小説 真夏の空席   作:Nagi.rekka

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小説 真夏の空席 Episode.Ⅹ -Tokiko Phase-

 

【挿絵表示】

 

 

 

 彼にあの絵を見せてから、数日が経っていた。

 絵について誰かと“共有”したのは、あれがはじめてだった。もちろん美術予備校では講評もするし、先生と面談で描いた絵について話す事もある。それでも、それはあくまで“提出用”の絵。もちろん手を抜いている訳ではないけれど、それは誰かに見られる事を常に意識して描いた物だった。

 でも、彼に見せた絵は違う。

 本当に、私が描きたいと思って描いた絵。本気で描いた絵。

 もしかしたら、だからこそ今まで誰にも見せる事が出来なかったのかも知れない。見せようとも思わなかったのかもしれない。それでも、彼は言った。“私の絵”が見たい、と。

 言われて、真っ先に思い浮かんだ絵があった。誰に何と言われようと、私の絵だと言える数少ない絵。その中でも“彼に見せたい”と直感的に思った絵。

 彼が部屋で絵を見ている間、身体の中にはマグマのように熱された心臓が脈打っていて、けれど氷のように冷たい血液の流れも感じていて、それら二つが同居しているような、どうにかなってしまいそうな気分だった。ドアが開くまでそれを鎮めて落ち着こうとするので精一杯だった。

 彼の話す絵の感想さえ、聞くのに徹する事しか出来なかった。それでも「・・・・・・ありがとう」とだけ振り絞り、その日は終わった。

 どうにか落ち着くことが出来たのは翌日になってからだった。いつものカフェで会うと、私は素直に彼と話す事が出来た。

「ごめんなさい、昨日は。私、余裕なくて。こんなことはじめてで」

 それでも、感情の昂りは中々抑えられなかった。

「・・・・・・でも、嬉しかった。ありがとう、本当に」

 落ち着いていたはずの感情はぶり返し、彼をしばらく待たせ困らせてしまった。それでも、想いを伝えることは出来た。

「伝わるって、嬉しいね」

 彼に分かってもらえたことが、伝わった事が思っていた以上に何倍も、何倍も嬉しかった。その一言を話すのに、涙が出そうになるのを必死に堪えていた。

 

 それからも、彼との勉強会は続いている。互いを知り合った為か、以前にも増して勉強会はスムーズに進んでいる。そしてその成果を反映し、成績も確実に伸びていた。あんなに悩んでいたことがまるで嘘のように。

 そしてその“伸び”は、自分が確実に“目標”に近づいている事の指標のようで、私は純粋に楽しかった。もちろん勉強会自体も分かる程に楽しい部分が増えてきていたけれど、やはり目標に近づく安心感や高揚感は別格だった。

 あの日以来、彼は私の絵に触発されてヴァイオリンで“形のない、けれど確かに存在するもの”を奏でられるように、日々練習をしはじめたと言った。私の絵で、はじめて何かを変えられた気がした。それも、良い何かに。少し救われた気がした。

 すべては順調だった。志望校の合格ラインに触れられる目処も立った。

 けれど・・・・・・。

 

「――摩擦力というのも、イメージが出来ればすごく分かりやすいし画期的なんだ。ギザギザな床にぴったりはまるギザギザな板を置いてあったとする。動かそうと思って指で押しても、なかなか動かない。強く押しても、次の溝にはまってすぐ停まってしまう。じゃあヒモでもつけて無理矢理引っ張ったらどうなるかな?」

「ガタガタいいながら、引きずられるんじゃない?」

「そう。そして引っ張るのをやめたらまた、溝にはまってしまう。でも、勢いよく引っ張り続けたら?」

「もっと早く、引きずられる?」

「どうして?」

「あんまり早く引っ張ったら、浮いちゃうから」

「そう。つまり床と擦れる部分がどんどん少なくなるんだね、だから」

「擦れる部分があんまりなければ・・・・・・引っ張りやすくなる?」

「そういう事。早く動かすほど、溝にはまる前にどんどん移動していくから軽い力で引っ張れるようになる。それはつまり、摩擦力が低下しているとも言えるんだ」

「逆に、溝にはまっているのに動かそうとしたら一番大変っていうこと?」

「そのだね。動かすのが大変ということは、摩擦力は一番はじめに動かそうとしたときに最大になるって分かるね。つまり摩擦力の正体は、ギザギザの床にギザギザの物を置いて動かそうとしたら、溝に引っかかって中々動かないという単純な話なんだ。だから物と物の表面を磨くほど、摩擦力は小さくなっていく」

「最大摩擦力だとか、グラフの意味って結局その事を言っているだけなんだね」

「その通り。・・・・・・そろそろ、休憩しようか」

「ううん、まだ大丈夫」

 彼は怪訝そうな顔をした。

「休憩も大切だよ。休まない方が非効率になる場合も多いからね、十分くらい休もう」

「・・・・・・分かった。じゃあちょっとお手洗い」

 逃げるようにトイレに籠もった。彼が悪い訳じゃない、ただ・・・・・・。

 勉強をしていない時間が怖くなった、何かをしていない時間が怖くなった。嫌でも、考え事をしてしまいそうになるから。

「お待たせしました」

「いや、全然。それより、大丈夫? もう休憩しなくて」

「大丈夫。むしろ今の勢いなくしたくないから、はやくやっちゃいましょ」

「それならいいけど・・・・・・じゃあ、次は――」

 

「――五番テーブルの注文分、終わりました」

「お、早いねぇ。もう特に注文ないし、しばらくは落ち着きそうかな」

「えー、何かないですか?」

「いいよ、無理しなくて。急ぎで何かある訳でもないし」

「そういえば、カウンターの下整理したいって言ってましたよね。私やっておきます、いいですよね?」

「えっ、まぁいいけど・・・・・・大丈夫?」

「大丈夫ですよ、半端に手持ち無沙汰だとかえって落ち着かないし」

「それならいいけど・・・・・・まぁ、疲れない程度にゆっくりやってよ」

「はーい。さてと、どう分けようかな――」

 

「――ただいま」

「ちょっと朱鷺子、夕食は?」

「食べてきたから大丈夫ー」

「少し休んだら? 成績だってちゃんと上がってるんだし、ちょっとくらい」

「・・・・・・ごめんね、でも今が大事なところだから。模試が終わったら休むよ」

 学校でも、勉強会でもバイト先でも、そして家の中でも。“何か”をしようとすればいくらでも出来た、無理にでも考える時間を作らないようにする事が出来た、けれど。

 ベッドに入る最中。その時間だけはダメだった。考えないようにといくら思っても、考えてしまった。

 すべては、順調だった。

 でも、だからこそ余計に“絵を描いていない自分”を日に日に強く意識するようになっていた。

 最近、絵を描く時間を取れていない。

 早く学科を上げないとと奮闘していた頃には余裕がなくて考えなかった事が今、全ての課題に対策がようやく打てた今、あらわになっている。美術予備校では高評価をもらえたとは言え、それも随分時間が経ってしまった。

 今でも時間があればクロッキー程度はやっている。けれどそれさえ、毎日は出来ていない。まだ学科対策に手を抜けないとは頭で分かっていても心は焦りを隠せなかった。

 今はひたすら勉強にだけ専念すればいい。そう思って、本当にここ最近は、ずっと勉強ばかりしていた。それで大丈夫だと、大丈夫なはずだと。けれど・・・・・・。理性ではそれでいい、今はそうすべきだと分かっていても、気持ちの中にどんどん小さな不安が増えていった。

 もう、ちゃんと紙面に向き合わずにどれくらい経つ? 毎日鉛筆を握っていたのに、今は?

「・・・・・・っ」

 ベッドの上で暗闇の中で迫ってくる思考を、必死に振り払おうとした。それでも熱帯夜のせいか寝付けない頭には、中断した思考がまた迫ってくる。

 勉強している間は、悩む必要がなかった。

 自分が今どの地点にいるか分かるし、どこを目指していて何が残っているのか、何をすればいいのかはっきりしてる。だから自分がまだまだだと分かるし、何をしていこうかと楽しみながら考えられる余裕が出来てきた。でも、それでも。出来る程に、余裕が生まれる程に。

 それは“本来自分がやるべき事”ではないという想いが、無意識に湧き上がる。

 成績が上がっても、絵は一枚も出来上がらない。問題を解いても、ひとつの色も生まれない。知識がどれだけ増えようと、テストの点がいくら増えても、一本の線さえ・・・・・・。

 私の線が、ない。

 私の絵は私にしか描けない。私の手が動かない限り、絶対に増える事はない。

 描いた絵が減る事はない。それなのに、私には何かが少しずつ失われていくような、遠ざかっていくような気がしていた。

 “いやだ、私はまだ、まだ描ける。描きたいのに・・・・・・”

 そう言って泣き叫びたくなった、暴れまわりそうになった。

 時折絵描きとしての自分が、心の中で本当に暴れまわった、泣き叫んだ。

 “もういいじゃない、もう許して・・・・・・どうして描いてはいけないの? 綺麗になんて描けなくていい、うまくなんて描けなくていい、描けなくなるくらいなら勉強なんていらない合格なんていらない他のものなんて何もいらない!”

 だけど・・・・・・私が閉じ込めた。冷たい表情の私が、涙に顔を濡らした私に告げる。

 “がまんして”

 そして、鋼鉄の扉に手をかける。

 扉が閉まる瞬間、床に膝をつきながらも濡れた瞳のまま睨みつける私と、変わらぬ表情で見下ろす私が対峙した。

 手を緩める事なく、そのまま扉を閉める。もう、声さえ聞こえなくなる。

 そして私は振り返りもせず、扉から立ち去っていく。理性さえ越えた、それは情熱ゆえの冷徹。

 今の私はまるで金属で出来たロケットだ。感情さえ、前進する推進剤に書き換える冷たい銀色のロケット。全ての熱を奪いただ一方向に進むだけの、目的以外の何もかも犠牲にしつくす金属の塊。

 虚しさにさえ目を閉ざし、ただただ突き進む。それが焦がれた場所へ、重力さえ振り切って到達する方法なのだと信じて・・・・・・。

 

 その日は朝から、強烈な日射しだった。

 家から最寄り駅へと続く通学路は、見える建物も車道もあらゆる構造物が太陽光で白く染まっていた。まるでハイコントラストの、白飛びした風景写真みたいだった。

 その景色は、見ていると暑さも相まって尚更に現実感を失わせる。

 今日が模試の日だという事も、学校に向かって歩いているという事もすべては夢で、私は幻に向かって歩いているような感覚になる。

 ダメだ、今そんな弱気でどうするんだ。今日までどれだけ今日の日の為に頑張ってきたか、思い出さないと。私は絶対に今回の模試で結果を残す。たとえ合格ラインに届かなくても、せめて触れられる為に全力で足掻く。だって、今日さえ終えれば絵が描けるんだから。

 今日の結果をもとに、今後の勉強のペース配分が分かると彼は言っていた。基礎は大分ついてきたし、もう試験日から逆算したスケジュールで考えても、そう詰め込まずに済むだろうと。

 今まではひたすら、ううん、予定以上にとにかくやれる限りの時間を費やしてきた、急いできた。それはより早く合格ラインに立つ事で、早く絵を描けるようになる為。それは自分に課してきた目標であり、ルールだった。 

 学科合格出来る実力が、目処が、模試という形でしっかりと確認出来れば、心置きなく絵を描く事が出来る。だからこそ・・・・・・。

「負けるわけにはいかない」

 誰にも聞こえないように小さく、けれどはっきりと呟いて、私は改札をくぐった。

 ちょうどホームに入ってきた電車が、熱風を連れてきた。それがまるで今の自分に吹いてくる逆風のように思えて、私はにらみ返すように車両に向き合った。そしてドアが開いた瞬間、誰よりも早く滑り込んだ。

 

「――終わった。あぁ、終わった。やっぱり模試ダメだよ。ねぇ、朱鷺子も」

 楓子の声は聞こえていた、けれど相手をする余裕はなかった。

 アナログで届く封筒の結果なんて、待ってはいられない。忘れない内にさっき書いた答えを問題用紙に書き込んでいく。解答用紙はもう回収されているけれど、問題用紙は回収されないからそのまま手元に残っていた。これで自己採点が出来る。

 それに彼なら、問題があれば答えがすぐに分かるだろう。手応えなんてものは、分からなかった。彼との勉強会ではじめた勉強法は、常に“理解”に主軸を置く。だからその対象をある角度から見たらどう見えるか、を問う問題というものに対しては、こういう構造をしているからたぶんこう見える、という考え方で答えを出す事になる。

 過去問を多くやっている訳ではないから、余計に定型的な答えだと確信出来ない。彼の言葉を借りれば“理論上、そうなるはず”という答えを書く。それでも、今までこれで成績は上がり続けてきた。そして今日までやってきた分を考えれば、おそらく・・・・・・。

 

 ――模試の日の学校は早くに終わるから、事前にいつものカフェで待ち合わせをしていた。自己採点の事も話していたから、彼は問題用紙を受け取ると素早く採点をはじめてくれた。

 普段は入れるミルクもシュガーも忘れていたのに、苦手なブラックコーヒーの苦みさえ気にならないほど、私は彼の言葉を緊張しながら待っていた。

「・・・・・・うん。たぶん、行けてる」

 それが、彼の第一声だった。

「合格ラインに、全部届いてる。正直驚いたよ、こんなに短期間でここまで」

「やったー!」

 思わず声を上げた。

 彼の手を取り、何度も同じ言葉を繰り返した。やった、ついにやった。それは本心から出た言葉で、それ以外に浮かばなかった。

 あれほど遠くに見えていた、年齢を誤魔化してまでバイトし、塾を掛け持ちしようとしてまで目指していた場所に今、私は立っている。その事実は、頭で分かっている以上に感動的だった。

 今まで成果が出ていなかった訳じゃない、それでも、合格ラインに立てた事は大きかった。今まで悩んできた様々が、今クリアされたような、そんな気持ちだった。

 それからは舞い上がり、好きなメニューをいくつも頼んだ。彼は少し呆れたように、けれどどこか嬉しそうに、小さな祝賀会につきあってくれた。

 次の日は休日だったから、羽伸ばしに出かけた。友達と食べて、遊んで、買い物をした。久々に、休むことが出来た気がした。

 

 そしてその翌日、私は朝から自分の部屋で鉛筆を手にしていた。

 念願だった絵がついに描ける。モチーフを目の前に置き、道具も全て用意した。真新しい白紙の上に、鉛筆の先端をのせた。

 いつの間にか、午前が終わり午後になった。

 そこには、描けなくなっている私がいた。

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