自分が今奏でた音なのか信じられなかった。音という絵筆で、燃えるような鮮やかな絵を描けた気さえした。

 その事実に、僕は自分でも不思議なほど感動していた。

 自分が描ける、感情を表現できる。作ったものが今確かにここにあり、そしてこれからも作る事が出来るかも知れない。それは紛れもなく、僕を震わせた。

 理性を越えた快感が確かにそこにあり、そしてそれ以上に満たされるような安心感があった。

 あまりに沢山の事が一度に押し寄せて来て、僕は立ち尽くすしかなかった。窓の外を見上げると、見事な満月が浮かんでいた。今までになかったものが確かに、僕の中に生まれたのだとその時気づいた。

 真夏にしては驚くほど、しんと冷えた夜だった。

 

 

 それからの僕は、毎夜ヴァイオリンを弾いた。

 それでもまだ、届かなかった。あの日見た絵のような鮮やかな色彩に、体験に、魅せられる引力に。見た途端、その世界に連れ去られる感覚をまた、感じたいと思った。

 絵を見ていた時は、とにかく“熱”を感じた。

 燃えるような焼きつくような印象を。だから僕も、同じように込めるように今確かにここにあるものを、音という形に落とし込もうとした。

 あんな風に、僕もあんな風に。走るように、風を切るように僕は弾いた。比較すればまだまだで、けれど確かに昨日より様々なものが生まれていた。出来るというレベルにさえまだない試行錯誤の末、たまたま良いなと思える音が出来る。何故出来たのかもよく分からないし、再現性もない。けれど、何故だかずっと楽しかった。

 やっている内に、不思議な事に気付いた。

 熱や感覚を込めているはずなのに、透き通るような心地よい冷たさを感じるようになった。それは海に身体を浮かべたような、特別な浮遊感。ずっとそこに、浮かんでいたいと思える感覚。

 もっと知りたい、もっとやっていたい、もっと演奏したい。形になる程に、僕は夢中になっていった。力強く弾く程に、音はどこまでも高く広く、深くのびてゆく。

「――っ、暑い」

 演奏していると、どんなに冷房を強くしても身体が熱くなった。上がった体温に気づかず、ヘトヘトになってからようやくブースを出る。そんな事ばかりしていた。ブースを出て水分補給をして少し休み、演奏した曲を聴いてみる。そんなサイクルがいつの間にか出来ていた。それは苦ではなく、本当に自然とそうなってしまっていた。僕は演奏に我を忘れて夢中になるばかりだった。

 今まで、演奏する時はずっと正確性を意識してきた。美しい音色もリズムも、全てを機械のように正確に近づければ良いとどこかで思っていた。けれど今、そこに感情をのせて弾いてみる。声の代わりのように何かを訴え、伝え、話すようにと意識してみる。まったく同じヴァイオリンがまったく違った音を出す、奏でる。時に自分でも驚くほどの、生きているかのような音を。

 “歌声のように聞こえる演奏がある”

 そんな事をかつて聞いた事があった。その時は技術的なものだとばかり思っていた。笑い声のように聞こえる弾き方があると知っていたから、それに近い物なのだろうと。でも、今はそうじゃないと分かる。

 きっと本当に、誰かに語りかけるようにその奏者は演奏したんだ。伝えたい事があり、描きたい情景があり、音にして響かせたい衝動があったからその演奏は聴いている人に確かに“歌声”として捉えられたんだ。

 僕はたぶん、今まで音楽の半分も見えていなかった。音色や技巧にばかり注意していた。でも、それはほんの一部だった。

 音楽は、楽曲は“既に存在する物”だと思っていた。その中から選び演奏するのが当然だと思っていた。美しい曲も激しい曲も、全てはまるで最初から用意されていると。

 けれど、それは違うと気づいた。偉大な音楽家の曲も、古典や定番と呼ばれる曲も、一音一音人の手で描かれている。一つ一つ、どんな曲でも誰かが、作り上げている。

 そう思った途端、教科書で見ていたような音楽家達が、ずっと遠くにいて自分とは無縁だと思っていた人々が急に身近に感じられた。

 

 この部屋には一台、グランドピアノがある。もしここに彼らがいたらと想像してみる。今目の前に、彼らが今座ったとしたら。

 ベートーヴェンは口にくわえた指揮棒でピアノの振動を確かめながら、音符を書き込んでゆく。サティはパリ音楽院を退屈だと飛び出したばかりで、シャンソン酒場での演奏に向け楽しそうに鍵盤を弾く。ショパンは病に冒されつつも、自分の感情や心を一曲一曲に宿そうと静かに筆を執る。

 彼らはそこまでして、何を想い何を描こうとして曲を書いたのだろう。

 古典と呼ばれる曲を一つ、再生してみる。自分が聞き慣れている事を一度抜きにして一番はじめから聴いてみる。聴きながら、考えてみる。

 “もし僕なら、こんな曲を作れるだろうか? ”

 考える間もなく思った。

 ”きっと出来ない、僕には”

 こんな音を、こんなメロディの連続を、自分の手で最初から全て作り上げるなんて。彼らはきっと何度も試行錯誤して、それでも自分の想いをただ一曲に込めようとしたんだろう。

 偉大だとか偉業だとか、そうやって距離を置いて遠くから眺めていた。関係ない、どこか自分とは違う世界の人なんだと。でも、違う。すぐ隣にいたかもしれないんだ、彼らは。それなのに、想像も出来ないこの音楽を自分の手で全て書き上げたんだ。

 実感したのは、ただただ単純な“すごい”という感覚だった。本当にこんな“人”がいるんだ。人は、ここまで出来るんだ。そしてもしかしたら僕も・・・・・・遠く及ばないかもしれない、けれどたとえ一部でも、一瞬でも、僕は。

 

 “体験することが出来るかも知れない、奏でる事が出来るかも知れない。音楽で何かを、描く事が、表現する事が、作り出すことが・・・・・・出来るかも知れない”

 

 思った瞬間、またヴァイオリンを手にしてブースに入った。いても立ってもいられなくなった。構えて弾く間際、改めて考えた。

 この曲で、この音で作者は何を表現しようとしていたのだろう。何を描こうとしたのだろう。そしてそれ以上に、それさえ理解した上で、僕はこの曲でこの音で、この楽器で。何を表現したいだろう、何を描きたいだろう。

 もしかしたら、作者の意図を知りながらも、別の事を表現し、描くかもしれない。不十分な理解の中でもあえて、いや理解した後でさえあえて、僕はきっと、僕の思うままにその曲で、音で描く事を決める、演奏する。

 演奏している間は、どんなにありふれた古典であろうと、僕のものだ、僕の音楽だ。だって――

「・・・・・・筆と、モチーフ」

 彼女の言っていた言葉が、不意に自分の口から漏れた。

 たとえ同じ筆、同じモチーフを同じ場所で描いても描く人の数だけ絵は存在する。それは“何をデッサンした絵なのか”ではなく“何を表現し描こうとした絵なのか”が違うから。そう、彼女は言っていた。

 僕は思うままに、弓を引いた。

 

 演奏を終えて、ブースを出る。すぐに再生ボタンを押し、それから改めて原曲の音源を聴いた。そこには、異なる2つの曲があった。そうか、今までの僕の演奏は“真似”だったんだ。とにかく原曲に近づく、それが基準だった。曲を、音楽をただ表面的にしか捉えていなかった。でも、一見無機質に見える曲にさえそこには背景がある。

 今まで聴いてきたどの音楽にも、すべてに描こうとしたものが、世界が、形にしようとした何かがある。その背景が、軌跡がある。必ず誰かかが何かをもって、一曲の音楽という形にしようとしてきたんだ。

 そして今、僕はこの曲で演奏したいと思った事を、表現したいと思った事を意識しながら演奏してみた。

 だからこそ、原曲とは“異なる曲”をここに作る事が出来た。まだまだ稚拙でリズムも演奏技術も満足なものじゃない、けれど・・・・・・。今演奏したこの曲は、僕が演奏する限り。

「僕の物」

 傲慢な考えかもしれない。それでも構わないと思える程、熱い感覚が僕の中に浮かんでいた。

「そうか・・・・・・僕は、演奏したいんだ。作り出したいんだ。僕の、音楽を」

 それが“自分の音楽”を意識する、最初のきっかけだった。

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