暖かい陽気な日射しが体を温める。列車の揺れは激しいが慣れてくればそれも心地よく、ゆりかごのように眠気を誘ってくる。開け放たれた窓からは冷たすぎない優しい風が、草木の香りを連れて車内へと吹き込む。
この国、アメストリスの中心、
「……」
その列車の座席で、1人の男が心地よさそうに眠りに落ちていた。4人がけの席に1人で座り、窓際に立てた腕を枕に熟睡。その眩しい陽光を遮るためか、頭から被っている黒いコートの裾が微かに風に揺れていた。
その黒いコートはアメストリス国軍の支給品であり、コートから覗かせる服装は濃い群青をしており、これもまたアメストリス国軍の制服であった。
日々の激務が祟ってかその青年が目を覚ます様子はなく、黒いコートの蓑虫が静かに膨らんではしぼんでいた。
*****
「まずいわね……、なんでこんな時に」
その女性、アメストリス国軍所属のマリア・ロス少尉は頭を抱えて神妙な面持ちで困惑したように大きな溜め息を吐いていた。
そのショートヘアの黒髪をかき上げて頭を押さえる。苛立たしく忌々しそうに、しかしどこか弱々しく追い詰められたように目を細め、目元の泣きぼくろがきゅっとつり上がる。
今日非番だった彼女は、日々の仕事の疲れを癒やし息抜きのために、中央から東部の実家へと帰省していた。不運極まりなくも、その列車が武装過激派集団により乗っ取られてしまったらしい。
まず最初に先頭車両、運転部と機関部がジャックされ列車の自由が奪われた。たまたま2番目の車両に乗車していたロス少尉は、それを目撃するやいなや、音を立てず静かに後部車両へと移動を開始した。
「今日は非番で銃もなにも持ってないのに……っ」
彼女は武装集団に臆したわけではなかった。しかし私服姿の彼女は銃火器の類いを持ち合わせておらず、単身相手をしても勝ち目はなかった。まずは時間と距離を稼ぎ、落ち着いて冷静に打開策を練る必要があった。
彼女が静かに、しかしどこか慌てたように車両を移動してくるのを見て、他の乗客たちが彼女を訝しがるように見つめる。その視線を払いのけるように息を整えて咳払いをしてから更に後方へと向かう。
しかし当てもなく策も思い浮かばない彼女が思わず口元に当てた右手人差し指の山を噛みながら辺りを見回したとき、思わぬ人物が目にとまった。
*****
「乗っ取られたのはニューオプティン発、特急04840便、東部過激派“青の団”による犯行のようです」
アメストリス東方司令部内でも、現在進行中の列車乗っ取り事件の情報が回ってきていた。
その事件解決のために、軍靴の音を廊下に響かせながらブリーフィングルームに向かうのはアメストリス国軍東方司令部所属、焔の錬金術師ロイ・マスタング大佐だ。自身の管轄下での事件にいささか立腹なのか、面倒くさそうにその黒髪を掻く。
彼の傍らに立つのは同じくアメストリス軍東方司令部に所属するリザ・ホークアイ中尉。手元の資料を確認しながら必要な情報を上官であるマスタング大佐へと報告する。
「声明は?」
「気合いの入ったのが来てますよ。読みますか?」
「いや、いい。どうせ軍部の悪口に決まっている」
「ごもっとも」
ブリーフィングルームの扉を開くと、既にマスタング大佐の部下たちが仕事に着手していた。
「要求は現在収監中の彼らの指導者を解放すること」
「ありきたりだな」
首に手をかけぐりぐりと鳴らしながら、マスタング大佐はふざけた様子もなく、いたって真面目に呟く。
「困ったな。夕方からデートの約束があったのに」
「たまには俺達と残業デートとしましょうやー。まずい茶でも飲んで」
マスタング大佐のぼやきに間髪入れずコーヒーカップを片手に口を挟むのは、ハイマンス・ブレダ少尉。小太りな体にサイドを刈り上げた短い金髪、その態度と見た目は一見チンピラのようにも見えるが、彼もまたアメストリス軍人である。
「乗客名簿があがりました、大佐」
入ってきた情報を元にタイプライターで出力した用紙をマスタング大佐へと差し出したのはケイン・フュリー軍曹。大佐の冗談なのか本気なのか分からない言葉に眉尻を下げ、呆れたような表情を浮かべる。
フュリー軍曹から受け取った名簿をまじまじと見つめていたマスタング大佐が、嬉しそうに口元に嫌みったらしいニヒルな笑みを浮かべる。
「ああ諸君、今日は思ったより早く帰れそうだ」
大佐の言葉に、真意を問うような室内の視線が集まる。
「
大佐の一言に、一同は各々、同情したような乾いた笑いを零したり、哀れむように瞳を閉じる。
「ふむ、デートに間に合うな」
顎に手を当て天井を見上げるマスタング大佐の視線は至って真剣であった。
*****
「すみません……っ」
暗闇の奥から声をかけられる。ぼんやりとくぐもったその問いかけと共に体がそっと揺すられた。
「すみません……っ、軍関係者の方ですか? 緊急事態です、ご協力願いたいのですが……っ」
大きな声を上げないように、喉を震わさず小声で語りかける。しかしどこか焦っているように、その吐息混じりの囁きは語気を荒げていた。
「んん……、ん。……はい……?」
聞き慣れない女性の声に、列車の客席で眠っていた青年が目を覚ました。頭からコートを被ったまま、腕枕に頭を乗せ未だぼんやりと微睡む思考で反射的に返事を返す。
そんな彼に対し、ロス少尉は一度前方車両へと振り返ってから、急かすようにまくし立てる。
「私は
「……」
コートの男はピクリとも反応せず、ただ沈黙を持ってロス少尉の言葉に耳を傾ける。
少尉は彼の座席の隣へと座り、恐らく彼の頭があるであろう位置に自身の顔と口元を近づける。話を聞いているのか寝ているのかも分からない目の前の男に、焦りと少しの憤りを込めて言葉を続ける。
「見たところ他に軍関係者は乗車していませんし、私たちでこの状況を打開する必要があります。……もしあなたが無理だというのなら、銃だけでも私に渡していただければ私が――」
なにも応えない男に痺れを切らしたロス少尉が、その腰に下がっているであろう銃を取ろうと彼の制服へ手を伸ばす。沈黙したままの彼をこの状況に臆してしまったのだと判断したからだ。
しかしその伸ばされた腕が、コートの下から伸びてきた男の屈強な腕で掴まれる。痛みはない、しかしビクともしない。
「……っ!?」
「いや、そういうことなら私が行きましょう」
男はロス少尉の手を離すと、静かに立ち上がった。身の丈180は超えているであろう大男が、頭から被っていたコートを座席へと脱ぎ捨てる。
「……あ……っ」
隣の席に座ったまま、伸ばした手もそのまま呆けたように、立ち上がる男を見上げるロス少尉。彼女が口をぽかんと開いて呆気にとられているのは、その男性に見覚えがあったからだ。
身の丈180を超える体躯に制服が張り詰めるような筋骨隆々なシルエット。健康的に薄く焼けた肌、整えられた艶のある黒曜石のような黒髪。
黒色に見える瞳だが、窓から陽光が差し込めば夜明け前の空のような濃い蒼を秘めた瑠璃色が反射する。大総統とは反対の右の目に眼帯を巻いており、顔や手など制服から見える僅かな露出部分だけでも数多の古傷が見て取れる。
その腰に銃は下がっておらず、代わりにあるのは二振りの軍刀。一つはアメストリス軍が支給している軍刀。もう一振りは上品な黒鞘に丁寧かつ落ち着いた銀細工が施されている、支給品ではない立派な軍刀だ。
そしてその制服の胸元にはアメストリス軍の大尉を表す階級章と、いくつかの技能章や従軍章、戦功章などの
「黄金柏葉剣……ダイヤモンド付騎士鉄獅子勲章……」
ぽつりと零したロス少尉へ視線を配ると、その青年は彼女を安堵させるように優しく微笑んだ。
呆ける彼女をハッとさせたのは、車両連結通路の扉が荒々しく開けられた音だった。銃を持った2人組の男が駆け込んでくる。
「動くんじゃねえッ! この列車は我々“青の団”が乗っ取ったッ!」
車両内に響き渡るように怒鳴りつける男。威嚇のためか1発天井へと放たれた銃声に乗客たちは怯えきり沈黙する。
ロス少尉もまた、眉間にしわを寄せ一筋の汗を流す。「しまった」と彼女が胸中で焦る中、例の青年が軍靴の音だけが静かに反響した。
通路へと歩み出た彼が軍刀の鞘を左手に握り、男たちと数メートルの距離で仁王立つ。
「んだ? テメェは。その制服は軍人か。余計な真似すんじゃねえぞ! この列車の乗客全てが人質だ!」
「逆らう者がいれば容赦するなと言われている。我々は軍人が相手でも撃つぞ」
男たちが銃口を青年へと向ける。その瞬間、青年のだらりと脱力した右手とこめかみがピクリと反応する。
男たちを睨み付ける彼の瞳には哀れみと蔑みと、そして微かな
「「ッ!!?」」
青年の眼に睨まれた時、心臓が締め付けられるような、背筋に氷柱でも突き刺されたような戦慄が男たちの脳天からつま先へと走る。心臓が一気に激しく鼓動し、足が震える。“逃げねばならない”男たちの本能がそう叫んでいた。
しかし彼はふと視線を感じ、男たちを睨み付けていた鬼気迫る視線を外して自身が座っていた席とは反対の客席を見やる。そこには家族連れだろうか、両親と思しき男女と、小さな女の子が怯えながら座っていた。
彼は少女と目が合うと、しばしの沈黙の後、その大きな手のひらで少女の頭を優しく撫でた。
「子供には血も死体も見せたくない。銃を置き大人しく投降し、残りの仲間の情報を吐くのなら、怪我もなく憲兵へ引き渡すことを約束する」
再び男たちへと振り向いた青年がそう切り出した。その表情に先程のような殺意は見えない。
「…………ふ、ざんけんなッ!」
「……軍刀だけでどうしようってんだ!」
先程まで冷や汗を流し戦意を失っていた男たちが目を合わせて一瞬考え込むも、要求を呑む気はないらしく、下ろしていた銃口を再び突きつける。半ば自暴自棄にもなっているかのように、その呼吸は荒く目は血走っていた。
「交渉決裂だな」
そう呟いた青年の瞳に再び微かな
男たちが引き金にかけた指の筋1本動かしたとき、刹那の瞬間だった。
木製の床が割れるほどの強烈な踏み込み、男たちが引き金を引くよりも速く、青年はその懐へと飛び込む。
抜刀一閃。鞘から抜かれた勢いそのままに軍刀は右上へと振り抜かれる。一瞬の甲高い金属音が響いたかと思うと、美しい切断面からずれ落ちるように男たちの銃は斜めに切断されていた。
ごとりと、銃の破片が床へと転がる。銃身と一緒に切り落とされた薬室の弾丸から黒色の火薬がこぼれ落ちた。
青年は振り抜いた軍刀を男たちの喉元へとあてがう。
「首を飛ばさなかったのは子供に血を見せないためだ。わかるな。これ以上はやめておけ、私は手加減が苦手なんだ」
青年の問いかけは「殺そうと思えば殺せた」と言外に男たちへと突き刺さる。男たちは顔面を蒼白にさせ、慌てて何度も頷くしかなかった。
「では、他の乗客を解放してきますので、ここは頼みましたよマリア・ロス少尉」
「は……はいっ!」
縛り上げた男たちから残りの仲間の人数等を聞き出した青年は、この車両と男たちをロス少尉へと預ける。引き抜いた軍刀を片手に単身、前方車両へと足を進めていく。
目の前で繰り広げられた一瞬の出来事に処理の追いつかないロス少尉だったが、青年の一言に無意識のまま直立し敬礼の姿勢で彼を見送っていた。
「あっ……名前」
本人を見るのは初めてだが、あの特徴と勲章を持つ人物に心当たりはあった。ただそれを確認するのをつい忘れてしまった彼女。それに気がついたときには既に、前方車両の騒ぎは解決されていた。
彼が目を覚まして10分足らずの間にトレインジャックは鎮圧された。
目的の駅に到着するまでの間、過激派一同を縛り上げ一カ所に集め、軍刀片手に青年が睨みをきかせていたため、男たちは生きた心地がしなかった。
*****
「よー、エルバ、災難だったなー」
「だが、おかげで手間が省けた。礼を言うぞクライス大尉」
過激派を鎮圧した男、エルバ・クライス大尉が東部イーストシティ駅に到着すると、そこには彼の迎え役であるアメストリス国軍中央司令部所属のマース・ヒューズ中佐と、今回の一件の管轄担当であるロイ・マスタング大佐とその部下たちが待機していた。
上官にも関わらずヒューズ中佐がエルバを迎えに来たのは個人的な親交が深く、気心の知れた仲であり、丁度東部に所用で出向いていたため「ついでだから」らしい。その口調も親しげである。対してマスタング大佐は、親交が深い相手にも形式上は軍人として言葉をかける。
「ご無沙汰しております、ヒューズ中佐。そして、やはりマスタング大佐の管轄でしたか。……では、放っておいてもよかったのでは……」
「ん? なにか言ったかね」
「いえ、なにも」
マスタング大佐の部下が過激派一派を憲兵隊へと引き渡す中、列車から降りてきた1人の女性に気がついたヒューズ中佐が声をかける。
「お? 君は確か……」
「は、はい! 中央所属のマリア・ロス少尉であります!」
自身の上官に当たるヒューズ中佐に敬礼と共に名乗るロス少尉。それに気がついたエルバが彼女へと向き直り、その深い瑠璃色の左目で真っ直ぐに見つめる。
「マリア・ロス少尉」
「はッ、はいッ!」
「猪突猛進せず、極めて冷静な判断と的確な行動でした。素晴らしい動きでしたよ、少尉」
「あ、ありがとうございます! あの
畏まる彼女の態度に思わず困ったような苦笑いを浮かべるエルバ。そんな彼の前で再び姿勢を正したロス少尉が深呼吸をし、敬礼のまま口を開く。
「不躾ながら改めて名乗らせて頂きます。私はマリア・ロス、中央司令部所属、階級は少尉であります。お初にお目にかかれて光栄です」
尊敬と憧れの感情のこもった眼差しで名乗るロス少尉。エルバは顎に手を当て何かを思い出すように、彼女の顔をまじまじと見つめる。その視線に思わず恥ずかしいような、居心地が悪そうに視線を泳がせるロス少尉。緊張からかほのかに顔に熱が集まる。
「初めまして、ではなかったはず」
「もっ、申し訳ありません! ……大変失礼ながら……いったい、どちらで?」
エルバの一言に肩をビクリと弾ませて慌てるロス少尉。頭を下げる彼女がチラリと窺うように上目に視線をエルバへと向ける。
「お気になさらず。会ったと言っても私が一方的に見かけただけですので」
エルバが困ったように両の手を振りながら彼女に頭を上げるよう促す。
「あれは確か、昨年の中央と北とで合同訓練をしたときだったかな。あなたをお見かけしました」
「顔を覚えていて頂けて光栄であります」
「美人は一度見たら忘れないので。特にそのセクシーな泣きぼくろは」
そう言って優しく微笑まれると、思わず心臓が鳴ってしまうロス少尉。その思いもよらぬ言葉に咄嗟に頬に手を当て自身の泣きぼくろを隠してしまう。顔に熱が集まってくるのは緊張のせいだけではないようだ。
「クライス大尉、その発言はセクハラに当たる可能性があります」
「えっ、いや、そういうつもりじゃ」
マスタング大佐の後ろに控えていたホークアイ中尉が目を伏せてそっと忠告する。
慌てるエルバは自身の発言が問題になる前にと、ヒューズ中佐と共に現場を後にしようとする。「大佐に用があったので丁度よかったです」と、マスタング大佐たちも連れて一同は東方司令部へと向かう。
「では、ロス少尉、またどこかで。よい休日を」
「は、はいっ」
そう言い残してヒューズの用意していた車に乗り込み去って行く一同を敬礼のまま見送るロス少尉。
その車の背中が見えなくなると、どっと疲れたようにその場にしゃがみ込む少尉。膝の下へと腕を回し、しゃがむ両膝に自身の口元を隠すように大きなため息を吐く。
「……はふぅ……」
勇名轟かせる憧れの人物が思っていたよりも遙かに凄腕で、その屈強な体と強面から想像していたイメージとは裏腹に優しく微笑んでくるものだから不意打ちを食らってしまった。
どうにも彼の甘く低い声や、鋭く綺麗な瑠璃色の瞳、礼儀正しく真っ直ぐな言葉、目の当たりにした勇姿、それらが母性本能とでも言うのか、心の隅をくすぐるのだ。体躯や古傷、眼帯などどう見ても屈強な男らしい外観にも関わらず。いや、そのギャップのせいだろうか。
もやもやと思考を巡らすロス少尉がそっと自身の泣きぼくろに触れる。
その日イーストシティ駅構内で膝に顔を埋め「うー……」と呻る女性の姿がしばらく見られたとか。
*****
「改めて、トレインジャックを解決してくれて礼を言うよ、クライス大尉」
「最近、国内で物騒な事件が多いですね。少し前は中央司令部が氷漬けにされそうになったとか」
「今に始まったことじゃないさ」
東方司令部、ロイ・マスタング大佐の執務室内。自身の椅子に座りホークアイ中尉が差し出した資料に目を通す大佐と、デスク越しに立つエルバ。
ヒューズ中佐はエルバたちを送り届けると、さっさと中央へと帰ってしまった。愛妻と愛娘の自慢を残して。
それと入れ違いになるように、1人の屈強な男性がマスタング大佐の執務室を訪ねてきた。
「エルバ殿、東部にいらっしゃるとお聞きし挨拶に伺いましたぞ!」
「ああ、アームストロング少佐。お久しぶりです」
エルバ以上の屈強な肉体を持ち、綺麗に剃られたスキンヘッドにはちょろんとカールした金色の前髪が残っている。同じく黄金に輝く立派な髭を蓄えたその人はアメストリス国軍中央司令部所属、豪腕の錬金術師アレックス・ルイ・アームストロング少佐その人だった。彼もまた東部に立ち寄ったついでに挨拶へと来たらしい。
アームストロング少佐の熱烈な抱擁を躱すエルバ。逃すまいと少佐は彼の手を掴み暑苦しく激しい握手を交わす。
「そのような他人行儀な態度はおやめ下さい。我らいずれは義兄弟に……」
エルバの腰に下げられた
「未だ我がアームストロング家の宝剣を抜いておられないのですね。まだ
「まだもなにも、……今後もそのつもりはありません」
彼らの会話に呆れたように、からかうようなニヒルな笑みを浮かべるマスタング大佐だったが、その傍らに立つホークアイ中尉は理解が追いつかない様子。頭に「?」を浮かべると、思わず尋ねる。
「そういえば今のクライス大尉の代名詞ともなっているその軍支給の軍刀とは別のもう一振りの剣。アームストロング少佐は何かご存じなのですか?」
「うむ……」
ホークアイ中尉の質問にチラリとエルバの顔を窺うアームストロング少佐。エルバは瞳を閉じ肩をすくめて「ご自由に」と言外に伝える。
「エルバ殿の下げるこの剣はアームストロング家に代々伝わりし宝剣。これを異性に渡すことは由緒あるアームストロング家の婚姻の儀。いわばプロポーズですな」
「宝剣? プロポーズ?」
ますます話が分からないと言うように聞き返すホークアイ中尉。その視線は彼の腰に下がる剣へと向けられる。
艶やかな黒い革に包まれた鞘に走る上品かつ実戦の邪魔にならない、しかし威厳も感じる銀細工の装飾。柄は剣として実戦で振るいやすくするために握り込むことを想定した作り、鍔部分にも鞘同様に最低限の、それでいて重々しくも品のある細工が見て取れる。アームストロング家の家柄と戦場で使用されることも想定された質実剛健の剣だ。
「アームストロング家の男が女へと渡した場合、女がその刃を自身に向け柄を男に持たせれば婚姻が成立する。“私の命までもあなたに捧げる”という意味がある。そして、アームストロング家の女が男に渡した場合、男がその剣を戦場で抜刀したとき婚姻が成立する。“命尽きるその
「なんだか、随分とロマンチックですね」
腕を組み自身の髭を撫でながらどこか誇らしげに説明するアームストロング少佐。
隣のエルバは後ろ手に手を組み、窓の外を眺めながら諦めたように小さくため息を吐く。
興味深そうに話を聞くホークアイ中尉と、ニヤニヤと楽しそうに笑うマスタング大佐。
「そしてこの剣は当然一振りしかなく、アームストロング家の長子から順に使用権があるのです。これを姉上はエルバ殿に渡しているのですが……エルバ殿は未だ戦場で抜いて頂けていないご様子で」
目を伏せ溜め息を吐いた少佐がチラリと横目にエルバの様子を窺う。我関せずと言わんばかりに窓から空を眺めているエルバへと詰め寄る。
「姉上がお嫌いなのですかッ!?」
「いや、決してそのようなことはありません」
「私は苦手だがね」
アームストロング少佐の姉、“ブリッグズの北壁”や“氷の女王”などと呼ばれる、豪胆にして苛烈な北方司令部所属のオリヴィエ・ミラ・アームストロング少将の姿を思い浮かべてぽつりと漏らしてしまうマスタング大佐。
嫌いかと尋ねられたエルバはきっぱりと、間髪入れずに少佐の目を見返しながら断言する。
「あの方は私の恩人であり、尊敬するお人です。軍人としても的確で合理的で迷いがなく、……強くて美しい。ブリッグズという過酷な地で大国ドラクマ相手に一歩も引かず、屈強な兵士を鍛え上げた。厳しくも部下想いな一面もあります。少将の優しさは私もよく知っています」
屈託のないその瞳は真っ直ぐで、想ったままを言葉にしていると言うことは、そこにいる誰もが理解できた。
「絹のような
聞いている方が赤面しそうなほどに真っ直ぐで迷いの無い言葉。アームストロング少佐は流れる感涙をハンカチで拭い、ホークアイ中尉は聞いているのが恥ずかしくなったのか薄らと赤面しつつ思わず微笑みかけ、マスタング大佐も頬杖をつき半ば呆れながらもその真っ直ぐな気持ちのよい言葉に思わず笑みが零れる。
だが、彼はその真っ直ぐな瞳を微かに閉じ、どこか寂しげな、叶わぬ願いを思い描くように自嘲気味の笑みを浮かべる。
「しかし私は……
そっと腰に下げられた宝剣を撫でる。彼の言葉に執務室の空気は静かに沈み込んでいくようだった。
「……イシュヴァールのことか?」
「……」
「酷い……戦いでした」
マスタング大佐の言葉に沈黙で返すエルバ。思わずホークアイ中尉とアームストロング少佐の視線が床へと落とされる。
ぽつりと漏らした少佐の言葉に沈黙はますます深くなっていく。
「あれは戦争だった。君が必要以上に自責の念にかられることも、罪を背負うこともない……と言っても無理か。君の性格上」
「数多の戦地で、私は多くの人の幸せを奪いすぎました。……それ以外にも、色々と思うところがあるのです」
エルバが自嘲するように悲しげに笑う理由を聞く前に、その空気に似つかわしくない呑気な声と共に執務室の扉が開かれた。
「持ってきましたよ、大佐。例のリオールとかいう町の……、って、なんかお邪魔でした?」
マスタング大佐の部下、ジャン・ハボック少尉だ。金の短髪に先程まで喫煙していたのか紫煙の匂いを纏わせながら入室する。何らかの資料を片手に面倒くさそうに頭をポリポリと掻く。
「いえ、丁度その話に移ろうと思っていたところです。資料をよろしいですか、ハボック少尉」
「あ、はい。どうぞ」
空気を切り替えるかのように、いつもの明るく紳士的な態度と声色で対応するエルバ。彼がハボック少尉から受け取った資料に目を通しながら仕事の話をはじめると、すっかり先程までの話を蒸し返せる雰囲気ではなくなってしまった。
「東部の片田舎に
「ふむ、賢者の石か。だとすれば、鋼のと出くわすかもな」
「ああ、禁忌の子ですね」
一通り資料に目を通したエルバに手を伸ばすマスタング大佐。その意図を察するエルバが資料を手渡す。同じく資料を眺めながら話す大佐とエルバに、ホークアイ中尉が質問する。
「しかし、なぜ北方司令部の、それもブリッグズ砦にいらっしゃるクライス大尉がわざわざ?」
「彼は氷の女王だけでなく、大総統のお気に入りでもある。大総統府の命令でよく動いているのだよ」
どこかつまらなさそうな、気に入らないといった風に吐き捨てるマスタング大佐。アームストロング少佐が髭を指で摘まみながら「そういえば」と続ける。
「剣も大総統から習われたとか」
「ええ、まあ……」
彼らの言葉にエルバは気まずそうに、何かを言いたそうに、しかし隠し事をしているように、視線を泳がせて言葉を濁すのだった。
そしてリオールという町までの道のりを地図を見ながらマスタング大佐に確認すると、エルバはアームストロング少佐と共に執務室を後にする。少佐が駅まで送ると聞かなかったようだ。
彼らの去った後の執務室でホークアイ中尉が紅茶を淹れながら独り言のようにマスタング大佐へ声をかける。
「イシュヴァールでの大尉は……壮絶でした」
かつて自身も歩んだ地獄の景色を思い出すように、カップへと注がれた紅茶の水面に映る自身を見つめる中尉。
「ああ。そうだな。……我々
腰掛ける椅子に頭まで預けて窓の外を見やるマスタング大佐が、当時の光景を思い出すように目を閉じる。
*****
砂漠に降り注ぐ灼熱の陽光は容赦なく歩兵の水分と体力を奪う。瓦礫の山に砂塵の舞うこのイシュヴァールの地は憎悪と怨嗟、復讐と血にまみれたこの世の地獄と化していた。
イシュヴァールの内乱。もとより宗教的価値観の違いなどから政府と衝突を繰り返していたこの地で、アメストリス軍の将校が誤ってイシュヴァール人の少女を射殺してしまった事件を皮切りに、その後七年にも及ぶ大規模な内乱へと発展してしまったのだ。
内乱が勃発後、大総統は性急な判断を控え事態を静観。その七年後にようやく下された命令が「殲滅命令」だった。その殲滅戦には実戦での実用性を試す意味合いで、多数の国家錬金術師が投入された。
そこにはマスタングをはじめとした、強力な戦闘力を持つ国家錬金術師が何人もいたが、その中でもとびきりアメストリス軍内部でも目を引き、畏怖され、イシュヴァールからは「ヤツこそが神イシュヴァラ、延いてはイシュヴァール人民最大の敵」と比喩される人物がいた。
「それがエルバ・クライス。当時の階級は何だったのか? 所属は? 出自は? 一切が謎に包まれた男……、いや、少年だった」
「当時の彼はまだ10代も中頃だったのでは?」
「制服こそ着ていたが、正式なアメストリス軍人だったのかも怪しいな」
ホークアイ中尉の差し出した紅茶を一飲みし、口元を湿らせたマスタング大佐が言葉を続ける。
「その剣の腕前は大総統から直々に習ったというし、大総統の虎の子を実戦投入したのかもしれない。我々
「非公式の、それもまだ年端もいかない少年を、あの戦場に?」
「やりかねないさ。
「……」
俯き眉間にしわを寄せるホークアイ中尉の表情には憐憫と怒りが見て取れた。その拳が強く握られる。
「だが、確かに彼の実力は想像を絶した。我々よりもよっぽど
灰燼と化すイシュヴァールの地を疾風迅雷のごとく駆け回る男がいた。たった一本の軍刀サーベルを片手に敵陣へと切り込み、瞬く間に敵兵を肉塊へと変えていった。
右目を眼帯で隠し、深い瑠璃色の左目は獲物を逃さない。屈強な肉体を躍動させ、その紺碧の軍服が
建物の壁面を蹴り飛び越え、鳥が障害物を避け飛ぶが如くするりと細い路地を駆け抜けていく。弾丸は当たらず、飛来するランチャーの弾頭は切り落とされ、近づこうものなら瞬きする間に頭は体と離別していた。
剣が折れれば倒れる兵の腰から引き抜き、敵から奪い、落ちている銃を撃ち、迫撃砲の弾頭を投擲し、それでも駄目なら素手で相手の頭蓋を砕き、首をへし折った。
複数の兵士が数々の武器兵器を用いてなんとか傷を負わせても、男の進撃は止まるところを知らない。例え自身の血で汚れようとも、どれだけ深く傷つこうとも、その一帯のイシュヴァール人が動かなくなるまで、彼は戦い続けた。
イシュヴァール人だけではない、アメストリス軍人さえもが恐れおののき、彼に恐怖し、近づく者は居なかった。誰もが彼を避ける中、数少ない話し相手はマース・ヒューズと名乗る男とロイ・マスタングその人だけだった。もっとも、当初のヒューズは「こいつのそばに居れば死ぬことはない」と打算的な部分もあったようだが。
そしてもう一人、殲滅戦を高見から見下ろす男。アメストリス軍の総司令官にして実質この国を支配する男、キング・ブラッドレイ大総統もまた、顔には出さなくとも、どこか満足げに、彼の戦いっぷりを観戦していた。
「だが、彼は一人も殺していない」
「え?」
「そういうことになっている。エルバ・クライスという人物はあのイシュヴァール殲滅戦には参加していない」
「どういうことですか、大佐。私もこの目で彼の獅子奮迅の戦いぶりは目撃しましたが」
マスタング大佐の思わぬ言葉に、ホークアイ中尉も思わず聞き返してしまう。ではあの日私が見たものは何だったのかと。
大佐がカップを受け皿へと静かに置くと、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「どこの所属かも軍人かも分からない、まだ年端もいかない少年をあの殲滅戦に参加させたという事実をもみ消した。……だが、記録からは消せても人々の記憶からは消せない」
「……」
「事実、私も君も、彼の戦いっぷりを
ホークアイ中尉の表情はますます険しくなる。勲章のためにも、報償のためにも戦った訳ではないことは分かる。それでも、あれだけの傷を体にも心にも負い、あの地獄を戦い抜いたにも関わらず、その事実をいとも容易くなかったことにした軍上層部へ、怒りと不信感が高まるのを感じていた。
「そんな怖い顔をするな中尉。言っただろう、記録から消せても人々の記憶からは消せなかった。だからこそ、
「黄金柏葉剣、ダイヤモンド付騎士鉄獅子勲章……」
軍上層部の辻褄合わせをあざ笑うかのような嫌みな笑みを浮かべる大佐に、中尉は何かを思い出すように呟いた。
「そう。かつて大総統が大総統となる前、その比類なき戦場での活躍から贈られた勲章。それ以来数十年、他に授与された者が居なかったそれは
「彼はイシュヴァール以外にも」
「ああ。やつは
マスタング大佐は椅子から腰を上げると、執務室の窓際へと歩み寄る。窓越しに空を漂う雲を眺める。その頭の中には様々な思考の波が押し寄せていた。
その視線はもう見えなくなったエルバの背中を見送っているかのようだった。
「……今では
「平時には悪魔と畏れられ、都合のいいときは英雄、ですか」
無意識にホークアイ中尉は目を伏せ、その視線は足下へと落とされる。
「私も随分と多く殺した」
「……私もです」
背中越しにそう呟くマスタング大佐に、その背中を見つめながらホークアイ中尉も応えた。
「それについて悔いている暇はない。贖罪も私が大総統となってからの話だ。……ただ……、彼は、随分と真っ直ぐな眼をしたまま育ったものだ」
我々以上に、殺していただろうに。その一言を呑み込んだ大佐であったが、言わんとしていることは中尉にも伝わっていたようだ。
「周りに支えられたのでしょう。彼がアームストロング少将の話をするときの顔は、素敵ですから」
「彼は今でも西や南の国境線にも、国内の内乱や紛争にも呼び出される。そして普段は……ブリッグズという過酷な地で大国相手に緊張の糸を張っている……。しかし、皮肉なものだな。その最果ての地で彼は、心の安寧を手に入れる出会いを果たしたという訳か」
小さく嘆息を零して腕を組む大佐の顔に憐憫の色はなく、心底ほっとしたような笑みが浮かんでいる。中尉もまた、瞳を伏せて微かな微笑みと共に「そうですね」と小さく頷いた。
「しかし……。彼の戦果はイシュヴァール以外にも数多ある、にも関わらず彼の階級は未だ大尉止まりであり、それに不平を言うわけでもない。そこにはどうも何か引っかかるものがあるが……」
顎に手を当て、そう独り言のように怪訝な顔で呟くマスタング大佐。
「ああ、殺しと言えば」
はっとして、何かを思い出したかのように振り返ったマスタング大佐が右手の人差し指を立てる。
それまでの重たい話の暗い雰囲気を変えるかのように明るいトーンでホークアイ中尉へと声をかけた。
「彼はああ見えて生粋の
そんな言葉にきょとんとするホークアイ中尉が今日のエルバの行動や仕草を思い返す。なるほど、と納得した中尉は呆れたように小さく息をつき、手元の資料の束を大佐のデスクへと差し出した。
「確かに彼は誠実で実力があり、紳士的で何より、
その言葉に耳が痛いと言わんばかりにそそくさとデスクへと戻る大佐。そんな大佐に背を向け二杯目の紅茶を淹れるホークアイ中尉は小さく微笑むのだった。