白蛇病恋譚~拾った妖怪に惚れて人間やめた話   作:二本角

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ちょっと悪い子な雫が書きたい、夏だしホラーテイストな話書きたいと思ったら、こんな長さに・・・
しかも結局普段の雫とあんまり変わらない感じに。
自分にガチヤンデレは書けないかもと思う今日この頃です。


IFルート 水底の白蛇

 これはもしもの物語。

 人をやめた青年と、人をやめさせた蛇が、異なる道を歩いていた『IF』のお話。

 青年の力が眠り続け、蛇が『こちら側』の世界に封印された世界のお話。

 

------

 

『・・・・・人間だと?』

「・・・うーん」

 

 日本のどこか。

 とある県の、とある田舎町。

 白流市とは遠く離れた別の町。

 その郊外の森の奥にある、小さな泉の底にて。

 

『・・・これは、どうしたものか』

 

 白い大蛇の目の前に、一人の少年が落ちてきたのだった。

 

------

 

「・・・・・はぁ」

 

 街の郊外に繋がる寂れた農道。

 そこを歩きながら、少年はため息を吐いた。

 月宮久路人という少年は、最近とある悩みを抱えていた。

 

「・・・・・今日も疲れたな。って、ああもう!!しっしっ!!」

 

 肩に止まった、目玉に細い虫のような六本脚とハエのような羽が生えた生き物を手で払いながらも、その顔には疲れが滲んでいる。

 

「まったく毎日毎日・・・なんなんだよこいつら」

 

 うんざりしたようにため息をついて、久路人は己を困らせている問題を口に出した。

 

「なんで、こんなよくわからないモノが見えるんだか」

 

 『お化けが見える』

 それは、月宮久路人が幼少の頃からだ。

 子供のころから、時折彼は普通の人間には見えないおかしなモノを見ることがあった。

 そのせいで自制の効かない子供の時分には、他の子どもには見えないモノを見えると言って、周囲から煙たがられていたものだ。

 そんな彼の様子を見て、両親は『それは一握りの人にしか見えないモノで、それが見えると言ってはいけないよ』と教えた。

 彼の父親は久路人と同じモノを見ることはできないが、そういったモノに詳しい一族の出身らしい。

 素質がなかったとして成人するとともに追い出されてしまったようだが、彼の父親は常識と良識を併せ持った人物であり、また、そういった超常の存在を知っていた。

 そのため、久路人は世のルールを覚え、過剰に排斥されることなくまっとうに育つことができたのだ。

 ただ、やはり過去のこともあって周囲からは浮いてしまってはいたので、高校進学を機に別の町に一人暮らしをすることになったが。

 それでも、久路人にとってはよそよそしい態度をとる同年代から離れられる機会というのはありがたいものだったし、そこで得た、自分と普通に接してくれるクラスメイト達にも恵まれた。

 彼は新しい場所で、新たな輝かしい生活をスタートさせることができたのだ。

 

「・・・はぁ」

 

 つい最近までは。

 久路人は、道の端に列を作って歩く人の顔が付いた果物のようなナニカの群れを見ながら愚痴をこぼす。

 

「まったく・・・この街ってああいうのが多すぎでしょ」

 

 久路人の最近の悩み。

 それは、移り住んだ街に、自分にしか見えないナニカがうじゃうじゃいたことだ。

 前に住んでいた場所では本当にたまにしか見えることはなかったのだが、この街ではほぼ毎日のようによくわからないモノを見かける。

 しかも、ただ見えるだけでなく、さっきの虫モドキのようにちょっかいをかけてくるものもいるのだ。

 幸いなことに危険と思えるようなモノはいないが、自分にしか見えないモノが自分にちょっかいをかけてくるのを他人にバレないように対処するというのは、久路人にとって大きなストレスになっていた。

 

「最近は学校だろうが街中だろうがお構いなしだしなぁ・・・ちょっと見た目がキモイくらいだからまだいいけどさ」

 

 久路人には自覚がないが、彼が『よくわからないモノ』に対してちょっと鬱陶しい程度にしか思わないというのはとても幸運で、珍しいことだ。

 彼、そして素質のなかった彼の父親は知らないことだが、そういったモノは人間に対して存在するだけで恐怖や嫌悪を与える存在であり、ただ見えるだけの人間にとっては精神を壊される可能性すらあるのだから。小さなモノならそのリスクもほぼないが、それでも嫌悪の情を抱くのが普通である。

 というか、周りには見えないナニカに纏わりつかれて『ちょっとキモイ』で済ませるなど、そういったモノの特性を差し引いても図太いというレベルを超えている。

 それでいて周囲の視線を気にする繊細な部分もあるのだから、もう訳が分からない。

 普通の人間だけでなく、異能を持つ人間にとっても、久路人は異常な存在だった。

 

「はぁ・・・せめて誰かに相談出来たらな。せっかく普通にクラスメイトと話せるようになったけど、こんなこと相談できないし」 

 

 当の本人は、そんなことを知る由もなく、『悩みを聞いてくれる人がいればな~』と能天気なことしか考えていなかったが。

 と、そこで久路人は足を止めた。

 

「それにしても、やっぱりここはいい場所だな」

 

 悩みながら歩くうちに、久路人は目的地に到着していた。

 そこは、郊外にある小さな森の奥にある池だ。

 子供が遊びに来るには遠く、大人は来る用事がない。

 そのため、人気はなく静かな場所で、他人の目や耳を気にしなくていいこの場所は、最近の久路人にとって憩いの地であった。

 高校では今のところ人間関係に問題はないし、遊びたい気もないではないが、大人数で過ごすのは少し苦手だったりする。

 

「よいしょっと・・・」

 

 近くにいたキノコに手足が生えたようなモノたちを追い払い、久路人は池のほとりの切株に腰を落とした。

 そのまま鞄の中にしまってあった文庫本を取り出して読み始める。

 そうしてそのまま、日が落ちるまで読書をするのが、最近の久路人の放課後だったのだが・・・

 

「ん?」

 

 そこで、久路人は怪訝な顔で池を見つめた。

 

「今、何か池の中を泳いでなかったか?」

 

 一瞬、水の中に大きな影が見えたような気がしたのだ。

 それはすぐに消えてしまったが、細長く、素早く・・・

 

「蛇かな?それにしてはかなり大きかったような・・・?」

 

 『すわ、知られざるUMAか?』と、久路人は年頃の男子らしく冒険心をくすぐられたのだろう。

 あるいは、最近のストレスのたまる日々に新しい刺激が欲しかったのかもしれない。

 そのまま、久路人は池のふちに歩いて行く。

 池は近づいてみると、苔むしてはいるが古い石垣で囲われており、水面までの角度は急だった。

 久路人は石垣の上に足を乗せ、水面を覗き込む。

 

「ん~?やっぱり気のせいかな?何もいないや」

 

 しかし、池の中には小魚が小さな群れを作って泳いでる姿が見えるだけで、他に何もない。

 そもそも池は底が見えるくらいには浅く、久路人が見た大きな影がいようものなら池に収まりきらないだろう。

 

「最近疲れてるせいかな?もう帰って寝ようか・・・」

 

 そうして、久路人は踵を返して歩き出そうとした。

 そのときだった。

 

「うわっ!?」

 

 唐突に、久路人は足を滑らせて、池の中に落ちてしまった。

 水辺にあって湿っていたために、石垣は滑りやすくなっていたのだ。

 だが、そこは精々腰の高さまでしかない池。

 すぐに足が付くはずで・・・

 

(っ!?・・・えっ!?、底がない!?)

 

 しかし、久路人の身体は一向に水中にあった。

 足どころか、体のどこにも物が当たる感覚がない。

 

(まずっ!!このままじゃ・・・)

 

 パニックになりながらも、それでも久路人は反射的にもがいた。

 手足を振り回し、すぐ近くにあるはずの岸にたどり着こうとする。

 

(嘘だろっ!?なんで何もないんだ!?)

 

 だが、やはり久路人の手に水以外の物が触れる感触はない。

 そうこうしている内に、疲れがのしかかってきた。

 服を着た状態で水の中を泳ぐということは、想像以上に体力の消耗を招くのだ。

 

(そんな、なんで・・・こんな、とこ、ろ、で・・・)

 

 そうして、久路人の意識に靄がかかる。

 鼻や口からも水が入り、身体が重くなっていくのが分かった。

 そして・・・

 

『・・・・・』

(紅い・・・点?)

 

 二つの紅い光が視界に映ったのを最後に、久路人の意識は闇に沈んでいった。

 

 

------

 

『・・・これは、どういうことだ?』

 

 青く仄かな光に満ちたその場所で、白い大蛇はとぐろを巻きながら首を傾けた。

 

『この場所に、人間が落ちてくるなど』

「・・・・・」

 

 その紅い瞳の見つめる先には、一人の少年が横になっていた。

 それは、先ほど池に落ちてしまった久路人であった。

 

『ふむ・・・いつの間にか封印が緩んだのか?それともこの小僧が特別なのか・・・よく見てみれば、何かの力を感じるが、量は大したことがない。いや、眠っているのか?』

「・・・・・」

 

 蛇は久路人が落ちてきた理由を考えるが、答えは出ない。

 久路人からは妙な力をわずかに感じるが、それが原因かどうかも分からない。

 分かっているのは・・・

 

『大分水を飲んでいるな・・・ほれ』

「っ!?ゴホッ!?」

 

 蛇が軽く目を向けると、久路人の口から噴水のように水が噴き出した。

 その感覚に驚き、久路人はたまらずに飛び起き・・・

 

「ゲホッ、ゲホッっ!?・・・う、頭痛ぁ・・・って、ここは?」

『目が覚めたか、小僧』

「ここどこ・・・って、デカっ!?すごいデカい蛇がいるっ!?」

『・・・・・』

 

 目を覚ましたと思えば、とぐろを巻いた状態で自分の背丈ほどの高さがある蛇が自分を見つめており、久路人は驚きの声を上げた。

 その様子を見て、蛇はぱっと見では分からないが面倒くさそうな顔をする。

 

『チッ・・・これだから人間は。妖怪を見ただけで無様に慌てふためきおって』

 

 せっかく話を聞こうと思って助けてやったというのに、これでは会話どころではない。

 人間という生き物は蛇の知る限りいつもそうだ。

 ただ興味がわいて村の近くに来ただけだというのに、勝手に警戒して、勝手に恐れて、勝手にこちらを倒そうとするのである。

 瘴気のせいもあるとはいえ、毎度毎度そんな態度をとられては、こちらとしてもうんざりするというものだ。

 

『長く封印されすぎて、そんなことも忘れていたか・・・仕方ない、この小僧は外に放り出して』

 

 そうして、目の前の少年もこれまで見てきた人間と同じように取るに足らないモノと判断し、水流で上に吹っ飛ばそうとした時だった。

 

「・・・それにしても、すごい綺麗な蛇だな」

『・・・何?』

 

 ひとしきり騒いで落ち着いたのか、いつの間にか久路人は蛇をじっと見つめていた。

 人間は妖怪を恐れるモノ。

 蛇にとってはそれが常識だったが、その常識が今まさに覆されていた。

 

「白い身体に紅い眼・・・アルビノか。見た目はアオダイショウに似てるけど、でもなんか違うな・・・っていうか、それ以前に大きすぎでしょ。新種だよね、これ。しかし、こんなアルビノの大蛇なんて、すごいなぁ」

 

 久路人は、ひたすらに感心するように蛇を見つめていた。

 言っていることの意味はよく分からないが、その言葉に負の感情が籠っているようには思えない。

 ・・・実は久路人は、かなりの爬虫類、両生類好きなのだが、それでもアナコンダを超える大きさの大蛇を身を護る柵なしに目の前にして感動している辺り、やはりどこかズレているのだろう。

 あるいは、久路人は気付いていたのかもしれない。

 目の前の蛇がどういう存在なのか、自分に対して敵意を持っているのかを。

 

「本当に、白くて艶があって綺麗っていうか、神秘的っていうか・・・ん?神秘的?」

『ほう?人間のくせに、お前中々見る目があるではないか』

「もしかして、この蛇も・・・って、え?」

 

 そこで、蛇はずいっと首を久路人に近づけた。

 紅い瞳と黒い瞳の線が合わさる。

 蛇の瞳は、知性と理性の輝きを宿していた。

 その瞳を見た瞬間、久路人は本能的に蛇への警戒を解く。

 そして、気が付けば問いが口から飛び出していた。

 

「あの、聞きたいことがあるんですけど」

『なんだ?問いならば妾から投げかけたいところではあるが、今の妾は機嫌がいい。申してみよ』

「あなたって、その、妖怪とか、そういう存在なんですか?」

『・・・今まで気付いてなかったのか?』

 

 蛇は呆れたような瞳になった。

 普通、人間というモノは本能的に妖怪の存在を理解するものだ。

 幻術や人化の術を使っているのならばともかく、今の蛇は見た目まんま大蛇である。

 瞳だけでなく、呟く声にも呆れを滲ませたのだが・・・

 

「って、蛇に聞いても分かるわけないか」

『・・・む!!』

「蛇に言葉が話せるわけないし」

 

 蛇のそんな感情は、欠片も伝わらなかったようだ。

 久路人は『馬鹿なことをした』と言うように肩をすくめる。

 だが、それも無理もない。

 久路人の言う通り、蛇に言葉を話すことができるはずもない。

 ・・・蛇も忘れていたことだが、蛇が先ほどから久路人に向けているのは、言葉が話せない妖怪などが使う『念話』という術の一種である。

 当然、人語しか使えない久路人に理解できるはずもない。

 

『むむ!!妾を愚弄するか!!念話もできんくせに!!・・・ええい、見ておれよ!!』

 

 しかし、そんな久路人の態度は蛇のプライドをいたく傷つけたようだ。

 そんな蛇を尻目に、久路人は現状の分析と脱出方法を考え始める。

 それが益々、蛇の負けん気に火をつけた。

 

「でも、それならこれからどうしよう。この蒼い部屋はどこなんだ?池に落ちたはずなのに空気があるし。どうやって外へ出れば・・・って、ん?何?どうしたの?」

 

 つんつんと何かに突かれる感覚がしたかと思えば、蛇の尻尾の先が久路人の肩を叩いていた。

 振り向いて見てみると、尻尾で自分の首をクイクイと指している。

 まるで、『見ていろ!!』と言っているようだった。

 

「何を見せたいのか知らないけど、僕、今結構困ってるんだ。後にして欲しいんだけ、ど・・・?」

 

 蛇はそんな態度であるが、久路人としては脱出方法を確保する方が大事である。

 言葉が通じるはずがないと分かっていながらも、『後にして』と言い、部屋の探索に戻ろうとした時、白い霧が蛇を覆いだしたのに気が付いた。

 

「え?なにこれ?霧?部屋の中なのになんで・・・?」

『・・・・・』

 

 その変化は唐突で急激だった。

 霧は見る見る内に蛇を完全に覆い隠してしまう。

 状況の変化に着いていけない久路人を置き去りに、霧はさらに濃度を上げ・・・・

 

「はっ!!」

「・・・え?」

 

 突然、霧が晴れた。

 そして・・・

 

「さて・・・」

 

 久路人の目の前に・・・

 

「蛇に言葉が話せるわけがない、だったか?小僧。今の妾にもう一度言ってみろ。ん?」

「・・・・・は?」

 

 得意げな表情で腕を組む、白い着物に身を包んだ、銀髪紅眼の少女が立っていた。

 

 

------

 

「なるほど。お前の名前は月宮久路人。ここには、池に落ちたと思ったらいつの間にかいたと、ふむ」

 

 仄かに青い光に照らされる、どこまでも畳だけが広がる部屋の中で、一人の少年と少女が向かい合って座っていた。

 

「予想は付いていたことだが、お前がなにかしらの術を使ったというわけではないのだな。ならば、やはり封印が緩んでいたのか?しかし、妾の姿が見えていたというなら、お前が無意識に何かをしたのか・・・ううむ、わからんな」

「あの・・・」

「む?なんだ?」

 

 久路人から名前と、これまでのいきさつを聞いて何事かの推測をしていた蛇、否、今は少女に、久路人は問いかけた。

 

「君・・・いや、あなたは本当に、さっきの蛇なんですか?」

「さっきも説明してやっただろう?今の姿は、『人化の術』で変化したモノ。妾は元々蛇そのものだ」

 

 その問いに、蛇は聞き分けの悪い生徒を見る教師のように答えた。

 その答えの通り、今の蛇の姿は人間の身体に変身する術の効果によるもので、元はさっきの蛇である。

 久路人からすれば信じがたい話なのだが、今の状況そのものが信じがたいので納得するしかない。

 

「人化の術は高度な術でな?単なる幻術とは違い、本物の人間の身体を得るものだ。なにせ500年の間暇だったのでな。色々と術を作るくらいしかやることがなかったのだ」

「500年も封印、ですか」

「そうだ!!妾はずっとこの池に封じられていたのだ!!別に大それたことをやったわけではないのだぞ?人間を殺めたこともない。精々真夏に雪を降らせて作物をダメにしたり、川遊びをしてたら洪水を起こしてしまったことくらいだ」

「そ、そうですか・・・それは大変でしたね」

(それって、結構大変なことだったんじゃ?)

「ふん、まあな。だがまあ、妾のような大妖怪にとって500年など昼寝と大して変わらん。故に、寛大な妾はこうして大人しく封じられてやっているというわけだ」

 

 久路人が池に落ちたのは偶然だったが、蛇が池に封印されていたのはそれなりの理由があったらしい。

 人化の術のような術は、封印されている間に暇だったから覚えたのだとか。他にも様々な術を使えるのだと言う。

 しかし、久路人にとって一番重要なのはそんなところではない。

 

「それで、僕はどうやったら元の場所に戻れますかね?」

「ふむ・・・妾からしても、お前は急に落ちてきたといった風だったからな。そうさな・・・」

 

 そこで、蛇は再び考え込んだ。

 しかし、今度はすぐに答えを出したようで、すぐに顔を上げた。

 

「落ちてきたと言うのなら、登ればいいのではないか?」

「登る、ですか?でも・・・」

 

 久路人は上を見た。

 そこには天井はなく、ひたすらに青い空間だけが広がっている。

 当然、はしごや階段などあるはずもない。

 

「どうやって登れば・・・」

「何、そこは心配するな」

「え?」

 

 途方に暮れたような顔をする久路人に、蛇はにこやかな様子で笑いかけた。

 しかし、久路人は背筋に悪寒が走った。

 今の蛇の周りには、いつの間にかどこからか水が集まって渦を巻いていたからだ。

 

「あの、その水は一体・・・?」

「妾としても、封印がどうなったのかは気になるところだ。お前がここから出れるというのなら、妾も出られるかもしれん。だから・・・」

 

 久路人の質問に、蛇は答えなかった。

 だが、その周りに集まる水量は見る見るうちに増えていき・・・

 

「まさか・・・」

「なぁに、安心しろ。加減はする。落ちてきたのならしっかり受け止めてやるさ。だから・・・」

 

 蛇が何かを言う前に、久路人は背を向けて走り出した。

 この部屋のどこかに、出口があるかもしれないという淡い希望を胸に。

 しかし、そんなただの人間の儚い希望が叶うはずもなく・・・

 

「何の心配もせず、吹っ飛ばされろ♪」

「やっぱりぃぃいいいいいいっ!?」

 

 そうして、久路人は再び水に包まれ、意識を失ったのだった。

 

 

------

 

「ふむ、あの小僧、落ちてこないな・・・」

 

 青い部屋の中で、蛇は上を見ながら呟いた。

 

「ということは、本当に封印が綻んでいるのか?しかし、この空間そのものに変化はない。ならば、やはりあの小僧が特別なのか・・・ふん、惜しいことをしたかもな」

 

 蛇は上を見るのをやめ、畳に腰を降ろした。

 自分の選択を少し後悔する。

 

「あの小僧、月宮久路人が特別というのなら、この場所に閉じ込めて調べるべきだった。人間が再びここに入れる保証はないし、そもそももう近づきすらせんだろうからな」

 

 人間は妖怪を恐れるモノ。

 あの月宮久路人は他の人間とは違うようだったが、一度ここを離れれば、頭も冷静になるだろう。

 そうなれば、あの池に来ることもなくなるはずだ。

 

「まあ、いい暇つぶしにはなったがな」

 

 蛇にとって、人間と言葉を交わすのは500年以上昔のこと。

 それも、人間側は悲鳴を上げるばかりだった。

 そう考えれば、まともに会話をしたのが、あの月宮久路人が最初と言っていい。

 初めてのちゃんとした会話は、蛇にとって中々に新鮮なモノだった。

 

「さて、もう来ないヤツのことを考えても仕方がない。また術の開発でもするか、ひと眠りするか・・・む?」

 

 しかし、もう二度と会うことのない人間のことを考えても無駄なだけ。

 蛇はすぐに考えを打ち切ろうとしたが、そこで畳に見慣れないモノが落ちているのに気が付いた。

 

「これは、本というヤツか・・・?む?だが、中身は絵ばかりだな」

 

 その妙にツルツルとした手触りの本を、文字を知らない蛇は読むことができなかった。

 しかし、パラパラと開いてみれば、そこに書かれているのはほとんどが絵であった。

 ・・・それは、久路人が鞄の中に入れてあった漫画であった。

 水流で打ち上げられた時に鞄が開いてしまったのだろう。

 他にも何冊か同じような本が転がっている。

 

「この絵は、何かの術を使っているところか?獲物は刀・・・ならばこちらの絵は?」

 

 字は読めないが、絵で何をしているのかは分かる。

 得られる断片的な情報から、大筋を推測して内容を想像する。

 それは、今までの術の鍛錬に比べると遥かに好奇心をくすぐられるものであった。

 気が付けば、蛇はそこに座り込んで無我夢中で本のページをめくっていた。

 

「ふん、無様な妖怪め。策を弄されたとはいえ、人間ごときにやられるとは。妾なら・・・」

 

 しばらく、青い部屋の中にページがめくられる音と蛇の感想が響くのであった。

 

 

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「参ったな、教科書を落としちゃうなんて・・・」

 

 翌日、久路人は再び森の奥に来ていた。

 昨日は気が付けば池のふちに寝そべっていて、身体も濡れておらず、夢でも見たのかと思った。 

 だが鞄を見てみれば、口が開いていて、漫画と教科書がなくなっていたのだ。

 鞄のポケットにしまっていた財布や携帯は無事であり、本の類だけがなくなっているというのは、泥棒に取られたとも考えにくい。

 ならば・・・

 

「あれが現実で、最後に吹っ飛ばされた時に落としちゃった・・・ってことかな」

 

 正直半信半疑だ。

 しかし、他に考えられる可能性はどれも似たり寄ったりの低さだ。

 

「まあ、違っても服が少し濡れるだけで済むしね・・・」

 

 久路人は鞄を降ろし、近くの茂みに隠すと、体操着になった。

 そして・・・

 

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「・・・人、久路人。・・・え~い!!起きろ!!」

「ゴハッ!?」

 

 体内から無理やり何かが噴き出していく感覚で、久路人は目を覚ました。

 ふらつく頭で辺りを見回してみれば・・・

 

「あ、蛇さん。おはようございます」

「・・・昨日も思ったが、お前本当に人間か?目が覚めてすぐ近くに妖怪がいるというのに挨拶をするなど。まあいい、挨拶を返さないのは礼を失すること。・・・おはよう、久路人」

 

 相変わらず呆れたような表情で久路人を見る蛇がいた。

 

「それで?ここには何をしに来た?てっきり妾はもう来ないかと思っていたのだが」

「それなんですが・・・」

 

 そうして、久路人はここに来た理由を説明する。

 

「ふむ、本か」

「はい、ここに落としちゃったと思うんですけど、知りませんか?」

「ふん・・・」

 

 そこで、蛇はチラッと後ろを振り返った。

 そこには・・・

 

(昨日はあんなタンス、なかったよね・・・)

 

 氷でできたタンスが一つ、すぐ近くに鎮座していた。

 実は会話を始める前から久路人としても気になっていたのだが、なんとなく指摘しにくかったのだ。

 

「確かに、昨日お前がここを出ていった後に本が落ちていた。元々それはお前の物だ。返してやってもいい」

「そうですか!!よかった・・・」

 

 尊大な口調ではあるが、この蛇はかなり人がいいようだ。

 久路人は安心して、タンスの方に近づこうとして・・・

 

「ただし!!」

「うおっ!?」

 

 そこで、蛇が久路人の前に立ちはだかった。

 身長は久路人よりも頭一つ低いが、本人がこぼしていたように彼女は大妖怪。

 それも、久路人がこれまでテレビでも見たことのないレベルの美少女である。

 そんな存在が険しい顔で自分を見つめている。

 そのことに、久路人は気圧されていた。

 

「返してやる。返してやるが、条件がある」

「じょ、条件ですか?」

 

 本は元々久路人の物で、返すのが常識だろう。

 しかし、蛇の家とも言える場所に無断で侵入したのは久路人だ。

 人間相手なら不法侵入罪で訴えられても文句は言えないことを考えれば、条件を吞むのは仕方ないのかもしれない、と久路人は思った。

 

「これ、僕が落とした漫画・・・あの、条件って?」

「これの・・・」

 

 そんな風に構える久路人に、蛇はタンスの中から漫画を取り出して、久路人の目の前に突き出した。

 その顔は俯いていてよく見えないが、肩はプルプルと震えていて、かなり緊張しているのが見て取れる。

 

「これの読み方を教えろ!!後、続きを持ってこい!!」

「それぐらいなら別にいいですよ」

「もし断るようならコレは返さないし、お前もここから出さな・・・何!?いいのか!?」

「はい。何ならそれ、しばらくここに貸しておいても大丈夫です。僕がすぐ持って帰りたいのは教科書だし」

「そ、そうか。そうかそうか!!お前、中々話が分かるじゃないか!!」

 

 OKがもらえるとは考えていなかったのだろうか?

 久路人が快諾するとひどく驚いたような顔をしていたが、すぐに満面の笑みを浮かべる。

 実際に、蛇としては断られるかも?と思っていたのだ。

 久路人は普通の人間とは違うようだが、やはり妖怪などと取引できるものかと考えるかもしれない、と。

 

「お前が変わり者でよかったぞ!!アッハッハッハ!!」

「・・・・・」

 

 そして、教科書を受け取りながら・・・

 

(か、かわいい・・・)

 

 目の前で快活に笑う美少女に、久路人はすっかり見とれていたのだった。

 

「えっと、それじゃあ早速続き持って来ましょうか?辞書とか、平仮名書いてあるやつとかも一緒に。今は鞄持ってないし」

「む!!殊勝な心掛けだな。いいぞ、ここから出してやろう」

「あ!!でも、あんまり荒っぽいのはちょっと・・・昨日それで気絶しちゃってたので、もしかしたらかなり待たせちゃうかもしれません」

「ふむ、それはよくないな。思えば、お前がここに来るときに水を飲んで気絶しているのも手間がかかる。よし、こうしよう」

「?」

 

 一度帰りたいという久路人に、蛇は手をかざした。

 疑問符を浮かべる久路人の前で、蛇の手のひらから水があふれ出し、それはすぐに形を変えた。

 それは素早く宙を駆けると、久路人の身体に纏わりつく。

 

「うわっ!?・・・水でできた蛇?」

「そいつは妾の使い魔のようなモノ。水の災いから、お前を守るように命じてある。これで気を失うことはないぞ。お前から漏れてる力を餌にすれば、この封印の外でも大分持つはずだ」

「あ、ありがとうございます・・・ん?僕の力?それって?・・・って、なんでまた水が渦を巻いてるんですかっ!?」

「お前の力についてはそのうち説明してやる。だから、まずは続きを持ってこい。お前に着けた使い魔で、約束を破ったらすぐに分かるからな!!それっ!!」

「うわぁぁあああああああっ!?」

 

 そうして、久路人は昨日に引き続いて、激流に吹き飛ばされていったのだった。

 

 

 こうして・・・

 

 

「ふむ、この漫画は妖怪のくぉーたーとやらが主人公なのか。実際にそんなものがいるとは思えんが」

「そうなんですか?」

「ああ。普通、人間は妖怪を本能的に恐れるモノだからな」

「え?でも、僕は別になんともないですけど・・・」

「それはお前が異常なだけだ。まあ、そのおかげで漫画が読めるから妾は助かるがな」

「ええ・・・」

 

 

「なんだ、この宇宙空間で戦う侍の漫画は!!本当にあの忍者漫画の作者と同一人物が監修しているのか!?」

「本当に疑いたくなりますよ・・・人は変わるってことでしょうか」

「・・・お前は変わるなよ。漫画が読めなくなる」

「え?」

「なんでもない!!口直しにそっちの鬼が出てくるのを寄越せ!!」

 

 

「・・・おい、『選んで除外する』と『選択して除外する』は何が違うんだ?日本語のルールはいつからその二つを別の意味で扱うようになった?辞書で調べても同じ意味だぞ」

「日本語のルールは同じですけど、これはKONA〇Iのルールに従っているので・・・というわけで、そっちの効果は不発で、手札、墓地、フィールドからそれぞれ一枚ずつ除外しますね」

「くそぉぉおおおお!!何なのだ、このかーどげーむはぁぁああああああ!!」

「これでダイレクトアタック決まりますけど、何かあります?」

「こ、この鬼畜ぅうううう!!」

 

 

「・・・どうだ!?それっぽく見えるか?」

「かなりいい感じです!!後は空中に氷の華を浮かべれば完璧ですよ!!僕にもそういうのできないかなぁ・・・」

「前にも言ったが、お前には間違いなく大きな力が眠っているからな。それが目覚めればできるだろうよ。最近少しずつ漏れてる力が増えてるから、近いうちにできるんじゃないか?・・・お前も氷雪系の力ならいいな!!氷雪系はなぜかやたらと咬ませになりやすいが、妾がその風潮を変えてみせる!!」

「・・・あの、言いにくいんですけど、コミックスじゃなくて本誌の方だと、そのキャラまたやられてます」

「なん、だと・・・」

 

 

「この、ええと、狩人×狩人か?続きはないのか?」

「あ、それ持ってきちゃってたのか・・・すいません、それ続きはちょっと・・・」

「なんだ、ないのか・・・新刊はいつ出るのだ?」

「・・・もしかしたら、僕が寿命で死ぬまで出ないかも」

「なんだとっ!?それは困るぞ!!おい、久路人!!お前、後1000年くらい寿命伸ばせ!!」

「無茶言わないでくださいよ!!」

 

 

「・・・なぜ、この女は主人公を諦めた?なぜ食いつこうとしない?」

「それは・・・僕も正直共感はできないんですけど、もう一人のヒロインの方が主人公に合ってると思ったからじゃないでしょうか」

「・・・ふん、理解できんな。欲しい雄がいるのならば、どんな手段を使ってでも手に入れるべきだろうに。久路人、その漫画の続きはもういい。妾は読まん」

「・・・わかりました」

 

 

 妖怪を恐れない変わり種の人間と、500年を池の底で封印されていた妖怪の、少し変わった交流が始まったのだった。

 

 

------

 

「そういえば、ずっと思ってたんですけど・・・」

「ん?なんだ、久路人?」

 

 二人が出会ってから、それなりの時が経った。

 ほぼ毎日のように池に通い、二人で漫画や小説を読んだり、カードゲームで遊ぶのがすっかり日常となっている。

 今も、二人で蛇が造った水の椅子に腰かけながら、過去の名作を読み返していた。

 そんな時だ。

 

「蛇さんって、名前はないんですか?」

「む・・・ふむ、ないな」

 

 ふと、久路人は蛇の名前が気になった。

 それまでその空間には二人しかおらず、久路人も『あなた』とか『蛇さん』とか呼ぶことが多く、名前を持つ必要性がなかった。

 しかし、たまたま今読んでいる漫画が、名前を大事なテーマとして扱う話だったのだ。

 

「そうですか・・・」

「ああ」

 

 久路人としては、少し気になったから聞いただけ。

 だから、すぐに手元の漫画に意識が戻り・・・

 

「だから、久路人。お前が妾に名前を付けろ」

「・・・へ?」

 

 そう言われた時、久路人の口から呆けたような声が出たのも仕方ないだろう。

 

「え?なんで僕?蛇さんが自分で考えた方がいいんじゃ?」

「いや、それなのだがな・・・妾が自分で考えると、コロコロ変わってしまいそうな気がしてなぁ」

「ああ、結構ロールプレイ好きですもんね」

 

 蛇本人が考えた方がいいのでは?と聞くが、返ってきた答えに久路人は納得する。

 なまじ異能の力があるために、蛇は漫画の技をかなり真似できてしまうのだが、そのせいでいろんなキャラに愛着を持っているのだ。一つに決められないと言うことだろう。

 

(そうなると、逆に蛇さんの大好きなキャラは避けた方がいいかな?蛇さんに合う名前か・・・蛇さんと言えば、水属性、白い髪、紅い眼・・・水、白、紅か)

 

 久路人はそこでしばし考え込んだ。

 そんな久路人を、表面上はすまし顔で、しかし内心はかなりハラハラと期待と不安が混ざった心持で蛇は見つめ・・・

 

「・・・雫」

「む?」

「雫なんて、どうですか?水にまつわる言葉だし、光に反射すれば白、血が垂れたら紅って感じで、えっと、その・・・」

「お前、仮にも女の名前の由来にするものに血の話はするなよ・・・」

「ご、ごめんなさい。じゃあ、他の・・・」

「いい」

「え?」

「雫でいい」

 

 その由来に呆れ顔をされて、すぐに他の名前を考えようとした久路人だったが、蛇は、否、雫はそれを止めた。

 

「由来はどうあれ、中々悪くない響きだ。水にまつわるというのもいい。なにより、外ならぬ、く、久路人が悩んで、考えてくれた名前だからな。わ、妾はこれからし、雫だ」

 

 言っている途中で恥ずかしくなったのだろうか。

 最初は久路人の顔を見て言っていたのだが、そのうちに手元の漫画に目を落としながら、早口になって雫はそう言った。

 手にした漫画のページは、一枚も捲られていなかったが。

 

「は、はい・・・それじゃあ、し、雫さん」

「う、うむ」

 

 そんなどこか甘酸っぱい空気にあてられたのか、久路人もまた、雫の名前を呼びながらも漫画を読む。

 

「・・・・・」

「・・・・・」

 

 やはり、しばらくの間、ページがめくられる音はしなかった。

 

 

------

 

 それからも、二人の交流は続いた。

 

「妾は手札の古代の機械カタパルトを発動!!歯車タウンを破壊し、デッキから古代の機械ヒートコアドラゴンを二体特殊召喚だ!!ふははははっ!!バトル中に魔法、罠、モンスター効果を発動させないこいつらならばお前が小細工しようが無駄・・・」

「フレシ〇の蟲惑魔の効果発動。素材を一つ取り除いて、手札から奈落の落とし〇を発動」

「なっ!?手札からトラップだと!?な、ならば、王宮の〇触れを発動!!罠は発動できん!!」

「この効果は罠じゃなくてモンスター効果。そのカードじゃ防げませんよ。ヒートコアドラゴン2体を破壊して除外!!これで、雫さんのフィールドはがら空きだ!!」

「あぁああああああああああっ!!妾のモンスターがぁあああああ!!・・・久路人ぉおおお!!そのモンスターを使うのは止めろぉおおおお!!」

「そんなこと言われても、僕、罠効果で嵌めるの好きですし、それが僕のフェイバリットスタイルだし・・・」

「ぐぬぬぬぬ・・・すました顔でなんという台詞を!!というか、罠だのなんだのは関係なく!!そいつの見た目が気に食わんのだ!!男ならもっとゴツイのを使って見せろ!!」

「とりあえず、ダイレクトアタックしますね」

「このドS!!妾達は決闘で分かり合った親友だろう!?」

「親友だからこそ、手は抜かないんです!!雫さんだって、真剣勝負で手を抜かれた嫌でしょ?」

「そ、それはそうだが・・・」

「というわけで、はい、これでライフポイントは0です」

「イワァァァアアアアアアアアアックっ!??」

 

 

「う~ん、この問題、どうやって解くんだろ?」

「なんだ、その問題か・・・ふむ、特性方程式の出し方が間違っている。根っこから間違っていては正解にたどり着けるはずもないぞ」

「あ、ありがとうございます!!・・・あれ?雫さん、どうしてこれの解き方を?」

「お前に付けている使い魔を介して授業を見せてもらった。『水鏡の術』と言ってな、こうやって鏡を作って、そこに映すのだ」

「いや、僕のプライバシーは!?」

「安心しろ。本体である妾がここにいる以上、見ていられる時間はそう長くない。それに、そいつにはお前に寄ってくる小物の処理もさせている。それでも嫌なら外すが?」

「う・・・最近あんまり見かけないと思ったら・・・わかりましたよ。でも!!家にいる時とトイレはのぞかないでくださいよ!!」

「お前、妾を変態か何かと勘違いしてないか?」

 

 二人にとって、二人で過ごす時間はかけがえのない物になっていった。

 久路人にとっては、これまで誰にも理解されなかった人外の見える能力を気にせずに話せる相手で、おまけにかなりの美少女。

 雫にとっても、これまでずっと独りで封印されていたところに現れた、自分を恐れず接してくれる初めての人間。おまけに、今まで初めて近くにいてくれる雄で、自分に名前までくれた存在。

 お互い言葉にこそしてないが、今の二人は間違いなく親友以上の関係であった。

 それは、共依存のようで、健全な関係とは言えないのかもしれない。

 だが、二人が抱えていた孤独は、いつの間にか欠片も残さず消え去っていた。

 

 

「雫さんって、そういえば普段は何食べてるんですか?」

「ん?ああ、この封印の中では、妾はモノを食う必要がないのだ。これはお前もそうだろうが、この中では肉体の時は止まっているようなものだからな」

「え!?そうなんですか!?じゃあ、ここにいたら、身長とか伸びなくなる・・・」

「・・・かもな。まあ、妾がいじくれば別かもしれんが、そんな面倒なことをするつもりはない」

「ええ、それは嫌だなぁ・・・」

「別にいいだろう?お前、すでに妾より背が高いではないか。それ以上伸ばす意味もあるまい。少なくとも、妾はお前の背がどんな高さだろうと気にせんぞ?」

「いや、それはそうかもしれませんけど・・・なんというか、他のクラスメイトが背が伸びてるのに、僕だけ伸びないのは・・・」

「・・・・・」

「雫さん?」

「そんなに背を伸ばしたいのなら、さっさと牛乳でも飲んで寝ろ。今日はもう帰れ」

「え、ちょ!?待っ!?」

 

 そんな中で・・・

 

「今日なんですけど、クラスで文化祭の委員会決めがあったんです。僕、喫茶店の接客係になってしまって・・・」

「・・・そうか」

「僕、アルバイトもしたことないし、どうしようかなって思ってたんですけど・・・」

「・・・そうか」

「クラスの田戸君と近野君が紅茶の淹れ方知ってるって言うから、教わることになったんです。だから、今週の土曜日は、ここに来るのが遅れちゃいます。ごめんなさい」

「・・・勝手にしろ」

「えっと、雫さん?さっきから、何か怒・・・」

「ところで」

「は、はい?」

「田戸と近野とやらは、どこのどいつだ?念のために聞いておくが・・・男だよな?」

「そうですけど?」

「ふん・・・ならいい」

「は、はぁ・・・あれ?そういえば雫さんって、僕が教室にいる時もこれまで見てたんですよね?じゃあ、田戸君たちのこと知ってるんじゃ?」

「久路人以外の有象無象の名前など、いちいち覚えてられるか・・・いい加減この話は止めろ。妾の知らんヤツの話などされても欠片も面白くない」

「わかりました・・・あ、そろそろ僕、帰りますね」

「・・・ダメだ。まだ帰るな」

「え?」

「つまらん話をした罰だ。もう少しここにいろ。よいな?」

「いいですけど・・・・」

「ふん・・・」

 

 雫は、時折ひどく不機嫌になることがあった。

 主に、久路人が雫以外の人物を話題に出した時に。

 その時だけ、雫の中に消え去ったはずの孤独感が戻ったかのように。

 

------

 

 ある日のことだった。

 

「・・・・・む?」

「雫さん?どうしました?」

「・・・久路人、お前、何か変なモノを持ってないか?」

「変なモノ?」

 

 いつものように青い部屋の中に入って鞄を開け、文庫本を取り出した時、雫が怪訝そうな顔をして鼻を鳴らした。

 

「・・・何か、妙な臭いがする。久路人、鞄の中を見るぞ?」

「ええ、構いませんけど・・・?」

 

 そうして、雫は久路人の鞄を漁り出した。

 久路人としても別にみられてやましい物は持っていないため、雫のやるがままにしていたのだが・・・

 

「久路人」

「っ!?」

 

 背筋に悪寒が走った。

 それは・・・

 

「コレは何だ?」

 

 一本のシャープペンを握りしめる雫の声が、今まで聞いたこともないくらい冷たいものだったから。

 

「そ、それは・・・今日、学校で返してもらったヤツです。結構前にペンを忘れてた子がいて困ってたので、貸したんですけど、その子別のクラスだったから、返してもらうのに時間がかかっちゃって」

「・・・そうか」

 

 雫は久路人に背を向けて鞄の中を見ていたため、その表情は見えない。

 しかし、久路人はその幸運に感謝した。

 今の雫の顔を見てはいけないと、自分の中の何かが訴えていたから。

 

「・・・・・」

「・・・・・」

 

 しばらく、二人の間を沈黙が満たした。

 前の時のように、『男か?』などと聞くこともない。

 

「・・・・・」

 

 雫は蛇の妖怪だ。

 今は人の姿だが、蛇としての感覚も多少残っている。

 だから、雫にはもう分かっているのだ。

 

「・・・・・」

 

 そのペンを貸していたのが、『自分以外の雌』だということに。

 

「なあ、久路人」

「は、はい」

 

 そうして、しばらくの後、雫は口を開いた。

 久路人に背を向けたまま。

 

「このペン、妾がもらっていいか?」

「え?」

「いや、気に入ったんだ。このペン。他の者にも貸したのだろ?なら、いいではないか」

「は、はい。別にいいですけど・・・?」

「そうか・・・ありがとう」

「いえ・・・」

 

 そこで、雫は唐突に振り向いた。

 その顔には・・・

 

「いや、本当にありがとう。前からこういうのが欲しかったんだ」

「あはは・・・それならよかったです」

 

 にこやかな笑みが浮かんでいた。

 

「あ、そうだ!!今日は晩御飯の材料買ってないんです。なので、今日は帰らないと・・・」

「何?まあ、それなら仕方ないな・・・ああ、ちょっと待て」

「はい?」

 

 いつものように久路人を外に送り出す水流を生み出しながらも、雫は久路人に、正確には久路人に着けていた使い魔に近づいた。

 主が寄ってきたのを感知したのかのように蛇も首を垂れると、雫はその頭に指を乗せる。

 

「大分力が減っていたからな。よし、これでまたしばらく持つはずだ・・・安心しろ、久路人」

 

 そうして、久路人を水で押し上げながら、やはり満面の笑みを浮かべて、言った。

 

「お前に、悪いモノは近づけさせないから」

「っ!?」

 

 その眼は、一切笑っていなかったが。

 そして・・・

 

「ではな」

「は、はい」

 

 激流に押し流されながらも、使い魔によって意識を保っている久路人は思った。

 

(前々から欲しかったって・・・あの部屋、漫画以外にノートも何もないのに。何に何を書くつもりなんだろう?)

 

 

------

 

「・・・・・」

 

 久路人が去った後。

 

「・・・・・」

 

 青い部屋の中で、雫は一人立っていた。

 

「・・不愉快だ」

 

 その手に、『気にいった』と言ったペンを握りしめて。

 

「・・・人間の雌餓鬼ごときが」

 

 握りしめすぎて、ビシリとペンから音がしたが、雫は手を離さない。

 そうして・・・

 

「妾の久路人に、近づくなぁぁぁああアアアアアアアアアアアアアっ!!!!!!!!!!」

 

 叫びとともに、ペンは粉々に砕け散った。

 

「はぁっ、はぁっ・・・ふぅ」

 

 しばらく雫は肩で息をしていたが、やがて落ち着いたのか、ため息を吐いた。

 

「ふん、流れろ」

 

 そして、不意に腕を振ったかと思えば、部屋の中に水があふれ、粉々に砕けたペンの残骸を、無限に続いているかのような畳の果てまで押し流していった。

 その様子を、雫は能面のような無表情で見つめていたが・・・

 

「・・・・・害虫駆除を、やる準備をしておくか」

 

 そう言ってから、その日は一言もしゃべらなかった。

 

 この日以降、久路人は雫があのペンを使っているところを見ることはなかったが、それを口に出すこともまたなかった。

 

 

------

 

 その日は、今にも雨が降りそうな曇天だった。

 

「・・・・・ふぅ」

 

 高校の教室で、久路人は小さく溜息をついた。

 今の久路人には雫の使い魔が付いており、人外は近寄る前に駆除される。

 故に、もう以前のような悩みは存在しない。

 今の彼を悩ませているのは、二つの別の理由だった。

 

(雫さん、最近様子がおかしいような・・・)

 

 彼の悩みの一つ。

 それは、毎日のように会いに行く蛇の化身の少女の様子がおかしいことだった。

 

(これまではあの部屋に行ったら漫画の話をしたりカードゲームするのが普通だったけど、最近はあんまり乗ってこないんだよな~・・・僕が読書してる時も、じっとこっちを見てるだけの時もあるし)

 

 これまでは明るかった雫であるが、最近はどうもおかしい。

 暗いというわけでなく、ただ静かになったというだけでもない。

 なんというか・・・

 

(研ぎに研いだ刃物って、あんな感じなのかな・・・なんだ、この例え)

 

 自分で考えたうまくもなんともない例えに自分で苦笑する。

 だが、それはいい得て妙というか、本質をついているのかも、と思った。

 

(なんというか、すごいピリピリしてるって言うのかな・・・今度の日曜日にケーキ買ってくって約束したけど、それで機嫌治してくれるかな・・・?)

 

 雫はどうにも近頃気が立っているようなのだ。

 そこで、久路人は気晴らしも兼ねて、『何か甘い物でも食べてみませんか?』と言ってみたところ、『ふんっ!!この500年生きた妾の舌を満足させられるとは思えんが、まあ、期待はせずに待っておいてやる』と、そのときだけは随分と嬉しそうにしていた。

 あの空間では雫は食べ物を食べる必要はないらしいが、それでも食事そのものはできるらしい。

 漫画でもケーキが出てくるシーンなどたくさんあるし、実は楽しみにしていたのではないか?と久路人は思っている。

 

(もうちょっと早くに切り出しておけばよかったな・・・)

 

 あの部屋では雫の言う通りに空腹をほとんど感じないので今まで思いつかなかったが、雫も蛇とはいえ間違いなく女の子。

 ならば、スイーツの類は気に入る可能性が高いだろう。

 

(餌付けみたいだけど、それで雫さんともっと仲良くなれればいいな・・・やっぱり、僕は)

 

 最近の久路人の思考の中心はほとんどが雫だ。

 気が付けば雫のことを考えている。

 それは雫が美しい少女だということももちろんあるが、それ以上に異能を感じ取れない家族やクラスメートよりも、世界の誰よりも自分が気楽に話せる存在であるというのが大きい。

 雫は、世界で初めて久路人の孤独を埋めてくれた『人』なのだ。

 そして年頃の男子にとって、自分の事を理解してくれる美少女が傍にいて、『そういう』感情を抱くなというのは不可能だろう。

 

(やっぱり、やっぱり僕は雫さんが・・・)

 

 そうして、改めて自分の気持ちを自覚した時だ。

 

「あ、月宮君!!」

「うん?」

 

 隣の席に座る女子生徒が話しかけてきた。

 今の久路人は人畜無害で地味であるが、それゆえにクラスで特にハブられることなく、それなりに良く話す仲の相手が何人かいるという、『普通』の男子高校生であった。

 友達と呼べる間柄の者もそれなりにいるし、女子からもそこそこ話しかけられる。

 

「ほら、あの3組の子が呼んでるよ?」

「あ、本当だ」

 

 女子生徒の指差す方を見ると、確かに別の女の子が教室のドアの前に立っていた。

 その子は、前にペンを貸した少女であった。

 

「何々?月宮君のコレ?いや~月宮君地味だけど、よ~く見ると結構そこそこ、いい感じだもんね、隅に置けないなぁ・・・地味だけど」

「何気に傷つくから二回目を小声で言うの止めてくれない?後、よく見ると結構そこそこって、どのレベルのいい感じなんだよ・・・まあ、別に彼氏彼女でもないけど、呼ばれてるなら行かないと」

 

 そして、久路人は教室の前まで歩く。

 待っていた少女はそれまで顔を俯かせていたが、久路人が近づくとパッと顔を上げた。

 

「えっと、霧間さんだったよね?用って何かな?」

「は、はい!!あのですね・・・」

 

 

--ゾクっ

 

 

「っ!?」

「?月宮君?」

「い、いや、何でもないよ」

(まただ・・・)

 

 霧間と呼ばれた少女が、突然身をこわばらせた久路人に不思議そうな顔を向ける。

 しかし、久路人は何でもないように手を振ってぎこちない笑みを浮かべる。

 

(また、何か見られてるような感じがした・・・)

 

 久路人を悩ませる二つ目の理由。

 それは、ふいに向けられる誰かの視線だった。

 視線の主を見つけようとしても見つからない。

 しかし、視線を向けられていることは間違いない。

 

(すごく粘ついていて、それでいて熱い、そんな感じがする・・・それで)

 

 まるで自分に体を溶かそうとでもいうかのような、強烈な視線を、気のせいで済ませられるはずもない。

 そして・・・

 

「あの、本当に大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫!!なんともないって」

「そうですか・・・」

(また視線が強く・・・そうだ)

 

 その視線は、久路人が女子と話している時に、特に高い頻度で向けられているような気がした。

 実を言うと、最初に教室で隣の女子と話していた時も感じていたのだ。

 だが、今ほど強烈ではなかった。

 久路人が警戒しているのに気が付いたのか、もう視線は感じないが。

 

「あ、あの!!それで、なんですけど・・・」

「え?あ、うん。何かな」

 

 久路人がわずかの間考え事をしている間に、霧間は久路人に話を切り出す覚悟を決めたらしい。

 ぐいっと身を乗り出すように久路人に近づき、目と目を合わせる。

 久路人としても相手の真剣さを感じたために、きちんと話に集中できるように意識を向け・・・

 

「こ、今週の日曜日に、駅前のケーキ屋さんに行きませんか!?」

「・・・え?」

 

 霧間の言った台詞に、その思考を硬直させた。

 そんな久路人の様子を知ってか知らずか、霧間は早口で続ける。

 

「と、友達に聞いたんです!!そこのケーキ屋さんが美味しいって!!月宮君には前に色々お世話になったし、そのお礼をしたいなって・・・」

(それって、で、デートっ!?)

 

 お礼だのなんだの言っているが、それはほぼ間違いなくデートのお誘いであった。

 それまで女子からそういった色気のあるモノに誘われたことのない久路人にとって、いかに『親友』と呼べる間柄である雫がいると言えど、混乱するのは無理もない話だろう。

 

(そのケーキ屋って雫さんに買ってくって言ったとこのケーキ屋じゃ・・・しかも日曜日ってなんていう偶然)

 

 混乱しながらも、運命のいたずらと思えるような偶然に思わず感心する。

 だが、霧間の用事に付き合った場合、雫との予定は完全に潰れることになるだろう。

 ならば、久路人の取る選択は決まっている。

 

「えっと、日曜だよね?その日は・・・」

 

 そうして、脳裏に銀髪赤眼の少女を思い浮かべながらも断ろうとして・・・

 

(・・・待て。ここで断ったら、どうなる?)

 

 ふと、久路人は周りの状況に気が付いた。

 

「お、月宮なんだよ、デートかぁ!?」

「あの子、3組の霧間じゃん・・・目立たないけど、かなり可愛いっていう」

「うおぉぉおおおおっ!?なんで月宮なんだ!!クソッ!!羨ましい!!」

「月宮君、あそこのケーキ屋マジで美味しいから行ってきなよ!!」

「え、あ、その・・・」

 

 いつの間にか、自分たちは教室中から注目を浴びていた。

 霧間は緊張のせいか結構大きな声でしゃべっていたし、その内容が内容だ。

 青春の具現化とも言えるような状況に、年頃の高校生が興味を惹かれないはずもない。

 もしも、そんな中で・・・

 

(もし、もしここで断ったら・・・また、煙たがられるんじゃ?)

 

 久路人の中に、過去の記憶が蘇る。

 この街に来ることになった理由。

 周囲とは違う自分を遠巻きにするかつてのクラスメート。

 いつも周りから弾かれて、寂しい想いをしたかつて。

 そんな自分を心配そうに見る両親。

 だが・・・

 

(いや、それでも・・・)

 

 しかし、そんな懸念はすぐに消え去った。

 自分の中に湧いた嫌な記憶を吹き飛ばしてくれたのは、快活に笑う蛇の化身であった。

 

(今の僕には、雫さんがいる!!)

 

 例えもう一度周りから仲間外れにされることがあっても、自分には孤独を埋めてくれた人がいる。

 その人がいる限り、自分の心が折れることはないという絶対的な自信が久路人にはあった。

 相手は人間ではないが、そんなことは久路人にとってどうでもいいことだった。

 だから・・・

 

「ごめんね、実は日曜日には・・・」

 

 だから、久路人は断ろうとした。

 その日には、大事な人とケーキを食べて過ごすという先約があるから、と。

 断りの言葉を、口に出そうとした。

 

『・・・・・』

 

 デートの誘いを受けてから、ここまで10秒ほど。

 過去の辛い経験や、周りの同調圧力、初めてのデートの誘いという誘惑を受けて、10秒で断ることを決められた久路人は大したものかもしれない。

 

『・・・・・ね』

 

 だが、確かに久路人は迷ったのだ。

 少しの間とはいえ、時間をかけて、天秤にかけてしまったのだ。

 その10秒という時間は・・・

 

『死ね、害虫』

 

 500年を孤独に過ごした妖怪にとって、あまりに長すぎた。

 

「え?」

「っ!?」

 

 その瞬間、その場の温度が、息が白く染まるほどに低下した。

 同時に、久路人の背後から何かが飛び出し、空中で形を変える。

 細長い蛇のようなソレは瞬く間に氷の槍となり、霧間の心臓めがけて飛んでいく。

 それは、本当に一瞬の出来事だった。

 『ただの人間』には、認識すらできないほんの一瞬。

 霧間の死は、もう確定的だった。

 止めることなど、普通の人間にできるはずもない。

 しかし・・・

 

「ダメだっ!!」

 

 久路人は、ただの人間ではなかった。

 

『っ!?』

 

 それは、久路人にとって無意識のことだった。

 なんとなく、嫌な予感がした。

 自分にとって大事な人が、何か大変なことをしようとしている、と。

 ただそれだけ。

 だが、その場にあった大妖怪の殺気ともいえるものが、久路人の中に眠っていたモノをほんのわずかに目覚めさせ・・・

 

 

--グシャっ!!

 

 

 そして、久路人から漏れ出たモノが、氷の槍と化した何かを捻りつぶしていた。

 

「はぁっ、はぁっ・・・」

「つ、月宮君?」

「お、おい月宮、どうした?」

 

 突然叫んだかと思えば、汗を垂らして肩で息をする久路人に、霧間を始め、周りにいた生徒たちは驚きの表情を浮かべる。

 しかし・・・

 

「行かなきゃ・・・」

「え?」

 

 そんなクラスメートたちのことなど視界に入っていないかのように、久路人はゆらりと歩き出した。

 最初は頼りなさげな足取りだったのが、一歩、二歩と歩くたびにしっかりとしたものに変わっていく。

 

「行かなきゃ!!」

「月宮君!?」

 

 そして、久路人は走り出した。

 霧間の制止の声など、耳に入らないかのように。

 その内心は、一人の事しか考えていなかった。

 

(今の感じ、何があったのかは分からない・・・けど、雫さんの声が聞こえた気がした!!)

 

 何が起きたのかは分からない。

 けれども、確かにあの時声が聞こえた。

 何を言っていたのかは分からない。

 それでも、その声を聞き間違えるはずもない。

 

(雫さんに、何かあったのか!?)

 

 突然起きた不可解な現象と、雫の声。

 これで、雫の身に何か起きたのではないかと不安にならないほど、久路人が雫に向ける感情は小さくない。

 

「待っててくれ、雫さん!!」

 

 久路人は走る。

 街の外にある森に向かって。

 

「今すぐに行くから!!」

 

 気が付けば、辺りには霧雨が降り始めていた。

 

 

------

 

「・・・・・」

 

 その部屋は、暗かった。

 

「・・・・・」

 

 いつもは仄かな、しかし明るい青の光に包まれている部屋は、深い池の底のように闇に満ちていた。

 

「・・・・・」

 

 まるで、その部屋の主の心を映すように。

 

「・・・なぜだ」

 

 その部屋の主はといえば、暗がりの中でもわずかな光を反射する鏡の前に立っていた。

 その鏡には、つい先ほどまで一人の少年だけが映っていたが、その姿はもうない。

 鏡に姿を映し出すための媒が壊されてしまったから。

 代わりに今、その鏡は主だけを映し出している。

 

「・・・なぜだ」

 

 その鏡に映る顔は・・・

 

「なぜ、妾の邪魔をした、久路人」

 

 泣いていた。

 人形のように無表情なれど、その頬には、一筋の涙が伝っていた。

 

「そんなに、そんなにあの雌が大事だったのか?そんなに、クラスメートとやらと過ごす日々が大切だったというのか?」

 

 主は鏡に向かって問いを投げる。

 しかし、鏡がそれに答えを返すことはない。

 ただ同じ問いを、主に投げ返してくるだけだ。

 

「この、妾と共にいる時間よりも」

 

 主にとって、絶望を招く答えを孕む問いを。

 

「・・・・・」

 

 しばしの間、主は立ち尽くしていた。

 己が出した答えを、受け止めきれなかったために。

 受け止めるには、辛すぎたために。

 そして・・・

 

「・・・・認めぬ」

 

 やがて、ポツリと静かに呟いた。

 

「絶対に認めぬ」

 

 その声は小さかったが、不思議と大きく響いた。

 それは、そこに秘められた感情が、あまりにも大きかったからだ。

 大きくて、熱くて・・・

 

「妾と久路人が共にいられない未来など・・・」

 

 危険だったから。

 

「認められるかぁぁぁあああああああああああああああああっ!!」

 

 

--パリンっ!!

 

 

 鏡が、粉々に砕け散った。

 主の拳が血で紅く染まるも、その傷はたちどころに消えていく。

 しかし、血だけは残り続けた。

 

「認めない認めない認めない認めない認めない認めない認めない認めない認めない認めない認めない認めない認めない認めない認めないみとめないみとめないみとめないみとめないみとめないみとめないみとめないみとめないみとめないみとめないみとめないみとめないみとめないみとめないみとめないみとめないみとめないみとめないミトメナイミトメナイミトメナイミトメナイミトメナイミトメナイミトメナイミトメナイミトメナイミトメナイ・・・」

 

 砕け散った鏡の欠片の上で、主は壊れた機械のように同じ言葉を呟き続けた。

 その足は欠片を踏みしめて、目に見えないほどの細かな粒に変える。

 だが、不意にその呟きが途絶えた。

 代わりに、焦点の定まっていなかった瞳が、ある一点に視線を集中させていく。

 

「・・・・・」

 

 鏡にもしも意思があったのならば、砕けてよかったと思っていたかもしれない。

 

「・・・クヒヒッ!!」

 

 その歪みに歪んだ笑みを、映さずに済んだのだから。

 

 

------

 

「雫さんっ!!大丈夫ですか・・・って、え?」

 

 久路人が池に飛び込んでいつもの部屋に着いた時、すぐに異変に気が付いた。

 

「紅い?なんで?」

 

 いつもは、その部屋は青い光に包まれているはずだった。

 しかし、今は違う。

 部屋の中は、真っ赤な光に満ちていた。

 どこか黒を含む、不気味な紅に。

 それは、そう、まるで・・・

 

「もしかして、これって血!?雫さんっ!!」

 

 久路人は叫ぶ。

 大事な想い人の無事を心の底から祈りながら。

 そうして辺りを見回して・・・

 

 

--捕まえた

 

 

「うわっ!?」

 

 突然、久路人は後ろから誰かにしがみつかれた。

 

「はは、捕まえたぞ?捕まえた、捕まえた・・・」

「し、雫さんっ!?」

 

 後ろから抱き着かれているために顔は見えない。

 しかし、久路人にはすぐにそれが誰なのかわかった。

 今、耳元に聞こえる声を聞き間違えるはずもない。

 

「雫さん!!どうしたんですか!?様子がおかしいですよ!?何があったんですか!?」

「ふふふ、久路人だ。ああ、確かに久路人だ・・・はは」

「そうです!!久路人ですよ!!僕は月宮久路人です!!」

 

 しがみついているのは、この部屋の主である雫だった。

 だが、凄まじい力だった。

 様子がおかしい雫を見るために一度離れようとするも、腕はピクリとも動かない。

 

「雫さん!?本当にどうしたんですか!?」

「久路人、ああ、久路人・・・久路人久路人久路人久路人久路人久路人久路人久路人久路人久路人久路人久路人久路人久路人久路人久路人久路人久路人くろとくろとくろとくろとくろとくろとくろとくろとくろとくろとくろとくろとくろとくろとくろとくろとくろとくろとくろとくろとくろとくろとクロトクロトクロトクロトクロトクロトクロトクロトクロトクロトクロトクロトクロトクロトクロト・・・」

「し、雫さん・・・」

 

 どう見ても正気を失っている。

 一体自分がいない間に何があったというのか。

 

「雫さん・・・」

 

 久路人の胸の内を、後悔と悲しみが満たした。

 直感的にわかったのだ。

 今の雫がおかしい原因には、自分が関わっているのだと。

 その感情が、久路人の口からその言葉を引き出す。

 

「雫さん!!正気に戻ってください!!僕が何かしたのなら謝ります!!だから元の雫さんに戻ってください、お願いします!!僕は・・・」

「クロトクロトクロトクロトクロトクロト・・・」

「僕はここにいますから!!ずっと、ここにいますから!!」

「クロトクロトクロトクロト・・・・・何?」

「!!」

 

 その瞬間、雫の声が聞きなれたトーンに戻る。

 同時に、腕の力が弱まった。

 それを見逃さず、久路人は雫の拘束から抜け出すと、真正面から雫を見た。

 

「雫さん・・・」

 

 普段煌々と明るく輝く紅い瞳は焦点が合っておらず、暗く淀んでいた。

 しかし、久路人がその名前を読んだ瞬間、眼に光が戻り始める。

 

「ずっと、ここに・・・クロトが。クロト、くろと、くろと・・・久路人・・・はっ!?妾は何を!?」

「雫さん!!」

「なっ!?久路人っ!?何故ここにいる!?いつもならばこの時間にはいないだろう!?妾の妄想が生み出した幻覚かっ!?」

「そんなわけないでしょう!?本物ですよ!!雫さんが心配で、学校サボって来たんですよ!!」

「妾を、心配?え、何故だ?」

 

 いつしか、雫の見た目は完全に元通りになっていた。

 眼には光が戻り、今はキョトンとした顔をしている。

 

「それはですね・・・」

 

 雫が正気に戻ったと判断した久路人は、そこでここに来たいきさつを説明する。

 

「なるほど、そういうことか・・・」

「はい。とはいっても、僕にも何が起きたのか分からないんですけど、すごい嫌な感じがして・・・でも、雫さんの声が聞こえたのは確かだったんです。それで、何か雫さんにあったんじゃないかって思ってここに・・・」

「ふむ・・・あの時に殺気と霊力を出しすぎたのか。それで、久路人の本能を刺激し、危機意識から力を目覚めさせてしまったといったところか・・・ふふっ、ならば、あの害虫を選んだからという訳ではないのだな・・・ふふふっ!!」

「雫さん?」

 

 説明を終えた時、雫は何かに納得したように頷くと、小声で何事かを呟いた。

 早口で聞き取れなかったが、今の雫は随分と嬉しそうだった。

 

「いや何、さっきまでの自分がいかに馬鹿な勘違いをしていたのかと思ってな・・・それと、学校をサボってここに来るほど妾を心配してくれたのが嬉しかったのだ」

「心配してくれたって・・・当たり前じゃないですか。雫さんは、その、僕にとっての親友というか、えっと、大事な、人ですから」

「久路人・・・」

 

 久路人が雫を心配するのは当たり前のことだ。

 久路人にとって、雫は大事な存在なのだから。

 だが、それを改まって言葉にされた雫は、瞳を潤ませながら久路人を見つめる。

 そんな視線に恥ずかしくて耐えられなかったのか、童貞くさくどもりながら、久路人は雫から視線を外した。

 

「そ、それで!!雫さんに何があったんですか?なんか部屋も紅いし、勘違いがどうとか言ってましたけど」

「ああ、そのことだがな」

 

 元より、久路人がここに来たのは雫に何が起きたのか知るためである。

 見たところ今の雫に問題はなさそうだが、部屋の様子を見るに何かがあったのは間違いない。

 そして、雫は、いつものように快活な笑顔を浮かべながら話し始めた。

 

「実は妾は、さっきまでアホのような勘違いをしていてな・・・久路人、お前に捨てられたと思っていたのだ」

「は?なんでですか!?そんなことあるわけないじゃないですか!!」

 

 雫の語る理由があまりにも理解ができないもので、久路人は思わず声を荒げた。

 しかし、そうやって必死で否定する久路人を見て、雫はさらに嬉しそうに笑う。

 

「うむうむ!!その通りだ。冷静になって考えれば、休日や放課後のほとんどを他の人間ではなく妖怪の妾と過ごすような変わり者が、そう簡単に心変わりをするはずもない。本当に愚かな勘違いをしていたものだ・・・まあ、おかげで気づけたこともあったがな」

「まったくですよ!!そんな馬鹿な勘違い・・・それで?その勘違いが、この部屋やさっきの雫さんと何の関係が・・・」

「なんだかんだで、妾にも迷いが、罪悪感あったのだな。だから、さっきまで狂ったようになっていたのかもしれん。しかしだ・・・」

「・・・雫さん?」

 

 何かがおかしい。

 久路人はそう思った。

 微妙に会話が繋がっていないような・・・

 

「なあ、久路人」

「は、はい?」

「お前、さっき言っていたな?妾を大事な人だと・・・それに、嘘偽りはないな?」

「はい、そうですけど・・・?」

「そうか・・・なあ、久路人」

 

 そこで、雫は久路人の瞳をじっと見つめた。

 その瞳はさっきまでのように淀んでおらず、澄んだ光を宿している。

 

「妾はな、お前のことが好きだ。一人の男としてのお前が」

「え・・・?」

 

 それは、あまりにも突然の告白だった。

 

「久路人、お前はどうだ?妾のことは、その、好きか?友達としてでなく、女として」

「そ、それは!!その・・・す、好きです。僕も、雫さんのことが好きです!!」

 

 話の流れは不自然ではあるものの、これまで意識し続けていた女の子に告白されて、否と返せるはずもない。

 一瞬で、久路人の内を喜びが満たす。

 これまで感じていた違和感など、頭から消し飛んでしまっていた。

 

「そうか・・・ああ、嬉しいぞ。幸せとは、こういうことを言うのだな。これまで多くの漫画に触れてきたが、実際に体験して初めて分かった」

「ぼ、僕もです!!僕だって、今幸せです!!」

「ああ、妾もだ。お前の気持ちが分かった。妾を受け入れてくれると知ることができて、本当に良かった・・・・・これで」

 

 だから、久路人は気が付かなかった。

 

「ああこれで、これで迷いはなくなった」

「え?」

 

 何故、雫の眼に光が戻ったのか。

 どうして、荒れ狂っていた雫が大人しくなったのか。

 それは、純粋な好意だけに染まったからだ。

 絶望も怒りも悲しみも嫉妬も罪悪感も混ざっていない、狂気に踏み込むほどの『愛』だけに。

 

 

--ピシン

 

 

 瞬時に、紅い部屋が紅い水で満たされた。

 そしてすぐさま、虚空しかなかった部屋に分厚い氷でできた天井が作り出される。

 

「ゴボっ!?ガバッ!?雫さん、何をっ!?・・・あれ、話せる?」

「ふふ、久路人。妾がお前を殺すと思うのか?安心しろ、妾がいる限り、お前がこの部屋で溺れることはない」

「は、はぁ?それならいいですけど・・・って、天井が塞がってるじゃないですか!!あれじゃあ外に出られませんよ」

 

 紅い水で空間を満たした意味はよくわからないが、呼吸ができるというのなら問題はない。

 しかし、天井ができてしまったのはダメだ。

 これまで久路人は、雫の作り出した水流に乗って遥か上空まで吹き飛ばされることで元の世界に還っていた。

 それを天井で塞がれるとなれば、もう帰ることもできな・・・

 

「外に出る必要ない。否、妾が出させない。久路人、お前はここで、ずっと妾と暮らすのだ。永遠に」

「え?」

 

 そんな久路人の抗議を、雫はピシャリと打ち切った。

 久路人にとって、想像もできなかった言葉と共に。

 

「ここで暮らすって、え?どういう意味・・・」

「そのままの意味だ。お前は妾と、妾と同じモノになって永遠の時を過ごす。お前は、妾のことが好きなのだろう?なら、別に構うまい?」

 

 雫の眼は、相変わらず澄んでいた。

 しかし、そこに宿る光が、段々と粘り気を増していっていることに久路人は気が付いた。

 

「いや、確かに雫さんのことは好きですけど、ここにずっとっていうのはちょっと困るというか。それにほら!!雫さんも、新しい漫画とか読めなくなりますよ?」

 

 雫を刺激しないように、久路人は穏便に雫を説得しようとする。

 

「いらん。漫画もゲームも小説も、もう必要ない。そんなものより、お前といる方がいい」

「いや、でも・・・」

 

 久路人は雫のことが好きだが、だからと言っていきなりそこに閉じ込められることに『うん』と即答できるはずもない。

 それは至極当たり前のことだろう。

 だが、雫にとってはそうではなかった。

 

「んぐっ・・・!?」

 

 急に、その場の息苦しさが増した。

 部屋の中に満ちる紅が濃くなる。

 そして・・・

 

(なんだっ!?いきなり息が苦しく!?息ができてない!?・・・いや、逆だ!!『ナニカ』が体の中に入ってきてる!?)

 

 ゾワリと、久路人の身体に悪寒が走る。

 紅い水を吸う度に、身体に痺れにも似た疼きがする。

 それはまるで、自分の身体が別の物に作り替えられているようだった。

 久路人はたまらず膝をついてうずくまる。

 そんな久路人に、真上から冷たい声がかけられた。

 

「久路人・・・お前、まさか嫌だと言うつもりではないだろうな?」

「し、雫さん!?何を・・・」

 

 明らかに異常な身体に鞭うって、声の主を見上げてみれば、その身体から出ているのは声だけではなかった。

 雫はいつの間にかその手に氷でできた刃を持ち、己の手首を切り裂いていたのだ。

 部屋に満ちる紅い水は、白い肌に走る紅い線から漏れ出たものだった。

 けれども、当の本人にとってそんなことはどうでもよかった。

 

「答えろ嫌なのか妾と共にいることが惚れたと言ってみせた女と過ごすことをお前は願い下げだというのか言ってみろ早く」

 

 その紅い瞳は、刃のように鋭く吊り上がっていた。

 嘘偽りは許さぬと、眼で語っていた。

 

 

--嘘を吐いたら死ぬ

 

 

 久路人は、直感的にそう思った。

 

「嫌じゃない、嫌だなんて思うはずないです!!」

 

 それは、久路人の本音だった。

 例え雫の怒気がなくとも、その質問に嘘を言うことはなかっただろう。

 しかし、それだけではないのも確かだった。

 

「ならばよいではないか。何をためらう必要がある?」

「雫さんと一緒にいるのは、僕も好きです!!嫌だと思ったことなんてない・・・けど、僕にも家族や友達がいるんです!!その人たちに、心配をかけるわけにはいかない。父さんや母さん、田戸君に近野君に、霧間さんに・・・」

「他の雌の話をするなぁっ!!!」

「がぁっ!?」

 

 それは、引き金だった。

 雫という少女の激情を暴発させるトリガーだった。

 意識を失いかけるほどの激痛に、久路人はその場に完全にうつ伏せになる。

 視界はほぼ真っ赤に染まり、見えるのは目の前の少女の足だけ。

 しかし、不意に冷たい感触が頬に当たり、気が付けば血走った深紅の瞳と目が合っていた。

 顔を手で挟まれ、そのまま持ち上げられたのだと、一瞬遅れて久路人は気が付いた。

 

「家族、友達・・・くだらん!!そいつらにお前の孤独と苦しみの何を理解できる!?異能の力を持たぬ有象無象と、お前が幸せに過ごせると思っているのか!!」

「・・・・・」

 

 薄れゆく意識の中で、ラジオのノイズのように、目の前の少女の声が響く。

 

「妾だけだ!!お前と心の底からの友となれたのも!!恋をすることができたのも!!家族としてこれからも歩んで行けるのも!!この世界で妾だけだ!!妾のほかに、お前と共にいれる者など認めん!!いや、いなくなるのだ!!なにせ・・・」

 

 そこで、雫はその場にいくつもの刃を作り出す。

 刃は誰の手にも握られていないのにも関わらず、ひとりでに宙に浮かび、雫の身体に次々と紅い線を刻んでいく。

 傷はすぐさま塞がっていくが、紅い滴は次から次にその場に溶けて、その濃さを増していった。

 

「なにせ!!お前はこの妾の血を飲んだのだからな!!もう、お前は人の世で生きることはできん!!」

 

 人外の血をその身に取り込むこと。

 それは、人間が人間を止める唯一の手段。

 

 八尾比丘尼、太歳、ヨモツヘグイ。

 

 人間が人ならざるモノをその身に取り込んだ結果、自身もまたソレらに近づくというのはしばしば伝承として残っている。

 もっとも・・・

 

「ぐ、あ・・・」

 

 雫の言葉に、もはや久路人は返事をすることさえできなかった。

 人間が人間を止めるというのは、決して簡単なモノではないから。

 人外の放つ力というものは人間にとって猛毒であり、存在そのものを作り替えるということは、一度その全てを壊すということなのだから。

 壊れたその時に、『月宮久路人』という中身を保っていられる保証などないのだから。

 

「ああ、痛いか?痛いだろうな。済まぬ、許せとは言わぬ。存分に恨め・・・だが」

 

 だが、雫は信じていた。

 否、信じていなければ、『雫』でいることはできなかった。

 雫は、久路人の頭を己の胸元に導いて抱きしめる。

 

「妾はお前を信じている!!妾を好きだと言ってくれたお前を!!妾を受け入れてくれた久路人を!!お前ならば、妾と同じモノになれると!!」

 

 その瞳には、光が宿っていた。

 ギラギラと見る者をすくませるような、おぞましいまでの狂愛に染まった光が。

 しかし・・・

 

「ああ、妾はお前のためなら何でもするぞ?お前が望むのならば、髪の先からつま先まで、妾のすべてを捧げよう。身も、心もすべてを。お前の子だって産んでやる。だから、だから・・・」

 

 その瞳に、危うい光以外の輝きが溢れた。

 紅い世界の中で、その光だけは白く、透明だった。

 その滴は、水の中だというのに重さを持って久路人の頭に落ちていく。

 

「妾を、妾をもう、独りぼっちにしないでくれ・・・お願いだから、他の誰かのところになんて行かないで」

「・・・・・う」

 

 ポタリと暖かな何かが当たる感覚で、久路人の意識に一瞬光が戻る。

 その刹那に、どうしようもないくらいの寂しさが滲んだ言葉は、スッと久路人の頭に、心に入ってきた。

 それと同時に、命の危機とも言える状況であると言うのに、久路人の中に言いようのない何かが灯る。

 

「久路人・・・どうか、どうか妾とずっと、ずっと一緒に・・・」

「・・・・・」

 

 再び、久路人は己の頭が持ち上げられるのが分かった。

 ぼんやりとする世界の中に、見慣れた紅い瞳が映る。

 その輝きは、段々と久路人に近づいて・・・

 

「・・・・・」

 

 半ば無意識に、もう半分は己の中に湧いてきた何かに押されて、久路人も体重を前へと預けていた。

 

「・・・ん」

 

 唇に柔らかな感触がしたのと同時に・・・

 

「久路人?お前も・・・」

「・・・・・」

 

 月宮久路人の意識は闇に沈んでいった。

 

 

------

 

 それは、とある高校の教室での噂話。

 

 

『なあ、こんな噂知ってるか?』

 

『何だよ?怪談か?』

 

『ああ。最近暑いだろ?丁度いいと思ってさ』

 

『ふーん・・・まあ、ちょうど暇してたとこだし、聞いてやるよ』

 

『おう、聞いてビビるなよ・・・この街の郊外に森があるのは知ってるよな?あそこの奥に池があるのは知ってるか?』

 

『いや、知らねえ。あんなところ行く理由がないからな』

 

『だよな。まあ、あんな場所に行く理由なんて早々ねぇわな・・・けどよ、そう言う場所だから行くって連中もいるんだぜ。肝試しにピッタリだってな』

 

『暇な連中もいるもんだな・・・で?出たのか?』

 

『ああ。出たんだよ、マジで・・・その日は満月だったらしいんだがな。池の水は真っ赤に染まってたらしい』

 

『え?それだけ?地味だな』

 

『馬鹿。んな訳ねーだろ。その真っ赤な池の上に、いたらしいんだよ』

 

『いたって、何が?』

 

『真っ白な着物を着た女と、うちの学生服を着た男子が』

 

『着物を着た女ってのは怪談らしいけど、なんでそんなのとうちの学校の男子が一緒にいるんだよ』

 

『そこだよ。そこがこの話の肝なんだよ』

 

『はぁ?』

 

『肝試しに行ったのって、今の世代とOBだったらしいんだけどよ、OBの方は逃げ帰った後に調べてみたんだと。どっかで見たことある顔だったてな・・・そしたら』

 

『・・・そしたら?』

 

 そこで、噂を話していた男子は、一拍置いて続けた。

 

『そいつ、数年前に行方不明になった月宮ってヤツだったんだとよ』

 

 

------

 

 ある街で、少年は池の底にいた白蛇に魅入られた。

 

 少年は池の底に引きずり込まれ、人ならざるモノになり果てた。

 

 白蛇と少年だったモノの日々は、とある霊能者とその従者が現れるまで続いた。

 

 白蛇はやってきた者たちに引きずりあげられ、討ち滅ぼされる寸前まで追い詰められた。

 

 かつて少年だったモノが体を張って白蛇を庇い、土下座をして命乞いして、二人は見逃された。

 

 それからは、様々な者たちが二人の元を訪れ、二人は池の底から這いあがり、外の世界に関わることになる。

 

------

 

 

「むぅ・・・せっかく久路人と二人きりの世界にいたというのに、あのチャラ男とメイドモドキめ」

「まあまあ・・・雫さんも僕も命が助かったんだから、それだけでも感謝しないと。それに・・・」

「それに?」

 

 とある街の、結界に覆われた屋敷の中に、白い蛇の化身と黒い少年だったモノはいた。

 

「これからも、気が遠くなるくらい長生きできるんだから、そのうちまた二人だけで過ごせますよ。きっと」

「・・・ああ、そうだな。先は長いのだし、焦ることもないか」

「うん・・・あ、これで王手ですね」

「なっ!?・・・ま、待った!!先は長いのだし、急いで詰める必要はないだろう!?」

「将棋って、そんなスローライフみたいなゲームじゃないでしょ・・・はい、詰みです」

「ぬあぁぁああああああああっ!!また負けたぁあああああああ!!」

 

 無理やり人をやめさせられた被害者と、その加害者とは思えないような和気あいあいとした会話。

 それは、異常そのものだ。

 だが、その根源は、少年だったモノが白蛇の狂った愛を受け入れてしまったことから始まる。

 あまりにも苛烈な、猛毒のような激情を、彼は飲み干せてしまったのだ。

 結局は・・・

 

「このサディスト!!妾をいたぶって楽しいか!?」

「いたぶるって・・・僕をいたぶった度合いなら雫さんの方がひどいと思いますけど」

「う・・・それはその、あの時は・・・」

「まあ・・・」

 

 そこで、少年だったモノは遠い目をしながら呟いた。

 

「あれも、雫さんの愛の形なんだって分かってたからいいですけどね」

 

 結局は、少年だったモノが少年であった時から、彼もまた異常だったのだ。

 

 

-----

 

 これはもしもの物語。

 人をやめた青年と、人をやめさせた蛇が、異なる道を歩いていた『IF』のお話。

 青年の力が眠り続け、蛇が『こちら側』の世界に封印された世界のお話。

 

 されど、その結末は同じ。

 いかなる道を辿ろうと、青年と蛇は必ず出会い、同じ道を歩む。

 これは、そんな彼らの歩いた道の一つである。

 

 




本編の雫との一番の違いは、普段からずっと久路人と一緒にいられたかどうか。
限られた時間に、久路人の方から行く気がないと会えないという状況が、久路人を無理矢理人外化させるところまで雫を追い詰めました。
こっちに比べると本編の雫はマジでいい子ちゃんだったと思わなくもない。
結局久路人は変わらずで、ちゃんと結ばれるENDにはなるんですけどね。

次は本編進めます。

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