小説 真夏の空席   作:Nagi.rekka

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小説 真夏の空席 Episode.XVIII -Tokiko Phase-

 

【挿絵表示】

 

 

 彼は言った、私に描いて欲しいと。

「君が、自由に描いた絵が見たいんだ。どんな絵でもいい、上手く描けたかどうかなんて関係ない。君が描く、この風景が見たいんだ。この場所は明日まで誰も来ない。だから君が描きたいだけ、描きたいように描いて欲しいんだ。君の世界を」

 なんだろう、これはなんだろう。

 晴れ渡った写真のような風景があって、まるで見事な青空が広がっていて、水平線さえ遠く彼方に続いていて。

 夢にまで見たこの場所で、時間も人も気にせずに描ける。画材だって揃っている。嘘みたいな、けれど今目の前に確かにこの状況は存在している。

 風が吹いた。

 前髪が持ち上げられる。ついつられて、上の方を見た。空に浮かぶ雲が、ゆっくりと動いていた。

 

 そうだ、描かなきゃ。

 この景色もこの場所も、いつまでもありはしないんだ。写真にも映像にも映らない、けれど確かにここにある“今”を、私は・・・・・・描きたい、描かなきゃ。

 脊髄反射するかように頭が、身体が動いた。髪留めで後ろ髪を縛る。じっとこの風景を見つめる。

 この景色は、ここにある今は何なのか。目を皿のようにしてにらみつけるように、あるいは水晶のように、瞳の中へと取り込む。離さないように、そしてきちんと私の中に存在させるように。

 クロッキー帳に思ったことをどんどんメモしていく、小さな構図の下書きを交えながら、一枚の紙面に焼き付けるイメージを固めていく。

 そう迷うことなくイメージは決まった。けれど、はたして描ききれるだろうか・・・・・・。

 違う、迷う必要なんかない。描けるかどうかじゃない、描けばいいんだ。描いていけばいいんだ。間違ったらなおせばいい、修正すればいい、迷う必要なんてない。だって、ここに描きたいものはもうこんなにもはっきりと色鮮やかに、私の中にあるのだから。

 あとは早く、早く焼き付けないと。この景色が変化する前に、終わる前に、流れていってしまう前に。消えてしまうその前に、描かなければ。

 

 筆を執る。色に迷いはない、塗ってダメなら直せばいい。何度だって、いくらだって。細かい修正なんて気にしてはいられない。だって描くべきものをまず描く事こそが、何よりも重要なのだから。

 筆は今日まで描けなかった事が嘘のように、鮮やかに踊った。

 描く程に、次の色の“正解”が分かる。

 違う、綺麗だけれどこの部分はこの風景じゃない、そうだここに近づけたいんだ。そんな風に、描く度に瞬時に“描くべきもの”が分かる。

 ものすごい早さで、真っ白なキャンバスに空が浮かび上がる。けれど全然足りない、もっともっと早く。絵の具さえ早く乾いて欲しい、次の色を、次の質感を。描ききらないと、まだまだ描きたい事はたくさんあるのに。

 風景を描くのに、日が暮れるまでの数時間なんてまるで短いものだ。しかも刻々と時間は変化していく。それでも・・・・・・今は描き続けるしかない。

 ただただ走るように描く、描く、描くんだ。

 

 やがて、周囲からどんどん余計なものが取り払われていく。

 キャンバスと、向き合っている私だけになる。そして絵の具や筆や、描いている腕さえも意識しなくなる。ついに私の姿さえ見えなくなって、ただ目の前に描いている絵と、描くべき風景だけがそこに残る。

 そうだ、この感覚だ。ここまで極端になった事は今までなかった、けれど同じようなものをいつも、どこかに感じていたんだ。

 絵と、自分の意思と、描きたい世界。これだけがあれば、それで絵は描けるんだ。これだけで今、絵を描いているんだ。

 あの時、思っていた事思い出す。

 “描いて・・・・・・描いてよ。私の手、ちゃんと描いて、お願い・・・・・・”

 そんな風に思っていたけれど、原因は私の手じゃなかったんだ。自分自身だったんだ。絵は、私自身が描くんだ。小手先じゃない、技術でもない。上手く描こうっていう思いばかりが先行して、描くべきイメージを持てていなかった。何を描きたいかが薄れていったから、描く対象を失った手は動くべき動きを、引くべき線を、描くべき絵を失っていたんだ。

 こんな質感にするにはこう描く、じゃない。やりながら探るんだ。描こうと思っているものに適切な“絵”は何かを。あるいは、それ以上になってくれる線は、塗りは、質感は、色の深度は。

 何が適切か、何が光を放つか、何が訴えるものになるのか。

 “私の中にあるもの”と、常に照らし合わせながら紙面に焼き付けていく。修正し、より高いところへ、自分が思っている以上のところへさえ昇っていける、羽ばたいていける。

 そうだ、上手さだけ求めて、小手先に頼って描こうとしていた。

 “絵”として描きたいものが自分の中になかった。それは別に、簡単な事で良かった。こんなものなら格好いい、こんなものなら面白そう。それで、それだけで良かったんだ。

 たとえ最初はぼんやりと描き始めても、途中のどこかで“そうか、この絵はこんな事を描ければ良さそうだ。よし、描こう”と思う物を見つけて、そこを中心に全てを描くように切り替えていた。

 最初から心に決めた物を描くか、描くべきものを探りながら描くか。

 そういう描き方をしていたから、描くものを探る事はあっても“上手く綺麗に描けない”ことなんて、それまでは悩まなかったんだ。

 対比は、世の中にある“上手な絵”の基準なんかじゃなかった。私の中にある“描きたい物”だけが、基準だった。

 形のない、けれど確かに存在する物。それを紙面に焼き付けていく。それが私の、私だけの絵だった。

 泣きそうになった。けれどそんな暇はない、描くんだ。描くんだ描くんだ描くんだ、私の絵を。私が描きたい絵を、私の手で。描ききらなきゃ、描いてみせる。

 

 やがて、空の色が如実に変わりはじめた。水平線からオレンジ色のグラデーションが立ち上ってくる。なんとかギリギリ、青空の部分は描けた。

 けれど、ここからだ。夕景の空がどんどん迫ってくる時間だった。一度染まりだした空は、恐ろしい早さで表情を変える。

 追いつけるだろうか・・・・・・いや、描ききってみせる。

 闘志にも似た不思議な力が身体中に満ちていた。ここまで来て、引き下がる事なんて出来ない。

 やがて日射しの色もオレンジ色を帯びる。立ち並ぶビル群が、光を受けて陰影を帯びる。夕景が、迫ってくる。

 燃えるような鮮やかな夕陽が浮かぶ。昼間とは違い、驚くほど膨張して見えた。

 いつの間にか、ほとんど雲のなくなった空に煌々と浮かんでいる。それはいつまでも眺めていられるような、吸い込まれそうな光景だった。

 けれど私は、必死にそれを振りほどきキャンバスに向き直る。描く手を止めてはならない、この瞬間さえも描かなければならないから。

 そしてすべての地平線が染まった。赤く、赤く燃えている。地表のすべてが煌々と燃えている。真上の空の色も青から透明な鈍色に、そして紫へと変わった。そして、その赤と紫の間。地表と空の間に、神々しい黄金色の層が出来る。それはため息の出るような美しさだった。

 ずっと、ずっと見ていたくなる。そして見る程に、まるでこの時間は永遠なんじゃないかとさえ、錯覚させられる。全ては静止していて、何もかもがこの空に包まれて動かない。燃える空から、目が離せなかった。

 やがて、黄金の層が赤の中へと消えていく。最後の花火のように、いっそう地表は赤く燃え、そして紫色のカーテンに追いやられるようにどこか彼方へと沈んでいった。

 やがて、夜になった。

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