美術予備校に来るのは久々だった。
空は珍しく曇っていて、日射しはないけれどその分上がった湿度がまとわりつく暑さに変わっていた。曇り空を背にそびえるビル群は、見ているだけで圧迫感があり陰鬱な気分になる。湿った熱気が余計に息苦しさを感じさせるから、私は振り払うように入口の自動ドアをくぐった。
道具を用意し、モチーフの石膏像を最後に置く。
今日は自習扱いにしてもらったし、時間帯も相まって私は誰もいない教室を使う事が出来た。やはり家とは違う、絵を描く場として用意された空間だと肌で分かる。描く行為が当然という場、モチーフと一対一になる空間。気が引き締まる。
大丈夫、昨日はたまたまだ。描いていればその内きっと・・・・・・、そう考えながら、鉛筆を紙面に重ねた。
昨日、久しぶりに本格的に絵に取り組もうとしたあの時、私は描けなくなっている自分を知った。使う鉛筆も変えていない、手順だって。
けれど、あきらかに何かが違う。描いていけば見えてくるはずの手応えがない、まとまらない。絵に力が、説得力が出ない。自分で描いている絵なのに、その絵から何も感じない。出来上がっていく絵は、要所要所は描き込まれ精度は出るのに、全体は進めるほどにバラバラになっていく。
定規で引いただけの線に見える、機械的に描かれた物体に見える。整っている、けれどそれだけの絵。CGのモデルを事務的にトレースしただけのような、均一だけれど何も感じられない線。おかしい、どうして・・・・・・今まではこんな事なかったのに、今までなら・・・・・・。
そこまで考えて、ふと思った。
“私、どうやって描いてたっけ”
美術予備校に保管していた、以前の自分の絵を見る。自惚れかもしれないけれど、確かに何かの魅力がちゃんと絵に出ている。
描いていた頃は夢中で気づかなかったけれど、あまり気に入らないと思っていたりうまく出来なかったと思っていた絵にも、どの絵にも何かしら感じるものがあった。技術的には、むしろ、より未熟なところが沢山あると分かる。それでもやはり、明らかに違う。昨日描いた絵とは。
決してやる気なく描いている訳でも、機械的に描いた訳でもない。それなのに・・・・・・。絵の形をした、絵ではないものになってしまう。
悩んでいても仕方ない、感覚を忘れているだけだ。そう自分に言い聞かせた。
けれど、鉛筆を動かしはじめたその瞬間からは、変わらなかった。それは家で起きた事の再現だった。
“どうして。どうして、描けないんだろう”
範囲を絞れば描けるかもと思った。でも絞っても絞っても、うまくいかない。ついに石膏像の目の部分だけに絞った。それでも、描けない。
“嘘、嘘だ。違う、こんな訳ない。きっと苦手な石膏像だからだ”
そう自分に言い聞かせ、モチーフ入れから白いキューブを取り出す。
感覚を忘れてるだけだ。あんなにやり込んだ静物、出来ない訳ない。いきなりで、バランスの取り方を混乱して見失ってるだけだ。いつも通り、いつも通りでいい。いつものウォームアップで・・・・・・。
「でも、いつものって、いつ?」
不意に言葉が口から漏れる、手が止まる。
“もうどれくらい、ちゃんと時間を取って描いていない? どれくらい紙面に向かってない?”
だめだ、手を動かせ。大丈夫、描いてさえしまえば。
足下から押し寄せるような不安を、必死で押し殺す。紙面には立体の箱が出来てゆく。
けれど・・・・・・。
面の塗りは出来ていく。でも、これじゃまるで紙を張り合わせて作った箱だ。今にもはがれてしまいそうな、薄い紙と紙で出来た頼りない箱。立体としてそこにあるようなキューブに見えない。あんなに得意だった静物なのに、質感が出せない。全てが遠のいて、全身の血が下の方へと下がっていく。
――それからの数日、私は勉強もバイトも止めて、ひたすら絵を描いた。
忘れかけていた描き方の技法や感覚、コツは割とすぐに思い出した。むしろ距離を置いていた分客観的に見る事が出来るようになり、今まで気づかなかった部分やより良くする方法も考える事が出来た。
けれど、それはやはり技法だけの話だった。そこから、先に進めない。いくら描いても、むしろ描く時間が続く程にまとまりは崩れていった。
それでも、やらなければいけなかった。練習量を増やし、とにかく形に出来るようにする。鉛筆デッサンは絵の基礎技術の多くを内包している、だから練習するだけでも様々な絵の技術に繋がるし、描き込む程に説得力が増す。
そうして美術予備校の模試を迎えた頃には、なんとか形に出来るようにはなった。この模試は学校や塾のような勉強的な模試とは異なり結構な頻度で行われる。それは、美大受験生が受験期間中に描ける枚数が限られるからだ。過去問集を反復で解くような事と訳が違う。
一枚を描く時間、労力、試みとそれに対する結果、講評と面談。時間はいくらあっても足りない。だから少しでも早く、課題や問題点があれば明確にし軌道修正しなければならない。間違った認識のまま数時間を費やし描き上げる絵を何日も描き続けてしまっては、単に時間を失うだけでなく受験生の精神も体力も削りかねない。
久々に同じ教室で描く事には少し緊張したけれど、皆のレベルを見て少しほっとした。私より技術的に劣る人が半数だったからだ。大丈夫、なんとかなる。そう思っていた・・・・・・けれど、それは幻想だった。
「画面が、まとまりきれていないね」
「・・・・・・はい」
「前描いてたものは今より技術面では少し劣る箇所があったけど、あの時期では結構良いレベルだったし何よりまとまりがあった。力強かったし目をひいたし。しばらくここ来なかったみたいだけど、何かあった?」
「いえ・・・・・・」
「そう・・・・・・とにかく、正直今のままでは厳しいね」
見抜かれていた。
いくら要素の技術があっても見る人が見れば分かる。自分でさえ、自覚があるのだから。
ずっと問題ない前提で考えてきた絵の実技。だからこそ学科対策をずっとやってきたし、ようやくここまでたどり着いた。それなのに、今その前提が崩れた。
埋め合わせる目処も立たない。私は、どうすれば・・・・・・。
それからの面談での会話はよく覚えていない。ただ、帰ってからとにかく描く練習をした。描く程に、崩れていくのが分かった。焦りばかりが募り、内容がどんどん空っぽになっていった。やがて筆が止まった。もう、それ以上描く事は出来なかった。
散らばった紙で埋まったデスクを、ぼんやりと眺めていた。
描けない事自体は、今までにも何度かあった。それらは練習すれば済む課題ばかりだったから、スケジュールさえ立てれば目処は立つから悲観する事もなかった。
けれど今、描けない原因がまったく分からない。これを解決する目処が立たない。講師に聞いても、こればかりは君が考えるべき問題だとしか答えてくれなかった。
いつの間にか窓からオレンジ色の光が射し込んでいた。もう、夕方になっていた。空も同じ色に染まっていたけれど、分厚い雲に覆われていて光源であるはずの太陽はどこにも見えなかった。確かにそこに、あるはずなのに。