「……ん?」
ドクターは重たい瞼を擦りながら、耳に届いた微かな違和感の方へ視線を向ける。
ふとデジタル時計のディスプレイに目を向かわせると、そこには『AM 4:14』と書かれた時間が表示されていた。
ドクターの部屋は執務室と隣り合わせになっており、ドア一枚で繋がっている。故に執務室の音は、例えどんな些細な音でもドクターの部屋まで届くのだ。
しかしこの音は何かが地面へ落ちるだとか、そういう自然的な音ではなく、明らかに誰かが発している音だった。
普段はまだ寝ている時間だが、まあいいだろう。
ドクターは素早く普段のフード姿に着替え、いつものコンタクトではなく眼鏡を掛けた。
そして執務室の中に居るであろう人物を驚かせないように、ゆっくりとドアに手を掛け、引いていく。
まだ日が昇りきっていないこの時間帯、当然執務室には暗闇が広がっており、普段とは違った雰囲気が醸し出されていた。
しかしその暗闇に、たった一つだけぼんやりとした暖かな光が茫漠な暗闇の中に、ひっそりと浮かんでいた。
私は音を立てぬようにと、忍び足で近づき、灯りを持っている人物の正体を探った。
「ッ!?」
灯りを持っていた人物が、ドクターの存在に気づき、暖かな光はグラリと揺らめいた。
私は慌てて体勢を崩したであろう人物に手を差し伸べて、安否を確認した。
「あ、ごめん。大丈夫?」
「……あぁ」
そして手を伸ばした先に居た人物は、こちらを幽霊でも見るような瞳で見つめているケルシーだった。
「え……」
思いもよらない人物に少しだけ驚いたが、ドクターはケルシーの華奢な手を引き、ゆっくりと上体を起こさせる。
「す、すまない。非常識な時間だとは分かっていたが、少しだけ気になるものがあってな」
頬を紅潮させながら俯くケルシーの姿は、ドクターにとっては非常に新鮮で、普段のムスッとした表情からは想像もつかない程に柔らかな表情が浮かび上がっていた。
「いや、大丈夫だよ。……えと?」
何でここに、とは言わずとも本人は分かっているようで、ケルシーはドクターの目の前にストップをかけるように手を置いた。
「あー、その……なんだ。進捗はどうかと気になってな。アーミヤに訊いたらここに写真が纏められているという情報をだな……」
ケルシーは何を恥ずかしがっているのだろうか。
それはドクターにとって理解できない感情だったが、ケルシーを相手に……という今更感が漏れだし、グッとそれを飲み込んだ。
「……あー、それならこれだよ。あと電気も付けるよ」
「すまない」
ドクターはケルシーを赤い額縁の中に飾っている写真の数々に導き、執務室の入口の隣に設置されている照明の電源をオンにする。
「……ほう」
じんわりと執務室の照明が暗闇だった空間を一気に支配していき、ケルシーの瞳には色鮮やかな写真の数々が瞳の中へ飛び込んでくる。
ドクターはアンジェリーナと似たようなケルシーの反応が面白く、自然と口がニヤケてしまう。
ドクターは音を立てぬように静かにカップを二つ用意し、珈琲を淹れ始める。
「これは……本当にレッド一人で撮ったのか?」
「うん。凄いだろう?私もレッドにこんな才能があるなんて思わなかったよ」
「そうか……そうか」
感慨深く見入っているケルシーの姿は、何処か寂しそうで、その半分嬉しそうだった。
ドクターは淹れ終わった珈琲をテーブルに二つ置き、ソファーに腰を落とした後、写真を眺めているケルシーを見ながら一口啜った。
「ぁ……すまない、頂こう」
あまりにも見入っていたのか、ドクターが珈琲を啜る音で漸く珈琲の存在に気づいたケルシーは、お礼を述べた後にカップを持って啜る。
「最近、ロドス内で仲良くしてくれるオペレーターも増えてるみたいだよ。……本当によかった」
「らしいな」
ふふ、と小さく笑いまた一口珈琲を口の中へ流し込んだケルシーは、ほっと落ち着くように息を吐き出す。
そこから先、二人の間に会話は生まれず、二人の目線の先にはレッドの写真があった。
喜んでいるのだ。彼女の著しい成長に。驚いているのだ。彼女の適応能力に。寂しいのだ。一瞬で巣立っていく子供を見ているようで。
ドクターはカップをテーブルに置き、惘々としているケルシーの方を見つめ、確認を取る。
「これで終えても?」
「……あぁ、そうだな」
返答は呆気ないものだった。
きっと彼女の中では、この胸にぽっかりと穴が空いたような喪失感は一過性の物なのだと、無理遣り消化しようとしているのだろう。
それも間違いでは無いだろう。実に彼女らしい考えだと思う。
だから、だろうか。少しだけ、いつもは私にキツく当たってくる彼女を放っとけなかった。
「写真ってさ、その一枚に思い出やその時の感情が宿るんだよ。例え何十、何百、何千年、どれだけ経とうと決して風化しない素晴らしい物だ。どれだけ歳を重ねても、何度も何度も思い出せるんだ」
「……そうか」
「今のケルシーの感情、多分とても大事な物で、風化させては行けない物だと思う。今は辛くても、何年も経ったあとにはきっと、いい思い出として消化されているはずだよ」
ケルシーは目を丸くして、ドクターの目を見た。そして言いたい事を察し、静かに笑った。
「ふふ、そうだな。最初レッドに撮られた時は随分ブレていたしな。今度二人で撮ってみるとしよう」
ケルシーは胸のつかえが取れたように、空っぽになったカップを置き、執務室のドアに手を掛けた。
そしてドアノブを半分捻ったところで、ドクターの方を振り向いた。
「あぁ、そうだ。ドクター」
「はい?」
思い出したかのように懐から一枚の写真を取り出し、ドクターへ渡した。
ドクターは目を大きくし、ケルシーを一瞥する。
彼女は真っ赤に染め上がっていて、決して目を合わせてはくれなかった。
彼女なりのご褒美なのだろう。少々不器用だとは思うが、彼女はそこがいい。私はそう思う。
写真には、『おめでとう』という丁寧な文字に微笑んでいるケルシーの自撮り写真だった。
これにて完結です。短い間でしたが、最後までご愛読ありがとうございました。