彼女が描き始めてから、もうどれぐらいの時間が経ったのだろう。
空の色は、驚くほど早く変化する。描けるチャンスは、時間は限られている。
それでも彼女は描き続けた。筆が走る、キャンバスの中に世界が浮かび上がる。しばらくは描いている彼女の顔を見ていた。けれど段々、それは無意味なのだと気づいた。
今彼女は、キャンバスの上にいる、筆の先にいる。描く線を操る意思だけが、今の彼女なんだ。だから僕も一緒にキャンバスを見つめていた。
似ている、けれど異なる色で何度も同じ所が塗られていく。そうかと思えばまったく白紙だった場所に、いきなり鮮やかな色が一筆書きのように塗られていく。
僕は絵の描き方の知識なんてない。けれど、きっと彼女はもう、いちいち描き方なんて気にしてはいないのだろう。どうすればこの景色をキャンバスに落とし込めるだろう、焼き付けられるだろう。考えているのはきっとそれだけ。
塗られていく鮮やかな色が、何故かそうだと教えてくれた。
やがて日が沈み、空が夜の色へと変わった。彼女の絵は、完成しなかった。
間に合わなかった・・・・・・そう落胆しかけたけれど、彼女の筆は止まらなかった。
迷うこともためらう事もなく、彼女は夕焼けが見えていた時とまるで同じように、描き続けていた。
そうだ。今目の前になんてなくても、彼女の中に確かにまだあの景色はあるんだ、存在しているんだ。彼女はそれを見ながら描いているんだ。
僕は嬉しくなった。彼女はもう、目の前のモチーフを上手く描けるかなんて悩んではいない。正解は、彼女の中に出来ているんだ。
空はとっくに暗くなっているのに、キャンバスの中では燃えるような赤色がどんどん明るさを増していった。
いつの間にか、頭上には満月が昇っていた。そして絵は完成した。
最後の一筆を入れると、彼女はしばらくそのまま呆然としていた。
その姿はキャンバスの上に、絵の上に移していた自分の魂を、ゆっくりと身体に戻しているかのようだった。
緊張していた肩が落ち、姿勢が徐々に砕け、そして最後に表情が戻った。
それは、少し困ったような笑みだった。
まるでずっと探していた物を、ようやく見つけたかのような表情だった。こんなところにあったのか、仕方ないなというような笑いと、大切なものがついに見つかったという安堵の混じった顔で、彼女はそれからもしばらく、愛おしそうに絵を眺め続けていた。
僕はきっとこの先、この彼女の表情を忘れる事はないだろう。そう、思った。
彼女はしばらくそうしてからゆっくり立ち上がると、こちらも振り向かずに言った。
「よしっ、休憩」
建物内に戻ると、自販機横のベンチに二人で座った。
ここが従業員用の通路だからだろう、他に人影はなく照明の光だけが白く満ちていた。
静寂の中で、自販機の駆動音だけが響いていた。
僕は彼女が話し出すまで待った。そうしなければいけないような気がした。
「描けた・・・・・・私、描けたよ」
どこか遠くを見るような目で、彼女は言った。それは僕に話すと共に、彼女が彼女自身へと語りかけてもいるようだった。
「うん」
僕は、それだけ言った。それだけしか言えなかった。
「・・・・・・ありがとう、本当に」
「うん」
「ごめんね、ごめんなさい。たくさん」
「うん、大丈夫」
「・・・・・・ありがとう」
言葉を探す僕らの会話は、傍から見ればつたなく聞こえたかもしれない。
けれどそれで十分に通じていたし、それで良かった。
「・・・・・・音楽院に、行こうと思ってるんだ」
「パリ?」
「うん」
「そっか。行くんだね」
切り出し方も唐突で、脈略もない。それでも彼女にはすぐに通じた。
「私の、絵の影響?」
「そうかも。ううん、きっとそうだ」
「少し、嬉しいな」
「・・・・・・美大は行けそう?」
「もう行かない理由ないよ。たぶん、もう大丈夫」
「そう・・・・・・良かった」
「ありがとう」
「僕は、ただきっかけを作っただけだよ」
「それでも、やっぱりありがとう。そのきっかけがなかったら、私、どうなってたか分からない」
彼女は微笑んだ。それだけで、痛いほど感謝の気持ちが伝わってきた。
「ねぇ・・・・・・どうして、決心できたの。音楽の世界に行く事」
答えは決まっていた。
「・・・・・・触れても、いいんだって分かったんだ」
「音楽の世界に?」
「描く事に。形のないものを、描く世界に」
そうだ。僕はもう触れていい、触れられる。何かを描くという世界に。
そしてヴァイオリンさえあれば、いや音楽さえあればどこへでも、どこへだって行ける。そんな気がしていた。
「これで、さよならかな」
「・・・・・・」
そう、そうだった。彼女なら分かる、分かってしまう。
一度決めたら、一刻も早く動かなければならない。それは競争だとか、他の人はもっと昔から専門教育を受けているからだとかではない。
自分と、描く事。それだけを意識した時、自然と考える事だ。
だってこれから起こる様々な事を、描く時間が、技術が、自覚した瞬間から欲しくなる。より描く為に、もっと表現出来るようになる為に。躊躇する時間さえもったいない。
「大丈夫。私はもう、大丈夫。だから行って」
「・・・・・・うん、うん」
「身体、気をつけてね」
「・・・・・・ありがとう」
その言葉が、どれほどの勇気になっただろう。誰かに話すなんて今がはじめてだった。
けれどそれ以上に、一番のきっかけとなった彼女から、そう言ってくれる事が力をくれる。
不安がないと言えば嘘になる。それでも、歩き出すのには十分だ。不安ならその分やればいい、迷っても間違えても。何度も修正しながら、歩いていけばいいんだ。そして彼女の絵のように、彼女のように、いつか僕も描けるようになれれば。
「ねぇ、最後に見ない?」
「何を?」
「星」
都会の空では、数えるほどの星しか見る事が出来ない。けれど、この建物内にはプラネタリウムがあった。
僕らは従業員用のエレベーターで下りて、何食わぬ顔でチケットを買い、一般用のエレベーターで再び展望台に向けて昇った。さっきまでいた場所のすぐ近くに、こんな風に遠回りをして行く事がなんだか可笑しかった。
入口に入った瞬間から立体空間として映し出されたプラネタリウムは、まるで建物の中だという事を感じさせなかった。
透明な暗闇の中に浮かぶ、星の海。そこにいきなり投げ出されたような感覚で、僕らは途方もなく広がっているようなその空間をゆっくりと歩いた。
中央に浮かぶ天の川は本当に白い光の群で、それが立体投影だと分かっていても、つい近づいて手をかざしてしまう。気づけば二人とも同じ行動をしていて、僕らは思わず笑い合った。
「好きなんだ、ここ。不思議だね、本当の星空なんてほとんど見たことないのに、ここのプラネタリウムに来るとつい入っちゃう。どうしようもなく惹かれるんだよね。そしてずっと見ていたくなる」
「・・・・・・うん、分かるよ」
目の前に、遠く遠くまで浮かぶ光の群。物理的には床も、壁も天井もあるはずなのに、僕らは確かに星空の中にいた。その光景は、本当にずっと見ていたくなるものだった。
「世界中のどこにいても、ここでは見えなくても、星はずっとあるんだよね」
「うん」
「じゃあ、安心だね」
脈絡のない会話、それでも伝わる意思。
たとえ近くにいなくても、地上のどこかにお互いはいる。その事実だけがあれば、もう僕らは大丈夫なのだろう。きっと、もう僕がいなくても彼女は、大丈夫。
うぬぼれかも知れないけれど、そう分かった。
「気が向いたら、連絡するね」
「どうやって?」
「どうにかして」
それはこれから絵で名を馳せるという彼女の意気込みなのか、メッセージを載せた作品をいつか描きあげるつもりなのか、あるいは・・・・・・。そんな詮索はもう、無粋なのだと分かっていた。
僕らはこれから、それぞれが別のロケットに乗り込んで、それぞれが目指す星へと向かう。お互いがきっとまっすぐに飛ぶ事で精一杯で、それでもどこまで飛べるのか、近づけるのかは今は分からない。
それでも、もしも目指す星にたどり着くことができたなら。その時に多くの言葉はいらなくて、ただ“たどり着いた”とだけ伝えるメッセージを送れれば、それでいいのだろう。
きっと“どこかにたどり着いた時”にだけ、彼女は僕にだけ分かるメッセージを打ち上げるのだろう。
だとしたら、僕も少し楽しみになってきた。たとえどこにたどり着こうとも、その時には僕も、こっそりと彼女へのメッセージを打ち上げてみたい。
そんな楽しみを僕らは抱えて、ロケットに乗り込む。
僕らはこれからの自分達の未来を見つめるように、星の海を眺めていた。
彼女と過ごした時間は最後まで眩しくて、色鮮やかだった。