この学校の模試通知は、未だに封筒で届く。開けばそこに結果が書かれた紙がある。アナログのせいなのか昔から誰しもがそうだったのか、開いて読むという動作はとても重く感じた。
隣で楓子が同じ封筒を破くように開き、ため息をついていた。
「あー、やっぱり模試になるとダメなんだよねぇ。でもみんな、模試受けると結果良くないよね。まぁ内申点あるからいいけど。朱鷺子はどうよ、今回少しは良くなった?」
楓子の声に、私はすぐに反応出来なかった。
目の前の紙面に書かれた結果が、しばらく信じられなかったから。
「・・・・・・上がって、る」
「お、どれくらい? 見せて見せて。・・・・・・え、何これすごい」
そこには前回より、格段に上がった数字が書かれていた。
それも、今までどんなに頑張っても伸び悩んでいた部分が拍子抜けするくらい跳ね上がっている。
「どうしたのこれ、しかも物理なんて一番苦手だったじゃん。なんで?」
「うん、なんか、家庭教師のおかげ?」
「家庭教師なんていたの? てか塾は?」
「ちょっと訳あって“安かった”から、家庭教師でしばらく様子見しようかなって思ったんだけど・・・・・・なんだか」
「大当たり?」
「みたい」
確かに前より上がるかもしれないという予感は、あった。それはここ最近の“勉強会”で、確実に今までとは違うレベルでどんどん“理解”出来ているという実感があったからだ。
けれどそれが実際に点数に繋がるのか、どれくらい効果が出るのか分からなかった。
むしろ遠回りしているようにも感じ、もっと出題傾向を調べたり過去問の数をこなす方が良いんじゃないかと思っていた。でも理解するという事が、こんなにもダイレクトに結果を出すなんて・・・・・・。
封筒を仕舞いながら、私はぼんやりと彼とした会話を思い出していた。勉強会をはじめた、最初の頃の会話。
「――まずはきちんと、最初から理解する事。そして自分の言葉で説明出来るようになる事。これが目標だね」
そう言って、彼は今までやってきた範囲をもう一度はじめから勉強しなおそうと言い出した。自分が解説するからしっかり理解しなおすべきだ、と。
私は最初、反対した。
だってただでさえ、受験までの時間がなくなってきているのに。それを一からやり直しなんて。すると彼は淡々と説明しはじめた。
「大きく分けると、受験科目には“覚える”のが主のタイプと“理解する”のが主のタイプに分けることが出来るんだ。生物や語学系などは“覚える”が主だね。既にあるもの、法則性が発見しきれていないもの、そもそも法則性がないものを扱う事が多いから。もちろん高校レベルの話だし全てがそうではないけれど、受験科目として考えるならそう分類出来る。そして、理工学系と呼ばれる分野の科目はほとんどが“理解する”タイプになる」
彼はレポート用紙に逆三角形を書き、その中に横線を一本引いた。そして下半分に“基礎・基本”、上半分に“応用・問題”と書いた。
「この理工学系は一見難しく見えるかも知れないけど、実は基礎・基本・概念を数個理解出来れば、その組み合わせや応用で済んでしまうものが多いんだ」
「数個でいいの?」
「数個でいいよ、高校生の範囲ならね。でも、だからこそきちんと“理解”しなければ先に進めない。基礎で簡単に思われがちな部分ほど、しっかりと理解するのが難しかったりする」
「しっかり理解するって言っても、じゃあ具体的にどうすればいいの?」
「そうだね。有名な物理学者の言葉に“本当にわかったと思うのは、物事に二通り以上の説明ができた時だ”というのがあるんだ。つまり、今勉強したことを“何も知らない人に自分の言葉だけで”説明出来るかどうかが、一つの目安になるね」
「説明? 問題が解けるかじゃなくて?」
「そう。そもそもそれが何かも説明出来ないのに、それについての問題を出されても解けるのかな?」
「それは・・・・・・」
「少なくとも、僕なら解けない。仮に解けても、それは運良く思いついたりできたりした場合だけだって思うよ」
穏やかな笑顔は変わらないのに、そこにはどこか企みを込めたような、あるいはいたずらっぽい色が見えた。表情に激しい振れ幅は見せないのに、その瞳の奥にある感情を私は時々感じる事があった。
「色々な問題を解く事自体は悪いことじゃないと思う。けど、それは同じ事について様々な角度から見たらどうなるかを聞かれているのと同じ事なんだ。だから応用問題を解ければ、より確実に理解が深まる。解けなければ、まだその一面しか理解出来ていなかったんだ、新しい見方があるんだって分かる事につながる」
「うーん・・・・・・」
なんだか次元が違いすぎて、ゴールが遠く感じてしまう。
「まぁ言葉で言うと難しく聞こえるけど、やればすぐにそんな事ないって気付くはずだよ。まずはやってみようか」
後から考えれば、生物や言語系のような彼の言う“覚える”科目は確かに、学校のテストでも模試でもあまり成績が変わらなかった。そして私が苦戦していた科目は、狙っていたかのように彼の言う“理解する”科目に当てはまるものばかりだった。
彼との勉強会は、それからほとんどこの“理解する”科目についてやる事になった。
「じゃあ、まずコレからやっていこうか」
そう言われて見せられたのは、学校では使わない参考書だった。それも受験用というよりは帯に“復習用”の文字が書かれた、大人向けのものだった。
「最初に物理学からやるの?」
「そうだね。日本でも、傾向としては物理学が特に短期間で伸ばしやすいものらしいから。これに慣れれば他の科目も要領は同じだし、何より伸びる実感が湧けば今より“面白く”感じられると思うから」
「でも・・・・・・正直、一番苦手」
「物理学に苦手意識を持っている人は多いね。でも、それは独学だとちゃんと理解するのに時間がかかるし、人から教わるにもちゃんと理解していない人に教わると本当に退屈なものになってしまう事が多いからだと思うんだ。だから“面白くなる”まで、他の分野よりすこし時間がかかったり機会をなくしてしまって、楽しむ前に離れてしまう」
「兄さまは、どの科目が一番好きなの?」
「物理学と工学かな。理論寄りの方の」
からかい半分で言っていた“兄さま”という呼び名に、最初こそ少し戸惑った彼は、しかしすぐに慣れて受け入れてしまった。本名も知らず、言い出して変えるタイミングも見失っていたから、私は自然とその名で彼を呼んでいた。
「だからね、まず物理学の話からしたいっていうのも正直あるんだ」
その言葉に偽りはなく、彼の物理学に対する解説は時に熱弁に近い内容になった。
今まで物理学には、淡々とひたすら説明される無機質なものというイメージがあった。面白みのない、ただやればいいと言わんばかりの退屈な計算が続いているようなイメージ。けれど、彼の説明する姿や話す内容はその真逆だった。
それは自分でも抑えようとしながら抑えられないといった様子で、まるで昨日観た映画の事を話したくて仕方がないかのように、話したい・共有したい・面白いところを伝えたいという想いがにじみ出ていた。
しかも彼は、よく“ドラマティック”とか“美しい”という言葉を使った。小学校から習っていたはずの物理を、そんな風に話す人に私は今まで出会った事がなかった。
勉強会の中で、彼は私の素朴な質問にもすぐに答えてみせた。
「そもそも物理学って、どうして簡単な事を難しく書くの? 例えば摩擦は考えないものとするとか、空気抵抗はないものとするとか。現実は摩擦も空気抵抗もあるじゃない」
「それは、物理学では現実に起こる事を計算しないし出来ないからだよ」
「え? じゃあ何を計算してるの?」
「現実を参考にして作った“箱庭”、つまりシミュレーターの中で、何をしたらどうなるかを計算する」
「じゃあ、現実の物は?」
「計算出来ない」
「それなのに、物理学?」
「自然現象を研究するのが物理学だからね。自然現象を全て説明出来る理論はまだないし、自然現象の全てを知る事なんてそもそも出来ないかもしれない。だから、分かるところだけ近似するんだ」
「近似?」
「近づけて、似せる事。やればやる程、現実には近づいていく。けれど、どんなに近づいても本物にはならない」
「でも色々な物理的な事、計算して予測したりするんでしょ? こうすれば理論上行けるとか」
「理論上行けるは、“箱庭の中なら行ける”と言っているにすぎないよ。現実に起こる事を直接計算している事にはならないね」
「そっか」
「現実を見て“多分今起きている出来事にはこんなルールがありそうだ”って予想する。そのルールだけ抜き取って、箱庭を作る。そのルールしかない世界を。でもそのルールしかないから、例えば投げた球は真っ直ぐにどこまでも飛んでいく。
それじゃ現実とかけ離れすぎているから、重力と地面というルールを足す。さっきより少し、現実に似た事が起こる。でも、まだ似てない。またルールを足していく。段々と、近づいていく」
彼はレポート用紙に、簡単な絵を描いていった。
宇宙空間のように、人が投げたボールがまっすぐ飛んでいく絵。
地面があって、人の投げたボールが弧を描いて地面に落ちる絵。
向かい風が吹いていて、ボールがさっきより手前に落ちてしまう絵。
「でも、人間は神様じゃない。見よう見まねで現実に近づくルールを探していくだけなんだ。せっかくボールだと現実っぽい動きになってきても、ボールを紙ヒコーキに変えて計算したら現実と全然違った動きをしてしまう。だからまた、現実に近づくルールを探して足して現実の動きに近づけていく。これを延々と繰り返す。物理学は、大雑把に言えばこんな感じだね」
こんな風に彼は淡々と、けれどとても楽しそうに質問に答えた。
どうしてそんなに楽しそうに話すのだろう、話せるのだろう。もしかして私が知らないだけで、本当に面白いのかも知れない。そんな風にどんどん思えて来て、気がついたら一番苦手だった物理学の話を聞き入ってしまう自分がいた。もしも彼がつまらなそうにただ答えていたら、今とは違った印象になっていたかもしれない。
また、彼は私が退屈しないように興味を持つような話し方もよくしてくれた。例えば、最初に答えられなかったヒステリシスについてはこんな風だった。
「これ、よくわかんない」
「ヒステリシスというのは、ある物に力を加えてから、力を加えるのをやめても、物はもう元には戻らないっていう現象の事だね。ヒステリシス曲線は、それを数値で表したものにすぎないんだ」
一度折り目のついてしまった紙は、折り目と反対側に何度か曲げれば折り目は浅くなる。けれど消えはせず、うっすらとでも残ってしまう。そういう現象に名前がある、それだけの事らしかった。
「この現象は色々な物で起こるから、ヒステリシス曲線を利用した技術がたくさんあるんだ」
「ふぅん」
けれど正直、私には何故そんな事が教科書に載る程の事なのか、それ程凄いものなのか分からなかった。それが何に使えるのだろう。
そう考える私の思考を察したかのように、彼は少し声のトーンを変えてこう続けた。
「でもね・・・・・・それ以前に、僕はこの言葉が好きなんだ」
「言葉? どうして?」
「ヒステリシスは、日本語では履歴効果とも訳されるんだ。最初に加えた力は、ずっと消えずに残る。たとえ打ち消す程の力を加えられても、打ち消しても、その影響は残り続ける。だから履歴効果。・・・・・・例えば僕が何かをした後に、どこかにいなくなっても、そこには僕のいた痕跡がちゃんと残るし刻み込まれる。そういうものが物理的にあるんだって分かると、なんだか安心するんだ。・・・・・・これは、ちょっとたとえ話としては分かりづらいかな?」
刻む、刻み込む。私がいた事を、私のしてきた事を。
それはまるで、絵を描く事と同じように感じられた。
私はここにいたんだと、私が感じている今はこれなんだと、未来の自分にさえ残すように、描いた絵のように感じられるように。
「・・・・・・それって、なんだか絵みたい」
「ちょっと、身近に感じた?」
「ちょっとだけ」
「じゃあ、履歴効果がどんな風に”履歴として残されていく”のか、知りたくない?」
「ちょっと、知りたい」
彼は、こんな風に私の興味を常に引こうとしながら勉強会をしてくれた。
それはまさに、今までの勉強が“お勉強”にすぎない事を感覚的に思い知らされるもので、けれどそんなことはまったくどうでもよくなる程に、新鮮で未知の体験だった。
無機質に並んでいた文字の意味が分かる、その面白さ。教科書の中だけで完結していたものが、現実と、日常と、そして私と繋がり、明滅するような感覚。
気がつけば彼に頼り切りになりながらも、勉強が嫌いではなくなっていく自分がそこにいた。
こんな調子で、勉強会は続いていた。そして今日、その成果は思っていた以上ものとなって現れたのだった。
――翌日、彼と待ち合わせたのはカフェではなく図書館だった。
彼は内容によっては、資料が豊富だからと時々街の図書館を指定した。そして分厚い本を片手に話す彼は、いつも以上に楽しそうだった。
彼はいつも私より先に着いていて、今日も事前に言われていた席に座っていた。既に机の上に数冊の本が置かれていて、彼も本を読んでいた。
「お待たせ、兄さま」
本を読んでいる時の彼は、話しかけるといつもゆっくりと顔を上げる。
まるで潜っていた本の世界から、段々と戻ってくるかのように。
「やあ」
そして彼の第一声は、大体これだった。
席に座るなり、私は鞄から封筒を取り出して渡した。学校を出る前にSNSで伝えてはいたけれど、やはり細かい結果を見せたかった。
「・・・・・・なるほど、いいね。ちゃんと上がってる」
彼は別段驚く様子もなく、模試の成績表を見ていた。
「私まだ、信じられなくて」
「どうして?」
「だって、こんなに短期間に。今までは頑張ってもこんなに伸びなかったし」
「でも、ちゃんと今日までやってきたでしょ?」
「それは、そうだけど」
「つまり、やり方が合ってたという事だね」
そう言って成績表を返すと、コーヒーを飲んでから彼は不敵に笑った。
「じゃあ、同じ感じで引き続きやろうか」