「……はっ……はっ……」
3月。まだ大気には寒気が残るけれども確かに春の訪れを感じられる季節。この季節になると毎年思い出すことがある。
早咲きの桜並木を駆け抜けながら思考は昔の記憶へと溶けていく。幼き日に抱いた、確かな名前も分からない感情の答えを求めて。
昔、虚弱体質だった頃の私は地元の冬の寒さに耐えられず毎年のように祖母の家で療養していた。そんなある日の事だった。
その日のことは今でもよく覚えている。寒かった日々の中で一日だけあった暖かな日。珍しく体調の落ち着いていた私は外への憧憬を抱きながら縁側に腰かけていた。あの生垣の先には何があるのか。私が見ることの出来ない世界はどれほど美しいのだろうか。そんなことばかり考えていた。
だからだろうか。"彼"が現れた時、私の中に去来した思いは誰かを呼ばなきゃという防衛本能でも、追い払わなくてはという攻撃本能でもない。まだ見ぬ外の世界を教えてくれるはずだ、とそんな根拠もない直感だった。
初めは互いにぎこちない言の葉の掛け合いだった。私は家族以外の人とはろくに喋ったことはなく、彼もまた私のことを怖がっていたのか何なのか、積極的に話しかけてくることは無かった。
だが、いつしか私たちは親密な関係になっていた。それは私が彼に慣れたからなのか、或いは彼が私に慣れたからなのか、はたまた他の何かがあったのか。それは今となっては知る由もないことだけれども。ただひとつ確かに言えること。
それは彼の話す外の世界の話は、小さな自分の世界しか知らない私にとってどんな物語よりも強く心を打つものだったということだ。
だけど、私は何も彼に伝えることなく別れてしまった。彼と過ごす時間はとても楽しくて、幸せで、喜びに満ちていて。だから私はそこにずっといる訳では無いことを言い出すことは出来なかった。いずれ会えなくなることを、長い別れが来ることを、彼に話すことが出来なかった。感謝も、憧れも、彼に貰った何もかもを伝えることすら出来ずに私は彼の元を離れ……そして二度と戻ることは無かった。
春になる度に想い返す。
あの時に抱いた無数の感情。恋なのかすらも分からない未分化の感情。顕れることも無く泡となって溶けていった言葉の数々。
けれど
───春になる度想い直す。
もし、貴方と出会うことが出来るのなら。
もし、貴方に伝えることが出来るのなら。
その時にはきっと言えるはずだ。
───桜花に包まれ溶けていった初めての恋のお話を。
桜花、盛ってない説。