プロローグ
世界は絶望でできている。
「それ」が彼女の身に起きたのは突然だった。
そして、「それ」は私にも起きようとしている。
赤よりも少し薄く明るい、それでいて、濃く暗い色が彼女を覆っていた。なにもかもが乱雑に入り混じった、それでいて精錬された臭いが彼女を包み込んでいた。
数分後。いや、数秒後。私も彼女のようになるのだと確定している。
全てはこの目の前の男によってなされたことだった。
私と彼女は母娘だった。私の父親が誰なのかはわからない。それでも、彼女は私を育ててくれた。たった一人で。それはどれだけ大変なことだっただろうか。
ある日、目を覚ますと彼女が私の視界に入り込んでいることがあった。彼女は泣いていた。泣きながら私の首に手をかけていた。私は何も言わず、再び目を閉じた。そして私は今も生きている。そんなことが何度かあった。
私と彼女との生活に転機があったのはほんの数か月前。
彼女はある男と付き合うことになった。私がその男を見た時の印象は、いかにもか弱いという感じだった。彼女より年下の、メガネをかけたいわゆるオタクな感じの男。初めて男と出会ったとき、男は私に笑いかけた。その笑顔は少しも中身のない薄っぺらなもので、薄氷の笑み、とでも表現すればいいのだろうか。その笑顔は嘘ではない。ただ、あまりにも薄すぎる笑顔なのだった。
私と彼女は男と一緒に住むようになった。
そしてすぐに、男は本性を現した。
最初は些細なことだった。
男は些細なことに苛立ち、大声を上げた。腹から出る声ではなく、のどから出る、薄っぺらな声。叫んだ拍子に声が上ずってしまっていた。
彼女はごめんなさい、と必死で謝った。土下座もした。
彼女にとってみれば、男は救世主であった。生活が困窮していたのだ。一日二食だったのが一食に減り始めていたくらいに。だから、男に嫌われまいと必死だったのだ。
だが、その態度がいけなかった。
私は男の顔をしっかりと見ていた。
口角が垂れ下がり、表情筋も緩んでいた。瞼は細められ、小さな三白眼はギラギラと輝いている。
要するに男はこの時初めて覚えたのだ。
誰かを被虐する愉しみというやつを。
そこから毎日男は彼女に暴力を振るった。
そして、彼女の娘である私にも暴力を振るった。
彼女は私を必死でかばった。
男は彼女を殴った。蹴った。私をかばえないほどに彼女を傷つけてから私を殴った。蹴った。
男の顔は真顔だった。何の痛みも、悦びも、悲しみも感じないといった風に。
愛の鞭とでも考えていたのだろうか。
こと済んだ後、男の口角は垂れ下がり、射精でもした後のような優越感に浸っていたことを私はしっかりと覚えている。
「ああ? なにボケっとしてんだぁ? ははっ。いっつものことかぁ」
男の声。ねっとりと絡みつく、それでいてひんやりとした声。スライムをくっつけられたような――いや、違う。無数の蛇に体を支配されたような不快感が私を襲う。
手にはひん曲がったバット。アルミのバット。緋色に染め上げられた、バット。お母さんを殴り殺したバット。
「お前ら母娘はなあ! どいつもこいつもグズでイライラさせんだよぉ! そんなグズ、掃除してやった方がいいじゃんかよぉ」
完全に狂っていた。自信を正当化していた。本当は男も彼女を殺す気などなかったのだ。でも、死んでしまった。だから、この世にいらないもの扱いして自分が政党なのだと言い聞かせているのだ。
男は私の髪の毛をつかむ。
痛い。痛いが、それ以上に、死への緊張感が私の体を蝕んでいる。心臓がはちきれそうで、熱くて、痛い。
ああ。怖いんだ。私は、死ぬのがとってもとっても怖いんだ。頭で考えたって分からない。自分で死を選ぼうと考える人も死の直前まで、こんな感覚が、恐怖が襲ってくるだなんて露ほども知らなかっただろう。
私は怖い。死ぬのが、怖い……
「お願い……助けて……」
絞り出した声。無意味にあふれ出す涙。
それを男は笑い飛ばした。一瞬で無碍にした。
「テメェらに生きてる価値なんてもともとなかったんだよ。グズグズグズ! オレ様がいなきゃ飢え死んでただろ。そういうのをなぁ。今では禁句だが言ってやるぜ。乞食ってんだよ。グズが」
なんでだろう。どうしてだろう。私はなんでどうして殺されなくちゃいけない? それも、よりによってこんな男に。
男がバットを振り上げる。スカーレットはクリムゾンに変色している。臭いはもう、生ごみのように臭いをかぐに値しない。
バットが振り下ろされた。私は死ぬのだ。死んで、何もなかったことになる。生きていたことさえもなかったことに。今まで生きてきた記憶もなかったことに。
それはいいんだ。でも、でも。
「テメェみてーなグズにグズ呼ばわりされて死ぬのは嫌だ! 私らの価値をグズが決めんじゃねえ!」
何も変わらない叫び。放とうが放つまいが何も変わらない。
でも、この時、何かが変わったようだった。
「な、なんだ。お前は!」
結果的に、私は死ななかった。殺されなかった。死体にはまだ、ならずに済んだ。
「あーんと。ワイは黄色の王子。少女の召喚に応じ参上しましたーっと。んで? 自分こそなんや?」
突如として私と男の目の前に現れたのは一人の別の男だった。夏場であるにも関わらず、頭にはニット帽を被っている。
「あっちーなあ。なんやここは。南の島か。なんでワイがこんなとこに呼び出されて――って霊体化できん!? うせやろ? なんや今回の聖杯戦争は。無茶苦茶にもほどがあんで」
「テメェはナニモンだって聞いてんだよォ!」
ニット帽の男の登場に混乱した男がバットをニット帽の男にたたきつける。
バットはニット帽の男にぶち当たったあと、角度を90度以上に曲げて、曲がったバットはポトンと曲がった個所から畳に落ちた。
「ナニモンって黄色の王子やいうとるやんけ。ちゅーか畳やん。ここはあれか。極東か。ちゅーか、ワイ、そのあたりの知識があるんやったな。ほんまボケやねんねな」
「ば、化け物!」
男は叫んだ。先ほどの私と同じような、恐怖に打ち震える声で。男にも死が近づいていた。
黄色の王子は死して物体となった彼女をじっと見ていた。そして、男に視線を遷す。
「これ、自分がやったんか?」
「ご、ごめんなさい! 殺すつもりはなかったんだ! ただ、バットで殴ったら死んだんだ!」
「アホか。バットで殴ったら、そら死ぬやろ。わかっとったんちゃうんか、自分」
「ご、ごめんなさい。そんなつもりはなかったんだ! 殺すつもりなんて!」
黄色の王子は何も言わず、静かに男の元へと歩いて行った。震えて独り言をぶつぶつ言っている男の頭に手をのせる。
「ワイは許したる。許したるさかい、自首せえや」
黄色の王子は男の頭から手を離すと、私の元へと戻ってくる。
「さ。ワイの少女。さっさとズラかろうや。こんなとこおっても面白くないやろ」
そういうと黄色の王子は地面に転がっていた私の体を抱いて、小さなアパートから夜の町に繰り出した。
見栄え的になんかあかん、とのことで黄色の王子は私を負ぶって町を移動していた。特にあてもないようでいながら、迷っている風ではない。こんな夜中にいい風でも待っているかのような振る舞いだった。
「なあ、自分。自分は聖杯戦争についてなんも知らんのやんな?」
私は黙っている。この黄色の王子を名乗る男を信用したわけではないのだ。
「まあええわ。どっか適当なファミレスでも入って話そうや」
黄色の王子はピタリと止まる。黄色の王子の視線の先にはファミレスチェーン店の看板が立っていた。
「いらっしゃいませー。お二人様ですか? 喫煙席は?」
ありきたりなファミレス構文が流される。
「二人。禁煙席で」
黄色の王子は慣れた様子で店員に応答する。店員の方はときおりちらちらと私の方を見ている。私の衣服はまだ乱れていた。明らかに隣の黄色の王子をは不釣り合いで不信に思ったのだろう。死んでしまいたいとすら思った。
そうだ。私はついさっきまで殺されそうだったのだ。そして、いま、どうでもいいことで死にたいと考えた。さっきのあの悪夢から一体どれほど経ったのか。
「なにをボケっとしとんねん。はよ席ついてメシ食おうや。自分、最近なんも食っとらへんねやろ? 顔色悪いで」
私はぼーっとしていたようだった。空腹でほかの人よりも反応が鈍くなっているのかもしれない。周りの人に迷惑をかけないように、と黄色の王子がすでに座っている座席へと急いだ。
「ま、色々あったやろうけど、ワイのおおごりや。とりあえず英気養ってな。これから戦争がはじまるさかい」
キンキンに冷えたグラスに手を伸ばす。身体が縮まりそうなほど冷たい水をちびちびと飲み始めた。
「自分、あんま興味ないって感じやな。まあ、ワイも興味はない。あー、そうか。聖杯戦争の説明からか。なかなかズブの素人と組むことなんてないから勝手がわからんわ」
そういうと黄色の王子は注文用の呼出ボタンのチャイムを鳴らす。
「まあ、まずは腹ごしらえや」
注文を取りに来た店員に黄色の王子は注文をしていた。私の分まで。私に何も聞かず、勝手に。
「まあ、なんや。そのなあ、聖杯戦争っちゅうんが開かれよったねん。願いを叶えるとか言う儀式の杯。それが聖杯。それを求めて魔術師が英霊を召喚してサーヴァントして使役する。それが聖杯戦争。でも、今回は勝手が違うみたいやなあ。今回のこの夏川の聖杯戦争についての知識はあんまりやねん。ワイもサーヴァントやないし、クラス分けもない。ただの黄色の王子として存在しとる。聖杯戦争のマスターの代わりが少女ってわけやん。とはいえ、自分みたいに魔術師やないんが今回の少女に選ばれとる。魔力の供給は基本聖杯からなんやろなあ。ま、ワイは久々に腹が減っとるからちょいテンション高いんや。自分にはわかりよらんやろなあ」
お腹が減るのが嬉しいとはよくわからない人だった。かくいう私もここ最近お腹が減っていない。でも、目の前にこんなおいしそうな料理が出てきてはすり減って何も感じなくなった空腹も仕事をするようだ。
「いただきます」
「おお! 食え食え! ワイの話なんて聞き流しとき。先に元気つける方が重要や。聞いてくれば後で何度でも教えてやるし、聞かれんでもワイが勝手にしゃべる」
黄色の王子も運ばれてきた食事を美味しそうに食べていた。これほどおいしそうに食べる人を私は初めて見た。
「自分、無茶苦茶おいしそうに食うなあ。やっぱ極度の空腹ってのはほんまあかんで。ワイも一回それで死にかけたことがあんねん。やからか。ワイが自分にお呼ばれしたんは」
私はほとんど黄色の王子の話を聞いていなかった。それでも黄色の王子は一人でしゃべり続けた。
「あ、そうそう。少女にはその手のひらんとこに赤いマークあるやろ。それを使って三度だけ王子に絶対命令権ができる。まあ、大体三つ使うてもたら王子に勘当されるさかい、使い方には気をつけなや。まあ、今回、少女を裏切るような王子はそもそも呼ばれへんから、王子の強化に使うんが得策なんやろうな。結構すごい魔術でもあるんや。その印は」
そう言えば知らない間に変な刺青のようなものができていた。私はあまり気にしてはいなかったけど。
「今回も聖杯戦争は根本的なことが変わらん。最後の一人になるまで戦うて、勝ったもんが願いを叶える。単純に言えばそういうこっちゃ。どうや? わかったか?」
私は首を左右に振る。
黄色の王子は気を悪くすることもなく、せやろな、とだけ言った。
「まあ、ゆっくり飯食うって休んだら、聖杯戦争がどんなもんか見せたるわ」
私は目を覚ます。お腹いっぱいになったら眠ってしまったようだった。それはもう、夢のような気持ちがいい眠りだった。夢の中にいたのに夢心地なんて、なんだか馬鹿らしい感想のような気がした。
「目ェ覚ましてもうたか。済まなんだなぁ」
謝らなくてもいい、と私は思った。
私はこの黄色の王子という存在を信用し始めていた。ずっと昔から知っていたかのように、黄色の王子と一緒にいることがとても心地よくて安心できた。それに、彼は私のことを助けてくれた。聖杯戦争とかよくわからないし、その聖杯戦争とやらのために私を助けたのだとしても、あの絶望の中、私を助けてくれたのは紛れもなく目の前の王子様なのだ。
「しっかし、夏川ってところもなかなかしけとんなぁ。学校いうたらここしかあらへん。大体小中高一貫ってなんやねん。アホしか生まれん気配しかせんで」
黄色の王子の言葉から私は状況を把握する。
第一に、私はまた黄色の王子に負ぶわれている。
第二に、私は学校に来ている。
そして、第三に、その学校の校庭に、まばゆい光がさしている。
暗い闇の中。学校には明かり一つついてはいない。光があるとすれば弱弱しい月明りのみ。その月明りを限界まで吸い寄せて輝く布がなびいていた。
「よし。少女。自分はどっか隠れとき。こっからヤバいことになるさかい。不安なこと言うけど、ワイ、全然戦闘向きやあらへんねん。やから戦うんは避けたい。まあ、ワイの戦い方、みたいなんをちょっとはわかっといてほしいちゅーかな」
黄色の王子は私をすとんと下す。
「さ。はよどっか隠れぇな。向こうの少女も自分のことを狙っとるさかい。少女を殺すか王子を殺すかの戦いやねん。これは」
それでも私は黄色の王子から離れなかった。こんなの、最期の別れみたいだった。だから、せっかく会えたのだから。別れたくない。せめて、ううん。もっともっと言いたい言葉がたくさんあった。
「凛」
「ん? なんや?」
「凛。私の名前よ」
「そっか。ずっと自分とか少女とかは嫌やったんか。すまんな。気付かんくて」
黄色の王子は私の頭にそっと手を添える。
「じゃ、行ってくるわ。凛。帰ってきたらおかえりやでな」
黄色の王子はまっすぐ、闇の中へと消えていく。
得体のしれない敵のいる中へと――