あれから何度バイト先を訪ねても、彼女に会う事は出来なかった。ここ最近は受験で忙しく、しばらく出れないと言っているらしかった。
SNS越しの軽い問いかけにも、彼女は答えなかった。もう何日、彼女と話していないだろう。いつしか当たり前に思えていた彼女とのやり取りが、こんなにも呆気なく消えてしまうなんて思わなかった。
確かに、考えてみればただの家庭教師と生徒のような関係だったかもしれない。それも真似事の。彼女の成績は上げることが出来た、だからある意味僕の役割は終えたと言えるかも知れない。だからこのまま疎遠になったとしても・・・・・・。
そんな、そんな訳がない。
僕は機械的に家庭教師をしていて、彼女は単なるクライアントだった? 違う。
短い間だった。けれど、僕は教える以上に彼女から沢山の事を教わっていた。彼女は色々な事を話してくれた、打ち明けてくれた。彼女と過ごした時間、彼女と共有した時間は決して勉強の事だけじゃない。むしろ、それ以外の時間こそが重要だったんだ、色を持っていたんだ。
勉強する時間以外に交わした雑談、画材店に連れ出された午後、絵を見た瞬間、真剣に話してくれた朝のカフェ、僕の演奏が変わった夜、模試の結果に喜んでいた笑顔、落ち込んでいた表情、飛び出していった後ろ姿・・・・・・。
僕は・・・・・・彼女と、何を“話せて”いただろう。
勉強は教えていた。けれどどれくらい彼女と“話す”事が出来ていたのだろう。自分の事を、自分の考えている事や思っている事を。
彼女は話してくれた。何を思っているのか、何を考えているのか、沢山の自分の事を僕に話してくれた。僕は何を話せていただろう?
僕は、もっと話したい。まだ話せていないことが沢山あると気づいた。
音楽の世界を意識しはじめた事。けれど、まだ決めかねている事。それでも、彼女がいなければ知らなかった世界を今、知りつつあるという事。そして・・・・・・僕はやっぱり、彼女の絵が好きなのだという事。
彼女のあの絵を見た時の、あの瞬間の感覚が忘れられなかった。それだけじゃない、彼女が絵に取り組む姿そのものが、僕はきっと好きだった。真剣で、悩んでどうしようもなく余裕さえなくなって、それでも好きで好きで、愛しくて仕方ないという表情で、絵を、絵の世界を見つめる彼女が、向き合う彼女の姿が僕には眩しく見えた。輝いて見えた。
彼女の絵も、絵に向き合う彼女も好きだった。伝えたい事が、こんなにも沢山ある。伝えたい、彼女ともう一度話したい、話さないと。けれど、彼女は今・・・・・・。
「どうやら、美術予備校にも行ってないみたいだね」
その言葉は唐突だった。
もう夜だというのに、事務所の中はまとわりつくような暑さだった。叔父さんは冷房を設定しながら、何の前触れもなくそう言って話しはじめた。
「どういう・・・・・・いや、そもそも何故知っているんですか?」
「職業柄というやつでね、まぁ出所は言えないが。しかし信頼してもらっていい、そういう情報だ」
「どうして」
「君があれから、彼女の家庭教師をしていた事は知っている。だが、それを辞める理由が分からなかった」
「・・・・・・僕、話しましたっけ」
「探偵じゃなくたって、君の様子を見れば分かるものだ。君は表情には出さないが“様子”には案外、素直に出すものだ。もっとも、注意深く観察すれば分かるという話だが。まぁそんな事はいいんだ、彼女と何があったのかは知らない、しかして君の浮かない顔をただ見ているのは私の性に合わない。不用意な事に首を突っ込むべきではないのかもしれないが、知った事ではない。私は自分の欲望に忠実に動く事を信条にしている。無論、倫理的に問題のない範囲でだが」
「これは問題がないんですか?」
「そう判断したから話している。何、これは実に利己主義的なおせっかいだよ。だから安心していい」
どこかおかしな論理なのに、この人の話は何故か信用出来た。
それは話し方や人柄、短い時間だけれど行動を共にしていて分かってしまうことだった。
「・・・・・・叔父さん。間違いなく好きなのに、もうそれが出来ないって思う気持ちって、どういうものなんですかね」
「それは、彼女の絵の事かね?」
下手な遠回しも、この人には通じないのだろう。僕は観念して、彼女からの最後のメッセージを見せた。
「ほう・・・・・・“あの日はごめんなさい。最近、上手く絵が描けなくなってしまって取り乱してしまいました。これ以上迷惑はかけられません。今までありがとう、さようなら”か。なるほどね」
「わざわざ読み上げなくても」
「失礼。しかし、随分と他人行儀なメッセージだ。たぶん・・・・・・彼女は本気なんだろうな」
「・・・・・・」
そうだ、今までメッセージでもずっと親しい書き方ばかりだった。まるで本当の兄妹のように、彼女は僕にずっと。
だからこれは、彼女にとって僕が“もう他人になる”と自覚して、書かれた文章だ。
「さて、君はどうしたい?」
叔父さんは唐突に言った。一瞬なんと答えようか悩んだ、けれどこの人にごまかしは利かない。そう思ったら自然と言葉は出ていた。
「僕は・・・・・・彼女に絵を諦めて欲しくない。彼女にまた絵を描いて欲しい。彼女が目指す先に行けるように、少しでも出来る事がしたい。でも・・・・・・僕には分からない。どうして、今まで大丈夫だと言っていた絵が突然描けなくなったのか。あんなに大好きだと言っていた、あんなに楽しそうに話してた絵が描けなくなったのかなんて」
「スランプ、なんて月並みな言葉は使いたくないがね。まぁ、彼女は今描けない状態にある訳か」
「はい・・・・・・」
叔父さんはしばらく黙って、何かを考えるように少し遠くの方を見ていた。
「よしっ。参考になるか分からないが、描くか。部屋も大分涼しくなったし」
「えっ?」
「君は彼女の絵を見たことはあるようだが、絵を描いているところは見たことがないだろう。いや、彼女に限らず絵を描いている場面なんて、映像でさえしっかり意識して見たことはないだろう」
「それは・・・・・・確かにそうですね」
「人間、頭で考えてばかりでは得られない情報もある。実践する事で、やる事ではじめて見えてくる事もある」
「でも・・・・・・僕に絵は描けないですよ」
「あぁ、だから私が描く。何、道具はあるから少し待っていなさい」
そもそも叔父さんが絵を描くという事自体、僕はその時はじめて知った。見知ったはずの探偵事務所のどこに隠していたのか、ものの数分で画材が一通り用意された。
「君はこれから、普段ならまず見る事の出来ないものを見る事になる。すなわち、描くプロセスだ」
叔父さんは画材のレイアウトを準備しながら淡々と言った。
「多くの者は動画や美術教室、予備校などで他人が描くプロセスを見る。だが」
イーゼルの位置を調整すると、腰に両手を当てた。準備は整ったらしかった。
「誰にも見られず、ただ自身の為に絵を描く行為はそんな公の場で見せる事はない。だからこれから、君はいないものとして私は絵を描く事にする。ゆえに、私から話しかける事はあるかもしれないが、君が私に話しかけてはならない。良いね?」
「分かりました」
その事については、何故か自然にその通りだと思う事が出来た。それは彼女の言葉を事前に聞いていたからかも知れない。
“自分の内臓を・・・・・・晒すようなものなんだよ”
それは、叔父さんでも例外ではないんだ。いや、きっと絵を描く沢山の人達が同じ想いを抱いている。誰にも本当は見せたくない、見せられない時間。けれど叔父さんは僕にそれを見せてくれる。
「・・・・・・どうして、叔父さんは僕に見せてくれるんですか?」
「そうだねぇ、若い頃なら絶対に他人には見せなかっただろうね。無論、今でも赤の他人に見せるつもりはない」
「じゃあ血縁だからですか?」
「違う、私はそういう先天的要因をむしろ嫌う。私は君という人間と接した上で、君に見せても良いと判断したにすぎない。仮に君が偶然出会ったバイト君であっても私は同様の判断を下す」
「じゃあ何故」
「君の為、君が絵を描くという事の理解を深める為。と、いうのはきっかけに過ぎない。判断の大きな割合を、残念ながら占めてはいない。私があえてこんな恥ずかしい行為を他人の君に見せる・・・・・・それは、面白そうだと思ったからだ」
「どういう、ことですか?」
「今まで、本当に今の今までは“他人なんかに絶対に見せてなるものか”と考えていた。しかし、ふと思ったわけだ。確かに恥ずかしい、だがそれ以外のデメリットは実はあまりない。君の事だ、その内容を辱めたり言いふらす真似はすまい。だが、その極小さな可能性さえあるとしても・・・・・・こんなことは今まで“やったことがない”訳だ。それにこんな機会でもなければ、もうこんな事をするなんてこの先ないだろう、たぶんね」
叔父さんは低い木製の椅子に座り、紙面と向き合った。
「恥も見栄も捨てて、人前にさらけ出したらどうなるだろう。君に今さらけ出したら、何が起こるのだろう。はっきり言って、まったくの未知数だ。そこに私は今少しワクワクしているのだよ。自分が傷つく範囲なんてある程度生きているとなんとなく検討がついてくるし、リスク承知の自己責任な行為だという自覚もある。つまり悪い方に転んでもたかが知れているんだ。でももし良い方向に転んだら、私は“まだ知らない何かを知る事が出来る”かもしれない。そうしたら、私はやろうという判断に自然と行き着いた」
僕には・・・・・・まるで分からなかった。
理屈としては、もしかしたら成り立つのかも知れない。けれどそれを自分の頭で考え、納得し実行することなど果たして本当に可能なのだろうか。
「ははっ。まぁ何、もしかしたらこの先君も分かるかも知れない、あるいはずっと分からないかも知れない。どちらでも大丈夫だ、別段分からなければいけない事じゃないよ。そうだなぁ・・・・・・」
少し考えるように空を見つめてから、叔父さんはゆっくりと言葉を続けた。
「私はね、知りたがり屋なのだよ。とにかくこの世にあるものを、まぁすべては当然無理だが、だからこそ可能な限り知りたいし体験したい。そして・・・・・・理解出来るならば理解したい。学者ならば出来ると思われがちだが、今の時代そうでもない。彼らは‘“特定の範囲”において自由だし知識経験を得る環境を整えているが、それ以外を制限され制約を受ける場が多すぎる。知識経験を得るという行為そのものが目的である私には、むしろ不自由な選択だ。私は私にとって探偵という選択肢が最善であったと自負している。少なくとも後悔はない。もっとも、親族の中では変人扱いだがね」
そう話し笑う顔は、今まで見たどの表情よりも満足げで自信に溢れていた。まるで名前の通りの人だ、そんな風にぼんやり思った。
「・・・・・・さて。では、そろそろはじめようか」
小さく一呼吸置くと、叔父さんは筆を持った。
下書きなどはなく、叔父さんはいきなり筆に“色”を取った。まるで最初から目指すものが見えているかのように。
真っ白な紙面の中央に、黄色い円がひとつだけ描かれた。それは均一に見えて、少し濃淡がある色をしていた。
円を描いた途端今度は黒を取り、円の周囲に沿うようにどんどん描き足していく。黒い弧が、何本も何本も描かれる。そして黒に沿うように灰色も塗られていく。そうして暗く黒い渦のような闇の中に、のっぺりと黄色い円が浮かんだ絵が出来る。
また、筆の色を変える。今度は紺青だった。
さっき描いた黒い何本もの弧の隙間にある、白い紙面が紺青が塗られていく。途端に、そこに夜空が現れる。この絵が夜の空なのだと、深い青に包まれた月夜の絵なのだと分かる。
夜空はどんどん大きくなり、画面の端へ向けて膨張していく。いつの間にか塗る色が空色へと変わり、紙面はみるみるうちに青で満たされていく。四方八方を染め上げ、ただの紙面の空白も段々と夜風と雲の流れに見えてくる。塗りムラに見えた所さえいつしか模様となり質感となり、夜空へと同化していった。
渦のように、月を中心に全てが、彩られる。
中心から外側に行くにつれ、黒く暗い青から明るく薄い青へと変化していく。上下左右の三方向だけ、紙面の縁まで青く塗られる。空色は縁の付近でまた、濃い青へと変化していく。
一通り画面が塗られても、筆が止まることはなかった。
空色、紺青、紫・・・・・・それらが交互に、何度も薄く、塗り重ねられていく。
気がつけば、そこに夜空が広がっていた。
そして僕はまた、彼女の絵を見た時と同じように“絵の景色の中”に立っていた。雲浮かぶ満月、無音の熱気、月明かりに照らされ動く雲。筆が進む度に夜空はゆっくりと、ゆっくりと動き変化していった。
不思議な時間は、あっという間に終わった。
「・・・・・・よし、終わった。さて、感想は?」
僕は、唖然としていた。どう反応して良いのか分からなかったのかもしれない。こんな風に、絵は出来るのか。こんな風に絵は描かれるのか。圧倒されつつも、出た言葉は単純だった。
「どうして・・・・・・こんな風に描けるんですか?」
「こんな風、ねぇ。正直、どう描こうという意識はあまりないかな」
「じゃあ、何を意識しているんですか?」
「何を描くか、を意識している」
描いている間中真剣だった表情が、やっと緩んで叔父さんは微笑んだ。
「君の話にあった彼女の絵の事を思い出してね、私も同じようなものを描いてみようと思った」
「よく何も見ずに描けましたね」
「なんの、正解は私の頭の中にある。だから私の頭の中の情景がはっきりしていれば、私の筆もまた迷うことなく絵を描いてくれる。何度間違っても、正しい方向へと修正してくれる。私は絵の専門家ではないが技術はそんなに重要ではないと思っている。例えばここ、線だって色だってよく見れば大分下手な所がある。そこを指摘する者もいるかもしれない、だがそんな事はどうでもいい。大切なのは、私が目指す絵になっているかどうかだ。逆にそれさえ上手くいけば、他は割とどうでもいい。まぁ絵に限らず私の信条だがね、これは」
「・・・・・・この絵は、どんな情景を思って描いたんですか?」
「これはね、私が探偵になろうと決意した夜に見た満月の情景なんだ。こいつは今でも印象強く私の中に残っていてね、何も見ずに描ける。もっとも、私は物を見て描くのがあまり得意ではないんだが」
そういえば、彼女の絵はあの絵本のワンシーンを描いていたものだった。けれど、挿絵の中にあんな絵はなかった。絵の構図は彼女のオリジナルだった。
そうだ、彼女も何か見てそのまま描いていた訳じゃない。
それは本の中で出てくる言葉、進む物語を読んだ読者なら自然に思い描く情景だった。だから見たことのない絵で、本の中にも載っていないのにすぐに絵本のシーンなのだと分かったんだ。
彼女の中には、確かに“はっきりと浮かんだ光景”があってそれを絵にしていたんだ。
彼女は、最後のメッセージで書いていた。
“最近、上手く絵が描けなくなってしまって”
上手く・・・・・・その言葉が気になった。今まで雑談の中で、彼女から“上手く描きたい”なんて言葉は出てこなかった。もし彼女が美大受験の中で“上手く”という事に縛られすぎているのであれば、描けない原因はもしかして・・・・・・。
一つの有力な仮説が立った。
けれど、どうすればいいかが分からない。そもそもどうやっって彼女に伝えれば・・・・・・。
「参考になったかね?」
「・・・・・・はい、ありがとうございました。たぶん、彼女は」
叔父さんに仮説を説明するのは自信がなかった。それは仮説そのものというより、言いたいことが伝わるかという心配だった。だってこれは、とても感覚的な事でもあるから。
けれど、叔父さんはすんなりと理解を示してくれた。絵を実際に描いているからこそ、僕以上にそういった事が分かるのかもしれない。
「でも、僕は彼女になんて伝えればいいのか」
「ふむ・・・・・・これは、あくまでも私見だがね。北風と太陽っていう訳じゃないが“君の為だ、君が心配だ”と言われるのは心地良いものだが、それで本気度を伝えるのは難しいものだ。・・・・・・私は、こう考えている。相手を思い通りにする事なんか、中々出来やしない。思い通りに出来ると思って接すれば、むしろ相手にその傲慢さを見透かされて事態が悪化する場合さえある。
だから自分の意思を、偽りのない意思を示すなんていうのは結局“自分が考え、思っている事を話す”事でしか、出来ないんじゃないかと私は思っているんだ。
相手に伝わるかは分からない、しかしそれでも“私はこう思っている、こうして欲しいと考えている、何故ならこうだから”としっかりと自分の言葉で“話す”べきだと思っている。今のところ私達には、自分の気持ちを伝える為のテレパシーなんてものはない、残念ながらね。けれど、出来る事はある。“伝えようとする姿勢を見せる、自分の想いを話す”事だ。後は・・・・・・相手に託すしかない。受け取って、それにどう反応し何を思うか。それは結局相手次第だ。それでも、それを踏まえた上で、自分の想いを“話す”べきだと私は思う」
自分の想いを、伝える。
そうだ、今思いついた仮説だけじゃない。彼女に会って話したい事が、伝えたい事があるんだ。
けれど・・・・・・僕は同時に思い出してしまった。それが僕にとって、もっとも苦手とする行為だという事を。