小説 真夏の空席   作:Nagi.rekka

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小説 真夏の空席 Episode.Ⅴ-Tokiko Phase-

 

【挿絵表示】

 

 

 白い日射しが、道を染めていた。

 あまりにも暑くて、日陰のないこの表通りは日中ほとんど人が歩いていない。だからこそ見つかりづらい場所だと思ったけれど、やっぱり流石に暑い。

 待ち合わせはカフェだった。大きなオフィスビルの中にあって、チェーン店だけれど、利用者はほとんどが待ち合わせや休憩に使うサラリーマンだった。

 おかげで、二階席はいつも空いていた。見栄えは良いけれど、レジからは遠いし座席も少ないから、ランチタイムくらいしか混む事はない。

 そして、約束通りの席に見覚えのある人影を見つけ、私は少し安心した。大丈夫だろうと思ったけれど、もし来ていなかったらという不安が拭えなかったから。浮き足立って、トレイを持ったまま近づく。

「お待たせ、“兄さま”」

「・・・・・・その呼び方はちょっと」

 振り向いた顔には、困ったような表情がはりついていた。昨夜、私が勉強を教えてと頼んだ時と同じように。

 

「――えっ、年上?」

 深夜の街灯の下、私達は並んで歩いていた。

 願い事を聞いてくれる。そう言った彼に、私は勉強を教えてと答えた。彼は戸惑いつつも、事情を話すと分かったと頷いた。そして歩きながら待ち合わせ場所や時間の話をしていて、ふと年齢の事を聞いた。

 近そうだとは思っていたけれど、まさか年上だなんて思わなかった。1年しか違わないなんてしれっと言っていたけれど、その冷静さや明晰さに対し、その顔はもっと若く見えてしまう。そしてそのギャップはなんだ奇妙で、少し可笑しくなってしまった。

「でも、じゃあなんで敬語で話してたの?」

「いや、初対面だし、はじめて会った時は年下だと思わなかった。それにそういう事、あまり気にしないし」

「そう」

「あれはなんて言うか・・・・・・客向け、かな? クライアントじゃないけど、事件関係者だったから」

「今は違う?」

「一応助けて、助けられて、そして僕が勉強を教えるから・・・・・・対等じゃないかな。と言うより、これから何度か会う事になるし、その方が僕も楽だから。だから敬語を使う必要もないと思う、お互いに」

「そう」

 不思議と、端的な物言いに変わった彼の言動は、敬語で話されていた時より距離が縮んだ感じがした。たぶんこれが素の彼に近いのだろう。

「そういえば、名前聞いてなかった」

「ごめん、それは教えられない」

「えっ、なんで」

「仕事の都合上」

「手伝いでしょ?」

「手伝いでも」

 たぶん、他にも巻き込みたくない事に関わっているからなのだろう。それからも彼は、頑なに名前を教えてくれなかった。

 彼との会話の中では何度か、こんな風に手玉に取られている気分になった。彼に不都合な事はまるで綺麗にかわされる。話す程に、多分優秀な人なんだなと思えた。真面目に張り合ってもかなわない、そう思えてしまう程に。

 名前を聞き出す事を諦めた私は訊ねた。

「じゃあ、なんて呼べばいい?」

「呼ばなくていいんじゃないかな」

「ダメだよ。先生とか?」

「それは違うかな、授業料も貰ってないし」

「先輩」

「学校が違う」

「じゃあ・・・・・・兄さま?」

 彼は一瞬驚いた顔をしてから、すごく怪訝そうな表情になった。その顔に思わず笑ってしまった。

「ちょっと、なにその顔っ」

「君が変なこと言うから・・・・・・」

「じゃあ、決まりね!」

「えっ」

「ふふっ、これからよろしくね。“兄さま”」

 戸惑いの表情で固まった姿は、とても可笑しかった。

 確かに一歳しか変わらない。けれどその差に少し、甘えたくなったのかもしれない。茶化すような形での、甘えを。

 

 ――カウンター席に着くと、二人並ぶ形になった。近くには誰もいなかったけれど、私達は一番端の方に座った。

「それで、具体的にどこを目指していて、今抱えているのはどういう問題?」

「うーん、昨日話した通り美大の学科には受かるようにしたいの。併願した普通大の事考えても、模試で点が取れるようにならないと絵を勉強する以前の話になっちゃうから」

「うん」

「でも、今まで学校の成績はそんなに悪くなくて・・・・・・。ううん、むしろいい方。なのに模試の点に繋がらないのが余計に分からなくて」

「なるほど。ちょっとノートとかあれば見せてくれる?」

 鞄から出して渡すと、彼はノートを何ページか読んでから教科書もパラパラとめくっていった。

「このページが一番新しいから、最近やったところ?」

「そう、そのページ」

「どんな風に習った?」

 私が授業の様子を説明すると、彼はしばらく何かを考えていた。それから自分で持ってきたレポート用紙を取り出し、メモを書き始めた。

 思ったよりも大きい字で、上の端から詰めずにあちこちにメモが書かれていく。時々、メモ同士に矢印が引かれる。書いたものが消され、簡単な表に書きなおされたりもした。

 授業で説明をメモする、書き写すというノートのような書き方とは確実に違ったものだった。それは例えば海外の映画の中で、大人がホワイトボードに書くようなものに似ていた。書かれたそれを見たことはあっても、実際にそれを書いている人を目の前で見たことは今までなかった。

「・・・・・・どうして、端から書かないの?」

「どうして端から書くの?」

 そんなこと、考えた事は今までなかった。上から書くものだと、綺麗に書くものだと思っていた。提出用だって誰かに見せる用だって、ノートは綺麗に書く方がいいに決まってる。だから勉強が出来る人のノートもメモも、きっと美しい字で延々と書かれた物なんじゃないかって、どこかで思っていた。

「誰かが書いた物を書き写すだけなら、それでもいいかもね。でも“自分の考えや情報を整理する”為に書くのなら、そう書くのは不自然じゃないかな。例えば」

 そう言って、彼は紙面を指さした。

 一応上から書かれてはいるものの、メモの書かれた場所は飛び飛びで、特に右下の広い空白部分には、真ん中に一行だけの文があった。そこには“一番の課題は何か? ”とだけ書かれていた。

「ここだけ広い空白を取って小さく書いているのは、何故だと思う?」

「分からない。どうして?」

「ここには疑問を書いているから、この答えを後で書き足すことになる。答えを書くなら、それまでに考える事があるかも知れないし、そこで途中の考えを色々書き足すかもしれない。だから、わざと大きな空白を開けておくんだ」

「でも、もし答えしか書かなかったら? その余白は無駄になるんじゃない?」

「それは重要な事じゃないよ。大事な事は、どれくらい労力がかかったか、かけずに済んだかだね。だから埋まりそうな場所には、あらかじめ何も書かないで、思いついた事や答えをどんどん書き込めるようにしておく。もしほとんど何も書かずに終わったら、余白を埋める間もなくその疑問が解けてラッキーだった、本来はそこが埋まるくらい考えなければならなかった、と考えればいい」

 リンゴが木から落ちることを説明するかのように、彼は淡々と言った。

「無論、このやり方が正しいとは言わないよ。メモの方法なんて人によって違うし、自分に合うやり方なら何でもいいと思う。ただ、メモや紙面は余白を埋めたり綺麗に書くのが目的じゃなくて、情報や自分の考えを整理する為にあるんだ。紙面を節約するのが目的なら、砂の上に書いて消せばいいしね」

 呆気にとられる私を尻目に、彼はどんどんメモを書いていった。

「うん、大体整理出来たかな」

 そう言うなり、目の前にレポート用紙が差し出された。

 先程のメモ群の書かれた紙とは別の、新しい紙に箇条書きの文字が並んでいた。

「まず、現状の課題から。これを解決しないと受験は厳しいと思う。さっき見せてもらったけれど」

 そう言って、彼は私の教科書とノートを指さした。

「正直に言えば、僕ならこれで勉強する気にはなれない」

「どうして?」

「論理が飛躍しすぎてる。急に法則と例題が出てくる。それが何なのかも説明がなく、次のページでは別の話が出てくる。暗記するだけなら良いのかもしれないけど、僕にはこれだけの情報で“理解”する事は出来ない」

「それって、内容が難しいっていう事?」

「むしろ逆かな。あえて極端に言えば、説明になっていない。この本が、ほとんどの部分を教師が解説するのを意図して最低限の事しか書いていないなら良いけれど、少なくともこのノートと授業の話を聞く限り、そういう訳でもないみたいだ」

 私は驚いていた。

 正直、学校の授業を“難しい”とか“分からない”とまで思った事はなかった。ただ自分が“出来ない”と思うことがあって、それもノートを見返せば言っている事は分かるという程度だった。じゃあ今までの私は、分かっていないという事さえ、分かっていなかった?

「例えば、ここにはヒステリシス曲線の説明が載ってる」

「うん」

「じゃあ、ヒステリシスとは何か説明できる? 教科書もノートも見ていいから」

「えーっと・・・・・・磁束密度Bと、あと磁界Hの関係を示す図」

「それはこの曲線の説明になるね。ヒステリシスというもの自体は、物理現象を示す言葉になる。このヒステリシスって、一言で言うとどんな意味? どんなコト?」

「それは・・・・・・」

 言葉に詰まった。

 教科書を見返しても、ましてやノートを見て授業を思い返しても答えは出なかった。

 そもそもそんなこと、考えた事がなかった。まずそういう曲線があって、こういう問題に使える。式の名前、図の縦軸と横軸には何が入るか。それだけ知っていれば、それ以外の事なんて必要だと思った事がなかった。

「たぶんそれが、今君の持っている一番の課題だね。厳しい言い方かもしれないけれど、ただの暗記になってしまっている」

 彼が言うには、学校での成績と模試の成績が食い違うのは、そもそも授業の内容が暗記に近いものだかららしかった。 

「きちんと理解出来ていれば、環境や問題が変わっても対応できるはずなんだ。高校程度の問題であれば尚更。それが出来ないのは、傾向だとかこういう場合はこうというパターンだけで、理解出来なくてもテストが解けてしまうような授業をしているからだと思う。ここは出る、ここは覚えると言われて覚えれば、当然似たような問題がテストで出るから。でも、それは学校を出れば通用しない」

 どきりとした。

 そういえば、以前に一度先生に質問した事がある。それは電気の問題で素朴な疑問だったけれど、先生からは納得出来る答えは得られなかった。先生は教科書に書いてある言葉を、ただ丁寧に繰り返すばかりだった。

「そっちの学校は、違うの?」

「少なからずそういう授業もあるかな。でも、ここまで露骨じゃない」

 表情は変わらないのに、なんだか少し不機嫌そうに見えた。

「正直、ちょっと腹立たしいね」

「えっ?」

「僕なら、こういう授業を受けるくらいなら家で勉強すると思う。君が予備校に通おうとしていたのは、正解だったかも知れない。これでは確かに、勉強のしようがない」

 不機嫌さは増している、表情に出ないのに何故か分かる。不機嫌というより、憤りに近いのかもしれない。

「よしっ」

 彼は教科書を勢いよく閉じた。音が立たなかったのが不思議なくらい、勢いよく。

「僕は、誰かに今まで勉強を教えた事なんてない。けどこれを見て、君に“きちんと説明したい”と思った。うん、方針が決まったよ」

 そして、何故か不敵な笑みを浮かべた。

「暗記じゃない、ちゃんとした“面白い”勉強を教えてあげる」

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