昼間にも関わらず光が殆ど差し込まない鬱蒼な森の中に古びた小屋が佇んでいた。外観は所々新しい修繕の跡が見えるので恐らく人が住んでいるのだろう。実際に、中から小さな物音が鳴り響き続けている。
この小屋は数年前までは空き家であったが、ある日を境に人が住み着いてしまった。元々、瘴気が辺り一帯に蔓延する魔法の森に好んで住み着く人間はおらず、その出来事自体知るものは殆ど居ない。
だからこそ、彼のことを知っているのはほんの一握りの人物だけだった。
音もなく古びた小屋の前に現れたのは、まさに魔女のような黒白の衣服に身を包んだ少女であった。月の光を溶かし込んだかのような鮮やかな金髪を風に靡かせ、ホウキにまたがって宙を駆ける姿は一筋の流れ星のようである。
「おーい、いるかー?」
少女は無遠慮に扉を叩いて声を上げると、間も無くして扉が開き中から出てきたのは青い着流しに身を包んだ薄い水色の髪をした青年だった。物腰柔らかな態度に、朗らかな表情を浮かべている。
「あぁ、魔理沙さんですか。 どうされましたか?」
特別驚いた様子もなく、落ち着いた口調で青年は魔理沙と呼んだ少女にそう言った。
「紅魔館で借りてきた本の内容で分からない所があってさ、聞きにきたんだけど今大丈夫か?」
「魔術なんて私には分かりませんよ?」
「分かってるって、私が聞きたいのは薬の方だから」
「そういうことなら良いですよ。 ちょうど、私も暇を持て余していましたから、どうぞ中に入ってください」
扉を大きく開けて、少女を中に招き入れる。内装は必要最低限の物だけ揃えたと見受けられるほど殺風景なものであったが、奥の部屋の中には沢山の種類の野草やキノコ、鉱石や液体、実験の為に器具が所狭しと並べられていて、薬品の独特な匂いが充満していた。
「おー、やっぱ凄いな、いつ見ても壮観だぜ」
「そう言われると何だか嬉しいですね」
奥の部屋に入った魔理沙は来るたびに感嘆の声を漏らす、一部は自分が渡した物もあるが、殆ど彼一人で集めてきた材料である。人間であるというのに、魔法の森で生活できているだけでなく活動もできているのだ、彼の能力が関係していると魔理沙は考えているが聞いたことはない。
彼女と彼の関係は数年前から始まった。魔理沙も最初は誰も住んでいなかった筈の小屋が修繕されているのを不審に思って突撃したのが始まりだった。どんな奴が居るかと思えば物腰丁寧な優男が中に住んでいた。それだけならこのような交流は生まれなかったのだが、彼が薬学に精通していることを知った魔理沙は薬の研究にも興味があった為にかなりの頻度で彼の元を訪れてはその知識を教授してもらっている。
「やはり魔理沙さんは飲み込みが早いですね、私としても先生冥利に尽きるというものです」
「そ、そうか? えへへ……」
褒められてか嬉しそうに魔理沙は頬を朱に染め、傍に置いてあった黒いとんがり帽子を抱いた。
「キリがいいですし、一度休憩しましょうか」
そう提案した青年は二人分の温かい緑茶を淹れて、魔理沙と共にほっと一息ついた。そうして二人の間に静寂が訪れるが、気まずいと言ったような雰囲気ではなくお互いに居心地の良さを感じていると、魔理沙が徐に隣に座る彼との距離を縮めその絹のように滑らかな金髪を湛えた頭を寄せた。
「ん……」
「魔理沙さん、あまりこういった事は宜しくないと思うのですが……」
彼女なりの撫でて欲しいという合図であるが、青年は躊躇う。毎度同じようなやり取りをしているのだが、そもそもの事の発端は青年が今と同じような流れで思わず彼女の頭を撫でてしまったことから始まった。魔理沙も撫でられることに耐性がなかった所為か、それ以降クセになってしまったようだった。
「いいから……」
「少しだけですよ?…………そういえば、髪型変えたんですね。似合ってますよ」
「ッ〜〜〜!!」
何気ない一言で先ほどよりも顔を赤く染め上げる魔理沙。普段の彼女の姿を知るものからすれば顎が外れるくらい驚いてしまうだろう。こんなにしおらしい彼女の姿は中々観れるものではない。
頭に乗せられた手の温もりと、自分とは違うゴツゴツした感触にどきまぎしながらも、撫でられ終わるまでじっと動かない魔理沙。
「魔術の研究は最近どうですか?」
「ちょっとずつ進んでるかも」
「そうですか、それは良かった。 頑張ってくださいね」
そういうと青年は優しげに微笑みながら、魔理沙の頭から手を離した。自分が止めなければ彼女がいつまで経っても為されるがままになるのは分かっていたので、ちゃんと弁えているつもりであった。
青年の手が頭から離れた事で名残惜しそうな顔をする魔理沙だが、質問はまだ終わっていない。初めは自分の知識欲を満たす為に彼の元に訪れていたのにいつのまにか彼に撫でられる事が目的の半分以上を占めていることに心の中で苦笑を漏らした。
初めはなんとも思っていなかったはずなのに、自分より歳上であるにも関わらず敬語で喋る律儀な奴だな、としか思っていなかったのに日を重ねるごとに彼の人となりを知ってしまってからは早かった。
彼は本当に優しすぎるのだ。普通の魔法使いとしての霧雨魔理沙ではなく、何の肩書きもないただ一人の女の子として見てくれていると分かってしまっては、もうダメだった。何の色眼鏡もなく、偏見もなく、自分の事を見てくれる人に出会ってしまったのだ。加えて話も合う上に、どんな些細な事でも嫌な顔一つせずに聞き手に徹してくれる。親しい友人である霊夢とはまた違うタイプの人間だった。
「なぁなぁ」
「どうしました?」
「何でそんなに薬に詳しいんだ?」
魔理沙の素朴な疑問に青年は少しの間、悩むそぶりを見せてから答えた。
「私も昔は魔理沙さんと同じように、色んな書物を読み漁っていましたからね。 薬についてはその過程で興味を持ったが故の知識ですよ」
「へぇー、そうなのか。 てっきり、元々そういう家系なんかと思ってたぜ」
薬について詳しい者はこの幻想郷では限られてくる。元々、薬売りを生業にしている家系なのかと魔理沙は思っていたが、そうではないらしい。だというのに、あらほどの知識を体得するのに一体どれだけの努力が必要だったのか考えるだけでも凄まじい物だと分かる。
「お前も頑張ってたんだな」
「…………そうですね。 頑張っていましたね」
一瞬だけ青年の顔に陰が差したような気がしたが、気のせいだと思った魔理沙は再び質問を始めるのだった。
そうして時間は過ぎていき、日が落ちるにつれてもともと暗かった部屋が更に闇に包まれたので、青年は蝋燭に火を灯し、光源を確保した。
「お前のお陰で分からないところが全部分かったから助かったぜ。 ありがとなセンセっ」
「いえいえ、私も楽しかったですよ」
にひひ、と八重歯を覗かせて笑った魔理沙に青年は微笑みを絶やさずそう返した。
「良い時間だから、今日はここらで帰るよ。 また来るから、そん時も宜しくだぜ? じゃあ、おやすみ」
「ええ、おやすみない魔理沙さん」
家の戸を開け、ホウキに跨った魔理沙はそのまま真っ暗な森の中を駆けた。
「…………」
青年は去って行く彼女の後ろ姿を見届けて、完全に姿が見えなくなったと同時に戸を閉めると……
──糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
先程まで浮かべていた笑みはそこにはなかった。あるのは苦悶に満ちた表情だけであり、激しい咳と共に少なくない量の血を吐き出し、痛みのあまり胸を押さえつけた。
しばらくして落ち着いた青年は額に脂汗を浮かべ、己の掌にべっとりと付着した血を見つめて、ギリっと歯を食いしばった。
「……私は」
無意識に呟かれた言葉と共に、青年は戸の鍵を固く閉めてから、おぼつかない足取りで寝室ではなく研究室に足を向けた。
ただただ悲痛に染まった表情だけが、そこにはあった。
■
また明日彼の家に行こうと思っていた魔理沙だったが、タイミングが良いのか悪いのか幻想郷で新たに異変が起こってしまった。
彼女は異変を解決する為に、心底めんどくさそうにしていた霊夢を叩き起こして共に幻想郷を駆け回り、情報を集め、弾幕ごっこで敵を沈め、彼女と共に異変を解決に導いた。
気が付けば一週間は経っていた。
これまで一週間以上も彼と会わなかった期間は無く、どこか焦った様子で彼の住処を訪れた彼女は何故か脳裏に過ぎる嫌な予感を振り払いつつ、空を駆けた。
いつものように、扉をノックしようと小屋に近付いた魔理沙だったが、コンコンという音が鳴る事は無かった。
血臭が漂っていたのだ。
魔理沙はその事実に目を見開き、戸の取手を引っ張ったが開く事はなかった。そもそも、開かないのはおかしいのだ。彼は戸に鍵をかける事はない。何度か注意したが、いつも戸は開きっぱなしである。
ただならぬ事態を感じ取った彼女は無理矢理戸を開けるべく魔法で戸を破壊した。
「おい! いるのか!? いたら返事を…………え」
家の中に入った魔理沙は目の前の光景に言葉を失った。信じられないものを見たかのように瞳は動揺し、顔は蒼くなっていく。
そこには所々赤黒く変色した布団で横たわる彼がいたのだ。
「どうしたんだ!? 何があったんだ!?」
布団に横たわる彼の元に駆け寄った魔理沙は取り乱しつつも、彼の容態を確認する。脈はあるが今にも止まってしまいそうなほど弱々しく、口元には乾き切っていない血が流れていた。
「……魔理沙さん?」
彼女の声に反応した青年は瞳をゆっくりと上げながら、彼女を視界に収めて……微笑んだ。
力のない笑い方だった。目元は憔悴しきり、生気はない。声もか細く、掠れている。一週間前まで普通だったのに、今にも死んでしまいそうな彼の姿に魔理沙は絶句した。
「ど、何処が悪いんだ!? 早く治さないと!!」
「……申し訳ありません、治すことは出来ないんです」
その言葉を素直には嚥下できなかった魔理沙はどういうことなのかと聞くと、青年はゆっくりと語り出した。
「……ずっと内緒にしてたのですが、私の身体に巣食うのは不治の病なんです。 ですから、もとより私に残された時間はあまりありませんでした。いつぞやの紫のドレスを着た女性が言うには私は外の人間だそうで……いつの間にかこの地に迷い込んでしまったらしいです」
「な、何がなんだか分からないけどその不治の病ってのを治せばいいんだな!?……ま、待ってくれ! 人里に医者がいるから呼んでくる!」
治せるかは分からないがやらないよりはマシだと思った魔理沙は急いで人里に行こうとしたが、青年が縋るような声で待ったをかける。
「……行かないで下さい」
そんな悲しそうな声色で紡がれた言葉に魔理沙は思わず足を止めた。やると決めたら止まらない彼女が足を止めて彼の下に駆け寄ると彼は小さな声で“ありがとうございます”と言い、そのまま言葉を続けた。
「私の病はどうやっても治せません……それに自分の死期は自分が一番良く分かっています……これが私の天命なんです」
「……なんで諦めてるんだ!? 治せるかもしれないならそれが一番良いに決まってるだろ!!」
青年は魔理沙の悲痛な叫びに首を横に振った。
「この病が進行すればどんな名医でもお手上げです。本当は数ヶ月も持たない命でした。 なのに、私は宣告された余命を超えて、もう何年も生き永らえたんです。 それだけ貴女と過ごした時間は、私にとっての希望であり幸せでした」
目の焦点が段々と合わなくなる青年の姿を間近で見ているからこそ魔理沙は本能で目の前の青年の命が数分もしないうちに尽きてしまうと感じ取った。
「ずっと、黙っていました。 貴女が知ってしまったら、この関係が崩れてしまうのではないかと恐れて……私は臆病者で頑固者だから、今の関係を維持したかったんです」
青年は言葉を紡ぐ。
「私が薬の知識を持っていたのは、同じ病に侵された母を救う為だったんです。 でも、私が医者になる前に母は旅立ってしまった……そして、私自身も同じ病に侵されていると分かって……打ちひしがれ、死に場所を探していたんです」
彼が膨大な薬の知識を持っていたのにはそんな理由があった。しかし、新薬を開発する前に彼の母は旅立ってしまい、追い討ちを掛けるように彼も同じ病に罹っていると診断されたのだ。既に手の施しようもないほど水面下で進行していた病を治すことは最早不可能であり、持って数ヶ月の命だと宣告された彼は絶望に打ちひしがれ、死に場所を求めて彷徨った。
気が付けば彼は幻想郷に迷い込んでしまっていた。
「もう残り少ない余生をこの地で過ごそうと、この小屋を見つけて思いました。 そして誰にも知られず朽ちていくのを受け入れた矢先に……貴女がやって来たんです」
青年の声がだんだんと小さくなっていく。しかし、動かされた手は愛おしげに魔理沙の頬に触れた。
「私がこんなに生きる事が出来たのは貴女のお陰なんです」
頬に添えられた手を魔理沙は両の手で包んだ。いつのまにか彼女の瞳からは滂沱の涙が溢れ出ていた。
「貴女が気に病む事はありません。 笑った貴女が好きなんです……魔理沙さん」
「……ばかやろう」
振り絞るような声にならない声でそう言った魔理沙に微笑みを浮かべる青年。
「一目惚れでした。 もうすぐ終わる命でありながら、私は貴女が訪ねてくるのを毎日楽しみにしていたんです」
「……なんで今言うんだよ……私だってお前のこと」
その言葉が続くことはなかった。その先は言わなくてもいいと言うように青年が首を横に振ったからだ。
「思えば……波乱の人生でした。 でも、こんなこともあるんですね」
魔理沙の頬に触れた手から力が徐々に失われていく。
「最後に貴女に逢えて本当に良かった」
「さいごとか言うなよ……」
尻すぼみになっていく魔理沙の声。青年の告白が最初で最後だと嫌でも理解しているからだ。
「……叶うなら、貴女ともっと一緒に過ごしたかった」
「そんなの私だって、私だって……」
「……申し訳ありません」
「あやまるな……」
ギュッと力の抜けた彼の手を抱き締める力が強くなる。
「………本当は死ぬ姿を誰にも見られたくなかったのですが……貴女に見届けられるなら……良かったと思えます」
「待って! やだっ、いくなっ……ずっと一緒にッ」
泣きじゃくり自分の腕に縋る彼女の顔を見て、青年はいつものように微笑んだ。視界がぼやけていくというのに、自分の死が間近に迫ってきているというのに、随分と穏やかな心持ちだった。
「……魔理沙さん、どうかお幸せに」
そう言い残して……青年は息を引き取った。
魔理沙の頬に触れていた手の力は完全に失われ、その鼓動は完全に止まり、呼吸は消える。段々と温もりが失われ、冷たくなっていく青年の身体を抱きしめながら魔理沙は泣いた。小さな童のように泣きじゃくった。
失って初めて魔理沙は自分の気持ちを理解する事ができた。だが、既に彼の命は両の手から零れ落ちた後だった。もう彼の声も、その優しさも、温もりも何もかもを失った後で漸く気が付いてしまった彼女は後悔の念と共に声と涙が枯れるまで泣き続けた。
これからも変わる事がないと思っていたのに、現実は無情でそれは一瞬のうちに泡沫へと帰した。
長い時間を過ごしたというのに彼が重大な病を抱えていたことに気が付かなかった自分を心の中で責め立てるが、そんな事をしても彼は帰ってこない。自身のこの感情が恋慕だと気が付いたとしても、もう彼と触れ合う事は出来ない。
彼の水色の髪を掻き分けて、安らかに眠っている顔を見れば見るほど辛くなってくる。
既に外は暗くなり、日は沈んだ。泣き止んだ魔理沙は一度彼の側を離れて、彼の研究室へと向かった。
「……これ」
作業台には何冊もの手記が重ねられており、明かりを灯して見てみるとそこには“魔理沙へ”と書かれてある紙の切れ端があった。
手記の中を見てみると、そこには自分も知らない薬の知識が丁寧な字で隙間なく書き記されており、魔理沙は驚いて手記を全て確認した。
「……なんでだよ……お前が直々に教えてくれるんじゃなかったのかよ……私はバカだからお前が教えてくれなきゃ分かんないのに」
そして最後の手記の最後のページにはただ一言“貴女をお慕いしておりました”と書かれてあり、それを見た魔理沙は枯れたはずの涙を再び流して青年の下に戻り、その手を握り………彼の耳元で囁いた。
その言葉は誰にも聞こえないほど小さなものだったが、青年だけには届いただろう。
ただ一言“私も愛してる”と囁いた少女はその端正な顔を悲哀に染めながら、彼の亡骸と共に夜を明かすのだった。
活発な女の子がしおらしくなるの可愛い、可愛くない?