上も下も、右も左もない――闇の中。
温度も、空腹もそこにいる間は感じる事はない。
自分がこの世界で感じていたのは恐怖だけ。
それはこの世界に来た時から、ボクが生きている間ずっと続くと思っていた。
でも、最近はその恐怖を感じる事が少しずつ減ってきた様に感じる。
その証拠に、以前は見えなかった伸ばした手の先が、今は微かに見える。
きっと、これはあれのおかげだ。
見上げた先に一点……闇の中で淡く輝く光が見える。
もっと眩く光れる筈なのに、面倒だからこれくらいで……という様な、ちょっと中途半端なそこから、ボクの元へと光が伸びてくる。
その暖かな光に包まれながら、ボクはその光の先を見ようと目を凝らしてみた。
周りにあった闇とは違う色。白いモヤがかかり霞む視界で、輝きのある漆黒という色をした大きな生き物が、怠そうにしてそこに居た様な気がした。
この暖かな光がはっきり感じられるなら……。
闇の中にいるのも悪くないのかも……。
※ ※ ※
今朝のボクの目覚めは、痛みと共に始まった。
「いったーーー……!」
最近癖になったらしいうつ伏せでの睡眠。枕に顔が半分埋まっているせいで少しくぐもった声を上げながら、痛む後頭部に手を回して状況を確認する。
すぐに分かった。手を回した時に掛け布団が少しずれて、凶器が見えたからだ。
緑色の背表紙をした巨大な本。作りもしっかりしてあるし、角が当たれば立派な凶器になる。二十回と言わず、充分な力を込めて殴ればきっと一回で人は死ぬ。
眠りから『永眠』への誘導未遂に対しての抗議を行うため、上半身を起こしたボクは大きく息を吸い込んだ。
「ローレシア、起きて! 」
呼吸をするのも面倒とでも言うのか、彼女の呼吸音はとても小さいし、動作も余り無い。
最初に見たときは呼吸に気が付かなくて、何かあったのかと何度も彼女を揺り動かしてしまった。
起きた彼女に、何かあったのか? と、逆に目で見られた位だよ……。
起こしたのはボクが初めてとか……。先生らしいお姉さんとか、ご家族の人は普段この子をどうしていたんだろう? 少なくとも、かなりマイペースに育ったのは確かだ。
「ローレシア、起きるんだ!」
何度も揺すると、彼女の眠る姿らしい変わった寝相……右手を真っ直ぐ伸ばし(多分本を持っていた)、左手を横に伸ばした姿勢で斜めになった顔もそのままに目だけが億劫そうに開いた。
その真っ白い肌とは対称的な、ツヤのある漆黒という感じの、着ている衣服や髪と同じ色の瞳の目がボクを見つめていた。
目を開く……ただそれだけで、その可愛い外見に似合わない気怠そうな雰囲気が纏われる。
「ローレシア。キミが本が好きなのは分かる。ボクも夢中で読む時があるからね。でも……!」
ここが肝心! 彼女には遠回しに言っても通じない。
「今日みたいに、ボクの方に倒れてくることがあるなら、これからはボクと同じ時間に休むか、もしくは絶対に本を倒さない様に誓って休んでほしい!」
「面倒」
「何が!?」
同じ時間に休むことがなのか、本を倒さない様にすることがなのか……。
「説明が」
「何の?」
喋る事すら手間に思う彼女が説明等を苦手にしているのは、数日という短い期間でも理解はしているけどさすがにこれはさっぱり意味が分からない。
「借りを返すのに」
「借り?」
借りを返すのに、ボクの上に本を倒す意味はあるのだろうか?
普段は最低限の説明で意味を伝えてくれる彼女も、今はいつも以上に話すつもりがないのか、半分ほど閉じた目は疲労を滲ませたかの様にとても怠そうだった。
「じゃあ、今は聞かないけど……今度きちんと説明はしてもらうからね?」
「ん」
普段よりもさらに短い返事。何か、声を出すのすら酷く面倒そう?
姿勢を変えないのはいつものことだけど、いつもと違うのは本さえ今はその手から離れている。
「熱でもあるのかな?」
白くて冷たそうな額に手を当てて、自分のと比べてみる。その際、ローレシアの半分ほど閉じていた目が、大きく開かれてこちらを見る。
「特に変わらない……かな?」
「セレス?」
「ん? あ、熱が無いか調べていたんだよ」
不思議そうなローレシアに簡単に説明をする。
ちなみに彼女がセレスと呼ぶのは、最初にボクがそう名乗ったこともあるけど、何よりボクの名前が長いかららしい。家族や親しい人からはセレスと呼ばれるのはよくあるけど、長くて面倒という理由は初めてだ。
そんな理由なのに、この子なら良いかという気持ちになる。
妹が居ればこういう気持ちなのかな? 夏休みに帰省した時に、兄さまや姉さまに聞いてみよう。
「でも!」
ビシッ! と指を突き付けると、少しだけ彼女の目が寄った。
「出来るだけ、ボクの方にその凶器的な本を倒さないこと! それで死にたくは無いからね」
「……善処」
ちょっと間があったことが気になるけど、今はこれで良いかな?
「熱も無いみたいだし、着替えようか」
「いや」
即答。打てば響くとはこのことか、というタイミング。
「毎日言っているけど、着たままはダメだよ。いつも通りボクの着替えを貸してあげるから、洗濯物を出す前に早く脱いで着替えて」
「今日はいい、このままで」
「ふ~ん……」
窓を見ると、カーテンの隙間から今日も明るい陽射しが射し込んでいる。
小鳥のさえずりも聞こえてくるし、外も徐々に賑やかになっていくだろう。
余り時間は無い。
ボクは今からの運動に備えて軽く手首を振って筋肉をほぐす。
ローレシアを見ると、相変わらずの姿勢のままうつらうつらしていた。
さて……。
「どうせいつもボクが着替えさせているけど、早く脱いで!」
この子は口ではともかく、行動では余り抵抗しない。いや、いつもは持っている本をこちらに向けたりして多少は抵抗するけど、今日は本も無いし僅かな抵抗も今日はしない。
こちらに手繰り寄せると、ボクよりも少し小さく軽い身体を抱き上げる。
着ていたかぶるだけのローブに手をかけて――。
「おはよう、二人とも。今朝もにぎやか……」
「あ……」
ノックと同時に入ってきたのはルイズ……様。
この数日、よくこの部屋に遊びに来るから、ノックがただするだけのものになっていた事が仇に……。
ローレシアの服に手をかけたままの姿勢で、ドアを開いた状態で止まっているルイズ……様と無言で見つめあう。
「ご……」
「ご?」
「ごゆっくり」
何かおかしい言葉と共に、ルイズ様が踵を返しドアを閉めて出ていこうと……。
「ま、待って下さいルイズ様!? これは誤解なんで……ゲホッゲホッガフッ!?」
まずい。いくら何でもこんな誤解はまずいよ!?
呼び止めようと大声を上げたら咳が込み上げてきた……。
最近は少し落ち着いていたんだけどな。
両手でローレシアを抱いていたのを片手にし、空いた片手で口元を押さえる。
「大丈夫!?」
慌てて部屋の中に入ってきたルイズが、ベッドに腰掛けて背中をさすってくれている。
ルイズのさする手の横に、添えられる手。
ボクに抱え上げられたローレシアが、少し姿勢をずらして後ろ手に、ボクの背中に手を当ててくれていた。
二人が触れてくれていると、すぐに楽になっていく気がする。
咳が落ち着いたのを見計らって、ベッド脇の小さな鏡台の上からルイズ様が水の入ったコップを取ってくれた。
それを一気に飲み干して一息ついた所で、ルイズ様に頭を下げる。
「ありがとうございましたルイズ様」
「気にしないで良いわ。それより、様付けはやめてって言った筈よ?」
「あ、あはは……」
無理だってば……。
ジト目で見ているルイズ様から視線をそらす。
「ローレシアもありがとう」
声をかけても返事は無いけど、それもよくあること。
「今日は特に静かね、その子。疲労困憊で今にも寝てしまいそうな」
ルイズ様が、ボクが抱き抱えたままのローレシアを覗きこんでそう言った。
ボクも見てみると、うつむいた顔に目は閉じかけで、確かに今にも寝てしまいそうだった。
「今朝は、起きた時からこういう感じで……「セレスティナ?」……感じなんだよルイズ……」
笑顔で圧力なんて酷いよ、ルイズ様。
「着替えは後からにして、今は寝かせてあげようかな……」
この部屋に来た直後はそういう様子は無かったけど、ここ二・三日、午前中は特に眠たそうにしていた。元々そういう生活スタイルなら、ボクがあれこれ言うのも変かなと思うし、誰かに迷惑をかけているわけでもないしね。……今朝の強打以外。
彼女をまたベッドに寝かせて(勿論、普通に仰向けだよ?)、掛け布団をかける。
殺人未遂の凶器は、ボクでは持ち上げられないのは分かっているのでそのまま。特別な魔法がかかっているらしく、他の人には持ち上げることが出来ないそうだ。
「口を開いたら面倒とか手間とかそういうのばかりだけど、寝ている姿は可愛いわね。思わず触りたくなるというか……」
「うんうん。面倒とか手間とかイヤとか拒否とか、起きている間は周りに気怠くなる力みたいなのがあるけど、寝ている時は本当に可愛い……と……?」
あれ……?
「日頃の会話がよく分かるわね、それ」
「あーー!?」
「な、なに!?」
しみじみと何か呟いていたルイズ様が、ボクの上げた叫び声に驚いてのけぞっている。
「ごめんなさい、ルイズ様! 今、失礼な話し方を……!?」
「さっきので良いのよ! って何回言えば分かるのかしら、セレスティナ!」
慌てて頭を下げようとしたら、目の前に突き出された――握り締められた拳。
恐る恐る視線を上げると、素敵なまでに笑顔なルイズ様。うん、ボクの魂がどこかに飛んでいきそうだ。
「ほら、馬鹿なことしていないで早くあなた自身が着替えなさい! もうすぐ朝食の時間よ?」
「ウソ……!?」
こんなやりとりでボクは何分使っていたのだろう……。
枕元から小さな杖を引き抜いて浮遊魔法を唱えると、床に着かないギリギリの高さでベッドとは反対側に置かれたクローゼットの所へ。
寝間着を脱いで、下着を換えブラウス、スカート、タイツとそれなりに手際良く着替えて、最後に外套掛けから茶色いマントを外して身に付ける。
「お待たせしました!」
ボクが着替えている間、ベッドの上に寝そべってローレシアの顔を覗いたり頬をつついていたルイズ様。
こちらの仕度が終わった事を確認すると、名残惜しそうにローレシアに触れていた手を離してベッドから下りる。
「じゃあ、行きましょうか」
「はい」
「セレスティナ?」
「あ……う、うん」
と、友達って難しいな……。
起こさない様に静かに扉を閉めて、ボクはルイズ様と食堂に向かった。
※ ※ ※
「馴染み始めた、時間が無い」
ベッドの上に寝かせられていた少女が小さく呟いた。それはいつも聞かせている気怠げなものではなく、酷く疲労を滲ませたもの。
「処置……急がないと」
少女が弱々しい動きで布団から手を伸ばすと、浮かび上がった巨大な本がその手の上で浮遊している。
「治療術は苦手、実行中の生命転換・付与も、本来私が使うのは駄目。鍛練バカがしているのを真似しても、やはり変換効率が今一つ。もしくは、鍛練バカの恒常的な火の力が私にもあれば」
国に戻れば多くの姉と家族がいる少女。自分が今必要と考えている力を持ったすぐ上の姉に、何やら酷いことを言いながら……少女は居ないものは仕方がないと、頭の中を切り換えた。
浮かんでいた本が開き、ゆっくりとページが捲れていく。
その動きに合わせて小さな風が起こり、少女が伸ばした腕の袖口が捲れて――何やら変色した大きな痣が見えた。
「死なせては“借り”も返せなくなる」