小説 真夏の空席   作:Nagi.rekka

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小説 真夏の空席 Episode.Ⅶ-Kouichirou Phase-

 

【挿絵表示】

 

 

 休日の朝という時間帯のせいか、図書館は静かだった。

 公共施設特有の、静まりかえった雰囲気は日本もヨーロッパも変わらない。入口を抜け、受付で自習室を借りる手続きを済ませる。部屋に入る前に何冊か本を選び、部屋番号を彼女にSNSで送る。

 もうすっかりこの一連の動作に慣れてしまった事が不思議で、内心笑ってしまう。僕が誰かに、しかも定期的に勉強を教える事になるなんて。

 けれどそれは嫌いという事はなくて、むしろ僕はこの時間に、この日々に、とてもやりがいを感じていた。

 誰かに教えるという事は一種のゲームのようだ。

 たとえ理解に高度な前提知識が必要なものであっても、それを誰にでも分かるくらい整理した説明で、瞬く間に理解出来るくらいの解説で話していく。誤魔化して説明してしまえば減点、より簡単に分かりやすく説明出来れば高得点。

 そんなゲームは、難しい内容である程、教える相手が最初に分かっていない・苦手だと思う内容のものほど挑戦したくなった。

 今までどんなに学校で習っても、ネットで調べて本で読んでも分からなかった事を、僕の説明だけが突破する。僕の説明の前後で、同じものの見方が百八十度変わる。いや、変えさせる。

 シンプルで、前提知識ゼロでも理解出来る程の説明を用意する事は難しい。当たり前に使ってきた専門知識を小さな子供にも分かるように教えるという事は、それだけ本質的な理解を要求される。

 感覚的に理解出来ると深追いして来なかった言葉も、説明のために見返して調べ直す事が多くなった。あれだけ当然だと思っていた話一つ一つを調べ直し、再確認していく。この用語は本当に今までこうだと思っていた意味で本当に合っているのだろうか? この理論は、もっと簡単に置き換えたらどんな説明が出来るだろうか?

 人に教えるには倍以上理解していなければならない。そんな言葉を聞いた事があったけれど、やってみるとそれは確かに実感するものだった。

 説明には多少の自信があった。けれど、それがどれ程彼女の理解に直結しているかという懸念は残っていた。でもそれが杞憂だったと、SNSで届いた模試結果が教えてくれた。

 まだまだ始まったばかりの地点だけれど、このゲームで僕が取った“戦略”は間違っていなかったみたいだ。たぶんこのまま入試まで行く事が出来ると思う。

「入試、か」

 そういえば今まで教える内容ばかり気にかけてきたけれど、彼女の第一志望は美大だった。絵に関しては美術予備校に通っているから、あとは学科だけだと彼女は言っていた。

 だから僕は彼女の絵の実力も、彼女の絵そのものも見たことはない。

 正直、僕には分からない世界だ。けれどここまでする彼女の、彼女にとっての絵とは何なのだろう。

 年齢を偽ってまでアルバイトをし、予備校を掛け持ちしようとし、そして今は僕と欠かさず勉強会をしている。その原動力は全て、美大に行く事にある。話していて、それが揺らいだ事は出会ってから今日まで一度もない。そこまで夢中になれるものなのだろうか。僕には、正直分からなかった・・・・・・。

 

 僕は難問を解くのが好きだ。挑戦するのが好きだし、誰も解けない誰もが頭を抱えているそれに、持てる知識や能力の全てをかけて、美しく早く答えを出す快感を知っている。

 学術的な難問は美しく走り抜けるゲームのように思えるし、困っている人の課題を解く事は、解決を通して誰かを良い方向へと変える事だと思ってる。

 誰よりも早く僕が解く事で、僕だけが解けるのなら、解く前と後で世界は少しだけ良い方向に変えられる。そう信じられるから、僕は。

 

 でも、絵を描く感覚とは何なのだろう。まるで彼女は、自分の全てをかけているかのように絵に、美大に向かう事に取り組んでいる。そこには僕がまだ知らない、何かがあるのだろうか。そこに僕の探しているものが、あるいはそのヒントがもしあれば・・・・・・。

「お待たせ、兄さま」

 悶々としていた思考は、明るい声で中断される。僕は意識の世界からゆっくりと顔を上げ、現実の世界に戻った。午前の白い光の中に、彼女が座っていた。

 

「――全ての物は、分子が集まって出来ている。分子は、原子が集まって出来ている。この原子は、原子核と電子が集まって出来ている。原子核は、陽子と中性子で出来ている。高校の物理学で理解しておけばいいのはここまで」

「うん」

 原子核の周りを電子がまわる絵を彼女に見せる。教科書のような簡単な線の図ではなく、立体的で綺麗に色づけされた図。

 僕は必ず、どんなに簡単な事を説明するのにも絵や図や簡単な表を書いた。

 彼女が“書かなくても分かるよ”と言えば、“じゃあ、余計にちゃんと書かなきゃね”と返した。

 分かってるという思い込みが学ぶ事を妨げる。無知の知が、まずは勉強のコツだ。

「電気的には、中性子は電荷を持たない。つまりゼロ。陽子は+の電荷を持つ。そしてこの+電荷に引き寄せられて、電子が陽子と同じ数集まってくる。まさに磁石と同じだね。N極を三つ置いておけば、自然にS極が三つ引き寄せられてくっつく」

「何故電子だけが引き寄せられるの? 陽子は引き寄せられないの?」

「陽子も電子も同じ力で引き合うよ、この辺は磁石と本当に同じだね。でも“重さ”が違う」

「重さ?」

「そう。陽子と電子、二つとも同じ力で引き合う。でも、陽子は電子に比べてものすごく重いんだ。具体的には千八百四十倍の重さを持っているね。中性子も千八百四十倍。つまり、同じ力で引っ張り合いながら、電子よりも原子核は三千六百八十倍の重さがある。もし磁石のように原子核と電子を机の上に置いたら、原子核は重すぎてまったく動かず、軽い電子だけが動いて陽子に引っ張られるね」

「単純に重さだけの違いなんだ」

「そうだね。だから電子回路では常に“電子”が動く。もしも陽子が軽く、電子が重ければ“陽子回路”と呼ばれていたかも知れない」

「変な名前」

「そう? 僕は気に入ってるよ。陽子回路だってあり得るって分かれば、高校レベルの原子についてはきちんと理解出来ていると言えるからね」

「ふーん」

「原子は簡単なようでとても重要なんだ、特に重さが。さっき言ったように原子の重さはほぼ半分を陽子、残り半分を中性子、そしてわずか三千六百八十分の一の重さを電子が持っている。だから化学では、電子が軽すぎるから陽子と中性子の数だけで質量数を見るんだ」

「どうして急に化学の話につながるの?」

「化学も物理現象を研究する分野だからだよ。原子や分子の物理学と言ってもいい。ただ複雑すぎて物理学では解析できないとか、歴史が違うといった理由から化学として物理学と分けられているんだ」

「ふぅん」

 彼女の返事は、たまに素っ気ないものだった。

 それでもそれが内心興味を持ったり理解しはじめているか、説明を本当によく分かっていないのか、最近段々と分かってきた。

 同時に、相手が退屈しているかどうかもなんとなく分かるようになっていた。表情だけではなく仕草や反応も全て込みで見た時、それは分かる。誰かに説明をするという行為をある程度経験しないと、分からない事かもしれないとぼんやり思った。

「・・・・・・ちょっと、休憩しようか」

「うん!」

 

 時計はいつの間にか、午後三時を指していた。コーヒーブレイクにちょうどいいタイミングだったかも知れない。

 図書館の自習室は飲食が許可されていたから、勉強会の時はお互い食べ物や飲み物を持参していた。

「兄さまはいつもイチゴね」

「そうだね」

「好きなの?」

「うん。でも日本ではあまり果物を頻繁に食べる習慣がないらしいね」

「高いもの」

「確かに高いね、でもおいしいよ」

 どこで買っても大抵おいしいイチゴが食べられるのは、日本に来て良かった事のひとつかもしれない。

 僕はいつも、休憩には好物のイチゴを持ってきていた。と言っても、今日は朝からだったので保存の利くドライフルーツだった。

 そういえば、休憩時の彼女の手にはいつも紙コップに入ったコーヒーやお茶があった。そして今も。

 勉強中は物を食べないという人もいるけれど、僕が渡せば食べるからそういう訳でもなさそうだった。けれど、自分で持ってきている所を見た事がない。

「君は今日も、ここのコーヒー?」

「うん」

「なんで?」

「タダだから。お金ないもの」

「えっ、でも塾に通う必要はもうないし、バイトも続けてるよね?」

「うん、シフトは減らしたけどね。画材って、お金かかるのよ。それにコレだけあればいいって最初は思っていても、手持ちがあるとアレも使ってみたいこれにも挑戦してみたいって。画材は増えるほど、色々な選択肢につながるの。もちろん画材コレクターになっちゃって描くのを怠っては本末転倒だけど、あって邪魔になるものでは決してないから」

「なんだか、僕には分からない世界だ」

「そんなことないよ。例えば、兄さまのそのヴァイオリン」

 そう言って彼女の指さす先、僕の傍らには愛用のヴァイオリンが入ったケースが置いてあった。

 この図書館は街の公共施設の中にあったから、同じ建物内には他にも色々な設備が入っていた。その中には防音室もあり、彼女を待っている間にはよくそこを借りてこれを弾いていた。

 一度だけ、彼女の前で演奏した事もある。彼女は、まるでプロみたいな演奏だと褒めてくれた。

 どうしてそんな演奏が出来るのかと聞く彼女に、義親の影響で幼少期から音楽には触れていた事、同様に昔から演奏はある程度好きだったし出来たので、ずっとやっているという事を話した。

 “なんでその道に進まないの? ”

 そう聞く彼女に、僕は「これは趣味なんだ。この先何かしようとは思わない、ストレス解消や、楽しみ程度だよ」と答えた。それは僕にとって自然な答えであり、誰に聞かれても答えてきた、当たり前の返答だった。

「・・・・・・そう」

 けれどそれを聞いた彼女の目は、何故か冷ややかなように感じた。今思えば、美大へと進む彼女には僕は少し歪に見えたのかも知れない。

 

「兄さまは、楽器は一つだけ、それも入門用のものがあればいいって思う?」

「うーん、楽器の優劣を付けるわけじゃないけれど、やっぱり限度は出てきてしまうね。なにより長時間向き合う物だし、かける時間を考えればある程度の物は必要だと思うよ。それに一つの楽器だけでは分からない事が、他の楽器に触れることで分かる事もある。弦楽器や打楽器のような分類だけでも違うし、同じ分類・種類のものでもメーカーの違い、いや商品の違いでさえ変わる事がある。アナログなものだから個体差もあるし、使い込みや使いこなし、慣れも影響してくるね」

「なんだ、分かるじゃない」

「えっ?」

「おんなじよ、画材とまったく一緒。そういう表現が出来れば良かったんだろうけれど言葉が思いつかなくて。兄さまはやっぱり説明が上手ね」

 彼女は普段使うペンケースとは別に、布地の箱形ポーチを取り出した。

 開けると、まるで小さなフォトアルバムのように“ページ”が何枚かあり、そのどこを開いてもびっしりと、長さのバラバラな鉛筆が綺麗に整列していた。

「全部同じに見えるかも知れないけれど、メーカーも種類も違うの。用途によっても気分によっても使い分けるから、選ぶのに悩まないようこうして綺麗に並べてる。それに自分が使う道具、それも信頼出来る道具だけを吟味して詰め込んだこの箱は、何より私の宝物なんだ。これがあれば何だって描けそうな気持ちにさせてくれる」

 彼女の目線は、本当に宝箱を開けて中の宝石を一つ一つ愛でているかのように見えた。僕には違いの分からない鉛筆が並んでいるように見えても、彼女には全てが違い、そして輝いて見えるのだろう。

 午後の光を浴びて、優しげな目線を落とす彼女の周囲には、彼女には確実に見えていて、僕には見えていない世界があった。

 そこに明らかに、目に見えない壁がある。僕の知らない世界の壁が。どんなにキラキラと輝いて見えても、今の僕では決して行く事の出来ない世界が。

 そういうものは、この世に数多く存在するのかも知れない。けれど今、僕の目の前で確実に存在しながら、触れられないものに直面した今、僕は透明な壁の向こう側を見たい衝動に駆られた。彼女の目には何が映っているのだろう。明らかに彼女には見えていて、僕には見えない物が。

 もし、もしもこの壁の向こう側に行く事が出来たなら。彼女と同じ光景を、見る事が出来たのなら。絵については知らない、描こうと思った事がない。けれど、いやだからこそ――。

 “探求だよ。君は、探求すべきだ”

 叔父さんの言葉が、脳裏によぎった。

「ねぇ・・・・・・教えてくれる? その、画材とか、描くって、どんな世界なのか」

 彼女は一瞬驚いた表情をしてから、目の色を変えた。

「じゃあっ、行ってみる?」

 彼女は弾けんばかりの笑顔になると、勢いよく立ち上がった。

 

 ――連れて行かれたのは、大きな画材店だった。

 本や画像でしか見たことのない、用途も分からない物が所狭しと並んでいた。

「こっちこっち!」

 彼女は弾けんばかりのテンションで、僕をコーナーの一角に呼び寄せた。そこには無数と思えるほどの鉛筆が棚を埋めていた。

「これは・・・・・・全部普通の鉛筆?」

「“デッサン用”の、鉛筆」

「違いがあるの?」

「大違いよ! 例えばコレ」

 彼女はワインレッドの軸の鉛筆を棚から取り出した。僕でも知っている日本メーカーのロゴが描かれている。

「これは老舗にして王道と呼ばれる、デッサン用高級鉛筆。プロももちろん使うけど、美大受験する学生もよく使うわ」

「鉛筆でも、そんなに変わるもの?」

「むしろ受験生の方が影響を受けるくらいね。残念だけど・・・・・・受験生はプロより技術で劣る、現役生なら尚更ね。だからこそ画材、特に筆の類いは、一定以上の水準のものを選ばないと後で痛い目見る事になる。弘法筆を選ばずなんて言うけど、裏を返せば余程の技術力がなければ筆は選ぶべきだとも言えるわ」

 そう言いながら、まるでうっとりするような目線で彼女は鉛筆を見つめた。

「それにこのシリーズは、日本、いえ世界最高クラスの品質を持つ名品なの。厳選された黒鉛と粘土で作られた芯は不純物を極力排除しているから、もう言葉に出来ないくらい滑らかな書き味で。よく言われるのは“しっとり”、でも慣れてくると凄いのは、質感を描こうとしたときに抜群の威力を発揮すること。とにかくここまで描ききりたい! って完成形が見えていればいる程すごく頼りになるし、時には自分が思っている以上のものを紙面に描き出してくれる。細かく繊細な部分程、確実に“描かせてくれる”鉛筆ね」

 話し終える間もなく、今度は青い軸の鉛筆を手に取った。

「・・・・・・正直、さっきの鉛筆が最高の品質で文句なんてなかったから、他の鉛筆なんて使わなくて大丈夫って最初の頃は思ってたんだけど。これを知ってしまってから、世界が変わっちゃった」

 それはどちらかというと、ヨーロッパでよく見るメーカーのものだった。日本でも売っている事が意外だったけれど、聞けば昔から日本でも人気なのだという。

「描き心地はなめらかっていうよりザラザラでね、正直たまに中の芯が折れてたりもするからさっきのには及ばないかななんて最初は思ってた。でも、描いた途端にびっくり! 試し書き程度に短い線を引いた時は全然ピンと来なかったのに、いざ絵の為の“線”をすっと引いた途端、思っていた通りの線が一発で綺麗に引けちゃって。どうして? なんで? って思わず混乱しちゃった。でも本当に思った通りの線が引けちゃう。さっきの鉛筆では苦戦したモチーフも、びっくりする程描けちゃう。使ってて気付いたんだけど、しっとりで滑らかな書き心地のものって、言い換えれば“湿ってて少し重い”筆みたいなものなの。だから、模索しながら描こうとした時や完成形がまだはっきりしていない時は、余計に筆が“重い”感じになるみたい。でもこれは、滑らかなのにさらりとしていて、長時間使ってても“紙に沈まない”感じ。軽いっていうのかな。だからゼロから描く時でもまるで紙と自分の手が、時には頭が一体化したみたいに思い描いたものそのままに描ける。人間工学って言うんだっけ? 本当に描いたら分かる、ザラザラさえ描く目的に特化して考えられたものだって感じるような作り。描く前はそこまで? って思ってたけど、描きだしたら魔法みたいに、手からインクが流れ出すみたいに描けちゃう。描き心地が軽いから、ボリュームのある内容でも構図レベルなら“最後まで完成させてしまえる”力をくれる、ホントに不思議な鉛筆。だからモチーフや状況に応じてどちらを使うか決めたり、段階毎に使うものを変えたりしてて」

 濁流のように押し寄せる情報に、僕は混乱するばかりだった。

「・・・・・・好きなんだね、鉛筆」

「もちろん。思い描いた絵を描く為に、どれ程試したか分からないわ!」

 更に彼女の“解説”は続いた。

「本当に目の前のモチーフの質感を捉えるなら、黒じゃなくて白が重要なの。ただ黒で描き込むだけじゃダメ。ほとんど黒が乗っていない白い紙面が、急に立体的なモチーフに見えてきてからが勝負ね」

「消しゴムは消す以上に“白で描く”道具なの。デッサンでプラスチック消しゴムを毛嫌いする人もいるけど、本当の“光”は真っ白だから、このタイプの消しゴムが威力を発揮する。グラデーションの究極、紙面の汚れにさえ見えそうなわずかな灰色が、圧倒的な質感を生む瞬間があるの。それが目の前で起こると、もう全身に電流が走る感覚になってね。本物の魔法を目撃しちゃったみたいで」

「写実的なデッサンって最初は難しく感じてたけど、目の前のモチーフから“かっこよさ”を見つけ出して、それを他の人にも伝えられるように描こうって思ってから一気に面白くなったの。ただただ写実的にするなら写真を撮ってグレースケールにすればいい、でも“写真以上”に伝わる印象、写真だけじゃ伝わらない“かっこよさ”を紙面に焼き付けてやろうって思ったら、描いても描いても終わらなくなっちゃって」

 とめどなく話す、というのはきっとこういう事を言うのだろう。

 知識はまるで分からないし、ロジックが追いつかない。論理の飛躍も激しい。高度な学術書を読んでいても感じなかった類いの疲れを、感じていた。でも、それなのに・・・・・・・。

 どうしてか、その“熱意”は伝わってきた。それも痛いほどに。

 絵を描くことも彼女が語る数々の経験も、僕は一度も体験したことがない。なのに感覚を揺さぶられる、“共感”してしまいそうになる。いや、もうしかけていた。それはとても不思議な感覚だった。

 普段とまるで見た目は変わらないのに、何故かその時の彼女には、太陽の光を受けて輝く向日葵のような印象を強く感じていた。

 

 店を出ると、空には夕陽の色が滲みはじめていた。

 彼女は話し疲れるどころか、むしろツヤツヤとしているように見えた。

「ごめんね、話したいことばっかり話して」

「いや、うん」

「でも、なんだか少し分かったわ。兄さまの気持ち」

「うん・・・・・・え?」

 話が飛躍しすぎて、僕は反応出来なかった。

「本当に自分が好きな事って、こんな風になるのね。話すほどに楽しくって、伝えたくって、もっと話したくて。兄さまの授業、冷静だけどそういうの感じるもの」

 そういうものなのだろうか。まるで今まで意識していなかった、そんな事。

 彼女も今の僕と同じような感覚で、普段僕の説明を聞いているのだろうか。だとしたら、僕もまた彼女の感覚を少し“理解”できた事になるのかもしれない。何故だろう。複雑で、少し笑える。

 誰かを、言葉や文字の上だけでは理解出来ない部分で“理解”できたという事は、僕の中の何かを熱くさせた。

 今まで逆立ちしても得られなかったその“感覚”に、触れられるかもしれない、分かるかもしれない。そのチャンスが、今目の前に唐突に現れた。その事実に、自分でも驚くほど高揚していた。もしも今、踏み出すことが、手を伸ばすことが出来たなら。

「・・・・・・ねぇ。もしも君の“絵”を見たいって言ったら、見せてくれる?」

 緊張していることを悟られないように、僕は口を動かす。すると。

「――見たいの?」

 彼女の顔からは、さっきまでの笑顔が嘘のように段々消えていき、やがて真剣な表情になった。

 声色も明らかに変わっていた。彼女は瞳孔が開いた猫のように、じっとこちらを見つめた。それは、興味本位でむやみに立ち入るなという意味なのかもしれない。

 けれど・・・・・・僕は引き下がらない。ここで引いてはならないと、頭の奥で叫ぶ声が聞こえた。それに決して、軽い気持ちではなかった。

 僕は、本当に知りたかった、確かめたかった。彼女が“一番大切にしているもの”を、彼女の見ている世界を。

「見たい」

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