可能ならば、次の話は今週の平日に上げます!!
「うん・・・・?」
雫が目を開けると、そこは月宮家の裏庭だった。
普段よく久路人と訓練を行う場所であり、一目でわかった。時刻は夕方を過ぎたのか、夕陽がほぼ沈み切り、薄暗い中にわずかに毒々しい赤い光が見えている。
「あれ、私、なんでここに・・・・?」
何やら記憶が曖昧な雫は辺りを見回して首をかしげる。
はて、どうしてここにいるのだろう?
「雫」
暗闇に染まる芝生の上を通って、少年の声がした。
雫は、その声だけは聞き逃さないし、聞き間違えない。例え幻術の最高峰の使い手に術を使われようが見破ったほどだ。聞いているだけで心が癒されるような、力が湧いてくるような、不思議な声。
「久路人!!」
いつの間にか、少し離れたところに久路人がいた。
いつものような学ランを着て、俯いているせいで目元は良く見えないが、確かに久路人であると雫の本能が告げていた。
「雫・・・・」
「?久路人、体調悪いの?大丈夫?」
だが、どうにも様子がおかしかった。声に覇気がなく、どこか肌も青白いように見える。
雫は何があったのかと、久路人に近づいて・・・・・
「近づくな!!」
それは、怒りと悲しみが入り混じった、拒絶の言葉だった。
「え?」
久路人に一歩近寄った瞬間、久路人からこれまでに聞いたことがないような声がしたのだ。
「く、久路人?何が・・・」
「どうしてなんだ・・・・」
突然の拒絶に、頭と心が追い付かなかった雫は聞き返すことしかできなかった。悲しみよりも困惑が先にやってきた。否、「久路人からの拒絶」というものを受け入れることを拒んだ結果だった。
しかし、そうして問いかけようとする言葉は久路人からの憎しみすら籠った声に塗りつぶされた。
「どうして・・・・っ!!」
そこで、雫の言葉など聞こえていなかったような久路人は、俯いていた顔をあげた。
「どうして僕を化物に変えたっ!!」
久路人の瞳は、人間の瞳ではなかった。
充血し、白目が完全に紅く染まった蛇の瞳。本来ならば優しく柔らかな久路人の瞳は、今は怒りと憎悪で赤黒く濁っていた。
「な・・・」
「どうしてなんだ、なぜなんだ!!ずっと、ずっと信じていたのに!!」
久路人が一歩ずつ雫に近寄って来る。黒い砂が鱗粉のように舞い、次第に久路人の手の中で刃を作る。
その体は歩みを進めるごとにひび割れ、まるで蛇の脱皮のように所々からベロりと皮がめくれていく。
新しく外にさらけ出されたその身は、固まり始めた血のような粘液がべったりと滲んだ黒い鱗に覆われており、人間だった部分はその大木のように膨れ上がったアンバランスな脚に踏みつぶされた。
「違うの!!聞いて!!」
雫は必死で弁解しようとする。嫌われるのは覚悟していた。それでも、それは想像よりもずっとずっと辛かった。今すぐにでも自分の気持ちを伝えなければ、心が壊れてしまいそうだった。
「私は久路人とずっと生きて・・・・!!」
化物にしようとしたのは否定できない。だが、それは悪意からではない。ずっと一緒にいたいからだと。どんな姿になっても、自分は受け入れられると。だが・・・・
「こんな化物になってまで、僕は生きたくなんてない!!」
「・・・っ!!」
返ってきたのは、どこまでも雫のすべてを否定し、拒絶する言葉だった。
「僕は、僕はっ!!」
気づけば、完全に異形と化した久路人が、目の前にいた。
その背丈はいつの間にか3メートルを超える巨体と化しており、見た目はラミアと呼ばれる半人半獣に似ていた。人間の下半身であった部分はその付け根から折曲がって尻尾のように後ろに伸び、芋虫のように人間の足が左右にいくつも並んでいる。上半身は黒い鱗と生臭い粘液に覆われ、腕の数は4本に増えていた。その筋骨隆々な腕には黒い刃が握られ、人間の顔を無理矢理前に引っ張って蛇のように扁平になった頭は、雫を睨みつけている。
「僕は、お前を許さない」
「待って、久路人、お願いだから!!」
黒い刃が振り上げられる。
「お前なんて、嫌いだっ!!」
「っ!?」
異形のような身になったとしても、雫にとって久路人は久路人だった。どんな姿になっても一緒にいたいと思う気持ちは本物だ。
だからこそ、その拒絶の言葉は雫の心を壊さんばかりに突き刺さり・・・・
「消えろ化物!!」
「あ・・・・」
最後に雫が見たものは、振りぬかれた刃と、首のない自分の体。そして・・・・
「ぉぉおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!!!!!!」
血のように赤い涙を流す久路人の姿だった。
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「はぁっ、はぁっ、はぁっ・・・・!!!」
ガバッと、雫はベッドの上で跳ね起きた。
目に映ったのは見慣れた自室の天井だ。
「・・・・・夢、か」
汗ばんだ手で首筋を撫でてみるが、傷もなく、しっかりと繋がっている。こうして思考ができている時点で当たり前と言えば当たり前だが。
「はぁ・・・・」
しっかりと今が現実だと認識した雫はため息を吐いた。
白い着物の帯をしっかりと締めなおし、ぐっしょりとしみ込んだ寝汗を術で飛ばしてからベッドから降りて自室を出る。季節は11月。修学旅行から帰ってきて、2週間が経ったばかりだ。秋から冬に移り変わろうとする今の時期、日の出は遅い。まだ暗い廊下へと、雫は足を踏み出した。
「また、あの夢か・・・」
月宮家の廊下に仕掛けられたトラップは中学生のころからグレードアップし、日替わりで構造が変わるのだが、主たる京が最近長期間家を空けているためにアップデートもなく、雫はもはや完璧に罠の回避法を把握していた。よどみなく歩きながらも、雫はさっきまで見て、今も脳裏にこびりついた夢のことを思う。
「旅行から帰ってきてから、ずっとだな・・・」
あの葛城山への修学旅行。
神格持ちである九尾の狐に襲われ、幻影の世界に閉じ込められた。一時は久路人ともども敗北したが、久路人が突然暴走したかのように力を開放し、体を削りながらもどうにか勝利することができた。
そして、そこで雫は決意したのだ。
「どんな夢を見ようが、止める気なんてない・・・・!!」
久路人と雫は、どうやら幻術や催眠といった精神系の術に極めて高い耐性を持っているようで、夢などに干渉されることもほぼありえないという。だから、今見た悪夢は異能も何も絡まない、ただの夢。けれど、そんな夢を続けて何度も見るのは、雫の中にまだ迷いか、罪悪感があるからか。だが、雫はもう進むと決めている。
「例え何年経とうが、久路人がどんな醜い姿になろうが、久路人に嫌われても構わないっ!!」
夜から朝に変わりかけの、寒く、暗い廊下。罠の山を踏み越え、雫の目の前にあるのは、一枚の扉。
その先はもう、目をつぶっても分かるほどに慣れ親しんだ部屋の中。いつも雫の心の中に住んでいる少年が眠る部屋。
「私はもう、今までとは違うんだっ!!」
ドアに仕掛けられたトラップを解除し、音を立てないように開ける。
一歩踏み込んで最初に目に入るのは久路人が使う学習机と、教科書や漫画が収められた本棚だ。ドアから見て左側には大きな窓があり、そちらからは沈みかけた月の光と、薄ぼんやりとした白い朝日が差し込むが、その光は壁の奥にいるベッドには届かない。
「・・・・・・」
「・・・・久路人」
慎重にドアを閉め、静かにベッドにまで歩み寄り、指の先でベッドの上で眠る少年の頬を撫でる。
「・・・・・」
久路人は朝に弱く、寝起きが悪い。雫が少し触った程度では起きるはずもない。
「ふふっ・・」
雫の顔にほほ笑みが浮かぶ。
触れるだけで、さっきまで残っていた悪夢の残滓は、欠片も残さず消え失せていた。
久路人から伝わる温もりと柔らかさが、雫に久路人の存在そのものを伝えてくる。それは、雫の体だけではなく、心にまで流れ込んで、雫を癒すとともに、確かな実感を与えるのだ。
「世界中で、こうやって久路人に触れられるのは、私だけなんだ」
久路人は寝起きが悪いが、訓練の成果もあり、殺気や霊気が近くに湧けば飛び起きるし、知らない気配がすれば即座に反撃が返って来る。しかし、久路人の着る衣服には「この世から消え去れ」とばかりの殺意を向けたことはあるが、久路人本人相手に殺気を出すことなどない。だから、こうして触れても久路人が起きないのは、それだけ雫に心を許していることの証明なのだ。その事実が、雫に優越感をもたらし、支配欲と独占欲が満たされる。だが、満たされるのはほんのわずかな間だけだ。雫も自覚はあるが、雫は存外に欲深い。自分の執着することに関しては底なしの強欲さを発揮する。
「それじゃ、そろそろ・・・・」
そうしてしばらく久路人の頬を堪能すると、雫は一息ついた。そして、おもむろに久路人の布団をめくりあげる。雫を突き動かすのは、己の欲望と決意だった。
「・・・うぅん?」
「・・・・ごくり」
突然外気に晒されたためか、久路人が目覚めかけるが、睡魔が勝っているのか、すぐにまた眠り始めた。そんな久路人を注意深く見守ってから、雫は緊張のあまりにつばを飲み込みつつも、ベッドの上に足を乗せた。
「すぅ~・・・・よし!!」
深呼吸を一回。深く息を吸い込んで、吐く。それで雫の覚悟は定まった。
威勢のいい掛け声とともに、その身を久路人の隣へと滑り込ませ、サッと布団をかけなおす。
「・・・・ん」
「よし、今日も侵入成功」
まるで困難な任務を遂行したばかりの凄腕のスパイのように己の行動を静かに誇る。
まあ、口調は静かであっても、その上気した頬と荒い息遣いから体の方は孟っているのだが。
「ハァハァハァ・・・久路人の匂い、すごい濃い」
久路人が普段から使用し、今も一晩眠っていた布団である。久路人はきちんと体を清潔にしており、体臭も悪いものではないが、布団に移り香するのは当たり前であろう。そもそも、その匂いの元である久路人がすぐ横で眠っているのだから、匂いが濃いのも当然である。久路人は壁の方を向いて眠っているために背中を向かい合わせにするような形になったが、それでも今の雫には刺激が強すぎるようであった。
「んん・・・我慢、我慢しなきゃ」
普段から久路人と雫は距離が近いが、ここまで接触面積が大きくなることは早々ない。あってもお互いの意識がある状態であり、なんらかの不可抗力がある場合だけだ。そして、そんな不可抗力がついこの間あったばかりである。
「んっ・・・本当に、ダメ、なんだから」
雫の脳内に思い起こされるのは、白い湯けむりの中でお互いの背中を流しあったこと。
久路人のたくましい背中に手を触れ、久路人の手が自分の背中を撫でていった感触は今でも鮮明に思い出せる。
さらに脳裏を巡るのは、お互いの唇を重ねた時。柔らかい唇どうしが触れ合い、舌が絡まり、久路人の唾液が喉を通っていったあの時を忘れられるはずもない。
「ハァハァ・・・んっ・・・」
雫はもじもじと体を震わせ、内股を擦り合わせる。
吐息は湿っぽくなり、体は火照る。
その白魚のような指が、燃え盛るような熱を持つ秘所に行こうとするも・・・・
「ダメ・・・・」
雫は手をもう片方の手で押さえつけて、自制した。
フゥ~と息を吐くと、体の熱が出ていくように猛りが収まっていく。
「これは、そういうのじゃないんだから・・・」
雫にとって、久路人と同衾するのは決意と決別の表れだ。断じてただ欲求を満たすためではない。
本音を言えば今にでも色々とヤりたいこともあるが、それを押さえつけるだけの楔もまた雫の中にあった。
「これは、今までの私とのケジメなんだから」
次に吐き出された言葉には、先ほどまでの熱は欠片も籠っていなかった。
体を燃え上がらせるような記憶の後に蘇るのは、その熱を一瞬で冷ます光景だ。
「もう二度と、久路人をあんなに傷つけさせない」
全身から血を流し、土気色の顔をした久路人。
泣き叫ぶだけしかできなかった自分。
そうなった理由は複雑に絡み合っているが、雫はその中の一つに当たりを付けていた。
「私に、もっと覚悟があればマシになっていたかもしれない」
それは、護衛としての意識。久路人をどんな時でも守り抜くという覚悟。あのときまでの自分は、どこか高をくくっていた。「この現世で自分よりも強い妖怪が襲い掛かってくるわけがない。来ても返り討ちにできる」と。だが、結果は久路人を死の淵に立たせることになってしまった。幸いにも久路人は助かったが、自分がもっとしっかりしていれば、あの陣の中に閉じ込められることもなかったのではないかと今でも思う。そして・・・
「どんな時でも、少しでも久路人が生き残れるようにするんだ」
それは、あの失敗を経て得た新たな覚悟。
「久路人を眷属にする」という至上の命題。
そのために、すでに雫は行動を始めており、ここに同衾しているのもその一環だ。自分の欲望に振り回されている暇などどこにもないのである。元々早朝にはここに来る予定ではあったが、あの悪夢のせいで少し早く起きてしまい、暖かな布団に入ったせいで睡魔が再び訪れる。
「・・・・・おやすみ、久路人」
「・・・・・ん」
雫は久路人に一声かけると、もう一度眠りの世界に入っていく。
興奮の熱が覚悟の冷気で打ち払われ、その睡魔を妨げる者はいなくなっていた。
「すぅ・・・・えへへ」
その寝顔を見るに、どうやら悪夢も去っていったようであった。
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「・・・・・朝か」
六畳一間に差し込む朝日と、チュンチュンと外で元気よく鳴く鳥の声が、僕を起こした。
「珍しいな、アラームが鳴る前に起きれるなんて」
自慢ではないし、普通にダメなところだが、僕は朝に弱い。
普段はアラームを2回は聞かないと起きないのだが、今日はかなりのレアケースだ。
なんだか頭がボゥっとするが、これは・・・
「まあ、早く起きれたのならそれはそれで・・・・ん?」
そこで、僕は違和感を覚えた。自分の体のことではない。それよりももっと大きな違和感だ。
具体的に言うと、なんか隣に温かい何かがある。温かくて、柔らかくてなんかサラサラした感触が・・・
「ええ・・・・今日もいるよ」
昨日の僕は、旅行前よりも厳しくした訓練の後、確かに一人でベッドに潜り込み、しばらく暗闇の中で何も考えずにぼうっとしたままでいて、いつしか眠りに落ちていた。その間、間違いなく僕の部屋には僕しかいなかったはずなのだ。
それなのに・・・・
「んんぅ~? もう朝ぁ?」
僕の隣に女の子が一人眠っていた。
布団をはがされたことで目が覚めたのか、その女の子は起き上がりながら伸びをして、日本人にはありえないような美しい銀髪がサラリと流れる。どこかの漫画の中から出てきたのかと思わせるような整った顔立ちの彼女ならば、「ふぁぁ~」とあくびする姿でさえ絵になっているが、その彼女に懸想をしている身としては中々に刺激的に過ぎる。
伸びをした時に白い着物越しに微妙に浮かび上がる平原と丘の中間のような立体構造物を努めて見ないようにしながら、僕は口を開いた。
「えっと、雫、前も言ったけど、ここは僕の部屋なんだけど・・・・」
「ん?あれ?久路人?なんで・・・・・えぇっ!?」
僕がここがどこかを告げると、雫はベッドの上で両膝を付いた状態から器用に跳びあがった。普段は雫の方が先に起きて僕を覗き込んでいるのと逆で、よほど驚いたのだろう。しかし、僕は比較的落ち着いていた。旅行から帰ってきてから、何度かこんなことがあったからだ。ちなみに、初めての時は僕も死ぬほど驚いた。そのときは雫が先に起きていたのだが、雫が僕の隣で寝ていたと気づいた瞬間、全力で雷起を発動し、窓をぶち破って外に出ようとしたほどだ。幸い、月宮家の窓ガラスはおじさんの手によって強化された特別製であり、僕が猛スピードで突っ込んだ瞬間に自動的に開き、ガラスを割ることはなかった。
「あ!!えっと、そう!!あのね、今日もね、その!!」
「そんなに慌てなくても、理由は知ってるよ」
「え?あ、うん・・・・そうだよね」
僕が冷静なのを見て、段々と雫も落ち着きを取り戻したのか、大人しくなった。
さて、さきほど言ったように雫が同衾していた理由を知ってはいる。知ってはいるが・・・・
「でも、その、一緒に寝る必要はないんじゃない?」
「そ、それはダメだよ!!寝起きが一番わかりやすいんだから」
僕がやんわりと同衾はどうよ?と言ってみるも、雫に退く気配はない。確かに、雫がやろうとしていることは大事なことだとは思うのだが、それにしたってわざわざ同じ布団で寝る必要性はないと思うのだ。だが、強く言うのも憚られた。雫を拒むようなことは、したくなかったから。
「・・・・・」
「久路人?」
「あ、ごめん。なんでもない・・・」
少しの間、上の空だったようで、雫が不思議そうな顔をしていた。だが、次の瞬間には覚悟を決めたような顔になり、僕の方にずいっと近づいてきた。
「あの、それじゃあさ、始めても、いいかな?」
雫の顔はうっすらと赤く染まっていた。右と左の人差し指を突き合わせてモジモジとしている。今からやることに欠片の嫌悪もない表情。誰もが見惚れてしまいそうな、可憐な仕草。妖怪を恐れる普通の人間は違うのかもしれないが、僕にとっては今から行うことを除いても、この表情を見れるだけでもご褒美だ。当然、僕にも多少の恥じらいはあるが、拒むはずもなく・・・・
--ふむ、ここまで言って分らぬか?鈍いのう。つまりな・・・・・
「っ!!」
一瞬脳裏をよぎったのは、あの九尾。だが、それはほんの一瞬だけだった。
--雫を拒みたくない。嫌われたらどうする?
そのすぐ後に、心の中でつぶやかれた自分の声で、我に返る。
「ああ、いいよ」
僕は、雫の申し出を受け入れた。
「本当!?じゃ、じゃあ、遠慮なく・・・・いただきます」
恥ずかしそうにしながらも、その紅い瞳は煌々と輝いていた。
雫が僕に近寄るのと同時に、僕は少し屈んで、首の付け根に付けていたガーゼを剥がした。そのすぐ後に、ほっそりとして華奢な両腕が恐る恐るといった風に、僕を包み込んだ。そして、ガーゼの下の傷口に雫の口が寄せられ・・
「れろっ・・」
「・・!!」
鼻孔に広がる雫のほのかに甘い匂いと傷口に這わされた生暖かい舌の感触があまりにも刺激的すぎて、ゾクゾクと寒気が走る。僕はたまらずビクリと震え、僕に抱き着く雫にしがみついた。一体どういう舌をしているのか、数日前に狐のせいで付いた傷からたった今切り付けられたかのように血が流れていくのを感じる。それでいて、まったく痛みがないのが不思議である。雫の術の影響だろうか。
「わひゃっ!?」
「・・・っ」
僕が雫を抱き返したようになったのに驚いたのか、さらにギュっと力を込めて僕を抱きつく。しかし、甘露を舐めるように僕の血を舐めとる舌は休まなかった。
「れろっ・・・ん、おいしい」
自分の血を好きな女の子に美味しいと言われる。
それを喜んでいいのかどうかわからなかったが、無視するのも憚られたので、返事はしておこう・・・
「えっと・・・」
--汝の血がな?あの蛇を・・・・
「っ!!」
「ん?ふらと?」
「な、なんでもない」
「?ほう?」
再び、脳裏をあの声が通り過ぎた。だが、それを雫には悟らせない。悟らせるわけにはいかない。
僕はなんとか生返事を返した。
「んっ・・・れろっ・・・・・」
「・・・・・・っ!!」
そこから、僕と雫の間に会話はなかった。
雫は熱に浮かされたように僕の血をすすり、僕は体に走るゾワゾワとした名状しがたい感覚をなだめすかす。それがここ最近の、朝の風景だ。
「雫、そろそろ・・・・・」
「ん・・・・あ、そうだね」
僕がそう言うと、雫はどこか名残惜しそうに、僕の体から離れた。すぐ近くにあった雫の温もりが消え、11月の朝の冷気が肌を刺す。その感触は、まるで僕を責めているようだった。
「えっと、『味見』だけどね、今日も前とあんまり変わってないと思うよ!」
「そう・・・・」
雫は、僕の首筋を見ながらそう言った。
『味見』
それは、僕らが旅行から戻り、おじさんと旅行先で何があったのか話し合ってから、雫が僕に言い出したことだ。何をやるかと言えば単純明快で、文字通りの味見だ。何の味を見るかと言えば、さっきまでのように僕の血である。
「あ、雫の方も、今日も匂いは問題なかったから」
「あ、うん。ありがとう・・・・」
雫はそう言いながらベッドの上から降りた。
雫が僕の血を吸っていたのはほんの少しの間だけだ。しかし、朝のひと時は貴重だ。少しうかうかしていると、すぐに遅刻の危険が迫って来る。味見はこれまでの匂いチェックも兼ねており、それは時間の節約のためでもあった。
「じゃあ、私は朝ごはんの準備してくるから・・・・」
「うん、ありがとう」
雫がドアの前に立ち、振り向いてそう言った。
朝は雫が用意するのが前々からの習慣である。僕は朝が弱いので、それを見かねた雫がやり出してくれたのだが、後ろめたさを感じ・・・・
--それだけじゃないだろう?
「・・・・・・」
今度は、あの狐ではなく、自分の声だった。
--お前が後ろめたく思っていることは、それだけじゃない。いや、むしろあっちの方がメインだろう?
「・・・・・・」
--本当なら、断らなきゃいけない。よしんば受けても、喜ぶようなことがあっちゃいけない。なにせ、雫がお前にここまでしてくれるのは、お前の血・・・・・
「っ!!雫、僕も手伝う・・・・」
僕はそこで、膝を打って頭を振った。
この新しい日課が終わるたびに沸き上がる自分の声。その声が言うことは正論だ。ルールの好きな僕らしい、まったくの正論。しかし、それに従うことが意味するのは、僕がもっとも避けたい未来がやって来ることだ。
僕は内なる声を押さえつけ、雫にだけ支度をさせるわけにはいかないと思いながら、立ち上がり・・・
「あれっ?」
「久路人?」
くらっと、視界がブレた。
さっきまで雫と触れ合っていたから感じていたと思っていたゾクゾクした感覚と、頭がボウッとなる感覚が同時に襲い掛かって来る。
「なん、で・・・」
「久路人!?」
ボフンとベッドの上にもう一度倒れ込み、意識を失うその前に。
「久路人、大丈夫!?」
僕が見たのは、手を差し伸べようと近づいて来る雫の姿だった。
(雫、ごめん)
その手が僕に触れる前に、僕は謝ろうと声を出そうとしたが、結局言葉は出てこなかった。
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ピピピ・・・と体温計の音が鳴った。
「えっと・・・37.9℃。風邪かなぁ」
「38℃スレスレじゃん!!今日は学校行っちゃダメだからね!!」
「わかってるよ。あ、でも術技の練習くらいは・・・」
「・・・・・久路人。いくら久路人相手でも、私だって怒ることはあるんだよ?」
「ごめん・・・・」
それまでの慌てたような表情から一変し、能面のような無表情になった雫はこれまでに見たことがないくらい怖かった。
「まったく・・・久路人は最近訓練とか頑張りすぎ!!」
「う・・・でも、あんなことがあったし」
「でももだってもない!!それで久路人が体を壊したら何の意味もないでしょ!!大体、久路人を守るのは護衛の私の仕事!!わかった!?わかったら、今日はじっとして寝てなきゃダメだからね!!」
「・・・・はい」
凄まじい剣幕で怒る雫に、僕が逆らえる道理はない。
実際、最近の訓練では自分でもやりすぎたかと思う時もある。
しかし、僕としては強くならないといけないという気持ちを抑えられないのだ。
「とにかく!!私はお粥作ってくるから、大人しく寝てて!!勝手に動いて外に出るとかしたら、私本気で怒るからね!!」
「わかったよ・・・・」
僕がそう返事をすると、雫はしばらくじぃっと疑わしそうに僕を見つめていたが、そのうちに「さっきのはフリじゃないからね?本気だからね?」と言って、部屋を出ていった。
ドタドタと階段を駆け下りる音がする中、僕は「はぁ」とため息を吐いた。
「確かに、今日はもう動く気はないけどさ、あんなことがあっちゃあ、強くなろうとするのはしょうがないよ」
僕がここまで訓練をハードにこなそうとするのには、正確には自分の力を使いこなそうとするのには、当然理由がある。
それは、葛城山で絶体絶命になるまでに追い詰められたこと。朧げな記憶しか残っていないが、僕が自分の潜在能力を引き出して九尾の珠乃を倒したことだ。
「あの力が、もう一度使えるようになれば・・・・」
今の僕に、あれだけの力は使えない。
どうやって体をバラバラにしないままにあれほどの力を使えたのか、さっぱりわからない。だが、あれだけの力があれば・・・
「もう二度と、約束を破らなくていい」
---妾は、仮に契約がなくなっても、我が友を守る。だから、妾と同じように、お前も妾を守るのだぞ。よいな!!---
幼いころに交わした大事な大事な約束を、僕は守れなかった。結果的に見れば僕は珠乃を倒したのだから、落とし前は付けられたのかもしれない。だが、それでも雫が傷ついた事実は消えない。
だから僕は、もう二度と雫を傷つけないようにしなきゃいけない。
そう、雫が傷つかなくてもいいように。
雫が、僕の血を飲んで力を高める必要がなくなるくらいに。
「・・・・・・」
僕は、窓から差し込む光に、自分の手をかざした。
自分の体に流れる血が、それで見えるようになるわけではない。だが、感じることはできる。今もこの身に巡る、血と力を。
--それが、お前の体に流れている力の正体だ。
「・・・・・・」
おじさんの言葉が耳に蘇った。
それは、自分の持つ異常な力のこと。自分の体を動かしたナニカのこと。雫が『味見』を提案するようになった理由でもある。
「・・・・神の血、か」
僕は、旅行から帰ってきたばかりのことを思い出していた。
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