小説 真夏の空席   作:Nagi.rekka

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小説 真夏の空席 Episode.XVI -Kouichirou Phase-

 

【挿絵表示】

 

 

 事務所を出てからは、真っ直ぐに家へと向かった。もう遅い時間になっていたし、考えも整理したかった。ベッドの上に仰向けになり、部屋の灯りさえつけずに窓から漏れる夜光と白い天井を見つめていた。

 夜の青い明るさは、自然と頭を落ち着かせてくれた。僕は改めて、さっき思いついた“仮説”を整理した。

 

 彼女のスランプの原因が、もしも“上手く”という事に縛られすぎている事だとしたら。だとしたら、どうすればいいだろう?

 彼女が見せてくれた絵は、きっと彼女の中にはっきりと存在する風景を描いたものだ。あの絵を描いている間、きっと彼女は“上手に描こう”なんて意識はなかったはずだ。だってそんな風景はどこにもなく、けれど確かに彼女の中には存在していて、彼女はそれを描こうとしたはずだ。それだけをただ、描こうと夢中だったはずだ。

 同じように、彼女が迷わずに“上手く描く”なんて意識さえ忘れる程の“何か”があれば。彼女はまた、描けるんじゃないだろうか。それが僕の仮説だった。

 けれど、じゃあそれは何だ? 何が彼女にそう思わせる? なるべく彼女が意識しているものがいい、彼女にとって一番と言えるくらいのモチーフや風景が。

 彼女との会話を慎重に思い返す。彼女の話の中に、彼女が話してくれていた事の中に何か、何かあれば・・・・・・。

 “スカイデッキ”

 思い出した。そうだ、六本木ヒルズのスカイデッキ。

 彼女は休憩中や雑談の中で言っていた。あの景色をいつか、自分の体験したままに描きたいと。あの景色を見ながら描けたらと。けれど、当然そこにイーゼルを置いて描くなんていう事は出来ない。せいぜい屋内の天望回廊でスケッチするのが限度だ。しかし彼女は、そうではなくてスカイデッキの上で、絵の具によってあの景色を描きたいと言っていた。

 “あの夏空も、夕景も、あそこで見える色々景色すべて。そして、景色を見た感覚さえも、絵に描けたらどんなに面白いんだろうね”

 いつか勉強も受験も落ち着いたら連れて行ってあげる、そう彼女はいたずらっぽく笑っていた。調べると、確かに見事な光景がスカイデッキからは見えるらしかった。そこから撮影された写真の中の空は、美しい青のグラデーションがどこまでも続いているかのようで圧倒されるものがあった。

 もしも、あの光景が彼女にとっての一番なのだとしたら。試す価値はあるはずだ。いや、たぶんもうこれしかない。

 

 どうすればいいかは分かった。けれど・・・・・・決心はつかなかった。

 誰かに想いを伝えるのは、どうしてこんなにもこわいのだろう。伝える瞬間を想像しただけでおそろしくなってしまう、諦めてしまいたくなる。背を向けて、何も言わない状態へと帰りたくなる。

 今考えている事全てが、実は単なる思い違いかも知れない。おとなしくしていれば傷つく事なんてないかもしれない。彼女と話す、話さなければならない。その事実が目の前に迫った途端、実感した途端、ネガティブな考えが頭の中を渦巻く。

 昔からそうだった。人と直接触れ合う事は、僕にはまるで太陽に触ることのようだった。それは暖かいものだと分かるし触れたいとも思う。けれど、僕にはその温度はあまりに高温で耐えきれない。僕の身体は、きっと耐えきれない。だからずっと何かを“介して”人に関わるようにしてきた。それは勉強や、難題解決や人助けや・・・・・・そういったものを介して誰かと関わってきた、彼女とだって。

 けれど、今回ばかりはもうそれが通じないと分かっていた。彼女に話すべき事は何かを隔てたり、何かを通したり介したりせず、自分そのものの想いや行動で彼女に関わり、そして伝えなければならないものだと自覚していた。

 ここまで来て、もう誤魔化すことも出来なかった。

 やるしかない。いや、やるべきなんだともう僕は決めていた。それでも、やっぱりこわい。もしも・・・・・・もしも拒絶されたら、会ってすらくれなかったら、今よりも悪い事態へと向かってしまったら・・・・・・。

 不安が、僕の中に押し寄せる。それでも決断する勇気が欲しかった。

 

 自然と、机の上のヴァイオリンが視界に入った。そういえばあの夜もこんな風にベッドの上で悩んでいた。

 気晴らしにでもなればいい、とにかくこの不安から遠ざかりたい。そう思いながら、気がつけばヴァイオリンを手に取り、またブースに入っていた。扉を閉め、なるべく何も考えないようにして、とにかく今演奏したいと思う曲を弾こうと弓を構えた。

 そうして弾きはじめた音は、まるで震える僕の声のようだった。不安定で、音程さえよろよろと蛇行する。

 しばらくは、まるで自分の心境だと自虐していた。あぁ、やっぱり僕の動揺はこんなにも手にまで伝わるんだ。考えないようにといくら思っていても、音には予想以上にはっきりと現れる。最初の内はそんな風に思いながら弾いていた。けれどその内に段々と、その音を聴いている内に気持ちが変わっていった。

 “違う、そうじゃない。そんな音じゃないはずだ、そんな演奏じゃないはずだ。

確かに僕は動揺している、不安を抱えてる。でも・・・・・・こんな音聴きたくない。僕の音は、違う”

 弓に力を込める。手が震えぬよう、息さえ止まりそうになりながら次の節を弾く。

「――っ」

 瞬間、震えはぴたりと止まり、力強い響きへと変わった。

 そうだ、もっと震えを押さえて、もっと強く。弓を引く毎に、音色が変わる。

 震えなんかに消されない。むしろそんなものかき消して、もっと出したい音があるんだ。

 テンポは早くなり、音は強さを増す。

 そうだ。走れ、走るんだ。何にも惑わされずに、ただまっすぐに走るんだ。駆け抜けるんだ。

 高音が轟く、空気が熱せられながら震えているのが分かる。それでも、僕はただ一直線に弾き続ける事しか考えなかった。

 すると不思議な事が起きた。

 振るえそうになる所程、僕は意識して強く弾いていた。それはただ力を込めるのではなく、不安さえやりこめる強い感情で、圧倒させるように弾いた。それしかないと瞬時に思えたから。

 そうして弾いた音は、何故かとても暖かくはっきりとした音になった。まるで誰か別の人が奏でたかのような、力強い明瞭な音をしていた。弓が別の意思を持ったかのように、時折出る音色だった。

 自分の演奏に混じるそれを、注意深く拾うようにしばらく聴いていた。意識して聴く程に、その音は奮い立たせようとしてくるような、励まされているような音に聴こえた。

 僕には分からなかった。どうしてだろう、どうしてこんな不安な今、こんな音が混じるのだろう。しかも、僕はこの音を知っている。

 聴いている内に、自然とその答えは分かった。

 ・・・・・・そうだ。これも、僕の想いなんだ。怖いからと、蓋をして目を背けようとしていた、本当の想いなんだ。

 失敗したらどうしよう、拒絶されたらどうしよう。そんな思考にさえ、どうでも良くなる程にこの想いは僕の中で燃焼し続けてる。消えてなんかいない。伝えたい事があるんだと、伝えたい事はこんなにも強く今、僕の中から湧き上がってくるのだと。僕の流れに確かに、そんな気持ちがあるんだ。

 分かった途端力強い音はなお加速し、奏でる音の中で占める割合を増やしていく。自分の中から引き出された感情を観察するように自覚しながら、僕はただただ弾き続けた。

 音楽は、不思議だ。

 どうしてこんなにも沢山のものを受け入れてくれるのだろう、教えてくれるのだろう。姿も形も、触れる僕の状態によってまるで違う働きをする、変化する。知る程に果ての見えない広大なものだ。

 僕は、もっと触れることが出来るのだろうか、知る事が出来るのだろうか。僕も・・・・・・彼女のように“触れても良い”のだろうか。何かを描く、という世界に。

 演奏を終え、ヴァイオリンを置く頃にはもう、迷いはなくなっていた。

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