小説 真夏の空席   作:Nagi.rekka

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小説 真夏の空席 Episode.XVII -Tokiko Phase-

 

【挿絵表示】

 

 

 彼に最後のメッセージを送ってから、もうどれくらい経っただろう。

 バイトも受験が忙しいと言って、行かなくなってしまった。美大を受ける事なんてもう出来ないのに。

 あれからもずっと、絵は描けない。描けないなら美大を受けたところで意味がない。勉強だってバイトだって美術予備校だって・・・・・・何もかも、絵の為だった。それなのに、肝心の絵が描けないなら何の意味もない。何の役に立つ? 全て、もう無意味なんだ。 

 空虚が、胸の中を襲う。けれど何が出来る? 今の私に、何が・・・・・・。

 こんな時、泣く事が出来ればどれ程楽だろう。素直に謝ることが出来ればどれ程良かっただろう。けれど私には、どちらも出来なかった。

 

 時計の針は、もうすぐ十二時を指そうとしていた。

 夏の日射しに満たされた教室には授業の声だけが響いていた。けれどそれさえも、どこか遠い所でぼんやりと鳴っているサイレンのように思えた。聞いたところで意味なんてない、一度そう思ってしまうともはやどんな説明も意味のないノイズにしか聞こえなくなった。

 もしかしたら・・・・・・もしかしたら絵の事でこんなに悩まなければ、もっと他の人と同じように普通に過ごして、普通に生活して、そうすればもう身を焦がすようなこの日々から、楽になれるんじゃないか。そんなことを何度も考えた。

 けれど今、絵を失った今。どんな事も取るに足らない事に思えてしまう。それらは薄い色しか持たない、私を動かす程のものにならない。私の日々は、こんなにも何も起こらず、色もない透明なものになってしまった。机の上に開かれた真っ白なページのようになってしまった。

 私は、これからどうすればいいのだろう。どうすれば・・・・・。

 

 突然、マナーモードの振動がポケットから伝わった。

 SNSや大抵のアプリはもう通知が来ないように設定していた。だからせいぜい、メールか電話くらいでしかスマホが震える事はない。通信会社のメールか、間違い電話だろう。けれど、もし両親だとしたら。こんな平日の昼間なんて、何かあったのかも知れない・・・・・・そう思ってこっそりと画面に目をやった。

 けれどそれは両親でも、それ以外に想定していた誰でもなかった。

 そこには、彼の名前が表示されていた。

 どうしてメールアドレスを・・・・・・そういえば出会って間もない頃に教えていたんだった。けれど結局、すぐにSNSでやり取りしはじめて一度も使う事がなかった。

 勉強会をはじめたころは、そんなに頻繁にやり取るする事になるなんて思わなかった。勉強会を本当にしてくれるかさえ分からなくて、してくれたとしてもどうなるかなんて分からなかった。あの頃は互いの距離感もまだ、分かっていなかった・・・・・・。

 きっと、私がSNSに返信しなかったからだろう。それでついにメールアドレスに送ってきたんだ。

 少し、開けるのを躊躇した。けれど、もう無味乾燥な授業を聞く気にもなれなかったし、昼休みにもまだ数分はあった。メールならSNSのように既読がつく事もない。中身だけ確認して、返信するかどうかはそれから決めよう。そう思った。

 緊張する指で慎重にメールを開く。タイトルも添付ファイルもなく、本文が 一行だけ書かれていた。

 

 “校庭にいる。お願いだから、来て”

 

 いるって・・・・・・まさか、ここの?

 急いで窓の外を見る。窓の外にはいつもの見慣れた校庭が広がっている。けれど、誰も居ない。作業着姿で掃除用具を持った用務員の人が、植木の横にいるだけだった。どんなに目をこらしても、他には誰もいなかった。

 冗談? 嘘? それとも間違いだろうか。でも・・・・・・彼はそんな事はしない。なら、どうして・・・・・・。

 考えつつも、目線はずっと校庭の中を探していた。どこかに、彼がいないかと。

 ふと、違和感に気づいた。校庭にいる唯一の人影、用務員の人がさっきからずっと動いていない。帽子を被っていてよく見えないけれど、掃除用具も足下に置いたまま動こうとしない。そして・・・・・・こっちの方を見てる?

 十二時を告げるチャイムが鳴り、先生が教室から出て行った。私は急いで教室を飛び出した。

 

「・・・・・・ハァ、ハァ。なんで、ここにいるの。それに、どうしてそんな格好」

 木陰で息を切る私の目の前には、作業着姿の彼がいた。

「他に方法が思いつかなくて」

「あなたらしくないね」

 久しぶりに会ったというのに、口からは皮肉が出てしまう。きっと彼に負い目があるからだ、これは身を守るのに必死な防衛反応。そんな自分の醜悪さが、自分で嫌になった。

「今から、もっとらしくない事を言うよ」

 彼は、何か思い詰めたように緊張した面持ちで一歩私に近づく。

「一緒に来て」

 そう言った途端、彼は私の手を引いて走り出した。

 

 ニュースでは今日は今年一番の猛暑日になると言っていた。ビジネス街も遠いから、いよいよこんな日のこんな時間に表を歩いている人なんて他にいなかった。

 けれど、アスファルトが白く反射する道を私達ふたりだけが走っていた。

「ちょっと、どこ行くの? それに、なんで走って」

「どうしても、君に見せたいものがあるんだ。時間がない、悪いけど急ぐよ」

「・・・・・・あなたが、こんな悪い人だなんて知らなかった」

「僕もだよ」

 訳も分からず走らされていた。どこに行くのだろう?

 分からない、何も分からない。普通なら不安になるだろう、強引に振り切ったっていい。でも・・・・・・何故だろう、胸が高鳴っていた。

 さっきまで抱えていた、不安や空虚が今はない。

 これじゃまるで逃避行だ。あの教室から、あの憂鬱からの。ドラマや映画だってもうちょっと脈略がある、なのにこんないきなり連れ出して、行く先も告げないで。

 こんなのおかしい。そして、それが何故か可笑しかった。 

 理由なんてなくて、強いて言えばその訳のわからなさに私はいつの間にか笑っていた。走りながら笑っていた。

 ずっと、下を向いて歩いていたから気づかなかった。考え事をしていて、見ていなかった。いつの間に街は、空は、こんなにも綺麗で清々しい夏の景色になっていたのだろう。一筋の飛行機雲さえ、あんなにもくっきりと白い。

 線路脇の道を走っていると、警笛が背後から横切っていった。熱風が背中を押す。なんだろうこれは。

 こんなにも暑い日射しの中で、ただ手を引かれて走っているだけなのに。真夏の青空を視界に満たして、誰も出歩かない街中を駆け抜けるのがどうしてこんなにも気持ちいいのだろう、清々しいのだろう。

 忘れていた。こんな感覚、いつ以来だろう。眩しさに引き寄せられるような、ただただ気持ちに素直に行動する楽しさ。

「・・・・・・ねぇ、もう怒らないから教えて。どこに行くの? まさか海まで行くなんて言わない?」

「どうかな」

「じゃあ、どこに連れて行ってくれるの?」

「この街の特等席」

 途切れる息の合間にも、彼はいつものシニカルでのらりくらりとかわす答えを返してきた。もしかしたら、緊張を隠す為にわざと意識して振る舞っているのかも知れない。理由はわからないけれど、なんとなくそう感じた。

「いいよ、付き合ってあげる!」

 だから私も、また彼の前にいる時の私に戻る事にした。

 

 

「ここって・・・・・・」

 たどり着いたのは六本木ヒルズの入口だった。

「ふふっ、何企んでるの?」

「見せたいものがあるんだ」

 彼は休む間もなく中へと入っていった。 

「ねぇ、そっちは行き止まりだよ。エレベーターもフロアもあっち」

「大丈夫、こっちで合ってる」

 そのまま人気のない従業員用のドアの前まで連れて行かれた。

「ほら、やっぱり行き止まり」

「普通はね。でも今は違う」

 彼の手には、いつの間にかカードキーが握られていた。そして暗証番号まで入力すると、彼は中へと手招きした。

「どうしてそんなもの持ってるの?」

「秘密」

 従業員用の通路を早足に歩きながら、彼は答えつつ時計を気にしていた。こんなに余裕のない姿を見るのは、もしかしたらはじめてかもしれない。

 エレベーター前に着くと、彼は迷わず最上階へのボタンを押した。

「ねぇ、ここからどこに行くの? 展望台ならわざわざこんな裏から行かなくたって。そんなに入場料がかかる訳じゃ」

「違うよ。言ったでしょ、“特等席”に行くって」

 言い終わると同時に、エレベーターのドアが開いた。

「・・・・・・ここって、もしかして」

 エレベーターを降りると、強い風と金網に囲まれた通路が出迎えた。以前にも似た光景を見たことがある、スカイデッキだ。でも、ここは。

「今は工事中じゃなかった? 行けるのは展望台までのはずじゃない?」

「普通はね」

 彼は少しいたずらっぽく言った。けれど、それが余裕から来るものではなく、むしろない余裕をなんとか作ろうとしているやせ我慢に見えた。そうだ、少なくとも私の知っている彼はこんなに無茶が出来る性格じゃないはずだ。

 けれど、私に“何か”を見せる為にわざわざここまでしているんだ。彼は何を見せたいのだろう、工事中でまだ見れないはずのスカイデッキ? それとも他に・・・・・・。

 従業員用の通路は、とにかく風が強かった。たぶん吹き抜けになっているから、上の方よりずっと風が強くなってしまっているんだろう。

 煽られる髪をなんとか押さえながら、彼の背を追って私は通路を抜け階段を昇った。

「わぁっ! すごい」

 そこにはどこまでも広がる真っ青な空があった。三六〇度どこを見回しても遮るものはなく、遠くの方には山や、そして海さえ見えた。そこには青の世界があった。

「こっちに来て」

 彼はヘリポートのある中央部分を横切り、端の方へと歩いて行った。そこは一段下がったところにある展望デッキだった。そして。

「これって・・・・・・」

 そこには一脚のイーゼルが置かれていた。それだけじゃない、キャンバスも絵の具も筆も、椅子さえも。描く為に用意したといわんばかりの画材がそこに準備されていた。それは夢にまで見た光景だった。

 彼は覚えていたんだ。私が、ここの風景を描きたいと話していた事を。

「でも、私・・・・・・」

「僕・・・・・・見たいんだ。君の描く、世界の続きが」

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