『Re:ゼロから始める異世界生活』web版の第六章90~99話辺りのどこか、「第一層の試験」をコンセプトにした物語です。
二次創作の都合上、設定の矛盾や過剰な演出などが含まれています。

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第六章9■ 『然りしこうして、星々は流転し、巡り会う。』

「さて、どうしたものかしらね」

 

 冷え切った廊下に、少女の清涼な声が響く。

 ユリウスたちが奮闘を繰り広げているだろう二層と床を二つ隔てた、四層アルキオーネに立つのはラムだ。周囲に人影は見えず、耳鳴りがするほどに静まり返っている。彼女は腕を軽く組み、深呼吸してから歩いて行く。

 こちらは丁度、戦いが終わったばかりだった。

 床の縁まで来てふと見下ろせば、地上である五層を貫いて六層まで吹き抜けとなっている巨大な螺旋階段が。

 

 人によっては近付くのも躊躇うだろう高度と面積を持って口を開けた大穴。手すりなど安全設計の類は無く、もし予期せずに背中でも押されようものなら、身体も魂も仲良く奈落へと真っ逆さまだ。

 ラムは冷徹に澄んだ薄紅色の瞳をしばし細め、軽やかな歩みでそこから足を外した。

 

 ふわりと身を躍らせ、重力に従って落下し始める。小柄な彼女だが、なにぶん高さが高さだ。数十メートルを落ちれば着地の衝撃は相当のものとなるだろう。

 だが、ラムとて力尽きて踏み外した訳ではない。風を纏った足が、五層に転がっていた柔らかいものを踏み付ける。まるで舞踏の一場面にも思える優雅な足取りを披露するラム、彼女が本来受けるはずだった衝撃は足から下へ流れ、その緩衝材に落下の代償を遠慮なく押し付ける。

 

「がっ──」

「あら、いたの。あまりに惨めで矮小なものだから、気付かなかったわ」

 

 重く、吐き切った息を舌に乗せて降り立った。

 つま先が肋骨をへし折れば、守られるべき内臓は外部からの暴力に対して無防備だ。追い討ちとばかりに風のマナが肌を透過して侵入し、筋肉は撓み、体内構造は掻き乱される。

 ぐりぐりと腹を抉られ、抑える素振りも見せずに嗚咽を漏らす緩衝材──もとい『暴食』の大罪司教が一角、ライ・バテンカイトスの状態はラムの言った通りに見るも無惨なものだった。

 

 顔と言えず体と言えず満身創痍となった彼に、元あった余裕や意欲は見られない。目と鼻は原形を失って潰れ、四肢の関節は全てが別々の方向に折れ曲がっており、薄黒かった皮膚は破裂した血管の赤と腫れ上がった痣の青に塗りたくられる有様だ。

 全身の痙攣と異物が交互にライの喉を圧迫しているせいで満足に声も出せない。小刻みに咳き込むだけで、反論するどころかこちらの言葉が伝わっているのかさえ不確かだった。

 

「出来るだけの苦痛を味わわせながら洗いざらい吐き出させるつもりだったけれど……しくじったわね。もっと上手な拷問の仕方を勉強しておくべきだったわ」

 

 力加減に失敗したことを後悔するラムだが、当然ながら彼女の身体も無傷とは言えない。破れた衣服から覗く腕や脚の所々に血が滲んでおり、その中でも特に酷いのが口元だ。何度も吐血した跡が、唇から顎を伝い、胸元にかけて痛々しく残っている。

 鬼化による過剰なマナ循環と肉体の酷使に、激しい攻防で度重なった負傷。一時的に抑え込んでいただけで、実情は内外問わずとうにボロボロだ。

 

「そういえば、負担を肩代わりしてやるとか言っておいて、途中で数秒だけ気が抜けてたわね。そのせいで結構危なかったというのに」

 

 数分前のことを思い出しながら、ラムは天井の更に上にいるだろうスバルを睨み付ける。だがその眼光もすぐに萎み、目尻が下がった。

 因縁の対決は、ラムの勝利で終わった。権能に囚われてしまったレムを救い出す算段はまだだが、応報は叶ったのだ。そこらへんはスバルがどうにかしてくれるだろう。

 なんて、あの男を無条件で信頼している自分がどこか嫌になる。

 

「本当に、気に入らないわ。あとで、たっぷり、お仕置きをして……」

 

 必要以上にお騒がせで、そのくせ妙にタイミングだけ良くて、そのせいですぐ調子に乗って、それでもみんなの望むことを成し遂げてくれる男だから。

 彼の作戦に乗って、期待された分だけを達成する。ラムの力量を把握して適材適所に分配するのが彼の仕事だ。

 ただ、それではまるで、それしか期待されていないような気がするのだ。悪気は無いと知っている。それでも、ナツキ・スバルの想像の内に安住しているという事実が、それに甘えてしまう己の力不足が、どうしようもなく悔しくて歯痒い。想いでは決して負けていないのに。

 

「じゃないと……バルスのことだわ……また、身の程も知らずに、心配でもされたら癪よ……」

 

 ラムの役目はこれで終わりだ。宿敵を倒した彼女に、この塔ですべきことはもう無い。

 ここで少し休んでも文句は言われないはずだ。

 動けないことを確認したとはいえ、ライに背を向けるのには抵抗があった。壁にもたれ掛かるようにして目をつむり、しかし力の抜けた背中はゆっくりと壁を滑り、そのまま床へ──

 

「──ぅ」

 

 ──倒れ伏す前に、何かが彼女の身を支えた。

 驚いて意識を取り戻すと、見えたのは立派に艶めいた黒の毛並み。スバルの愛竜であるパトラッシュの姿がそこにあった。そしてその背には見慣れた青髪の少女が乗せられており、思わず笑みが零れる。

 生命の温もりが皮膚を通じて共有され、ラムの体内を満たす。自然と、欠伸が出た。先ほどとは違う理由で目蓋がゆっくり落ちていく。

 特に何か言うことは無かった。ラムもまたパトラッシュの背に身を寄せ、妹と一緒に眠りにつく。

 

 次に起きた時、愛しい妹の目を開けた姿が見られたらどれだけ幸せだろうかと、淡い願いを夢に抱いて──。

 

 

 †

 

 

「──スバル。あれで本当によかったのだろうか? 私には、もっと賢いやり方があったと思うのだが……」

「そうだね。やはりああいった人間は話術で篭絡して、言質を取る方が平和的だったとボクも……」

「うるせぇな! お前らだって結構ギリギリだったくせに、何涼しい顔してんだよ! 精霊が来てくれなかったら普通に全滅だったじゃねぇか! ていうか、レイドもレイドだよ。あんな化け物、二度と敵に回したくねぇな……」

「あの男のアレは、もうあういうものだと割り切っておくしかないかしら」

「もお、さっきから散々だわあ。疲れたんだけどお」

 

 長く終わりの見えない階段を、五人の男女が騒がしく駆け上がる。先頭はスバルで、彼にメィリィがおんぶされ、隣に手を繋いだベアトリス、後ろをエキドナと彼女をエスコートしながらユリウスが付いてくる形だ。

 紆余曲折あったが、レイドを借り物の肉体から引き剥がすことで試験の破壊に成功した一行。冗談交じりに調子を確かめ合いながら、とうとう最終試験が待ち構える一層マイアへと向かっていた。エミリアがすでに挑戦中であるとはいえ、三層二層とフリューゲルの底知れない悪知恵を味わった彼らに油断する余裕は無い。図書館の情報はひとまず後回し。一刻でも早く上の様子を確認すべき、というのが満場一致の結論だった。

 

「ラム女史は大丈夫だと、君が言うからにはそうなのだろう」

「心配しすぎだっつーの。マジのマジで大丈夫だから安心しろ。今は三人……いや、二人と一匹で休んでるからさ」

 

 五層の一点に集まった彼女らの気配をコル・レオニスで感じ取り、スバルは頬を綻ばせて頷いた。直接目で見ずに仲間の現状を確認できるという点で、『死に戻り』とはまた違った視点での情報収集が可能だ。少なくとも、インビジブル・プロヴィデンスなんかよりよっぽど汎用性が高い。当然、使用過多による副作用さえ無ければの話だが。

 

「今んとこはまだ平気っぽいな。そもそも、仲間の負担を肩代わりするって時点でそれがもう副作用みたいなものだし……あとの問題は、これか」

 

 考えを纏めながら、意識を五層の三人から別の場所へと移す。上へ上へ、自分たちのいる場所より更に上へと。

 階段の先にある一層、そこで試験に挑んでいるはずのエミリアに照準を向け、状態を調べようとして──失敗する。これがコル・レオニスのまだ知らぬ副作用以外の問題点。

 気配そのものは感じられる。彼女が生きていることは確かなのだ。しかし、いくら集中しても詳細が分からない。

 まるで、夜空の星が雲に覆い隠されたかのように。僅かに漏れる光だけが彼女の存在を証明し、それ以外は閉ざされてしまっている。

 

 理由など、考えるまでもない。

 試験だ。プレイアデス大図書館を制覇するための最終試験が、挑戦者の魂に干渉する類のものだと推察できる。知力、武力と続いて今度は何が出るかは知らないが、いよいよ何でもありの塔が本領を発揮してきたと、感心するほか無かった。

 

「まずは合流が先だ! 『試練』みたいに入ってすぐ気絶しても後ろの人が気付けるように、一人ずつゆっくり──」

 

 万が一の可能性を考慮し、振り返って注意を呼びかけたスバルの言葉は途中で途切れた。

 

 まず、殿を務めていたユリウスの背後に黒い影が現れた。

 影は素早く階段を駆け上がり、やがて流線形の輪郭を露わにする。漆黒の体が半ば闇と同化したパトラッシュだ。彼女は背中に眠ったままのレムと五層で力尽きたラムを担ぎ、器用に落とさないよう走って来ていた。

 

 急な再会に驚く暇も無く、その後ろからまたしても影が現れた。

 影は手足を大振りに動かし、一生懸命に階段を上っている。ただ、スバルに思い当たる節が無いため誰なのかが分からない。特筆すべき点を挙げるのならば、走る彼の速度が、パトラッシュと同じかそれ以上にも及ぶということ。

 そして、よく見ればナツキ・スバルとそっくりそのままの顔貌を頭部に貼り付け、背後に濃厚な影を引き連れていたことだ。

 

 そこまで観察し、コル・レオニスをエミリアにのみ集中していたことを今さら後悔して、スバルは叫んだ。

 

「──逃げろ!」

「────」

 

 警告にパトラッシュが嘶き、遅れて事態に気付いたユリウスたちも反射的にリアクションを起こす。ベアトリスは自身と傍にいたメィリィになけなしのマナでムラクをかけ、ユリウスはエキドナを脇に抱えて数段跳びに駆けた。薄暗い先の道を契約精霊たちが照らす。

 スバルは、ひたすらに光を求めて走り続けた。

 五つある障害、最後の一つ。ともすればレイドよりも理不尽で容赦の無い脅威だ。最も賢明な対処法は、逃げること。

 

 死が、走って来る。

 したり顔で、実に愉快そうに。薄っぺらな『ナツキ・スバル』を演じながら。

 記憶を失い、死の衝撃に耐え切れず、思わず逃げ出したスバルから禁忌の告白を引き出したあの時と同じように、高らかに嘲笑う。

 

 影が、襲い来る。

 一切の予断を許さずに。音も無く、気配も無く、道理も無く。

 極々自然に認識の裏へ滑り込み、心に絡み付き、決して放すこと無く、染み込み、溶け込み、混ざり込み、違和感を塗り潰して寄り添う。

 

 最初からそこにあったのではないか。知らぬ知らずの内に、日常を共にしていたのではないか。

 そう、思い込ませるほどに。

 

「──っ! 光だ! 一層が見えた!」

 

 まさしく振りかかった光明に、スバルたちはほぼ同時に顔を上げた。一人ずつ入った方が安全などという先の注意と階段を蹴り付け、一斉に白い部屋の中へ。

 プレイアデス大図書館の最上層、マイアへと辿り着いた。

 

「……間に合った、のか? 殿の私が無事ということは……と、君はスバルの愛竜か。二人を運んでくれたのだな」

 

 安定した姿勢で駆け抜けたユリウスが一息吐き、状況を分析し始める。彼の背後にくっ付いていたパトラッシュに気付き、その背中で眠るラムとレムも確認出来た。

 振り返れば、階段の出入り口は影で真っ黒く塞がれている。戻ることは出来なさそうだが、反対に影の方もそれ以上は進んで来られないのか勢いが止まっている。ひとまずは一層が安全圏といったところか。

 見たところ、ベアトリスはマナが尽き、メィリィはムラクに振り回されたせいでふらついている。エキドナも反応に遅れて未だ混乱状態だ。だが、目立った外傷は見当たらない。全員が取り残されること無く、影の急襲から逃れられたようだった。

 

「影はどうやら一層の試験場に干渉できないようだ。早急に状況を整理して、試験の内容と下層にいるジャイアンやシャウラ女史の安否を……」

「────」

「スバル? どうし──っ」

 

 一通りの分析が終わり、スバルからも意見を聞こうとしてユリウスは息を呑んだ。他の面々も徐々に元の調子を取り戻し、ゆっくりと辺りを見回す。

 風が吹いていた。二層とは違って自然の現象による風は心地よく髪を揺らし、火照った顔を冷やしてくれる。閉塞感が綺麗さっぱり取り払われ、視野も一気に広がった。ただ、それは単純に部屋が大きいという訳ではない。窓の設置されていない塔に風が吹くなど、本来あり得ないことだ。

 

「広がるどころか、外に出ちゃったのよ。屋外……いや、屋上かしら」

「塔の最上部、という認識で良いのだろうか。ここまで高いと、恐怖より開放感が勝ってしまうな」

 

 雲の海を下目に全方位を取り囲んだ、限りない群青。ある意味では三層と二層の白い部屋より空虚な蒼穹が、視界一杯に満ちている。人とは生まれの異なるベアトリスとエキドナも、このような光景は初めてなのだろう。感嘆と呆然が交じった表情でぼーっと眺めていた。

 やがてその視線は、全員揃って同じところに縫い付けられる。

 

「あれは──」

 

 これほどまでに高い空の上で、世界で最も大地から離れているだろうこの場所で、それでもなお、仰がねば拝むことの適わない存在がいた。

 同じ床に立っているからではない。存在する位、次元の差だ。

 

 空の青さを安っぽいものにしてしまうほどに青い鱗が巨躯を覆い、空の広さをちっぽけなものにしてしまうほどに膨大なマナを纏っている。もしこれと敵対したならば戦意すら湧かないだろう、生命としての根本的な差を見せ付けられる。それは比喩でも誇張でもない。

 龍と人間とでは、そもそもの舞台が違う。あれは、天上に足をかけた超越者だ。

 

 対外的に竜を信仰する国として、小国ならともかく大国の中ではルグニカが親竜を掲げる唯一の国家だ。そんなルグニカでも国民全員が尊崇の念を持っている訳ではなく、四百年前の盟約以来、代を重ねるたびに信仰心は失われる一方だと言える。宗教の一つとして根付いてこそいるものの、日々の生活に関わりの無いものに対して、その実在を疑う人も少なくないだろう。

 

 ──とんでもない。

 何度血が混じり薄れようと、記憶が口伝として語り継がれようと、ルグニカの民なるものがこの威容をどうして忘れることなど出来るだろうか。

 

『汝ら、塔の頂へ至りし者たち。一層を踏む、全能の請願者たち。──我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』

 

 それが龍の発した声だと、誰もが理解できなかった。位の違う存在が、わざわざ人間と同じ目の高さで言葉を紡いでくれたという事実だけで、感謝と恐縮の念が溢れる。頭は未知の感情でごった返し、初めて発露する本能に血がざわめく。まともな返事をするだけの余裕が誰にも無い。

 重く、抗えないプレッシャーが体中に圧し掛かっていた。レイドの暴力が肉体的な脅威だとするなら、ボルカニカの威圧感は精神的な脅威だ。

 全てを見通すような目に、神龍の瞳にスバルたちはどう映っているのか。一体何がどこまで見えているのか。その一端さえも理解の及ばない、理知的な眼光に串刺しにされる。

 

「……えみ、りあ」

 

 ただ一人、龍の向こうを見ていたスバルを除いて。

 

 「────」

 

 そこでようやく、本当にその時になってようやく、ユリウスたちも気付くことが出来た。ボルカニカの神聖で濃密なマナに包まれ、目を閉じたまま宙に浮かんでいるエミリアの姿に。

 彼女は特に苦しんでいる様子もなく、かといって快適に過ごしているようにも見えない。ただ深い眠りについたかのように、微動もせずにいた。

 

 あれが、一層の試験。全能を求めた者に志を問わんとする、ボルカニカの試験だというのなら。

 入った瞬間に倒れることこそ無かったが、おおよそスバルの懸念が的中した形だ。だが同時に、何が起きているのかという不安が芽生える。

 

 『影よ、手を伸ばすか』

「──なっ!?」

 

 そして、事態はスバルたちの理解を待たずに動き出す。

 堰き止められたはずの謎の影が、階段と部屋との境界線を破って侵入して来たのだ。追いかけて来た時のように巨大な波ではないが、それはボルカニカの言葉通りに手の形を取って伸びて行く。

 止める意思が無いのか、はたまた彼の存在ですら止める術が無いのか、ボルカニカは静観するばかりだ。埒外の力同士がせめぎ合って、僅かに押し負けた結果があの細い手なのかもしれない。

 

 影の手は迷わず一直線に、身動きの取れないエミリアの方へ──

 

「ま、てよ……」

 

 ──行かなかった。

 スバルの一言に手が動きを止める。物理的な全てを無視して呑み込む影が、たった一言で止められたのだ。影は戸惑ったように指をくねらせ、閉じたり開いたりを繰り返す。

 まるで、影そのものに人間的な感情が宿っているみたいな不気味さで。

 

「行かせる……もん、かよ。……触れるなら、俺にしろ。取り込む、なら……自分のものにしたいなら、俺に、しやがれ!」

 

 震えていた。右とも左ともとれる、掴もうとする手の具現化のような影が葛藤に震えていた。

 スバルの体は今、ボルカニカの前に跪いた状態だ。ユリウスたちも全く同じ姿勢で、全身の筋肉が張り詰めて動けない。

 それでも口だけをかろうじて開け、スバルは必死の形相で睨めつける。その視線に影は完全に固まった。

 

「だからあの子に──エミリアに、触れる、な」

 

 しかし、その言葉が引き金となった。

 影は一瞬ぴくりと反応したかと思いきや、直後、爆発的に加速してスバルの傍を通り抜ける。今度は減速する素振りすら見せずに伸びて行き、エミリアの胸元を打った。

 

「なっ──やめろ! 止まれ! おい、聞いてんのか! 俺にしろっつってんだろうが! 俺に……俺にしろっ! く、そが……あああ、ぁぁぁああああ──っ!」

 

 そこに打撃としての意味は無い。肉体という障壁を感じさせないまま、緩やかに手がめり込む。指が内側に曲がり、何かを掴み取るような、強く握り締めるような動作が最後に見えた。どうなったのかは、手首まで全て埋まってしまった今では分からない。

 やがてエミリアの体が深黒の影に染まって行く。白い柔肌も、銀に艶めく髪筋も、何もかも。先の先まで覆い尽くし、しかし美しさだけを残した歪なドレスを広げる。

 

 それは皮肉なことに、『試練』の挑戦中に目撃した憑依とも似ていて。

 

『第一の挑戦者、エミリア、存在の上書きを確認。挑戦資格喪失、よって強制退場とする』

「……は?」

 

 再び言葉を発したボルカニカに、同じく再びの無理解が襲う。しかし、その理由は命が締め付けられる威圧感とは別物だ。実に一般的で純粋な、語った内容への疑問。

 今、ボルカニカは、何と言ったか。

 

『汝ら、塔の頂へ至りし者たち。一層を踏む、全能の請願者たち。──我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』

 

 先ほどと一言一句変わらぬ言葉が、天からの問いが降り注ぐ。

 質問に質問は重ねられない。問うのは、ボルカニカ。スバルたちは、答える側だ。

 

 大図書館プレイアデス、第一層『マイア』の試験。

 制限時間『条件付無制限』。挑戦回数『条件付無制限』。挑戦者『条件付無制限』。

 

『全能を求めし者、まずは全知をこそ得るべし。──汝らの、その身に宿し大罪を理解するがいい』

 

 ──ナツキ・スバル、並びにベアトリス、ユリウス、エキドナ、メィリィ、ラム。

 ──以上、代理人への資格譲渡により、六名全員が一斉参加。

 

 ──『試験』、続行。

 

 

 †

 

 

 ナツキ・スバルにとって、死とは生きるために必要な過程だ。

 

 その『生きる』という三文字には、愛する者の笑顔、大切な仲間たちの平穏、スバル自身の幸せが含まれている。たとえ一度たりとも死なない道筋があったとしても、その内の一つが欠けていればスバルは真の意味で生きていられない。

 生きるとは、スバルを産んでくれた二人に、堂々と胸を張っていられる在り方のこと。

 

 そういう意味では、スバルは今、生きていないといえる。

 失ったものが多過ぎて、指の隙間から零したものが多過ぎた。

 だが、いつか必ず取り返す。この手で掴んでみせる。

 救ってやる。

 

 だから、スバルは生きるために死ぬ。

 救い、救われたいがために幾度となく死んだ。

 

 誰もそんなことは望んでいない。これはスバルの自己満足だ。

 誰もそんなことは知る由もない。これはスバルの存在理由だ。

 

 スバルが求める未来に辿り着くには、スバルの死体を積み上げる必要があった。ただそれだけ。

 孤独に、地道に、高く、根気強く、死を重ねて来た。

 

 ──運命の始まりは、エルザに腹を裂かれたところだ。

 エミリアの徽章を取り返すべく、盗品倉に入ってすぐのことだった。暗闇に死の痕跡を発見し、気付けば自分もそこに加わっていた。そして、エミリアを死なせた。

 それが、異世界での終わりの始まり。

 

「す、スバル……?」

 

 ──三度目の死は、ラチンスに背中を刺されたところだ。

 これを経て、スバルはやっと自身の持つ権能に気付いた。

 

「や、スバル、こんな……こんな、の……」

 

 ──六度目の死は、レムに拷問を受けて喉が裂けたところだ。

 レムから信頼を勝ち取れず、最後はラムの優しさに斬り伏せられた。

 

「……バルス」

 

 ──七度目の死は、意を決して絶壁から飛び降りたところだ。

 彼女らの温もりと殺意に触れ、初めて前に進むための自死を選んだ。

 

「嘘よ……どうして……ラムと、レムが……」

 

 ──十二度目の死は、ユリウスに残酷極まりない介錯を頼んだところだ。

 ペテルギウスの憑依に為す術もなく、自分を見失う前に殺されることを望んだ。

 

「スバル……これは、どういうことなんだ……? ──私が、君を?」

 

 ──十五度目の死は、屋敷から聖域に転移して大兎に食い破られたところだ。

 四百年の時に置いてけぼりにされたベアトリスが、脳裏で泣き叫んでいた。

 

「……意味が分からないのよ、スバル。ベティーは……ベティーは」

 

 ──二十五度目の死は、パトラッシュに頭を砕かれたところだ。

 瘴気に当てられ、ラムとエキドナと三人で、互いの首に殺意の指を絡めていた。

 

「まさか……まさか、こんなことが? ……ナツキくん、君は一体……」

 

 ──二十六度目の死は、メィリィに背中を押されたところだ。

 記憶を失い、呆然としていたスバルは自身の死にすら、向けられた悪意にすら気付けなかった。

 

「え……? お、お兄さあん?」

 

 死んだ。

 死んだ、死んで、死んでから、また死んだ。

 死が巡る。今までの死が、星々のように巡り巡ってスバルの周囲を過ぎって行く。

 死を巡る。今までの死が、どれだけの痛みと苦しみの上にあったのか一つ一つ確かめている。

 

 ぐるぐる、ぐるぐる。

 ぐるぐる、ぐるぐる、と。

 

 そうして、通算四十七回の死が上映された。

 

「────」

 

 観客は、五名。

 内容は、実話。

 題名は、大罪。

 

『汝らの、その身に宿し大罪を理解するがいい』

 

 最終試験、最初の挑戦。

 ──そこではナツキ・スバルの『怠惰』と、『強欲』と、そして『■■』の大罪が白日の下に晒された。

 

 

 †

 

 

 何度も言おうとした。

 死の恐怖と孤独に耐えられず、理解を求めたことは何度もあった。打ち明けようと、何度思ったことか。

 しかし、そのことごとくが暗い重い愛に塞がれ、拒まれ、許されなかった。

 

 強欲の魔女と秘密が共有できると知った時の喜びは、今でも深くスバルの心に刻まれている。

 スバルと近しい関係の誰もが知り得ないこと。裏で色々と操っていたあの道化すらも完全には知らないこと。

 一人で背負っていた苦痛を分け合い、軽くしてくれる理解者が欲しかった。それだけでも大分楽になれたはずだ。

 

 ──楽に、なれたか?

 

 今は、限りない絶望が胸の中を支配している。

 試験が開始し、六名の目の前に映し出されたのは、スバルがあれほど打ち明けたくて堪らなかった苦痛だった。五十近い死の経験を、試験は詳らかに見せて聞かせて嗅がせて感じさせた。

 目の前で起きた出来事のように。彼ら自身がその場に居合わせ、間近でスバルの死に関わったように。

 

 ──ように、ではない。実際、そうだった。

 

 「スバル」

「────」

 

 心が叫んでいた。

 

 『あんなこと、耐えられるのは人間じゃない! 化け物! 化け物よぉッ!』

 

 見るな、と。

 

『──人間の心は、自分が死ぬことになんか耐えられないのぉッ!!』

 

 スバルの裡に潜み、『死に戻り』を共に味わったルイはそう言った。

 人は死の衝撃に耐えられない。当たり前の事実だが、スバルにとってはやや首を傾げるような言葉だった。

 

 エミリアたちを救うためなら、どれだけその身を粉にしてでもやり遂げると誓っていたから。

 それは魔女たちに出会い、犠牲から選択肢に変わった。

 それは記憶を取り戻すことで、自己嫌悪の逃げ道から自画自賛の根拠に変わった。

 

 自分を好きになろうと努力して、自分が凄いと思えるようになった。

 死ぬ度に悲しむ人がいることを、スバルは覚えている。エキドナやロズワールの求める理想像にはならない。なってやれない。譲ってはならない最後の意地だから。

 

 しかしながら。

 ベアトリスが、ユリウスが、ラムがエキドナがメィリィが。皆が見つめてくる視線に、スバルは耐えられない。

 名を呼ばれるのが怖い。

 意識を向けられるのが怖い。

 その目に込められた驚愕、憐憫、恐怖──

 

「……ああ」

 

 恐怖。そう、恐怖だ。恐怖が怖い。

 ──彼らにとってのナツキ・スバルが、理解できない存在として理解されることが恐ろしいのだ。

 

 「スバル!」

 

 誰が呼んだのかは分からない。スバルは、逃げ出していた。

 とはいっても、全員がボルカニカのマナに包まれた状態だ。粘着質の海の中を泳いでいるみたいに、体は不安定に揺れる。

 それでも逃げなければいけない。顔を見られてはいけない。どこか遠くに逃げ出して、一人になって、そして──

 

「──死ぬな、スバル! それは駄目だ!」

「ぅ──っ!」

 

 止めてくれ。

 これだから、どこまでいっても、スバルは仲間を振り切れない。心から捨て切れずに、振り向いてしまう。

 ユリウスの呼び止める声があった。ユリウスだけではない。全員だ。

 全員と目が合えば、スバルはもう逃げられない。

 

「な、なんだよ……これ!?」

 

 視線に雁字搦めにされたスバルを、更なる障害物が妨害する。

 どこからともなく現れた鎖が、スバルの右手首に巻き付いていた。地面に刺さっている訳でもないくせに、引っ張ってもびくともしない。

 気付けば両足にも同じものがある。左手も塞がれた。もはや、その場から動くことは適わない。

 反対に、ユリウスたちは少しずつ接近していた。一歩一歩の距離は短いが、ゼロではない。確かに縮まっている。

 

「スバル! 死んじゃ駄目かしら! ベティーたちを残して、一人で死なせないのよ!」

「バルス! エミリア様を、レムを、ラムたちを置いて逃げるなんて、許さないわよ!」

 

 救いの手が、スバルを掴んで放さない。皆の想いがスバルのことを死なせてくれない。

『頂へ至る者の志を問わん』と、ボルカニカは最初に説明した。問われているのは志、要は一層を踏破する覚悟。

 ならばこの試験では、強い覚悟が実体となって現れるのだ。

 

「志。……かく、ご」

 

 それが試験の突破とどう関わるのか、今は考えない。考えても意味がない。

 スバルがいる限り、一層の突破は無理だからだ。

 確信した。『死に戻り』は、決して明かせない。魔女が、スバルがそれを許さない。

 

 「──愛してる」

 

 その時に響いた彼女の声はひどく甘くて、心地良く、何より温かかった。

 都合の良いタイミングと、言葉だ。明らかに考えが誘導されている。彼女の良いように誘われている。

 それでも思わずにはいられなかった。彼女は、こんなスバルでも愛してくれる。化け物のスバルを受け止めてくれるのだと悟った。

 

「インビジブル・プロヴィデンス」

 

 愛おしい。

 胸の奥から込み上げた得体の知れない愛情が、手の形をして解き放たれた。

 同じくエミリアの胸元からも影の手が伸び、やがて互いに触れ合い、指を絡ませる。尋常ではない量の熱が手を通じて伝わり、スバルの全身を灼熱の愛が包む。

 孤独を溶かし合う恋人のように。

 

 影は共鳴し、拡散する。ボルカニカのマナも構わず喰らい、燃やし尽くして次の獲物を捕らえる。

 一番近い獲物は五名の挑戦者。その次は場外にいる地竜と『眠り姫』だ。外の世界はすでに呑み込んだ。メインディッシュのスバルも腹の中だ。ここに残っているのはなんてことない、最後のデザート。

 

「スバル────!!」

 「愛してる」

 

 全ては、愛の囁きに掻き消されて沈むだけだ。

 スバルも何もかも、全て影と一緒くたになる。

 

 天の頂から

 下へ下へ

 下へ降りて

 

 落ちて

 下

 し

 て

 行

 く

 。

 

「俺が、必ず──お前を愛してみせる」

 

 覚悟は槍となり、影の手を繋いだままだったスバルとエミリアの身体を貫いた。

 見慣れた死が祝福の拍手を送ってくれる。深く微睡む感覚を覚えながら、四十八番目の自分に別れを告げた。

 罪に苛まれ、逃げ出した囚人がゼロへと沈みゆく。

 

『愛してる』

 

 二人は今生を終え、流転し──然りしこうして、星々は巡り会う。

 

 

 †

 

 

 青い空が見えた。

 風が吹き、雲が流れ、視界の下から上へ景色が移り変わって行く。

 

「────」

 

 知らない時間に、スバルはいた。

 

『死に戻り』の切り替えは一瞬だ。身体が崩れ落ちていようと、精神が磨り潰されていようと、死さえ迎えればそれまでの苦痛などまるで存在しなかったかのように霧散し、巻き戻った世界の中で気が付く。そこにはゲームでいうロード時間が無く、連続した意識の1フレーム後に一度過ぎ去った時間が挿入される感じだ。

 あらゆる感覚を置き去りにして、記憶だけを持ち帰る。それが『死に戻り』であり、今しがた発動したナツキ・スバルの権能──のはずだった。

 

 何かがおかしい。

 というのも、今回は少しばかり違ったのだ。

 意識による主観的な感覚なので、具体的にどこがどう違うのかを言葉で表すのは難しい。ただ、あえて言うのならば、ロード時間があった。

 朝目覚める時に似た、目蓋を開けるような感覚。

 

「──どうした? どこか、調子でも悪いのかい?」

 

 そして、聞き覚えのある声。振り向けば、記憶の中とはやや合致しない顔が見える。吹きつける風に髪を押さえ、青空を背景に笑いかける少女の顔が。

 いや、見たことはあるのだ。顔も、声も、スバルはどちらも知っていた。しかし、頭はその二つが別の人物のものだと認識していた。

 

「……エキドナ、お前、元気に動いてるところ見ると美女だな」

「──!?」

 

 少女というよりは大人びた印象が先行する美貌を口にすると、彼女は目を大きく見開いて固まった。元より白い髪と黒い服で彩りの乏しかったエキドナだが、今は更に目まで白黒させている。

 その顔は、『試練』の世界で何度も顔を合わせたエキドナでなく、『聖域』開放後に発見したロズワールやベアトリスの知るエキドナだ。

 

「ななな、な、なんだい急に? その言いぶりだと、まるでボクが永眠した死体だったかのような反応じゃないか。さすがのボクでも、乙女としてそれは少し傷付くのだが……」

 

 赤らんだ耳を両手でつまみ、魔法と思しき力で冷やしながら、冷やし過ぎたのか震える声で問うエキドナはとりあえず無視した。

 スバルが今気になるのはもっと別のことだ。出来れば確実な情報を得たいが、見渡しても得られるものは限られている。だから、視界の中に入った別の人物に視線を向けた。

 

「なンだあ? 今さら酔ったっつっても遅えからな、オメエ。騒いでねえで大人しく寝てろや」

 

 こちらは見慣れた、というよりつい先ほどまで目蓋の裏どころか脳裏にまで焼き付いていた男だ。特徴的な口調と、嫌でも意識せざるを得ない殺人的な威圧感にスバルは確信する。

 レイド・アストレア。一度は打倒したはずの彼が、仮の身体を脱して本来の覇気を放っている。いや、脱したという表現は間違っているかもしれない。恐らく逆だ。

 

『直に到着する。疾く、準備を』

「ああン? 鈍間が指図すンじゃねえ。おい、若白髪。じっとしてっと退屈で死にそうだから、オレはオレで先に行ってるぜ。別に退屈でも死なねえがよ。いい加減飽きた」

「先に行くって……」

「そンじゃあな」

 

 スバルが説明を聞く暇も無く、レイドは大胆に飛び上がる。その高さたるや雲をも貫くまで届き、大気を体で切って空の彼方へ文字通り一っ飛びだ。嘘みたいな速度で点となり視界から消えて行く。

 自由奔放、それを意のままに為す行動力と発言力。ならば、権能を切り裂くあの男ですら打倒叶わず、封印に止まった『嫉妬の魔女』とは一体──。

 

「無関係どころか、今ここにいるのも多分そのせいだろうしな……」

 

 どうしても、頭に浮かぶのはその存在だ。

 明らかに今まで経て来た『死に戻り』の範疇を超えている。だが、むしろここまで極端では考えられる可能性も一つしかない。気付いてはいる。スバルのいる『現在』がいつなのかなど、とっくに。

 それが俄かには信じ難いのと、先の見えない不安で本能に蓋をしているのだ。

 

 運命は、スバルを終点──否、原点へ回帰させたというのに。

 

「なあ、エキドナ。俺たちはどこに……何をしに向かってるんだ?」

 

 問いは、ひどく曖昧で抽象的なものだった。それにエキドナは可愛らしく首を傾げ、しかし毅然とした目を向けて言い放つ。

 

「ボクの恥じらいを無視したかと思えば、今度はまた不思議なことを聞くものだね。君らしいといえばそうだが……何って、決まってるじゃないか。──我々の大願を叶えに、だよ」

 

 そう言い、彼女は微笑んだ。その横顔の向こうに巨大な滝の流れ落ちる大陸を据え、スバルは息を呑んだ。

 ここはスバルの知る過去ではない。ただ、全く知らないという訳でもなかった。正確には、スバルの経験していない過去。いるはずのない時間。

 なぜならそれは、数百年が経ってもなお禁忌と等しく恐れられ、忌避され、スバルも幾度となく耳にした伝説の一幕──。

 

「だって、神龍と盟約を交わしたのは他でもないフリューゲル、君だろう?」

 

『強欲の魔女』と、『棒振り』と、『大賢人』──三人は『神龍』の背に乗り、在りし時代の大空を飛翔していた。

 第一層の試験内容は、全知をこそ得るべし、とのことだった。それが、真の意味を以ってスバルに突き付けられる。

 

 大図書館プレイアデス、第一層『マイア』の試験──特記存在の介入により、第ゼロ層『メローペ』の試験へと強制移行。

 制限時間『実時間四百年』。挑戦回数『条件付無制限』。挑戦者『愚者ナツキ・スバル』。

 

 ──『試験』、開始。


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