小説 真夏の空席   作:Nagi.rekka

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小説 真夏の空席 Episode.XIII -Kouichirou Phase-

 

【挿絵表示】

 

 

 

 彼女の、あんな様子を見たのははじめてだった。

 勢いよく席を立ち走り去っていく後ろ姿。それはまるで、夢の中の光景のように現実味がなかった。テーブルには、さっきまで彼女が口をつけていたコーヒーカップだけが残っていた。

 僕は受け入れる事すら出来ない状況を、とにかく整理する為にすぐにその場を後にした。早くベッドの上で、一人きりになりたかった。けれどそうして急いで帰っても、夜になり朝になっても、僕は一向に受け入れる事が出来なかった。

 

 なんとか落ち着いて考える事が出来たのは、その次の日の夜だった。

 “あなたにはたぶん・・・・・・分からない”

 最初に思い出したのは、その言葉だった。

 そうしてそれが何よりの核心で、そして“自分の課題”である事に僕は気づいてしまっていた。

 教授との会話が、ふいに重なった。

 もう随分前の事に思えるのに、実際は数ヶ月前の出来事だ。すべては、あの部屋からはじまった。

 

 

 

 ――フランス オクシタニー 

   ISAE SUPAERO(航空宇宙高等学院 国立航空宇宙大学院大学)

 

「・・・・・・入りたまえ」

 部屋の中からでも、その声ははっきりと聞こえてきた。年季の入った木製のドアは押せば見た目以上に重く、しかし軋みひとつ立てずに開いた。

 声の主はデスク越しにこちらを向いて座っていた。驚く程しっかりと目が合い、思わず僕は目線をそらしてしまう。

「そこにかけなさい」

 口調は静かで穏やかだった。それでいてよく通り、何より緊張感を場にもたせる真剣みを帯びていた。

「失礼します」

 椅子に座ると、いよいよ真正面で向き合う形になった。

 後ろに流された灰色の髪、年齢を重ねていても分かる整った顔。穏やかで、しかし厳格そうな表情。細身ながらがっしりとした体格、背は高く肩幅も大きい。 

 この人を、こんなにまじまじと見る事は今までなかった。普段は壇上にいる姿を見上げているばかりで、注目しているのは資料や指先、そして説明する声だけだった。

 ランダウ教授。宇宙工学科の共通担任であり、この分野では名の通る優秀な科学者。計算機科学の専門家。

 目の前に座るこの人について、知っている事はそれだけだった。けれど僕は、教授の講義が好きだった。

 その内容は実に明瞭で簡潔な説明の集合であり、まるで百科事典を読んでいるかのごとく整理された美しいものだった。

「急な呼び出しですまない」

「いえ」

「しかし、これから話すのが重要な事であると、少なくとも私は考えている。だからこうして君の時間を割いて来てもらった」

 教授は書類の束を取り出した。

「私の講義で毎回実施しているテスト。先日でちょうど十回目となるが、これはその結果の一覧だ」

 このテストは、合格点を取る事自体はそう難しいものではない。しかし評価“S”を取る事が難しい事で有名だった。

 十五問中、十問目から急に難易度が上がり最後の三問題は解けないのが当たり前だと言われていた。僕はこの”難問”に挑戦するのを密かに楽しみにしていた。

「今までこのテストを実施し、十回の内いずれも評価“S”を得た者は数える程しかいない。そして」

 表情も口調も変えず、教授は淡々と言った。

「航一郎。君は先日、そのひとりに追加された」

 僕は内心、とても喜んだ。

 たぶん出来ただろうとは思っていたけれど、評価Sが取れるかどうかはやはり不安があったからだ。けれどそれは表情に出さず平然を装った。

「先生のテストは常にエキセントリックで、面白かったです」

「そうかね」

 教授の様子はまるで変わらなかった。

 本当に淡々と、しかし真剣そうに話す。だから僕はずっと緊張していた。これから何を言われるのか、まるで見当がつかなかった。

「この結果が示す事は何か。それは、君が実に優秀な生徒であるという事だ」

「あ、ありがとうございます」

 まるで当然の原理を説明するように放たれた、教授からの賛辞。

 事務連絡を伝えられているようだけれど、だからこそお世辞や気遣いではない本物の評価であるという実感があった。電流が走るような感覚が身体中を駆け巡った。世界的な科学者に認められたんだ、僕は。

「年齢を考慮すれば、君の才能はまさに非凡と言える」

「そんな。それに先生には、遠く及びません」

「・・・・・・ギフテッド、などという言い方も昔はあったものだ。君はまさに先天的な才能を持つのだろう。だが、私は違う。ただ単に必要な知識を学び、しかるべき努力をしたまでだ。もっとも、費やしてきた労力にはある程度の自負があるがね」

 教授は自虐的な笑みを浮かべ、また元の表情に戻った。

「さて、君の優秀さはこうして客観的に示された。他の講義に関しても、各担当者に聞く限り概ね評価は一致している。この結果に対し、私は君と話す必要があると判断し、今日ここに呼んだのだ。君に伝えたい事がある」

 ここまで褒めておきながら教授の表情はより真剣に、そして険しくなった。

「はっきり言おう。航一郎、私は君の今の状態を危惧している」

 僕は言葉の意味が分からず、金縛りのように動くことさえ出来なかった。一体どういう事だろう、教授は何を言っているのだろう。

 教授は立ち上がり、窓辺に向かって外の風景に目線を落とした。

「ロケット開発は、血塗られた歴史だ」

「・・・・・・どういう事でしょう」

「君は、興味ある部分のみを見ている。だが、他を見ていない」

 こちらを振り向かず、教授は窓越しに続けた。

「かつて、ヴェルナー・フォン・ブラウンは組織的開発によりアポロ計画を成功させた。セルゲイ・コロリョフの設計したロケットは、今でも後継機が宇宙ステーションに向けて飛んでいる。・・・・・・技術者が、あるいは科学者が“自分は一職員にすぎない”と言って済む時代はとうの昔に終わっているのだ。能力ある者ならば、尚更」

 言葉を句切り、ようやくこちらを向く。険しい表情はより一層深くなっていた。

「航一郎、繰り返すが君は優秀だ。だからこそ心配なのだ。このままでは、ここまま行けば君は優秀な宇宙工学の専門家になる。そこから技術者になるかもしれないし、研究者になるかもしれない。そして部下を持ち、プロジェクトを指揮するかもしれない。この先、忙しくなる事はあれど暇になることはなくなるだろう。しかし、それはじっくりとものを考える時間がなくなるという事でもある。才能ある者が多忙さ故に思考停止する、そんなケースや場面を私は何度も見てきた」

 その目はまっすぐに僕を見ていた。僕は逸らすことが出来ず、ただ見つめるしかなかった。

「ロケット開発は、あまりにも様々な外部影響により成り立っている。いや、一時的に成り立っていると言う方が正確だ。未だに石油は枯れず、エネルギー問題は私が学生の頃と同じ事が教科書に書いてある。月資源? 火星資源? 違う。様々な政治的世俗的な要因が、現在のロケット開発を成り立たせている。・・・・・・何が言いたいか、分かるかね?」

 僕はまた、答えられない。震えそうな口は、分かりませんと声に出すことも出来ない。

「君には、宇宙工学者たる自覚がない。信念がない。君はただパズルのように宇宙工学の課題を捉えているにすぎない。月依存症と揶揄されたヴェルナー・フォン・ブラウンよりもある意味、危険な状態にある。才能・能力がありながら、自身の考えが定まっていない。それを自覚せずに時だけを過ごし、知識や技術ばかりを蓄えていけばどうなるか・・・・・・“どちらにも転びうる”。それは実に危険な状態だ。君に倫理観がないとは言わない。しかし、信念なき倫理観は、仮に黒い信念が生まれた時、それもいつでも実行できる力を持った君の中に生まれたとき、どこまで働いてくれるかは分からない」

 教授は前屈みになり、より僕の方に顔を近づける。

「航一郎、私は君が優秀だからこそ心配しているのだ。優秀であれば、やがて数多の人間が影響を受ける存在となる。その時、そこに何の意思も理念も信念もない人間がつく事は、最悪の事態に繋がりうる。教育者として、私は何よりもそれを阻止せねばならない。優秀な者はいくらでも育てればいい、たとえ優秀な者がいなくとも進化が一年遅れたからといってどうなる分野でもない。ロケット開発が遅れても、困るのは“上の人間”だけだ。・・・・・・それよりも理念も意思もない者が重要な位置につき、それでいて何かに拐かされた場合、それを私は危惧する」

 口調も表情も変わらない。それなのに、瞳の中にどこか優しげな表情を感じたのは気のせいだろうか。

「航一郎、君は考えねばならない。君自身の課題を、意思を。これからどうするか、どこへ向かうのか、どこへどのようにして向かうのか。行く手段は、それが決まってからだ。“何をしたいのか、そして何をすべきなのか”それを、考えねばならない。君が取り組むべき君にとっての最大の課題が、今まさに君の中にある。年齢も才能も関係ない、君は向き合わなければならない」

 僕はただ、目を見開いてそこに座っている事しかできなかった。

 何もかもすべてが、世界のすべてが停止してしまったかのように感じた。そこに心臓の音だけが、大きく聞こえていた。教授は最後に言った。

「・・・・・・いつでも戻ってきて良い、戻って来なくても良い。すべての事務手続きは私がしよう。航一郎、一度考える時間を持ちなさい。焦らなくていい、一時的になら何度逃げてでも、時間がかかっても良い。だが・・・・・・考え、自分の答えを君自身が見つけねばならない」

 それから、どうやって部屋を出て家まで帰ったのかは覚えていない。

 けれどその日から、僕は僕自身の課題と向き合うことになった。

 

 そしてヨーロッパを離れ、日本に来て高校生の真似をした。探偵の真似をした、彼女の家庭教師の真似をした。けれど、本当の僕は・・・・・・いや、本当に僕が欲しいものは。

「・・・・・・音楽」

 自分でも思いがけない言葉が、口をついた。

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