マハトマ・ガンディー(1869~1948)
「アイスコーヒー、お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」
「ありがとうございます、つぐみさん」
客である日寺壮間の返答に対し、羽沢つぐみは微笑むと丁寧にぺこりと頭を下げ、バックヤードへと引っ込んでいった。
夏休みの午後だというのに、羽沢珈琲店の客は壮間ひとり。随分と静かというか、物寂しいと言ってよい。こんな暑い日に外に出る人間の方が珍しいのかもしれないが。
しかし、いや、だからこそ────今日の目的に集中できるというのは多分にあった。
壮間の手元には、一冊の本がある。
厚手の白一色のブックカバーがかかったそれは、本の表紙を覆い隠し中身がわからない。
壮間はそれをただ懸命に、ひたすら懸命に読み耽っているのであった。
本のページは既に終盤に差し掛かっている。クライマックスだ。
ペラ、ペラと一定の長めの感覚で響くページをめくる音が、静かな店内ではよく聞こえた。夏場の事で少しだけ湿気を含んだページの、重めの音が。
その〝静けさの音〟が、今の壮間には何よりも心地よかった。その音のしない音こそが、彼の持つポテンシャル、〝想像力〟をかき立て、なにかを引き出す。
いやむしろ、引き出されるというよりもそれは────
「ソウマ──ッ!!」
キインときた。
先程まで響いていたはずの〝静けさの音〟は掻き消え、一気に別の音が侵食してくる。
「香奈か……」
壮間は本を閉じた。辟易したといった表情の壮間に対し、見知った顔の幼馴染は夏場の熱気をその身に纏わせながらずんずんと店内に入ってきた。
「何してるの!?」
声がでかい。
さっきからの店内の音の調和に対して、これはまるっきり
「何って……」
壮間は先程まで読んでいた、
「読書だよ」
本を手に取った。
「いや余裕過ぎない!? 私達受験生だよね!?」
「午前中はちゃんと夏期講習行ったって」
「午後もやろうよ! やれよ! 私にだけ苦しい思いをさせるなよ日寺壮間~~!!」
「悪役の断末魔?」
「誰がじゃ!!」
ははっと壮間は笑った。わかっている。
片平香奈は悪役などではなく、壮間よりもずっと、〝主人公〟たりえる存在なのだと。
だから、憧れた。だから、嫉妬した。
だから、守りたいと思った。
「で?」
「で、って何、でって」
「何読んでんの?」
「何って……」
読んでいた本について問われ、壮間は答えあぐねる。答えていいものだろうか。
「それは、さ」
「……はい取った!」
突然叫ぶと、香奈は壮間が手にしていた本をばっと奪った。
力強く掴んでいたわけでもないそれは、しゅるっと壮間の手を抜け高く掲げられる。
「ちょっ!」
「え、小説? あー……ライトノベル?」
香奈はぱらぱらとページをめくり、ところどころ見えるカラーのページや挿絵などからそう判断した。
「……悪い?」
壮間は小さな声で答える。ばつが悪そうな顔、とはまさにこのことだ。
ライトノベルという媒体そのものには貴賤もなにもないが、漫画よりもオタク寄りという感じはあるし、ちょっとエッチなサービスシーンもあったりして、読んでいるのを身内に知られるのがためらわれるのは多分にある。それが異性の幼馴染ならばなおさらだ。
「いや悪いわけないじゃん!? なんで!?」
香奈は無邪気に尋ね返してくる。こういうところだ。
他人に対してのハードルというか、偏見が少なくフラットに相手を見られるところ。それもまた、主人公の器だ。
「なんでもない」
壮間はふうっと気持ちを吐き出すかのように、一息ついた。
「でも珍しいよね」
「なにが?」
「だって、ソウマって物語……嫌いじゃん? だよね?」
「あ、あー……」
そうなのだ。
日寺壮間は、物語が嫌いだった。
幼い頃は、むしろ物語に親しみ、物語に憧れた。物語の中の登場人物のように、劇的な生き方をしてみたいと思ったからだ。
だが時が経ち、その努力が虚しく価値の無いものだと壮間は諦めてしまっていた。
主人公らしくあろうと、表だけ取り繕っても中身は空っぽな自分に、嫌気が差した。
だから物語を遠ざけ、目を背けてきた。
けれど、
「それはさ、昔の話だろ? 香奈だってわかるじゃん」
目を背けていた物語と、向き合わざるを得ない経験をいくつもしてきた。
この世界には、たくさんのライダー達の物語があった。そして、彼らと共にある人々の物語が。
そして壮間は、それらを受け継いできたのだ。
物語と向き合い、それを尊重するのはとても骨の折れる仕事だ。だからこそ壮間は、もうひとつ向き合ってみることにしたのだ。
純粋に、架空の物語を読み、楽しむということを。
「物語を知れば、物語ともっと向き合える気がする。そういうことだよ」
「そういうことなんだ」
「そういうことなんだわ」
「で、なんでライトノベル?」
物語は世の中にたくさんある。そんな中から、なぜその一冊を手に取ったのかという話だ。
「本屋さんに行ったらあったからさ。ファンタジーならこう、まず俺達には縁のない話じゃん?」
今まで出会ったライダー達とそれに付随する物語は、どれもこの現代日本に即した中で紡がれている。妖怪や先祖返りの存在はだいぶファンタジーな気もするが、それにしてもだ。
少なくとも、ダンジョンやモンスター、ギルドといったファンタジックなそれとはこれからもまず出会えないだろう。現実離れしているからこそ、物語の物語性を増して楽しむことができる。そういうことだ。
「ファンタジーなんだ……」
香奈はブックカバーを外し、その表紙を改める。
「『僕は、騎士学院のモニカ。』?」
「そう! そうなんだよ……!」
壮間は思わず身を乗り出す。
「音楽の息づく世界シンフォニーアイランドで、男性は騎士、女性は神奏術士になって戦う世界! 未知の怪物、〝ディソナンス〟に立ち向かうそのさまは仮面ライダーにも通じるっていうか!」
そうして口火を切ると、
「主人公のモニカは女の子でありながら騎士として戦うんだけど、その身体に入っている精神はこの世界の伝説の騎士、ダレン! 巨大なディソナンスである〝ディザストロ〟に立ち向かって命を落としたはずの彼は、何故か自分を看取ったはずの少女モニカの中にその魂が入っていて……!!」
壮間は、
「女性の身体でありながら騎士を目指し、女性にしか使えない神奏術も使える主人公だけのオンリーワンが本当に見事っていうかさ!! 騎士学院の仲間達との日常を通じてモニカとして生きていくダレンの心情もうまくハマっていて!! そしてラスボスの意外な正体がまた!」
がっつりと、語ってしまっていた。
そうやって語らせるほどに、面白いのだ。『僕は、騎士学院のモニカ』は。
ライトノベルの賞を受賞した作品らしく、帯には「優美かつ独創的な個性」「熱意と実力」など、審査員のコメントがこれでもかと強調されている。そう評されるのもなるほど納得だという面白さだ。
そう、本当に熱く語っていた。
「あ、うん」
思わず、饒舌なはずの幼馴染がそんな仁王像みたいな返事しかできなくなるほどに。
その返答に、やっと壮間も自分の異常なテンションに気づいたのか、はっと真顔になった。
「ご、ごめん。香奈」
「ううん! 全然、むしろ……嬉しいかも」
「え?」
今のどこに嬉しくなる要素があったのだという話だ。
別にオタクというわけじゃないが、今の語りっぷりはかなり、こう、限界オタク的なそれだ。気持ち悪いと思いこそすれ、どこに……
「だってソウマ、楽しそう」
香奈は、そう言って笑った。
そう。そうなのだ。
物語の中に生きるような人たちと出会って、自身もまた主人公だと自覚を持ったことで……壮間は、物語を楽しむ気持ちを思い出していたのだ。
「まあ、楽しい……かな。うん、楽しい」
「いいねー!」
香奈としても、壮間のそういったところは少しばかり気になってはいたらしい。だからこその言葉だ。
「こう、さ。作者の個性が、ってのもそうだけど……これを書いた人はきっと、清らかな心の持ち主なんだろうって」
作中の登場人物のやり取り、キャラクター達の真っ直ぐさ。
そのどれもが真摯な心情で描かれており、人の善性が、そしてその裏側にある醜さが、しっかりとした筆致で描き出されている。
壮間は文章を書くことに明るくはないが、すばらしいと思った。
「清らかかあ……」
香奈はそう呟きながら、ぱらぱらとページをめくる。ライトノベルには、いつも巻末に作者の〝あとがき〟が載っているのがお決まりだ。その冒頭には、こう書かれていた。
「雄々しく戦う女の子は素晴らしいです。派手に傷付いてると尚いい」
「……清らか?」
今日一番、特大の苦笑いだ。
「いいんだよ! 作者の嗜好と物語は関係ない! そうだろ!?」
壮間は香奈の手から『騎士モニ』をひったくりながら弁明する。
「いやさっきの清らかどうこうと矛盾してるじゃん!! ねえソウマ!?」
「あー知りません―聞こえませんー!」
「いらっしゃいませー……香奈さん?」
叫んでやんやとやっていた時、つぐみが顔を出す。
「つぐちゃーん! あ、私もアイスコーヒーお願いね!」
「かしこまりました」
そうやって頭を下げるつぐみの姿を見ていると、否が応でも思い出す。
この場所に、本当はいたはずの彼女の……〝義兄〟を。
〝仮面ライダービルド〟が創るガールズバンドとの物語は、確かにこの場所にあったのだ。
(俺は、逃げない)
物語から逃げない。現実の中にも物語は存在し、確かに今、自分を容作っている。
それらを受け継ぎ、形にする。例え奪ってでも、世界の為にそれを為す。
王となり、世界の破滅を防ぐために。
けれど、物語とはまず何よりも……
〝楽しい〟ものなのだ。
物語を楽しむこと。子供でもできるほどに単純だが、壮間が長らく忘れ高い壁を自分から作ってしまっていたもの。
それを、何気なく手に取った一冊のライトノベルは思い出させてくれた。
「教えてください。あなたはモニカさんなんですか? それとも、騎士ダレンなんですか?」
「……『両方』だよ。狭間にいるからこそ、あえて見えることもある。あいつらのような世の中の音を乱す奴らと戦う為に……」
「この身体と、命はある!」
「まだ届かないかもしれない……! いや、あなたにはまだ到底及ばない! それでも一回だけ、一回だけ!! それだけなら、きっと!!」
「わかった。君を、信じるよ」
「「────極限技法……!!」」
「お前も、そうだろ」
「ああ?」
「傍にいることで、自分の何かが崩れそうになる。自信が突き崩されそうになる。けど、いや、だから……そいつの行く高みに、追いつきたくなる」
「はあ? 俺が? 日寺に? ……はあ?」
「……違うのか?」
「黙れ。そして死ね」
「あいにく、死ねない理由が山ほどあってな」
「で? で? で? 実際のところどうなんですの?」
「え、なにが……」
「ソウマさんとは、どこまで行ってるんですの!?」
「はあ!? リオちゃん!? リオさん!? なんで? なんでそうなるの!?」
「隠さなくてもよろしいんですのよ~~! わたくしそういうお話大好きでして……!!」
目を閉じれば、物語の中で戦う自分達の姿が浮かんでくる。今までのように。そして、これからのように。
(まあ、流石に無いけどさ。ファンタジーの世界だし)
それでも、夢見てしまう。思い描いてしまう。
だって────楽しいから。
「……ありがとう」
壮間はクライマックスまであと少しといったところの本を撫ぜ、その中に記された物語に感謝を述べた。
物語の楽しさを思い出させてくれて、ありがとうと。
向かいでは香奈が席に着き、つぐみから運ばれてきたアイスコーヒーを受け取っている。
「さて、と」
壮間は目の前でアイスコーヒーガムシロップを入れる幼馴染を見ながら、また続きを読み始めた。
「そういえばさ」
アイスコーヒーを一口飲んだところで、香奈が思い出したように言う。
「それっていつ出た本?」
「え? えっとねえ……」
そこで壮間は奥付を見て、驚愕した。
「『令和5年1月20日』……『初版発行』!?」
「は? レイワ? なにそれ」
そんなことはありえない。
確かに〝令和〟という元号は存在する。壮間は一度、確かにその存在を耳にした。
ただしそれは、「2019年5月1日」から始まるはずの元号なのだ。
「い、いやいやいや」
令和5年と言えば、2023年。今は2018年、平成30年の8月。5年近く先の本が、彼の手元にはある。
「そんっ……な……!」
その驚愕的な事実に叫びそうになった時、世界はぶっつりと途切れた。
全てが真っ黒になり、全てが消え去る。
あとはただ────暗闇だけ。
☆ ☆ ☆
「いかがでしたでしょうか。2018年の夏に起こった、ありえない筈の一幕」
預言者ウィルは、暗闇の中で〝我々〟へと語りかけてくる。
「なぜ彼が5年も先の本を持っていたか。それは私にもわからない時間の超越」
その表情は、どこか含んだものを持って笑っている。
「とにもかくにも……一度は手に取って読むべきです。『僕は、騎士学院のモニカ。』」
その手には、やはり壮間が持っていたものと同じ一冊のライトノベルがあった。
「きっとあなたも……自分の中にある物語への『楽しい』を、思い出すことができるはずです」
おわり