⚠喫煙描写有り
するり、するり。
立ち昇る紫煙が、ゆらゆら揺らいで消えていく。
彼にとって、紫煙を通して見る世界はいつだって、鉄と錆に彩られている。
開け放っていた窓から漂ってくる特有の匂いに気づき、玲は読んでいた本から顔を上げる。独特な葉巻の香り。彼……楽郎が煙草を吸っているのだと気づく。
楽郎は普段煙草を吸うことは無い。本人がそこまで好まないと笑いながら零していたし、何より2人とも長く添い遂げるために健康に気を使っているからだ。
そんな彼が煙草を吸う時。それは決まって彼の気分に何らかの振れがあった時である。あるいはゲームの大会で優勝した日の夜。あるいは鬱屈とした気分に襲われる日の昼下がり。彼はそういった時に煙草を吸う。さながら気持ちを落ち着けるルーティーンであるかのように。
玲は煙草を吸っている時の楽郎には近づかない。愛する人のものとはいえ煙をあまり吸い込みたくはないし、楽郎自身がそういう時の自分を見られたくないと思っている素振りを見せるからだ。
だが、その日は何故か足が動き彼のもとを目指した。徐々に強まる匂いを追いかけ、彼の居るベランダへとたどり着く。
果たして彼はそこに居た。紫煙をくゆらせ、椅子に深く腰掛け、揺らぐ煙の向こうにある何かを見ていた。
楽郎の目は冬のようだった。世界が凍りつく前の実りへと思い馳せる。触れるもの皆傷つける鋭利さと、溶けることの無い郷愁を宿す目。
声をかけるべきか否か。そんな逡巡が玲の動きを縫い止める。この時間を壊してしまえば、この時間が壊れてしまえば、楽郎すらも壊れてしまう。そんな危うさがそこにはあった。
そんな玲の葛藤を見抜いたか、はたまた人の気配に気づいたのか。楽郎がゆるりと振り向き、玲を瞳で射抜く。
「───珍しいね、玲さん」
ふにゃりとほどける楽郎の目。玲はそこに春を見た。雪が溶け、水へと変わり流れるように。絡みついていた重く苦しい思い出が解けていく様を幻視した。
そして同時に気づく。楽郎にとって煙草を吸うという行為は、本能的な救いを求める行為であるということに。聖職者が十字を切るように、仏僧が経を唱えるように。彼は煙草を吸って死者を慈しみ、祈り、そして己の無聊を慰める。
それは玲の知らない彼の世界より続く癖であり、呪いであるのだ。二度と戻ることは出来ない世界の、二度と味わうことの出来ない救いを求めて彼は今日も紫煙をくゆらせている。
故に、
「楽郎くん───私も1本、いいですか? 」
玲は、独占欲が強い方である。外では仮面を被っているが、楽郎が知らない女性と喋っていると露骨に不機嫌になる。そんな彼女が、楽郎が自分ではなく過去の想い出に癒しを、救いを求めていると知ればどのような行動をとるか?
きょとんとする楽郎の胸ポケットから葉巻を抜き取り、未だチロチロと楽郎の咥えている葉巻の先を舐める火へと己の咥えた葉巻を押し付ける。
玲が取ったのは上書き。楽郎を癒すのは、楽郎を救うのは過去の亡霊ではない。今、横にいる私なのだというマウントにも似た宣戦布告。
「え、えっと……玲さん? 」
「楽郎くん」
「ハイナンデショカ」
「わたしは楽郎くんが昔どんなだったかは知りません。無理に聞き出す気もありません。でも、今隣にいるのは私です」
煙とともに言葉を吐き出し、そしてさらに告げる。
「──もっと、私に頼ってください」
冬は、春が来ることを前提とした堅忍の季節。いつまでも来ない春を待ち続ければ、いずれ全ては緩やかな終わりを迎えてしまう。
「……なぁ、玲さん」
雪は溶けた。
「はい、何ですか? 」
春風は吹いた。
「……俺、煙草は止めることにするよ」
冬が終われば、
「俺には玲さんがいるもんな」
新しい芽吹きの季節が待っている。
するり、するり。しゅるり、しゅるり。
立ち昇る二筋の紫煙が、ゆらゆら揺らいで溶け合っていく。
彼にとって、紫煙を通して見る世界はいつだって、鉄と錆に彩られていた。
尚その後。
「げほっ、げほっ!! 」
「ちょ、玲さん!? ああもう……慣れてないのにそんなに勢いよく吸うから……」
「うう……」
(……は、恥ずかしい、です……!! )