白蛇病恋譚~拾った妖怪に惚れて人間やめた話   作:二本角

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遅くなって申し訳ありません。
過去編だけを投稿するのもどうかと思って雫パートまで仕上げたのですが、凄まじい量に・・・・お読みいただければ幸いです。

そして、皆さんよいお年を!!


前日譚 天花乱墜~夜空の霹靂

 それは、今よりはるか昔。

 それは海の外で魔人が魔竜を打ち倒すよりも前、今では現世のほとんどを覆いつくす忘却界が作られるよりも前のことであった。

 現世と常世は分かたれてはいたものの、その境目である狭間には現代よりもずっと多くの穴が空いていた。様々な魑魅魍魎が常世から現世に渡って狼藉を働き、人間は彼らに怯えつつ、その身に異能を宿す者たちにすがって生きていた。現代よりも現世に満ちる瘴気が濃く、異能者もそれなりの数がおり、その技量も実戦によって洗練された者たちが各地にいたために妖怪と人間の均衡がかろうじて拮抗していた、そんな時代。

 

 ある日の夕暮れ、一匹の狐が常世から現世に逃げてきた。

 

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「はあっはあっはあっ・・・・」

 

 夕暮れの山の中、一人の女が獣道を這うようにして歩いていた。なぜ這うようにしているかと言えば、その体が傷だらけだからだ。まるで何か大きな物がぶつかったかのように、片方の腕が完全に潰れ、着物には鋭利な刃物で斬られたような跡がいくつもつき、深い傷跡からは止めどなく血が溢れている。元は綺麗な模様のある高価そうな着物であったのだろうが、今や完全にぼろきれと化していた。さらには、片足も土踏まずから5本の指に至るまでの範囲がスッパリとなくなっていた。着物のように、かなりの業物に斬られたのだと誰でも分かることだろう。その整った顔には脂汗が滴り、ふんわりとした金髪にも泥と血が塗りたくったかのように付いていた。

 

「はあっ・・・なんとか、逃げ切ったか・・・」

 

 思わず目をそむけたくなるようなひどい有様だが、その時代は妖怪も多く、また人間の治安もよいとはいえなかったため、怪我人がふらふらしていることそのものはそんなに珍しいことではない。さすがに女ほどの重症の者はそうそういないものの、それはままある光景であった。この時代に道行く怪我人にかまうほど余裕のあるものなど中々おらず、そもそも女のいる山の中は夕暮れということもあって人気が無い。明日の朝には山の中に死体が一つ増え、そのうちに獣か妖怪に食われ無くなる。そんなありふれた末路をこの女も辿るのだろうと思われたが、常人ならば一歩も進むことができなくてもおかしくないほどの怪我であるのに、女は一向に止まる気配がない。それもそのはずだ。

 

「くぅ・・!!」

 

 女は憎々し気に表情を歪めながら傷ついた体に鞭を撃ち打って歩く。その背後に生える5本の狐の尾を揺らしながら。

 

「常世には・・・しばらく戻れんな。現世でなんとか体を癒さねば・・・・」

 

 常世からやって来る者に、まともなモノはいない。そこからやって来る者は、皆、人の理から外れたモノたちだ。そして女もまたそうした人外の一体であり、生き抜くための力を高めるために修行を積んでいた狐の妖怪であった。

 

「くそっ・・・あの鬼女めぇ・・!!」

 

 なぜそんな彼女、狐がこのような傷を負っているのか?それは常世における上位者の趣味によるものだ。狐が戦った、もとい逃げ回っていた妖怪は常世の中でも指折りの戦闘狂であり、誰彼構わず襲い掛かるような動く災害であった。格下である狐にもかの妖怪は嬉々として拳と武器を振るい、その命を散らそうとしてきたのである。狐は得意の幻術や分け身を使ってどうにかこうにか近くにあった中規模の穴に飛び込んで現世に逃げてきたのだ。不幸中の幸いとも言おうか、相手が狐よりもはるかに格上だったおかげで中程度の穴を通り抜けることができなかったようである。

 

「さすがに、これ以上はきついかの・・・」

 

 ひたすらに歩いていた狐は、大木にもたれて座り込んだ。妖怪といえど、それほどの大怪我を負いながら進むのは厳しかったのだろう。その表情は疲れ切り、今にも気を失いそうであった。

 

「吾も、ここまでか・・・」

 

 現世といえど、その時代は各地に多数の穴が空いている時代だ。体力も霊力も底をついた状態で、血の臭いを漂わせながら道端で倒れ込んでしまえば、ほぼ命の保証はない。そんじょそこらにいる妖怪の餌になるのは確定である。現に、狐の優れた感覚は、血の臭いに惹かれた妖怪が近くにいることに気づいていた。

 

「ああ、生き残るために力を求めたのに、その半ばで終わるとは。これならば、ただの獣のまま死んでいた方がマシだったかの・・・」

 

 狐は元々はただの獣だった。ただ、素養があったのか、穴から現世に満ちる瘴気を浴び続けたことで霊力と知性を得たのである。一度知性と理性を手にしてしまえば、途端に死ぬのが怖くなった。そうして、現世や常世の各地を巡りながら力を蓄えていたのだが、それがこのようなところで終るとなれば、ひたすらに虚しかった。

 

「吾は、何のために生きてきたのだろうな・・・」

「グルルルルル・・・・」

 

 独り言をつぶやくも、返ってきたのはガサリと茂みを揺らして現れた二つの首を持つ狼の唸り声だけだ。

 力を得たのは生き残るため。では、生き残ったら何をしたかったのだろう?まさか、この雑魚妖怪の胃袋に収まるためではあるまい。死の間際だからこそ、そんな疑問が湧いて来るも答えはでなかった。それがわからないことが悲しかった。

 

「吾は、吾は・・・・」

「グガアアアアアアアアア!!」

 

 狼が地を蹴って飛び掛かって来る。さて、二つの首のどちらが先に届くだろうか。狐はなぜか不思議と落ち着いた気分だった。だからこそ、「自分の生きてきた理由」という、自分の中にあるかどうかもわからない答えを絞り出そうとする。死を前にしながらも、最後の力をつぎ込んで声を・・・

 

「刺せ、『百舌の早贄』」

「ギャオオアアアアアアア!?」

「吾、は・・?」

 

 声を出そうとしたところで、自分の知らない声音がした。同時に、近くの木の枝が槍のように尖ったかと思えば、狼はまるで鳥の保存食のごとく串刺しになっていた。

 

「ふう、間に合ったぁ・・・・なあ、狐のねーちゃん、薬はいるか?」

「・・・・最後に見るのが、人間、とはな。まさか、人間に、助けられる・・・とは」

「あっ!?おーい!!目を閉じるな!!死ぬぞぉ!!」

 

 もしかしたらこれは噂に聞く走馬灯というやつかもしれない。それか、あまりの辛さに知らず知らずうちに自分に幻術でもかけたのだろうか?まさか自分が化かされるとは、最後に奇妙な体験ができた。

 そんなことを想いながら、慌てたような男の声を尻目に狐の意識は闇に沈んでいった。

 

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 パチパチと火の爆ぜる音がする。

 

「・・・ん?」

 

 耳に小刻みに届く音が、狐を起こした。

 

「・・・ここは?吾は?」

 

 体に走る痛みは鈍くなっており、頭もぼんやりとしていて定かではない。辺りを見回すと、そこはどうやらどこかの家の中のようだった。板張りの床の上には草を編んで作った敷物が敷かれ、さらに自分はその上にある布団の中に寝かされていた。どうやらあの世というのはずいぶんと庶民的なところのようだ。

 

「ここがあの世か。思ったより普通のところよな」

「人の家を死後の世界呼ばわりしてんじゃねーよ。オレは閻魔様か?」

「!?」

 

 ぽつりと呟いた独り言に返事があった。

 

「おお。さすがは妖怪。怪我大分治ってんじゃん。いや、ダメもとで前作った試作品のおかげか?蛇やら蜥蜴やらぶち込みまくったお遊びで作ったやつだったんだがな~」

 

 ぎょっとした顔で狐が声のした方を向くと、ちょうど部屋の入口から男が湯気の立った盆を運んできたところだった。匂いからして粥だろうか。

 

「まあいいや。これ食うか?」

「・・・・・汝は」

 

 整ってはいるが、青白い顔をした男であった。年のころは20には届かないくらいだろうか。そこいらの村民が着るような粗末な服よりは少し上等な着物を着ており、背こそ高いが、袖から覗く腕は枯れ木かと思うほど細く弱弱しい。後ろで束ねた緑がかった黒髪も艶がなく、萎れた蔦のようにゆらゆらとしいる。だが、その目と声には不思議な活気に満ちていた。

 

「オレか?オレは晴。この村で薬師やってる。お前は?っていうか、これ食うの?食わないの?」

「吾は・・・吾に名前はない」

「へ~、そうなんだ。で、これ食う?オレとしてはそろそろ腕が限界なんだけど」

「・・・・一度床に置けばいいのではないか」

「あっ、そっか・・・・」

 

 晴と名乗った若者はそこでプルプルと震える腕で盆を布団の近くの床に下した。そこで、晴もドカッとあぐらをかく。

 

「ふぅ~。きつかった。オレってばこれでも昔は都住みだったから、体力ないんだよね~」

「・・・・・」

 

 やれやれと困ったように半笑いする晴に、狐は何も答えない。その目は冷たく晴を見据えていた。

 

「で、食べ・・・」

『なぜ吾をここに連れてきた?』

 

 なぜか執拗に粥を勧めてくる晴を無視して、狐はその声に霊力を乗せて、気になったことを聞くフリをして術を使う。狐の力がこもった声もまた幻術の一種となり、問いかけられた者の意識を混濁させ、真実を自白させる。今回は質問をしたいこともあるが、それ以上に意識を奪いたかった。未だに尻尾の数は5本と言えど、格はそろそろ大穴でなければ通れなくなるほどには高い狐の術だ。生半可な術者であれば抵抗する間もなくハマるのだが・・・

 

「言ったじゃん?オレ薬師だし。怪我人は客っていうか?あと、弱ってるのに無理して術使うなよ」

(やはり効果がないか。こやつ、相当な手練れの術師だ)

 

 晴は特に術にかかった様子もなく答えてみせた。だがそれは狐にも予想できたことでもある。近くにいるから分かるが、晴からはかなり強力な霊力を感じる。気を失う前に見た術から判断しても、間違いなく自分よりも格上だ。幻術も弾かれてしまっている。

 

「そうか、ならば尻尾を一本くれてやるから吾を見逃せ。傷もここまで治れば十分。薬代くらいにはなるだろう」

「いやいや、そんなもん渡されても困るって。確かにアンタに用があったから助けたけど、尻尾は別に・・・いや、結構触り心地よさそうだから後で触らせてください」

(・・・もしかすれば、あそこで死んだ方がマシな目にあうかもしれんな。まさか吾よりも上手の術師に捕まるとは。薬の材料にでもする気か?尻尾一本程度では足らんようなことをする気か?)

 

 どこかズレたような返答をする晴を見やりながらも、狐の頭はスッと冷めていった。元より体力も霊力も大して回復していない。その上で頼みの幻術も効かないのならばもうどうにもならない。一種の諦めの境地である。

 

「・・・目的を教えろ。尻尾を触らせるぐらいならいくらでも触って構わん。だからせめて一思いに・・」

「じゃあ、オレの嫁になって下さい!!」

「・・・・は?」

 

 もはやどうにでもなれと投げやりに問いかけた狐に、理解不能な答えが返ってきた。

 

「今、何と言った?」

「結婚してください!!」

「・・・・正気か?」

 

 狐は目の前の男の目を見てそう言う。もしかしたら自分の勘違いで、実はしっかり術にかかっているのだろうかと思うが、その目は濁った様子もなくキラキラと輝いている。

 

「正気も正気・・・いや、ねーちゃんの色香、恋の病に侵されているから正気ではないのか?オレは今、正気なのか?そもそも正気のオレとは一体?」

「・・・・・」

 

 どういう思考回路をしているのか、いつの間にか哲学的なことを考え出した晴を気味の悪いものを見るような目で狐は見る。細やかな幻術の扱いを身につける過程で人化の術を、さらには半妖体を、ひいては人間の表情を観察する技術を身に着けた狐には分かることがあった。

 

(こやつ、正気だ。素面で言っておる)

 

 妖怪やら人外が発する霊力は人間の精神にとって毒だ。それらは妖怪への恐怖と嫌悪をもたらし、同格以上であっても完全に消し去ることはできない。さらには現代よりも妖怪の脅威が身近な時代だ。妖怪と人間の仲は最悪といっていい状況である。まあ、狐は何かを襲って敵を作ることよりもひたすら逃げ回って危険を避ける性格だったために人間に危害を加えたことはなかったが。

 

「ともかく、オレはあんたに一目ぼれしちゃったわけよ。そろそろオレもこんな年だし、人肌も恋しいしっていう感じで」

「・・・吾は妖怪だぞ」

「え~。でもあんたくらい綺麗な女なんてそうはいないし・・・・胸もでかいし(ボソッ)」

「・・・・・」

「と、ともかく、オレは昔から妖怪だの人間だのあんま気にしない方なんだよ。人間だってお世辞にもお上品な奴らばっかなんて言えないし。それなら妖怪を嫁に選んでも大して変わんないって。少なくともあんたくらいの別嬪を妖怪だから諦めるなんて勿体ない真似できない!!」

 

 だが、目の前の男は非常に珍しい例外のようであった。その目は半妖化した狐の豊かな胸部を穴の開くような目で見ており、生理的嫌悪感から狐が胸を手で隠しつつ視線の温度を下げると、晴は慌てたようにまくし立てる。だが、チラチラと未練がましく、ぎらついた眼を隠しきれていなかった。そんな晴に呆れたようにため息をつく。

 しかし、晴の話は狐にとって中々悪くない話だ。

 

「わかった。汝の嫁になるということは、手荒な真似はせんということだな?ならば・・・」

「あ~!!ちょっと待った!!そういうのじゃないって!!それならいいよ!!悪かった!!」

「何?」

「いや、どこかの賊じゃないんだから、そんな交換条件で嫁になってもらうとか後味悪いじゃん。それに、そうでなくたってあんたはオレが拾った客なんだし、途中で放り出すようなことしねぇよ。オレはこれでも気遣いのできる男なんだぜ」

「・・・・そんなだから童貞なんじゃぞ」

「ど、童貞とちゃうわ!!」

 

 どうやらこの晴と言う男は妖怪と人間の違いを気にしないばかりか、ずいぶんとお人よしらしい。それはその時代においてどれほど珍しいことか。現代まで見渡しても同じような人間は数える程だろう。

 

「まあでも、あんたが身の安全を守りたいって言うんならさ、契約を結ばないか?」

「契約だと?」

「そう。オレはあんたに手を出さないし、他の連中にもアンタのことは言わない。その代わり、アンタは怪我が治ったらオレの仕事の手伝いをして欲しい。オレの代わりに薬の材料採りに行くとかそういう感じで。実を言うと仕事の弟子とかそんな感じのやつも欲しかったんだよね。昨日アンタを見つけたのも薬草採りに行ってたからなんだけど、採ってすぐに加工しなきゃいけないのは式神には無理でさぁ」

「ふむ」

 

 なるほどと、狐は合点がいった。結婚云々も本気のようだったが、主な目的はこちらだったのだろう。狐が密かに耳をそばだてるも、この家に晴以外の人間の気配はない。この病弱そうな男からすれば人では多い方がいいということか。

 

(吾としても未だに傷は癒えておらず、どこかで落ち着いて休む必要がある。それに、この男が本当に吾に、その、あれだ。こ、好意を持っているというのならば、身の安全に利用できるやもしれぬ。体は弱そうだが、霊力はすさまじいものがある。吾より強いのは間違いない)

 

 狐はそんな打算を組み上げると、晴の提案を受け入れることにした。

 

「わかった。ならば受けよう。無論、細かいところは詰めさせてもらうがな」

「本当か!?いやいや、面倒だから大体そっちで決めちゃっていいぜ!!アンタみたいな別嬪が仕事手伝ってくれるってだけで元は十分取れ・・・・グフッゥ!!」

「なっ!?お、おい!!大丈夫か!?」

 

 話がまとまったところで、晴が口を手で押さえたかと思えば、強く咳き込んだのだ。その手からは赤い液体が滴っている。

 

「ゴフッ!!、ゲホッ!!・・・ちょ、そこのお椀、取って・・・」

「わ、わかった!!ほれ!!」

「ケホッ!!・・・・あ~出したわ。助かったぜ・・・・薬飲まねぇと。あ、そうだ。ほれ、これアンタ用の薬粥。病人はちゃんと薬飲まないとダメだぜ」

「お前に言われたくないわ!!!というか、そんな病気になりそうな真っ赤な粥なんぞ食う気がするか!!」

 

 懐から取り出した丸薬をかみ砕きつつ、自分の喀血がふんだんに入った椀を臆することなく差し出してきた晴に、自分の怪我も忘れて狐は大声で突っ込んだ。

 

 

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「なあ、珠乃。その干物取って」

「ああ、このイモリの干物か」

「そうそう」

 

 2年が経った。

 晴の屋敷の一室。壁をすべて埋めるように棚が置かれ、その棚にはこれまた隙間なく壺やら何かの干物の束やらが並べられている。

 狐、否、珠乃がイモリの干物を渡すと、晴はその非力な腕を動かして乳棒を動かして他の薬草とすり潰す。身体強化系の術を使用しているようで、干物はあっという間に粉々になった。

 

「・・・・」

「ん?どうした珠乃?じっと見て。惚れた?」

「たわけ。そんなわけがあるか。ただ、吾に名前が付き、それを自然と受け入れていたな、とな」

「あ~」

 

 珠乃という名前を付けたのは晴だ。「名前がないのは呼びにくい」という至極もっともな理由で、過去にいたという狐の大妖怪の名をもじったものらしい。特に反対する理由もなかったが、どうやら自然と自分の名前だと認識していたらしい。ちなみに、最初に名前の由来を言う際に、「胸にでかい玉が二つついてるから」と晴が口走ったが、「そうか。ならばお前の股についてる玉は吾の名と被るから潰してやろう。これからは玉なしと名乗るがいい」と返され顔色の悪い顔をさらに青くして本当の由来を説明した。

 

「名前、気に入らなかった?」

「そんなわけがない。気に入らねば撤回させておる。ただ、なんとなく感慨深く思っただけじゃ」

「そっか。まあ、昔のお前はなんかピリピリしてたしな。なんか丸くなったんじゃね?珠乃だけに」

「別にうまくないぞ」

「いや、今のはいろんな意味があってな?お前、ここにきてから結構いろんなもの食ってるから、腹の肉が・・・・」

「ふん!!」

「おぶぅ!?」

 

 妙なことを口走った晴の頭をそこそこ力を出してはたく。晴はすり鉢に顔を突っ込みかけた。

 

「汝、いい加減女心を考えよと言ったじゃろうが。しかもつまらんぞ」

「いや、悪いわる、ゴフッ!?」

「む!!いつもの発作か。ほれ」

「ゴフッ、ゴハッ・・・・・・悪い、助かったわ」

 

 晴が突然咳き込んだかと思えば、血を吐いた。しかし、最初のころは驚いていた珠乃も慣れたものだ。丸薬を取り出すと晴に飲ませる。

 

「しかし、汝の発作は治らんのぉ」

「なんか生まれつきなんだよね。昔はそこまでひどくはなかったんだが、数年前くらいから血が出るようになってさ。薬師になってなきゃ死んでたね」

 

 晴は生まれつき体が弱かったらしい。晴は元々都の帝に仕える霊能者の一族の直系だったようなのだが、どういうわけか他の兄たちよりも何倍も強い力を持って生まれてきたために、その霊力のせいで体が痛めつけられているとは本人の弁だ。おかげで植物を媒介としなければ霊力が暴走してろくに術も使えないらしい。ややこしいことに、晴は直系とはいえ当主とその愛妾の子らしく、そんな卑しい身分の者が他の有力な霊能者一族から迎えた妻との子どもよりも強い力を持ってしまったことで、色々と面倒ごとが多かったとか。そこで、晴の母は晴を連れて田舎に離れようと考えて今のところに移り住んだ。そして、子供のために薬学と医学を学び、そんな母を見て、晴も母を支えるため、そしてゆくゆくは自分のために術の修行をこなしつつ薬師になった。幸いというべきか、当主が晴の母に向ける愛情は確かなモノだったようで、資金や住居、医学書などは惜しみなく支援してくれた。都からはずいぶんと離れているのだが、年に一回はわざわざ会いに来るほどだった。その時は晴の母も嬉しそうな顔をしていたというから、その愛は一方通行ではなかったのだろう。そんな晴の母は珠乃が来る一年ほど前に事故で亡くなり、父である当主もほどなくして後を追うように死んだ。それからは支援もなくなったが、しっかりと生活の基盤を築いていた晴は問題なく独り立ちできていた。

 

「しかし、珠乃がいてくれて本当に助かったわ。一人だと薬飲むまでに結構かかるんだよね」

「まあ、ここでの生活はなかなかに安定しておって、吾としても悪くないからの。汝にいなくなってしまってもらえば困る」

「え?何それ?遠回しな愛の告白?」

「・・・汝、頭の方も病気か?」

『ごめんくださ~い!!先生はいますか~?』

「お、客だ。珠乃、診察部屋に通して軽く診といて。少ししたら行くわ」

「うむ」

 

 他愛のない会話をしていると、村人が来た。また病人か怪我人でも出たのだろう。村には晴が結界を張っているために、妖怪の襲撃は防げており、平和だ。そして、珠乃は契約のこともあって薬師見習いとして修行しており、村人の簡単な診察も行えるようになっていた。おかげで村人の仲はそれなりによい。人化の術を使い、霊力を抑えているのは当然だが、晴が良い関係を築いていたのが大きいだろう。まあ、男の患者が来た時には発作がきつくても晴が対応するくらいに何やら警戒していたが。

 

(そんなに不安がらずとも、吾は・・・って、何を考えておる!!妖怪が人間となど、あり得るはずがなかろう!!)

 

 廊下を歩く際中、珠乃は妙なことを考えてしまい、なぜか火照った顔をピシャリと両手ではたいた。

 

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 さらに一年経った。

 

「おお、珠乃、また尻尾増えてんじゃん」

「うむ!!これで吾の安全はさらに高まったな!!」

「いや~。オレもなんか感慨深いね。これ、間違いなくオレが作った薬のおかげじゃん?」

「薬というよりは、汝の血じゃろうな。まさかこんな形で役に立つとはの」

 

 珠乃は7本になった己の尾を見つつ嬉しそうにしていた。だが、それが晴の薬のおかげだというのが若干複雑であった。それというのも・・・

 

「汝のための試作品を吾で試すというのはまあよかったが、時折混じっていた赤いのが汝の血だったとはな」

「悪い悪い。調合やってる時に血が混じっちゃってさ。あれ?でも珠乃がオレの体液を取り込んで強くなるって、こう、なんか不思議な興奮が・・・・」

「気色の悪いことを言うでないわ!!」

「あっはっは。悪い悪い。ほれ、新しい試作品」

 

 晴は自分の体調の維持のために薬を調合するのだが、その試作品にもたびたび改良を加えていた。しかし、そのうちに「万が一があっては困る」と珠乃が実験台を請け負うようになったのだ。晴は常世との穴の近くに生える霊力を帯びた霊草にこれまた穴の近くにいる妖怪となる前の生物を材料として使用しており、最近は珠乃がそれらを採りにも行っていた。しかし、それらの調合中に晴の霊力に満ちた血が混入することが頻発し、珠乃も晴の血を度々取り入れ、霊力の格を上げることになった。それが今までを過酷な生存競争で力を高めていた珠乃を何とも言えない気分にさせるのである。加えて最近はそこらの妖怪たちが「クサイ!!」と言って離れていくのも気になっていた。

 

(改めてそう言われると、薬が飲みにくくなるであろうが!!まったく晴のやつめ!!・・・そう、これは晴の試作品を試すのと吾が力を高めるだけのもの!!断じて妙な意味はない!!決して晴の血を飲むことに興奮など・・・・・はっ!?)

「ん?どうした?」

「な、なんでもない!!飲むぞ!!・・・・味は普通だな。体に違和感もない」

「そっか。ならあともう少し様子みて、そいつを叩き台にして作る・・・・ゴフッ」

「ほれ、薬」

「うう・・・スマン」

 

 最近になって、晴の発作の頻度が少し上がっていた。晴の中の霊力が未だに高まり続けているのもあるのだろう。霊草には高ぶった霊力を鎮静させる効果を持つものもあり、今はそうした草を材料にした薬で持ちこたえているが・・・・

 

「おい晴、少し横になったらどうだ?」

「え~。でもまだ調合しときたいのあるし」

「それは後で吾がやっておく。今は少し休め。吾の膝を貸してやる」

「・・・・本当ですか?」

「何故敬語になる?というか、懐を探って財布を出そうとするのをやめろ。金など取らんわ」

「あの、ボク初めてなんで優しくお願いします」

「・・・・気持ち悪(ボソっ)」

「ちょっと聞こえるぐらいの小声でそう言うの止めて!!」

 

 会話をしている内に、珠乃は自分が何を考えようとしていたか忘れていた。

 

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 さらに一年が経った。

 

「ゴホッゴホッ・・・珠乃、そっちの薬草取って・・・」

「おい、晴。頑張るのはいいが根を詰めすぎだ。少し抑えろ。その薬の調合は吾にもできる」

「あ~。そうかな。ならちっと休むわ・・・・・まったく、妖怪もいるってのに人間同士で戦なんぞやってんじゃねぇっての。薬が売れるのはありがたいけどさ」

「まったくじゃな・・・」

 

 晴のいる村は山深いところで戦火とは無縁であったが、薬師として有能な晴には行商人やら近くの豪農やらなにやらから依頼がひっきりなしに来た。つい先日には使いではなく直接格のある家の者がやってきて晴を無理やりにでも引っ張り出そうとしてきたほどだ。当然、その者は珠乃の手にかかり、今では虫も殺せぬくらい臆病な性格に捻じ曲げられていたが。ともかく、当時の現世は乱世だった。妖怪が人を襲い、病がはびこり飢饉が起きた。妖怪に怯える暮らしは人の心を蝕み、恐怖と飢えが獣性を煽る。そうして安全と明日への糧を得るために人間同士の不毛な争いが各地で巻き起こっていた。

 

「じゃあ、珠乃、膝」

「わかったわかった・・・・おい、うつ伏せになろうとするな。どこの匂いを嗅ぐつもりじゃ」

「え~、しょうがねえな。じゃあ下からその二つの山を見上げるとしようかね」

「壁の方を向け!!壁を」

「ちぇ~」

 

 晴の軽い体が、床の敷物の上に横たわり、頭は珠乃の膝に乗った。いつの頃からか、晴が休むときはこうするのが当たり前になっていた。

 

「ケホッケホッ・・・」

「晴。本当に大丈夫か?最近とみに顔色が悪いのじゃ」

「ゴホッゴホッ・・・あ~確かに最近は働きずめだしな。あ!!でも元気になる方法一個あったわ!!」

「・・・・一応聞いてやる。どんな方法だ?」

「いやね、珠乃さんがお薬を口移しで飲ませてくれたらね。そりゃあ元気になりますよ。そりゃもういろんなとこが」

「そんな減らず口を叩けるのなら大丈夫そうじゃな」

「え~!!そこは『しょうがないのぉ』って言いながらやってくれるとこじゃ・・・うぐっ!?ガハァッ!?」

「晴!?」

 

 そこで、晴が大きく咳き込んだ。床に赤い液体が広がる。

 

「はあはあ・・・・ゴフッゴハッ・・・やべ、息・・・カフッ!?」

 

 顔色が悪い。額からはいつの間にか大粒の汗がにじんでいた。それを見た珠乃に迷いはなかった。

 

 

―チュゥと二人の唇が重なった。

 

「・・・・ふぅ、って、あれ・・・珠乃さん?今・・・・」

「汝の言ったことが嘘でなければ、それで元気になるのじゃろ?さっさと元のヘラヘラしたツラに戻れ・・吾は今から粥でも作る。大人しくしておれよ?仕事など始めたら承知せんからな」

「えっと、その・・・はい」

 

 借りてきた猫のようにおとなしくなった晴を尻目に、珠乃は赤くなった顔を見られないように素早く立ち上がって部屋を出た。

 心臓がうるさいほどに鳴っていた。

 

(唇を重ねるというのは、あんなにも気持ちのいいものなのだな・・・)

 

 そんなことを考えながら。

 

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 さらに一年が経った。

 

「なあ、初めて会ったときのこと覚えてるか?」

「なんじゃ唐突に。もちろん覚えておる」

 

 布団に横たわる晴に膝枕をしつつ、珠乃は晴の頭を愛おし気に撫でた。

 この一年で、晴の体調は悪化していた。霊力の成長がとどまることを知らなかったのだ。常世、現世にいる生き物は、肉体、精神、魂の三要素で構成されている。肉体は文字通りの体。精神は魂と肉体を繋ぐ紐。そして魂とは霊力の源であり、この世界の欠片であるいうことがここ最近の二人の研究でわかっていた。どうしてそんなことを調べたのかと言えば、晴の霊力の成長を止めるためだ。しかし、それが分かっても役には立たなかった。わかったことと言えば、晴の魂である世界の欠片というものが、並程度の霊能者よりもはるかに大きいということだけだ。まるで水晶のように欠片が成長しているかのようだった。

 

「じゃあさ、オレが珠乃を拾った理由も覚えてるよな?」

「ああ。弟子が欲しかったんじゃろ?」

「・・・・わざと言ってるわけじゃないよね?もう一つの、っていうか一番大きな理由の方」

「・・・・・ああ。覚えておる」

 

 珠乃が晴を撫でる手つきに力がこもった。知らず知らずのうちに動きが早くなる。

 

「なぜ今そんなことを言う?」

「んや。なんか思い出しちゃってさ。最初に会った時は珠乃が寝ててオレが看病してたから」

「・・・・そうか」

 

 二人の間に沈黙が訪れた。

 

「珠乃、結婚してくれ」

「・・・・・」

 

 晴が口火を切った。その顔は普段の軽薄な様子は全くなく、真剣そのものだ。

 

「オレは多分そんなに長くない。自分勝手なことを言ってるのも分かってる。別にオレと寝てくれなんて言うつもりもない。ただ、オレはお前にも・・・」

「断る!!」

「・・・・・」

 

 何かを続けようとした晴を遮るように、珠乃は叫んだ。

 

「人間と妖怪の結婚などうまくいくものか!!それに、吾は汝のことなどなんとも思っておらぬ!!吾がここにいるのは、汝と交わした契約とここが安全に力を蓄えられるからだ!!思い上がるな!!」

 

 珠乃は立ち上がると、逃げるように部屋を出た。

 

「珠乃・・・・」

 

 晴が自分の名前を呼ぶ声が耳に入ったが、珠乃は止まらなかった。ただ、熱い液体が頬を伝って落ちていった。

 

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 嬉しかった。

 

 好きだった。

 

 愛している。

 

 晴が結婚してくれと言ってくれた時、珠乃の心は喜びで満ちていた。

 いつの間にか惚れていた。彼がいる場所はこれまでいたどの場所よりも暖かくて優しかった。ずっと、その温もりが続くと思っていた。

 

(だから、断った)

 

 けれども、そんなことはただの幻想だ。珠乃は妖怪で、晴は人間だ。それも、晴は人間の仲でも体が弱かった。

 結婚の話を断ったのは、その終わりが確定しそうだったからだ。晴の言う通りに結婚してしまえば、本当に晴が死んでしまうと思ってしまったから。

 

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 半年が経った。

 

「・・・・吾の負けじゃ。ああ、吾の負けじゃとも!!だからその土下座を止めろ!!」

「本当?嘘じゃない?嘘だったらオレ死ぬよ?本当に死ぬからな?自殺する前に心が死ぬから!!」

「わかった!!わかったから!!」

 

 晴の寝室。

 布団の上で土下座し、珠乃が動けばその方向にズリズリと土下座のままはい回る晴は正直言って気持ち悪かった。晴がよく潰して薬にしている虫そっくりの動きである。

 あの結婚の申し出を断ってから半年。当初は晴との関係そのものが壊れる可能性も覚悟していた珠乃であったが、妖怪の女を「嫁にしたいから」という理由で山から拾って看病した男の性欲と根性を、何より自分への愛情を舐め腐った判断であったと思い知らされた。

 

(一時は気でも狂ったのかと思ったがのぅ・・・)

 

 基本的に珠乃と会うとほぼ土下座。薬を飲むときと食事の時以外はその顔はひたすら床に押し付けられていた。最近では薬は珠乃がほとんど作っているため、晴は休めているのだが、布団の上でも土下座である。時には一日中晴の顔を見れなかったこともあったくらいだ。果ては今のように顔をあげずにどこに珠乃がいるのかを察知し、土下座の姿勢のまま動く術すら開発する始末である。そうしてそこまでしてやることが「結婚してください」「愛しています」とひたすらに呟き続けることであった。気持ち悪い、怖いを通り越してもはや感心する域である。人間とは己の欲望のためにここまで尊厳を捨てられるものなのかと。知りたくもなかったことを知れた珠乃であったが、常時そんなことをされては身も心も持たない。気合がよほど入っているのか、晴の体調は小康状態であったが、当然だが晴の体にも負担がかかる。それでも珠乃は半年は意地を張って耐えていたが、色々と限界だった。

 

(あんなに愛していると言われて、耐えられるか・・・)

 

 言うなれば、晴の方はハナから珠乃に全面降伏しているような状態であり、後は珠乃だけの問題だった。好きでもない男にそんな真似をされていたら炎で即刻焼き殺していただろうが、相手は自分の惚れた男である。常人ならば気持ち悪くて縁を切りたくなるようなことでも相手が好きな男なら話は別。ただし美男子に限るというヤツだ。

 

「じゃあ・・・・」

「わかったと言っておろう・・・・不束者だが、よろしく頼むぞ。旦那様」

「は、はい!!よろしくお願いします!!我が妻よ!!」

 

 そうして、ついに二人は結ばれたのであった。

 

「じゃ、じゃあ、その、早速なんだけど夫婦の営みってやつを、その・・・」

「うわぁ・・・」

 

 頬を赤らめて情緒の欠片もないことを口にしながら、上目遣いする自分の夫となった男に、妻となった女はドン引きした視線を向けるのだった。

 

 ちなみに、この後晴の体調に気を付けつつ、滅茶苦茶まぐわった。病弱なはずなのになぜか晴の方が優勢だったことをここに記しておく。げに恐ろしきは童貞の性欲であった。

 

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 さらに一年が経った。

 

 相変わらず、現世には戦乱があった。病があった。飢饉があった。その流れは晴たちの住む村にも及んだ。しかし、晴と珠乃の心は暖かった。珠乃が他の人間には入れないような山奥まで行って食糧を確保できることもあったが、何より晴の体調が回復を始めたのだ。

 

「晴、こちらの薬は用意できたぞ」

「お、ありがとな。じゃあオレの方も・・・・って、そろそろ薬草の在庫がなくなるな。採って来るか」

「む。薬草採りなら吾が行くぞ。汝は寝ておれ」

「え~。オレだって結構調子戻ってきたし、運動がてら・・・」

「ダメじゃ!!休んでおれといっておるじゃろ」

「わかったよ・・・はあ、布団の中だとあんなに従順なのになん・・・」

 

 カッと音がして、晴の鼻先を掠めて薬草を刻む小刀が壁に突き刺さった。

 

「何か言ったか?」

「なんでもございません」

 

 その視線は絶対零度であった。晴に逆らえるはずもなく、すごすごと引き下がる。そんな晴を見て珠乃はフゥとため息をついた。

 

「まったく、汝はいつまで経っても情緒というか女心というものがわからん男じゃな」

「いやそうは言ってもさ、オレの体調よくなったのは事実だし。やっぱ原因は夜のアレじゃないの?お前の尻尾も9本になったし」

「・・・・・まあ、否定はせん」

 

 房中術というものがある。

 これは男女の交わりを術に組み込んで効果を発揮するもので、大抵は怪し気な儀式やらなんらかの邪法に使われるのだが、この二人の間にも一種の房中術の効果が表れていた。晴の体調が悪かったのは元々の体の弱さに加えて霊力による負荷がかかっているからだが、その霊力の多くが珠乃に流れ込むことで負荷が減っているようなのだ。加えて晴の体にも珠乃の霊力が入り込んでいるらしい。だが、その霊力は肉体を傷つけるのではなく逆に馴染んでいるような感覚だという。なお、そのせいか晴からも他の妖怪が嫌う臭いが出るようになったらしい。肉体と魂を繋ぐ精神を介するのでなく、肉体と肉体を介する故の変化だろうという推測だが、詳細は今後調べていけばいいだろう。

 

(そうだ!!今の吾と晴には未来がある!!)

 

 珠乃の心は踊っていた。

 もう続かないと思えていた晴との未来は、まだ続くという光が見えたのだ。人間が妖怪のような寿命を得る方法はまだわからないが、今の晴に起きている変化を調べればそれすら掴めそうな気がする。

 

「けどさ、珠乃の方は大丈夫なわけ?」

 

 そこで、晴が唐突にそう聞いた。

 

「む?何がじゃ?別に問題はないが。むしろ調子がいいくらいだ。霊力が体中に満ちておる」

「いや、そっちも心配っちゃ心配なんだけど、その、ほら、あれだよ」

「あれ?」

「そう、あれっていうか、うん。あれだ。孕んでないか?」

「はぁ!?」

 

 珠乃の顔が真っ赤になった。

 

「いや、オレとしてお前に思い出とかそういうもんを残せればって思ったんだけど、あのときは流れでヤっちまったからできてたらどうしようとか、子育てとか準備しないととか・・・・」

「あ、あるわけなかろう!!というか、汝、かなり最低なクズ男のようなことを言っていると自覚しろぉ!!」

 

 その辺になぜか落ちていた枕を、晴の顔に思いっきり投げつける。

 

「ぶっ!?」

「いいから寝ておれ!!吾は山に行ってくるからな!!」

 

 そうして、顔を赤く染めたまま、珠乃は山に向かったのだった。

 

 

 

 

 そして、それが珠乃の幸せと希望に満ちた時間の最期だった。

 

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「ふんふんふふ~ん」

 

 珠乃は歩きながら鼻唄を歌う。その表情はご機嫌そのものだ。その背負った籠には薬草やら狩った獣の肉を草でくるんだモノやらが詰まっていたが、珠乃の気分がいい理由はそれだけではない。

 

「まったく、晴のやつめ。情緒というか女心の機微のわからんやつだ!!まったく、いきなり身ごもっているかどうか聞くやつがあるかという話だ・・・・ふふ」

 

 言葉では晴をなじるようであるが、その声音は弾んでいた。

 

「しかし、子供か。育児などやったことがないが、吾に務まるだろうか?まさか獣のやり方が通用するとは思えぬ」

 

 自分と晴の住む家に、子供が一人加わる。

 晴が薬を作る傍ら、自分は家事をしたり、子供の世話をする。

 自分と晴の子供ならば術者としての素質は十分だろう。身を守れるようにするためにも、術の扱いは慎重に教えなければならない。もちろん、人の世と関わるならば学問も大事だし、家業を継いでもらうのならば薬学や医学も伝えなければならない。それには自分の方が向いているだろう。晴は賢いが、下世話なことを教えかねない。父親と似たような性格になったら困りものである。まあ、そんな困った性格の男を夫にした自分も大概ではあるのだが、己の血を継ぐ子が寒い下ネタを連呼するようになったらさすがに嫌だった。

 

「血を受け継ぐ子か。晴と吾の子」

 

 そこで、ふと珠乃は思った。心の中に浮かんだ、その言葉。その言葉はなぜかストンと胸に収まったのだ。それが珠乃の奥底にあり続けた疑問の答えなのではないだろうかと。いや、そうだ。それだ。それこそが・・・

 

「それこそが、吾の生きてきた意味だったのか」

 

 晴と出会い、恋をして、時間はかかったが受け入れあった。

 そして、そんな男と心を通わせ、力を混ぜ合わせ、体を交わす。

 その先に、自分たちの生きてきた結晶を産み、未来へとつないでいく。

 

「ふふ、確かに、長生きしてでも待った甲斐があったな」

 

 なるほど、口に出してみれば簡単なことだ。だが、それがどれだけ幸福なことか、昔の自分にはわからなかったに違いない。

 

「まったく、こんなところで答えが出るとはな・・・・む?」

 

 そんな風に、最近になっては思い出すことも稀だった問いに答えを出した珠乃は、顔をしかめた。

 

「これは、妖怪の死骸か・・・・行きでは見かけなかったが」

 

 道端に低級妖怪の亡骸が転がっていたのだ。死骸を見てみるとなんらかの術を撃ち込まれたようだった。これをやったのは人間だろう。

 

「晴ではない・・・村に術師が来ているのか?」

 

 たまに流れの僧やら霊能者の一族の者が修行として各地を回ることがある。これもその一環なのだろうか?ならば、自分はもう少し山の方にいたほうがいいだろうか。生半可な術者にバレるようなことはないだろうが、妖怪の自分が見つかったら面倒なことになるだろう。

 

「ならば、もう少し時間を潰して・・・・何、これは!?」

 

 考えに耽る珠乃の元に、一羽の鳥が飛んできた。植物の扱いが得意な晴は、紙を媒介にした式神を使うが、その鳥こそがそれだった。だが、その式神の羽は焼け焦げ、今にも折れかかっていた。事実、珠乃の手に止まった瞬間にボロリと崩れる。だが、それで十分だった。間違いなく、村と晴に何かが起きたのだ。

 

「晴!!」

 

 珠乃は人化の術を解き、妖怪と人の中間のような半妖体となって山道を駆けた。

 

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「ああ・・・」

 

 家が燃えていた。

 数年間、毎日過ごした晴と自分の家に火柱が立っているのを村の入口から珠乃は茫然と見ていた。

 すべてが燃えていく。晴が寝ていた布団も、いつからか珠乃用にと晴が作ってくれた医療具も、何もかも。

 家の周りには、村人が集まり、その先頭には一人の男が立っていた。

 その男の顔は晴に少し似ていた。だが、その目は欲望にぎらつき、口元には晴とは似ても似つかない歪んだ笑みが浮かんでいる。

 

「皆の者!!この者こそがこの地を襲った戦、飢饉、病、災いの元凶である!!この者は妖と結びつき、諸君らに飢えと悲しみをもたらしたのだ!!」

 

 男は火柱を満足げに見つめると、村人に向き直った。

 

「幸いにも、この者には神仏の罰が下っていたのか、弱っていた!!だが、それだけではない!!この邪悪を討ち取れたのは、諸君らの協力あってこそ!!よくぞ立ち上がってくれた!!」

「俺たちが飢えてるのに、病気のあいつがいつまでも生きてるのが不思議だったんだが、納得いった!!」

「まさか、先生が妖怪と通じていたなんて・・・」

「この前、うちの子を助けられなくてすまない、なんて謝ってたけど、嘘だったのね!!助けられるのに助けなかったんだ!!」

「でも、最後まで俺たちに愛想をまくフリしてくれて助かった!!おかげで急病だって言ったら簡単に釣れたしな!!」

「ああ、俺たちを騙してたんだろうが、最後は俺たちが騙してやった!!ざまあみろ!!」

 

 村人たちは燃えている家を囲みながら、口々に晴を罵った。

 前に家にやってきた女がいた。晴が渡した薬でよくなったとお礼を言っていた。

 前に晴が直接診断してやった男がいた。最初は晴の代わりに珠乃が診るはずだったのだが、病気を押して晴が診たのである。「お熱いねぇ」と笑いながら祝福してくれた。

 前に二人で取り出した子供がいた。どうにかこうにか身重の母から取り出した子供は今では大きく育っていた。道で会うと笑いながら挨拶してくれた子供だった。

 みんなみんな、かつては笑顔だった。晴とも珠乃とも仲良しだった。

 みんなみんな、怒りと憎しみで顔が歪んでいた。その口から吐き出されるのは晴への呪いだった。

 

 妖怪に脅かされる時代。現代とは違って物に乏しい時代。

 人々の心は世界の気まぐれのような変化で簡単に煽られてしまっていた。心に巣くっていた恐怖と飢えが、彼らを突き動かす怒りと憎しみに変わっていた。

 

「ああ、そうだ術師様!!あの男には妻がいました!!あいつも妖怪と繋がっていたに違いねえ!!」

「昔からおかしいと思ってたのよ!!いつの間にか村に来て、ずっと居座ってるんだもの!!あいつも絶対に悪人よ!!」

「なんとなんと!!それは本当か!?ふむ、その女に子はいたか?」

 

 村人の憎悪は珠乃にも及んでいた。

 それを珠乃はぼんやりとした頭で聞いていた。

 

「いえ!!いませんでした!!」

「ふむ、そうか!!ならばその女も見つけ出して殺すのだ!!この男に繋がるものはすべて消し去る!!さすれば、この男が契約を結んだ妖怪もこの地を離れよう!!これはその手始めだ!!」

「あ・・・・」

 

 その時、珠乃の目に男が掲げているモノが目に入った。

 

 晴の首だった。

 

 男はまるで毬でも放り投げるように乱雑に晴の首を炎の中に投げ込んだ。

 晴の首は、あっという間に炎に巻かれて見えなくなった。

 

 その瞬間、珠乃の中で何かが蠢いた。

 

「さあ、妖怪よ!!災いもたらす化物よ!!お前が契約を結んだ男は消えた!!そしてこれよりその妻も消す!!この地より・・」

「そんなに、晴と契約を結んだ妖怪に会いたいか?」

「なっ!?」

 

 いつの間にか、男のすぐそばに珠乃は立っていた。

 

「き、貴様は一体・・・!!」

「災いもたらす化物と言ったな?そんなにお目にかかりたいのなら見せてやる」

「な、何を・・・ゴボッ!?」

 

 何かを言おうとした男は、言葉を発することは叶わなかった。その心臓を狐の尾が貫いていたからだ。

 

「見せてやるから・・・・」

「ガ、ハァ・・・・」

 

 心臓を貫かれても、男はまだ生きていた。そして、わずかな瞬間でも、男はその生を後悔した。

 

「疾く、この世から消え失せろぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!」

 

 その女の顔は美しかった。美しい故に、その憤怒の表情はなくなった心臓を凍らせるような純粋な恐怖を呼び起こす。血が滲んだかのように紅く血走った黄金の瞳が、男の見た最後の光景だった。男はたちまちのうちに全身が腐り果てて、汚いシミとなった。

 

「あ、あ・・・・」

「よ、妖怪だ・・・・」

「け、結界は!?結界があるんじゃ・・・・」

 

 村人たちは恐怖した。

 さきほどまで自分たちを救うといい、元凶たる薬師を排除する策を出した英雄が瞬きの内に死んだのだ。霊能者でもない村人に、目の前の妖怪をどうにかする手段などあるはずもなかった。

 

「・・・次は貴様らだ」

 

 黄金の瞳が、獲物を捉えた。

 

「ま、待ってくれ!!」

「わ、私たちはあの男にそそのかされたんだ!!」

「悪いのはあの男・・・」

「・・・・・」

 

 村人の醜い言い訳は、珠乃に一つの真実をもたらした。

 

(ああ、人間はゴミだな)

 

 こんな屑どものために晴は体に鞭うって薬を作っていたのか。

 こんな連中に自分たちの幸せは壊されたのか。

 ああ、そうだ。この連中は、このゴミどもこそが・・・・

 

「貴様らが、貴様らこそが!!災いそのものだろうがぁあああああああああああああああああああ!!!!!」

 

 珠乃はその9本の尾を逆立て吠える。

 その身から放たれた瘴気は村全体を包み込んだ。

 

「「「「「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!???」」」」」

 

 老若男女問わず、汚らしい叫びがこだました。

 山々に響いた声がかすれ、瘴気が晴れた時、その村には腐った肉の塊だけが転がっていた。

 

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「晴、晴・・・・」

 

 珠乃は、一人焼け落ちた家の跡に座り込んでいた。

 その膝には一個のしゃれこうべが乗っていた。愛おし気に撫でるも、返事があるはずもない。

 すぐ近くには、焼け焦げたボロをまとった、人の形をした炭の塊が転がっていた。

 

「晴・・・・」

 

 返事のないしゃれこうべから目を離し、その体を見た。

 いくつもの薬を作り、多くの人間を救い、何より自分に触れてくれたその手はもう動かない。

 その握りこぶしは固く握りしめられていたが、そこで、手の端から炭の欠片が零れ落ちているのに気が付いた。

 

「これは・・・・」

 

 珠乃が触れると、今まで気張っていた力が溶けたように、拳は開いた。そこには、一枚の布が残っていた。布は晴の着ていた着物の切れ端のようだったが、赤い文字が書かれていた。

 

 

--生きて

 

 そこには、それだけが書かれていた。誰に向けて書いたものなのかなど、聞くまでもなかった。

 

「晴、晴、せい、せい・・・・うわぁぁああああああああああああああああああ!!!!!!」

 

 珠乃は叫んだ。叫んで、泣いた。

 

 涙が枯れ果てるまで泣いた。声が枯れるまで叫んだ。

 

 すべてを出し尽くすほどに絞り出したころには、夜を迎えて朝になっていた。

 

-----------

 

「許さぬ・・・」

 

 朝日に照らされながらも、珠乃の心の中にあるのは、そのドス黒く濁った瞳にあるのは、怒りと憎悪だけだった。

 

「絶対に許さぬ・・・」

 

 なぜ、晴はこんな目にあわなければならなかった?

 

 妖怪として恐れられる自分はまだ分かる。しかし、晴は人間だった。むしろ人間を生かすために働いていた。

 

 戦があったからか?病があったからか?飢饉があったからか?世が乱れていたからか?

 

 なぜ誰も晴を助ける者がいなかった?もしも晴の父が、母が生きていれば何かが変わっただろうか?

 

 妖怪が暴れていたからか?異能者として怪しまれたからか?

 

 晴の体が弱かったからか?晴の体が完全に回復していればここまでのことにはならなかっただろうか?

 

 晴の体が弱かったのはなぜだ?その身に膨大な霊力の負荷がかかっていたからだ。なぜ晴はそこまでの力を持ってしまっていたのだ?

 

 ああ、それに。それになによりも・・・・

 

「なぜ・・・」

 

 何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故なぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼ

 

「どうして・・・」

 

 ああ、どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテ

 

 

「どうして、吾はもっと早く晴と出会っていなかった?」

 

 晴の体は回復し始めていた。

 晴には未来があったはずなのだ。

 もっと早く、もっともっと早く晴と出会っていれば。あるいは・・・・

 

「もっと早く、晴を受け入れてやれなかった?」

 

 あと半年、あと半年も早ければ、晴の体は完全に治っていたかもしれない。

 体が治っていれば、この九尾とかした自分すら上回る霊能者たる晴が不意を突かれようと村人ごときにやられるはずもない。

 

 つまり、晴を死に至らしめたのは・・・・・

 

「あ、あ、ああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」

 

 本来の姿である狐の爪をもって、己の体をかきむしる。爪が剥がれても、今度はその牙で肉を食いちぎる。だが、どれだけ自分を痛めつけても、死ぬことだけは許さなかった。

 

 それが、晴が最後に残した言葉だったから。

 

「許さぬ・・・・」

 

 珠乃を突き動かすのは、怒りと憎悪だ。

 

 その矛先は、愚かな人間。本当に些細な巡りあわせ、運で自分を翻弄する世界そのもの。

 何よりも・・・・

 

「吾は、世界を、なによりも、己を呪う!!!」

 

 その時、この地に神格を持つ妖怪が生まれ落ちた。

 

-----------

 

 それからの珠乃はひたすらに力を付け、人間を苦しめるために生きた。

 

 一度はもう戻るつもりのなかった常世にまで行き、再び修行を積んだ。

 

 霊能者を誑かし、その肉を食うこともあった。術をかけて、精を絞り出すこともあった。

 

 どちらも死ぬほどマズかった。口に入れた瞬間、吐き出した。だが、珠乃は吐しゃ物にまみれたそれを何回も口に入れては飲み込み、吐き出すのを繰り返した。

 

 すべては己の力を高めるために。

 世界のすべてを壊すために。

 そのためなら、晴以外の男で穢されようとも歩みを止めなかった。

 

 村を襲った男が晴の一族の者だったと知ったのは、都に赴いてその上層部の精神を護衛の術師たちもろともことごとく破壊して傀儡とした時だ。

 亡き晴の父から晴の兄に当主の座は移ったようだが、そこから再びお家騒動があったらしく、一族内で暗殺が頻発したらしい。晴を狙ったのは、かつての当主のお気に入りの忘れ形見という立場を警戒したためだったようだ。村に設置してあった罠を突破できたのも、そのからくりが一族の使う術とよく似ていたからだったためだ。そうして村に侵入し、旅の僧侶を装って心の乱れていた村人を扇動した。村への潜入はあの日の数日前から仕込んでいたのだ。

 

「まあ、今となってはそんなことを知ってもどうにもならんがの」

 

 晴の一族はその日、叛逆の疑いをかけられ、全員死罪となった。

 

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 いくつもの村が、町が、国が滅んだ。

 

 戦火に焼かれた国があった。

 

 病に侵された町があった。

 

 飢えに襲われた村があった。

 

 珠乃はそのすべてを操った。

 

 術を以て、天候を操り、作物を枯らす。

 

 かつて晴とともに薬を作った手で毒を作り、その土地ごと汚染した。

 

 幻を見せて人を操り、殺し合わせた。

 

 人間を減らすのは簡単だった。世界を乱してやればいい。

 

 世界が乱れれば心が乱れる。心が乱れれば人は簡単に獣に堕ちる。そこに軽くひと押しするだけで、大勢の人間が血にまみれて死んでいった。

 

「ああ、素晴らしい。吾は、世界を壊すことだけを考えればいいのだな」

 

 いつしかその整った顔には歪んだ笑みがよく浮かぶようになった。

 

 鏡を見た珠乃は思った。

 

(ああ、あの村に来た男もこんな気分だったのだろうな)

 

 自分の手で人間を手玉に取って操って、壊す。

 

 それがたまらなく楽しかった。

 

 されど、珠乃の顔に一筋の滴が伝っていた。

 

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 終わりは再び唐突だった。

 

「この『白竜廟』に入った以上、そなたに勝ち目はない」

「くぅ・・・!!何者だ貴様らぁ!!」

 

 珠乃の目に映るのは白い霧と二人の人影。

 

 紫電を纏う黒衣の侍と、笠で顔を隠した一人の僧だ。

 

 霧の満ちるその場は、僧の開いた陣であり、珠乃は己の天花乱墜を出す前に相手の陣に取り込まれていた。その陣はすべてを凍らせ、流す。あらゆる術は封じられ、動きは止まる。黒い侍が動くことなく、珠乃は敗北していた。

 

「くそっ!!吾は!!吾はこんなところで負けるわけにはいかんのだ!!世界を壊す、その時まで!!」

「憐れな・・・」

「何!?」

 

 自分を憐れむ僧に、珠乃は怒りを抱いた。

 お前が一体自分の何を知っているという!!

 何の権利があって自分を上から憐れむ!!

 何も、何も知らない癖に!!

 それに・・・・

 顔は見えず、声にも細工をしているようだが、珠乃には分かった。

 

--貴様には、隣を歩く伴侶がいるくせに!!!

 

「己のすぐ傍にいるのに気が付かぬか。怒りがその目を曇らせているか。ならばそなたをここで封じよう」

「や、やめろ!!」

「願わくば、そなたの怒りと憎しみが忘れられ、そなたに付き従う者に気づかんことを・・・『凍土結界』」

「ぐわぁあああああああああああ!?」

 

 そうして、珠乃は永い時を岩に封じ込められることとなった。

 

 あの愚かな人間のガキどもが封印を破るその時まで

 

-----------

 そして、時は現代に戻る。

 

「だからこそ、貴様には腹が立つ」

 

 暗き影の中、深海のごとき重圧で迫る雫の霊力をかろうじて防ぎつつ、珠乃は思う。

 

 何故、自分の大切な人間といつまでも歩んでいけると思っている?

 

 いつ、どんな理不尽が襲い掛かって来るともしれないのに、何を能天気に過ごしている?

 

 どうして、永遠を生きる道を探さない?守り抜くための力を求めない?なぜ・・・

 

「その想いを告げない?」

 

 ああ、本当に腹が立つ。あの蛇は、まさしく過去の珠乃だ。

 関係が壊れることを恐れて、未来があると楽観して怠け、すべてを失った愚か者。

 世界で最も嫌う、己自身。

 

「そんな貴様が、吾の通るはずだった道を進むことなど、認められるか!!」

 

 これは醜い嫉妬だ。それは珠乃にも分かっている。けれど、その憎悪の炎は止まらない。

 それでも、その身は圧倒的な霊力の海に沈みかけていた。これでは、隙を見つける前に・・・

 

「そうだ、認められるはずが・・・・・・何?」

 

 そこで、珠乃の霊力に反応があった。

 それは、こことは別の場所に開いた「天花乱墜」を展開する「本体」が放った霊力の信号だ。空間の完成度を保つために、別の空間との干渉は極力避けていたのだが、それを押しての連絡。その内容は・・・

 

「これは、そうか・・・クク、そうかそうか!!」

 

 それを聞いて、珠乃は確信した。

 

「この勝負、吾の勝ちだ!!」

 

-----------

 

「・・・・あの狐、死んだか?」

 

 珠乃が影の中に潜り込み、その影にアリの巣穴に水を流し込むように霊力を注いでしばらくが経った。

 珠乃からの反応がなくなったが、雫は未だに油断はしていなかった。

 

「いや、この空間が解けていない以上、まだ生きているのか。しかし、流石にもう限界のはず・・・む!?」

 

 雫が凪いだ水面を見つつ不審そうな顔をしていると、陣の中に変化が起きた。

 

「これは・・・ヒビ?それに、水が引いていく?」

 

 突如として空と水底に沈んだ地面にヒビが入り、そこから水が流れ出ていったのだ。

 

「もしや、陣を解除したのか?しかし、こんな中途半端に維持するような真似をすれば霊力の消費は・・・」

「誇るがいい、白蛇。こうしなければ汝に勝てぬと悟っただけじゃ」

「ふん。ずいぶんと無理をするものだ。だが、霊力が底を突きかけているのではないのか?さっさと影から出てきたらどうだ?」

「くく、吾はこの地に数か月前から準備を施していた。この程度で枯れはせぬよ」

 

 そして、空に開いたヒビの一つから、珠乃の声がした。

 どうやら影の中にあった雫の霊力もどことも知れない場所に流してしまったようだ。だが、世界を塗り替える陣という超高難易度の術を中途半端に展開するというのは、無理な体勢で超重量のバーベルを持ち上げようとするようなものだ。いくら霊力をため込んでいようとそう長持ちするとは思えない。

 だが、本当にまるで焦りなどないように珠乃は語り出した。

 

 

「いや、それにしても先ほどは大層な啖呵を聞かせてもらった。吾は心が震えたよ」

「なんだ?またお得意の難癖か?貴様の戯言などただの雑音に過ぎん」

「ククク、ならば聞き流せばよいではないか。そこらにいる、何も考えておらん蛇のようにの。汝の想い人も気にすまいよ。なあ、ただの蛇?」

「貴様・・・!!気色の悪い覗き魔が!!」

 

 それは当てつけだった。珠乃はこの旅行の間もずっと雫達を観察していたという。二日目のあの一幕も見ていたのだろう。

 

「あの時だけではない。吾は、ここしばらく汝らを観察していた。汝らのいた街も、狐の目を介してな」

「ふんっ!!気色の悪いことだな!!」

「ああ。傍から見ればそうじゃろうよ。だが、そのおかげで吾には分かったことがあるぞ?汝らの絆など、所詮は汝からの一方通行よ」

「はっ!!ただの覗き魔風情に妾と久路人の何が分かる!!」

「ならば言ってやろう。汝ら、まだ交わっておらんな?」

「はあ?どういう意味だ?」

 

 交わるとはどういう意味だ?何かの隠語か?

 

「鈍いな。いや、本当に知識がないのか?なら分かりやすく言ってやろう。汝ら、セックスしておらんだろう?」

「はぁあああ!?き、貴様何を言っている!?」

「汝から漂う悪臭。あれはあのガキの力と汝の霊力が混ざり合って生じるモノ。だが、完全に溶け合っておればあのような臭いはせぬ。何より、あのガキの方から同じ臭いがせぬことが何よりの証拠じゃ」

「そ、それがどうした!?」

 

 珠乃の言葉は、その意図がなんであれ完全な奇襲だった。雫にとって、久路人とそういったことをするのは、人生の目標であり、新たなスタート地点である。なぜ今の話の流れでそんなことになるのか。

 

「わからんか?それはな、汝があのガキから女として見られていない証拠であろうよ」

「なっ!?貴様、妾ばかりでなく、久路人まで愚弄するか!!許さんぞ!!」

 

 今の珠乃の言うことは、「月宮久路人は女と見ればすぐに肉体関係を持ちたがる直結厨」と言うようなものであった。

 

「ふん。ずいぶんとおぼこなことだ。あの年頃の男の性欲を知らんと見える。いや、これは逆に憐れんでやるべきかの?よもや、接吻すらまだとは言うまいな?」

「貴様ぁ・・・!!!」

「おいおい、まさか図星か?これはこれは失礼・・・むぐぅ!?」

「もうよい、貴様はこのまま潰れろ!!」

 

 雫は亀裂に向かって、蛇井戸から鉄砲水を出す。その圧が伝わったのだろう。珠乃は苦し気なうめき声を上げる。だが、珠乃の言葉は止まらない。

 

「はっ、そこまで怒るとは、よほど気にしていたようだな?蛇よ」

「黙れ!!」

 

 それは、ずっと雫の心の中に巣くい続けているモノ。

 水無月の名字を名乗った後にも、折り合いがまだついていないモノ。

 

 人外であること。久路人からの拒絶。

 

 いかに歩み寄ろうと、最後の一歩を詰められない原因だ。

 確かに自分は今、これまでの歩みの先にいる。しかし、その先に行き止まりはないのか?

 友達として、家族のような間柄として親しくなっている。それは間違いない。だが、それ以上は?女として見てもらうことはできるのだろうか?

 拒絶される不安と恐怖は、どんなに雫が心を奮い立たそうと完全に消すことは叶わない。

 

「ふん、汝は前に進んだだのなんだの言っておるが、そもそもそれすら錯覚ではないのか?」

「もう、貴様は喋るな!!」

 

 だが、雫がいかに聞く耳を持たなかろうが、珠乃の口は休まず雫の心の奥底へと忍び寄る。例え幻術が効かずとも、何の異能も介さない言葉による揺さぶりは防げない。

 

「あのガキは確かに特別だが、汝は違う。格のある妖怪ならば、護衛としては誰でもよかったはずだ。それこそこの吾でもな」

「黙れと言っている!!!」

 

 雫は己の中にある霊力をすべて亀裂に注ぎ込む勢いで流し込む。いかに外に漏れだそうと、出ていく量よりも満たす量が上回ればよい。久路人の血によって無尽蔵に近い霊力を持つ雫ならばそれも不可能ではない。

 

「たまたまだ。本当に偶然、汝は今の立ち位置に収まっているに過ぎない。そんな汝に抱く情が、汝の言うほど大きいものか?」

「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れぇえええええ!!!!!!」

 

 もうここですべての霊力を使い切ってしまってもいい。それほどの勢いで術を連発する。再び陣の中に水が満ち始めた。

 

「人間の寿命のことからさえも目をそらしていた汝だ。他のものにも見落としがあって然るべきだろう?汝があのガキを想う重さと、あのガキが汝に向けるソレは、果たしてどれほどの違いがあるのかの?」

「ああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!」

 

 珠乃は雫の心を掘り起こしていく。そこに埋まる、雫が目をそらしてきたことを。それは、雫が逃げてきたツケだった。

 

 

--久路人は、自分のことをどう思っているのだろう?

 

「おいおい、そんなにムキになるでない。それではまるで・・・・」

 

 常に心の中にあり、されど考えたくなかったこと。恋をする者ならば誰でも思うこと。自分が人間の少女だったのならば、ここまでその答えに怯えずに済んだのだろうか?

 

「まるで、本当にあのガキに汝が嫌われているようではないか」

「もう、死ねぇえええええええええええええええええええ!!!!!!!!」

 

 自分は久路人にどう思われているのだろう?

 好かれていたとしても、それは女の子としてのソレだろうか?

 蛇というペットを飼っている感覚なのではないだろうか?

 ああ、知りたい。久路人の心の中が。

 ああ、知りたくない。久路人の心の奥底を。

 だって、もしも、もしものことだ。

 普段の久路人が見せ掛けで、その心の中で想像もできないことを考えていたら。

 ああ、ダメだ。こんなことを考えちゃいけない。それは久路人を信じていない証拠だ。怖い。ああ、怖い。別のことを考えよう。こんなことを考える女だと知られたら・・・・

 

--久路人に本当に嫌われちゃう。

 

 雫の眼には、もう亀裂の奥にいる狐を殺すことしか映っていない。それ以外は考えない。考えたくない。そう、これはあの狐の策略だ。考えちゃいけない。集中しろ。目の前にある亀裂に、限界まで霊力を注ぐことだけを・・・・

 

「感謝するぞ?また目をそらしたな?」

「ガフッ!?」

 

 次の瞬間に、雫の細い肢体を貫いていたのは、鋭く尖った牙だった。

 目の前の亀裂ではなく、雫の足元にできていた影。そこから矢の如く飛び出た家ほどの大きさの狐が、雫に噛みついていた。

 

「ガ、アアア・・・貴様ぁ!!」

「フン、この姿は吾もあまり好かんのだがな。まあ、仕方ない」

 

 それは、珠乃の本性、原形とも言える姿だった。

 雫の元が大蛇のように、珠乃は古狐がその真の姿だ。術を操る精密性に優れる人間の姿。妖怪としての身体能力とのバランスが取れた半妖体。そして獣のスピードとパワー、最大の霊力を持つ妖怪形態。

 これまでの術の撃ち合いによる遠距離戦から一転して、力任せの近接戦闘。遠くの的を狙っていた雫は、その落差に気が付かなかったのだ。

 

「グゥウウ!!舐めるな!!これしき・・・!!」

「ほう?貴様もなるか?元の蛇に?人間の女とはかけ離れた醜い姿に!!」

「・・!?」

 

 それはほんのわずかな隙だった。

 雫も人化の術を使っているとはいえど、大妖怪だ。体に太い杭が刺さったくらいでは即死はしない。珠乃のように大蛇の姿になれば盛り返すこともできただろう。だが、一瞬、蛇になるのをためらった。蛇の姿は、人外の象徴。それになれば、ますます久路人との距離が開いてしまう。そんな気がした。

 そして、そのわずかな隙が致命的だった。

 

「ガ、アアアアアアアアアアアアアアアアアア!?」

 

 珠乃の牙がさらに深く刺さり、その周囲が見る見るうちに灰色に染まっていく。すぐさま雫の四肢が石と化した。

 

「吾の牙にあるは石化の毒。殺生石ノ法。吾を封じた石を模した猛毒よ。この陣の中のみ用いることのできる特別製じゃ」

「き、貴様ぁああ・・・・」

 

 叫ぼうとするも、その声に力はない。完全に先手を取られていた。体を変化させようにも、変化させる肉体が石となっては意味がない。その石はただの石ではない。九尾の狐を封じ込めるほどの強力な枷だ。多少なりとも霊力を消耗していたところに、最も大量の霊力を流し込める獣の姿での、力押しの猛毒だ。即死はせずとも、抵抗もできなかった。

 

「勝負ありだ。白蛇」

「クソオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!!!!!」

 

 世界が再び歪む。不確かだった空間が形を持ち始める。

 眼下の湖が消え、月夜のススキ原が蜃気楼の如く浮かび上がる。

 

 半ば石と化した雫は、そのままススキ原に落ちていった。

 

 

-----------

 

「う、うう・・・・」

「はっ!!いい恰好だな?蛇よ」

 

 満月の照らすススキ原の中、地面に横たわった雫は自分を見下ろす珠乃を睨みつけるが、どうにもならなかった。落下の際に封じかけられた霊力を振り絞ってどうにか衝撃を弱めるように水を操ったために死にはしなかったが、それだけだ。もはや動くことも叶わない。だが・・・

 

「だが、いくらなんでも、貴様も限界のはずだ・・・・・あれだけ中途半端な陣の展開に、この新しい陣への張替え。いくら前もって準備していたとしても・・・」

「ああ、そうだな。確かに、この吾はもう限界だ」

 

 珠乃の言うことは真実だ。

 先ほどまではまだ余裕のあった表情にも、このススキ原に来てからは汗がにじんでいる。だが、その後の言葉は無視できなかった。

 

「・・・この吾、だと?」

 

 雫が聞き返すと、珠乃は汗の滲んだ表情ながらも、ニヤリと笑って指を鳴らした。

 すると、空間に大きなヒビが入り・・・・

 

「ご苦労、吾よ。もう下がってよい」

「ああ、そうさせてもらおうかの、吾よ」

「分け身!?いや、ただの分け身ではない!?」

 

 空間から顔を半身を出したのは、もう一人の珠乃だった。それはこれまで大波で押し流したチンケな分身とは訳が違う。その珠乃と今まで戦っていた珠乃から感じた霊力はほぼ同等だったのだ。

 

「通常、分け身というのは本体よりも弱い力しか持たすことができん」

「だが、この天花乱墜の中で、術者たる吾ならば話は別。この世界の理は吾のものじゃ」

「鏡狐。吾と全く同じ力を持った分け身。まあ、流石に出せるのは2体が限界じゃがな」

 

 そして、今まで戦っていた珠乃が霞の如く消え去ると、もう一人の珠乃が完全に姿を現し・・・

 雫は叫んだ。

 

「久路人!?」

 

 今まで見えていなかったもう半身の腕に抱えられていたのは、久路人だった。霊力は感じるために生きてはいるようだが、気絶しているのか、身動き一つしない。

 

「くく、このガキは強かったぞ?吾の油断もあったとはいえ、もう一体の鏡狐を倒してのけたのだからな」

「貴様!!久路人に何をした!?」

 

 珠乃の言うことなど、雫には気にもならなかった。雫にとっての至上命題は、いつでも久路人のことだけだ。

 

「なに、少し眠ってもらっておるだけじゃ。負っていた傷も、ある程度は吾が直してやったのだぞ?感謝してもいいぐらいだと思うがの?」

「久路人を離せ!!痴れ者が!!」

「・・・・自分の立場が分かっておらんようじゃの」

 

 そこで、珠乃は久路人を乱雑に放り出して前に一歩踏み出すと、雫の頭を力を込めて踏みつけた。整った顔が土に沈み、美しい銀髪に泥がかかる。

 

「ガ・・ゥウウ」

「今、この場の支配者はこの吾だ。分をわきまえよ。まずは口の利き方から直してもらおうか?『申し訳ございませんでした、珠乃様。今より貴方の仰せのままに致します』とでも言え。さもなければこのガキがどうなるかわかっておろうな?」

 

 そうして、つま先で雫の顎を持ち上げ、上を向かせると・・・

 

「ぺっ!!」

 

 珠乃の顔に、雫の唾がかかった。

 

「はっ!!その手には乗らん!!安易に契約書に手を出すななど、小学生でも習う・・・ガッ!?」

「・・・・勘のいい蛇じゃな」

 

 横たわる雫の腹を思い切り蹴り飛ばし、水を出して唾を洗い流す。

 さきほどの命令は一種の契約だ。雫が承諾していれば、それである程度の行動を縛れるはずだった。

 

「まあいい。その気丈さがあるのもまた一興だ」

「・・・なんだ?悪役よろしく妾を痛めつけでもする気か?三文役者が」

「そんなことはせんよ。むしろ、吾としては汝には美しくあってもらわなければ困る。『自分には何の落ち度もなかった』と言い訳もできぬようにな」

「・・・何を言っている?」

 

 珠乃が手をかざすと、雫の体が浮かび上がり、珠乃の目の前に現れた椅子に降ろされた。さらに、流水が現れたと思えば、汚れを洗い落としていく。

 

「なんのつもりだ?」

「なに、年上の先達として、経験の足らん汝に一手教授してやろうと思ってな」

 

 珠乃は続けてもう一つ椅子を出すと、そこに腰を降ろした。

 

「女が男を堕とす手練手管をな」

「貴様・・・まさか!!」

 

 パチンと指を鳴らす音がすると、今度は久路人の体が浮かび上がり、珠乃の太ももの間に収まった。ちょうど、珠乃が後ろから久路人を抱きかかえるような形だ。珠乃の手が、久路人のズボンの上をなぞる

 

「ほう、顔に似合わず中々立派なモノを持っておるではないか。服の上からでもわかるとは」

「やめろ!!それは、それだけは!!!」

 

 雫の顔色が蒼白になった。手足を動かして暴れようともがくが、石となった部位は動かない。霊力も枷のせいでほぼ封じられている。

 

「そうだのぉ・・・止めて欲しいか?なら、その態度はいただけんな」

「・・・・止めてください。お願いします」

 

 雫は歯を食いしばってから、動く首だけで頭を下げた。

 妖怪となった後も、人化した後にも、このようなことは初めてだった。

 

「はっはっは!!なんだ?先ほどと違ってずいぶんと従順ではないか?だが、それに免じてチャンスをやろう。吾の問いに答えられたら考えてやる」

「・・・質問は何ですか」

 

 内心で何もできない無力な自分に罵詈雑言をぶつけているのだろう。瞳の端に涙をためつつ、雫が問うと、珠乃は楽しそうに嗤った。

 

「うむ!!吾や汝のような妖怪が人間から力を吸う時だがな?血はとても効率の良い入れ物じゃ。我らは血をすすることで力を得ることができる。じゃがの?」

「・・・・・」

 

 そこで、珠乃は間を置くと、続けた。

 

「血よりも濃い霊力が溶け込んだ、若い男からしか得られない体液とは、果たして何じゃろうなぁ?」

「まさか・・・それって」

 

 その答えはすぐに脳裏に浮かび上がった。しかし、口には出せなかった。この狐がやろうとしていることが形を成してしまうから。

 

「3、2、1。時間切れじゃな」

「あ・・・・」

 

 そこで、無情にも珠乃は答えを打ち明けた。

 

「覚えておくといい。我ら妖怪にとって一番の力の源はな?若い男の精に決まっておろう?」

「やめて!!お願い!!やめてください!!それだけは!!それだけは許して!!」

 

 雫は懇願した。妖怪としてのプライドなどかなぐり捨てた。涙があふれた。声も震えた。だが、それでも珠乃はその手を止めない。

 このままでは・・・・

 

--久路人が穢される。私以外の女の手で

 

「ああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!」

 

 気が狂いそうだった。

 絶対に、絶対に認められないことだった。

 目の前の狐を百度殺してもなお足りないくらいの憎悪が巻き起こる。

 でも、体は動かなかった。

 

「うるさいのう。これからが本番なのじゃがな?今でこれでは、初めての男が他の女に絶頂させられた時に、どうなってしまうのかの?」

 

 実に楽しそうに、珠乃の顔に三日月のような笑みが浮かぶ。

 そして、久路人の顔を動かし、自分の顔を近づけた。久路人の首筋に付いた傷に舌を這わすと、久路人はビクリと震えた。

 

「おお、なんと芳醇な霊力!!陣で疲れた身によく染みる。この血があればまだまだ続けられそうじゃの」

「やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてヤメテヤメテヤメテヤメテヤメテヤメテヤメテヤメテヤメテヤメテヤメテヤメテヤメテヤメテヤメテ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

 雫は壊れたスピーカーのように叫び続けるが、珠乃にはそれすら面白く映るのだろう。今度は久路人の顔に両手を添えた。

 

「そういえば、さっきの鏡狐ごしに見ていたが、汝らは接吻もまだなのだったな?ならば、吾がもらってやろう」

「あ・・・・・・・・・・・」

 

 珠乃の顔が久路人に近づく。そして、その唇に触れるほんの手前。

 

「・・・・ん」

 

 少年は目を開けた。

 

-----------

 

「・・・・ん?」

 

 僕は、何が何だかわからなかった。

 目の前に、さっきまで戦っていた珠乃の顔がある。

 体がうまく動かない。

 頭がぼんやりする。

 何か術でもかけられたのかもしれない。

 

「おお!!目を覚ましたか。これはいい!!反応が何もなければつまらんかったからのう」

 

 すぐ近くにある珠乃の顔が何か言っていたが、よくわからなかった。

 だって、僕の耳に届いたもう一つの声の方が大事だったから。

 

「久路人?久路人!!クソッ!!動け!!動きなさいよぉおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」

「しずく?」

 

 ぼんやりとする頭を動かそうとすると、珠乃の手が離れた。なんだかニヤニヤ笑っているが、ありがたい。しずくは、僕の好きな女の子はどこにいる?

 

「しずく・・・・」

 

 そうして僕は頭を動かして・・・・

 

 それを見た。

 

 

 

 雫が、その綺麗な手足を石にされて動けなくなっていた。

 

 

 

 雫が紅い瞳に涙を溜めて泣いていた。

 

 

 

 雫が、声を枯らしそうなほどに僕の名前を叫んでいた。

 

 

 

 雫はとても必死で、けれどもどうにもならないことが分かっているような、怒りと悲しみが混ざったような顔をしていた。

 

 

「・・・・・・」

 

 

 それを見た瞬間、ぼんやりとしていた頭がスッと冷えた。

 それは僕に一つのことを示していた。

 それは僕にとっては一つの証明だった。

 それはどんな理由があるにせよ、僕にとっては決して許してはいけないことだ。

 

「おお、なんと健気な従僕だろうなぁ!!ほれ、何か言ってやることはないのかの?」

 

 再び珠乃が何か言っているが、それは意味をなさない音として僕の脳を素通りしていく。

 

 

 雫の有様を見たその時から、僕の頭には一切の思考が消えていた。

 

 代わりにその身にあるのは、頭が凍り付いたように冷めていく感覚と・・・・

 

 胸の中を焦がしつくすような灼熱のナニカだった。

 

「・・・・・・だ」

 

 いや、もう一つあった。

 

「ん?なんと言ったかの?」

「・・・・違反だ」

「・・・何?」

 

 僕はまるで自分が機械になったようだとどこか他人事のように思いながらも声に出す。

 体の中を蟲のように這いずり回るおぞましい嫌悪感を吐き出すように。

 

 

 

--「でも、雫が不安なら約束するよ。僕だって、君に何かあったら必ず助けるし、守るって」

 

 

 それは幼いころに僕が雫と交わした約束だ。

 とてもとても、何よりも大事な約束だ。

 約束は守らなくてはならない。

 この世界は約束、決まり事、法則によって正しく回っている。約束は守らなければならない。守られなければならない。

 だが・・・・・

 

「・・・久路人?」

 

 今までの必死な様子から、怪訝そうな表情に変わった雫が僕を見ていた。

 その顔には、涙の跡がはっきりと残っていた。その手足は未だに石のままだ。

 それが意味するのは、たった一つのこと。

 

「ルール違反だ」

 

 僕は、約束を守れなかったのだ。

 

-----------

 

 次の瞬間、偽りの月夜に、つんざくような雷鳴がこだました。

 


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