恋しい夜と愛しい朝の間にいる夏蓮ちゃんと葉くんの話です。
ーー甘い香りがする。
離れてすぐに葉がそう言って、眉尻を下げた。身に纏った、金木犀の淡い香りが彼の体に移ったのかもしれなかった。
「こんなに長い間、ずっと一緒にいているのに、僕たち、キスはした事なかったんだね」
とっておきの秘密を打ち明けるように、私の耳元で呟いた。
***
午前零時を回った頃、当たり前のように真っ暗な窓の外を見下ろして、短く息を吐き出した。椅子に座ったままフラフラと足を泳がせる。一昨日は私の、そして今日ーーいやもう昨日になってしまったか。昨日は、葉の誕生日だった。幼少期から家が隣同士で、お互いの家族も仲が良く、更に誕生日も一日違いだと、当然のように葉の誕生日と私の誕生日のお祝いは合同になる。それは毎年の事で特に不満に思ったこともない。誕生日がもう数日離れていれば日を置いて、二度ケーキが食べれたのにな、というぐらいだ。
(葉は寝た、かな)
ペタペタと裸足の足同士をくっつけて、物思いにふける。窓から見える隣の家の部屋の灯はすでに消えている。葉からの今年の誕生日プレゼントは金木犀の香りの練り香水だった。綺麗な装飾が施された蓋を開けると甘い香りが、鼻腔を擽る。金木犀……そういえば近くの公園の花はもう開いているのだろうか。毎日、通学の際に通っている道だというのに、そんな事も思い出せない。
(こういう気分って、何ていうんだっけ)
ノスタルジック?エモーショナル?なんとなく違う気もする。首を捻って、欠伸をひとつ。明日は朝からネフホロに籠るのも良いだろうし、葉を引っ張って買い物に出かけるのもいいだろう。そう思うと早く寝なければ、という思いもあるが、どうにもベッドに横になる気になれなかった。正しく、感傷的な気分で、ただ自分が何に浸っているのかが判然としなかった。
(ーー葉はもう寝た、よね)
数分前の思考を繰り返して、真っ暗な葉の部屋を睨む。手元にある端末を操作すれば、確かめられる事実を、混ぜ返して難問にしているのは私自身だ。
そう、例えば、例えば今、目の前の部屋の電気がついて。葉が眠気と戦いながら「どうしたの?寝れないの?」なんて問いかけてきたのならば。ーーならば、なんだというのだろう。自問を繰り返して、ただ答えを見つける気のない思考の迷路を漂い続ける。ーー馬鹿らしい、と自分に心底呆れてしまって溜息をついた。電気を消してベッドに寝転がればその内寝られるだろう。きっとこんな思考になるのは真夜中の所為だ。
部屋の電気を消そうと、椅子から立ち上がる。そして、立ち上がったと同時に、沈黙を守っていた端末が低く唸り声を上げた。メッセージの到着を告げるバイブ音、ポップアップしたメッセージは数拍前に考えていた通りのもので、なんとも言えない気持ちになった。
ーーどうしよう、もう寝る、とでも返そうか。どうしよう、寝れない、とでも伝えてみようか。どうしよう、と自問を重ねながら指先は酷く正直だった。
「葉、」
「かれん?どうしたの、電話は珍しい……」
「ちょっと付き合って」
葉は、んー、と愚図るような声でモゾモゾと言葉を零した。返事が鈍いのは半分寝ている所為だろうか。
「いいよ、寝るまで電話繋いでおく?」
「うん」
「僕、先寝ちゃったらごめん」
「起きてて」
「むちゃ、言うなあ」
欠伸を噛み殺すような音と共に目の前の真っ暗だった窓がオレンジ色の光に満たされる。カーテンの隙間に手が掛かったと思うと、寝巻きの葉が窓際で、ひらひらと手を振った。
「寝つき、いつもは良いのにね」
「寝る気分じゃなかっただけだから」
「そうなんだ?」
「うん、もうちょっと今日が続けば良いなって」
「なるほど」
耳元で聞こえる、潜めた笑い声が心地いい。また一つ、一緒に歳をとったと言うのに、昨日までとなにも変わりないやり取りが心地よかった。
「明日」
「ん?」
「明日は朝からネフホロをしたい」
「うん、いいよ」
「お昼はオムライスがいい」
「うん」
「あと……あ、そう言えば葉。公園の金木犀はもう花咲いてたっけ」
「どうだったかな。またあの香りを嗅いだ覚えがないから、まだだったと思うけど」
窓の向こうで考え込む葉を見ながら、思いつくままに言葉を零していく。うんうん、と葉がいつも通り頷くのをみて、漸く気持ちも微睡んでくる。
「葉の誕生日が終わるね」
「んんー、日付変わったからもう終わってるんだけどな」
「私が寝るまでは葉の誕生日」
「ふふ、そっかあ」
「うん、そう。ロスタイム。誕生日の」
ちょっと得した気分だね、と葉は笑った。その様子を見て、自然に頬が緩む。
「ねえ、誕生日の終わりってなにかないの」
「何かって?」
「その日、一番におめでとうを言う。だから、終わりにも何かあれば良いのにと思った」
おはようとおやすみが対になっているように、誕生日という特別な一日にも、おめでとうと対になる言葉があれば良いのに。ぼんやりとそんな事を思ってそのまま口に出した。不思議そうな顔をした葉が、私が言いたい事を理解したのか得心した表情になった。
「もう一度おめでとうじゃあ、駄目なの?」
「なんか違う」
「誕生日の締めかあ」
葉が考え込んで口を閉じる。暫くそうだなあ、と思考に浸っていた葉は、例えば、と言葉を紡いだ。
「また来年もお祝いさせてね、とか」
「そのまま」
「いいでしょ、別に」
む、と唇を尖らせた葉が、じゃあ夏蓮はなにがいいと思う?と問いかけてくる。さて、なにがいいだろう。なんと彼に声をかけたいだろうか。彼になにを伝えたいだろうか。どうすれば過不足なく彼にこの気持ちが伝わるだろうか。来年も、再来年も、これからもずっと隣で一番に誕生日を祝って、独占するには。
「私は、」
「うん」
「キスを送りたい」
「は、……うぇ?!」
がつん、とガラス窓に額を打ち付けた葉が動揺を隠せないまま、額を抑えたのをみて思わず吹き出した。葉が酷く動揺している様が新鮮で、愛しく、そして恋しかった。
「ねえ…….」
「ふ、ふふっ、そんなに驚くとは思ってなかった」
「驚く、驚くよ!あー、びっくりした」
「意味は葉のと一緒なのに?」
「そりゃ、そりゃあ!そう、だけど!」
「電話じゃキスは出来ないから、残念」
「……」
もっと早くに思いついておけばよかった、と零すと、いきなり行動に移されると、心臓壊れちゃったかもだから予告があって良かったよ、と葉は俯いたまま答えた。
「明日だね」
「明日かあ、次は僕が寝れなくなりそう」
「寝れるまで付き合う」
参ったとばかりに両手を上げた葉に、飛びっきりの笑顔でそう返した。
イベントごとの前後一ヶ月まではセーフだから……(大遅刻)
単行本発売までもう秒読みですね……どきどきする!