その人はアニメやゲームのヒーローみたいに突然現れたわけじゃなく、今まで何度も電車で見かけたことがあった。よく吊り革に掴まって車窓から外を眺めていたのを覚えている。
綺麗な人。別にそういう趣味があるわけではなく、客観的に見て、という意味だ。髪は顎のライン辺りで揃えられ、色はやや茶系の混ざった黒…でいいんだろうか? スーツをビシッと着こなし、いかにも仕事が出来そうな印象を受ける。
ただ、あくまでそれだけ。同じ世界にいながら、知り合いになることはなく、景色の一部としていずれあっさりと記憶から消えていくものだと
「大丈夫?」
痴漢から助けられそう声を掛けられた瞬間から、その人は景色の一部ではなく生身の人間になった。背景から飛び出してきて立体の身体を持って私に話し掛けてきたのだ。
ううん、どうだろう。もしかして無意識のうちにその人を求めたのかもしれない。この人なら助けてくれそうだと思ったから、私は目が合った時に頷いたんじゃないだろうか?
とにかくその人、『マユミさん』は私の前に現れた。
痴漢に遭った翌日に運良く会えたのが1回目。その時は視線が合ったから小さく会釈をしたものの、距離が遠くて話し掛けることは叶わなかった。その次の2回目は、たまたま近くになったので、「おはようございます」と「この前はありがとうございました」の二言だけ。
3回目の今日でようやく名前を聞けた。それと簡単な会話。本当に世間話的な当たり障りのない会話だったけど、あまりの嬉しさに学校にいる間ずっとニヤけていた。でも友達から変な目で見られたのは失敗だったと少し反省してる。普段大人しい私がニヤついていたんだからクラスメイトたちもきっと驚いたに違いない。
そして学校から帰ってくるなり部屋にそそくさと入って鍵を閉め、スマホの画像を開くのがここ最近のお気に入りのルーティン。トントンッと画面をタップして見るのは、もちろん消すフリだけして残しておいたあの写真。私の後ろに笑顔でマユミさんが写っているやつだ。
やっぱり消さなくて正解だった。咄嗟にフリだけした過去の自分を褒めてあげたい。
いつものようにベッドに寝転がってじっと写真を見つめる。名前を知らなかった時でさえ少しドキドキしたというのに、名前なんて呼んだら今度はどうなってしまうんだろう? 楽しみでもあり、怖くもある。それはどこか、ガラス製の頼りなさげな橋を渡るのにも似た不思議な感情だった。
画面を見つめ、勇気を出して名前を呼ぶ。
「マユミ…さん」
照れ臭くなって慌ててスマホを脇に置いて足をジタバタ。なんだろう、これ? すっごくドキドキする。再びスマホを手にして今度はもう少し大きい声で。
「マユミさん」
(っ~~~~~~~)
鏡なんて見なくたって分かる。今の私は大好物のオムライスに掛かったケチャップにも負けないくらい、真っ赤っかだ。顔が熱くって、火が出そう。温度を測ったら100度くらいあるんじゃないかと思う。いや、たぶんきっとある。
だってこんなになったのは生まれて初めてだから。
スマホを抱き締めてベッドに横になり胸に手を当てると、信じられないくらい心臓の鼓動が早かった。
「ユイ~~~。ご飯だから出てきて頂戴。ユイ~?」
まずい、お母さんだ。せっかく今いいところだったのに、いっつも間が悪いんだから!
な~んちゃって。そう言えないのは自分が一番よく分かってた。画像とず~~~っとにらめっこしてた私が悪いのだ。画面のマユミさんに小さく「また後でね」と話し掛けていると、再び母の声が響き渡った。
「ユイ~~~。何してるの~~?」
「はーーい! 今行く!」
次にあったら勇気を出して連絡先を聞こう。そう心に誓い部屋を出る。
「あら、あんたどうしたの? 顔真っ赤だけど」
「えっ!? そ、そうかな。急いで来たからだと思う………たぶん」
心臓はまだ鳴っていた。バクンバクンと、私の全てを飲み込んでしまいそうな狂想曲を奏でながら。
「おはようございます、マユミさん」
「あっ、おはよう、ユイちゃん」
大きな駅へ向かう朝の上り電車。すし詰め状態とまではいかないけど、それでも充分混み合った車内で短く言葉を交わす。私の名前、覚えててくれたみたい。たったそれだけのことで今日一日楽しく過ごせそうな気がしてくるから不思議なものだ。
そういえば連絡先、どうやって聞こう?
聞くことだけ考えてたけど、よくよく考えると私には聞く理由がない。さらに言うとマユミさんが私の連絡先を必要とする可能性はもっとない。人の多い車内で喋り続けるわけにもいかず、連絡先を聞く口実も思いつかない私は沈黙するほかなかった。
途中、大きなカーブに差し掛かって電車が揺れると、マユミさんの手がすっと伸びてきて私を包み込んだ。どうやら私が他の乗客に押し流されないようにガードしてくれたみたい。もちろん親切心からであって他意はないんだろうけど、抱き締められてるみたいでどぎまぎしてしまう。周りの乗客が遠心力に負けて外側へと身体を傾ける中、私は一人マユミさんにくっ付いて幸せを享受していた。
(やっぱりマユミさんって素敵な人だな)
良い事もあったし今日は連絡先聞けなくてもいいか、なんて考えながら電車を降りてマユミさんの隣を歩いていたら、チャンスは突然私の元へと舞い降りてきた。どうやら今日はとびっきりツイてる日らしい。
「あれからは一度もない?」
「え?」
「身体触られたりとか」
「あっ」
痴漢に遭ってないか心配してくれてるんだ。
「えっと、はい。だいじょ━━━」
大丈夫ですと言い掛けた言葉をハッと飲み込み、私は必死で考えた。
「ユイちゃん?」
マユミさんが私の顔を覗き込む。
「じ、実はあれから1回だけ」
「ええっ!? そうだったんだ。教えたやつは試してみた? カメラ向けるの」
「はい、でも上手くいかなくて。そ、それでですね」
「うん」
「連絡先…教えていただけないかなって。マユミさんに相談したくて。電車の中だと話しにくい内容だから」
「そっか。そうだよね。人前で話す内容じゃないよね。ん~、分かった。メッセージでやり取りしよう。あっ、でも仕事中は返せないから夜とかになっちゃうけど、ユイちゃんはそれで平気?」
「はい、よろしくお願いします」
よし。上手くいった。棚ぼた気味だったけど、何はともあれマユミさんの連絡先ゲット。
連絡先のリストにちょこんと追加されたマユミさんの欄が、私にはそこだけ輝いて見えた。
「今、試しに送りますね」
「おっけー」
う~んと、無難によろしくお願いします、でいいかな。『よろしく』まで打って予測で出たそれを早速送信すると、ピョコッと私のメッセージが表示された。
<よろしくお願いします>
それからすぐにマユミさんから。
<こちらこそよろしくね>
<ユイちゃん>
ピョコピョコッと2回。それを見て、今度は目の前の相手と笑い合う。なんか…楽しい。
「マユミさんの仕事を邪魔しないように気を付けます」
「そこまで気にしなくていいよ。ユイちゃん高校生なんだし」
本当はもっと喋っていたいのに、マユミさんは仕事で私は学校。だけどいつでも連絡出来る、繋がっているという感覚が私をちょっとだけ大人にしてくれたのか、今日は別れが惜しくない。
(また後でね、マユミさん)
心の中でそう呟いて、私は足取り軽く学校へと向かうのだった。
あれから2週間ほど経っただろうか? たった3行のやり取りで始まったメッセージも、今ではかなりの文量になっている。既に『相談』とはかけ離れた内容となり、友人同士のやり取りのようになったそれは大切な宝物だ。
それに進展したのはメッセージの中だけじゃない。お互い約束して少し早めの電車に乗り、チェーンのコーヒーショップに入って会話したりすることもあった。おかげで随分とマユミさんについて詳しくなったと思う。マユミさん博士と言ってもいい。
そしてマユミさんが同性愛者、いわゆるレズビアンであることを知ったのは、ある朝のことだった。
「あっ、あの一番奥の席にしよっか」
まだ通勤通学の時間帯。ゆっくりくつろごうというお客さんは少なく、大半は朝食がてらに軽いパン系のものを食べては珈琲を飲んで席を立つ人ばかり。そんな中で若いOLさんと女子高生という取り合わせは少しどころかだいぶ浮いていたのか、物珍しそうにみんながチラりと視線を寄越し、首を傾げるような仕草をしては、迫る出社時間に追い立てられるように目の前のカップを飲み干して店を出て行った。
「なんか目立っちゃってるね私たち」
「ですね」
ちょっとばかしの居心地の悪さを覚えつつも、甘くてカロリーたっぷりそうな飲料にストローを差し込み口を付ける。うん、見た目通りにかなり甘い。けど美味しい。上の方のクリームの層の部分が魅惑的な逸品だ。
「そういえばマユミさんって結婚してるんですね」
私は当初、指輪を付けているからマユミさんは既婚者だと考えていた。普通の女子高生からすればそれはごく当たり前の思考であり、私も疑っていなかった。だからきっと素敵な旦那さんなんだろうなって想像しながら尋ねた時、マユミさんが珍しく戸惑った顔をしたのをよく覚えている。
「えっと、これは…ね」
「どうかしたんですか?」
「あの…、うん。そうだな、どうしよう」
マユミさんはかなり迷った挙句「気持ち悪いと思ったら縁を切っていいからね」と入念に前置きしたうえで話を始めた。
「私さ、その…同性のパートナーと…暮らしてるんだ。ケイコっていう名前の…女の人」
「それって、つまり…」
「黙っててごめんね。言ったらユイちゃんびっくりすると思って。あっ、でも安心して。変な気持ちはないっていうか、ユイちゃんのことどうこうしようとか考えてないから。痴漢から助けたのだって純粋に助けたいって思ったからだし」
私もさすがに驚いた。そういう人達がいることは知っていたけど、まさかこんな近くにいて、それもマユミさんがそうだったなんて。
「さっきも言ったけど本当にいいからね? 気持ち悪いっていう人の気持ちも分かるからさ。ユイちゃんがもう会わないで欲しいっていうならそうするよ」
くるくる、くるくる。知らず知らずのうちにストローを動かしていたみたい。すっかりクリームが混ざってしまったラテはまだら模様を描いていた。混ざってない方が好きなんだけど飲んで見たらこれはこれで美味しいかも。
結論から言えば、私はマユミさんから離れたりはしなかった。むしろ深く知れたことでより一層仲良くなりたいとさえ思っていた。これはきっと恋なんじゃないかって意識し始めたのはこの頃からだ。
「マユミさん。私、今日マユミさんとお話出来て良かったです。だから今まで通り私と会ってください」
「ユイちゃんがそう言うなら…」
「約束ですよ?」
「うん、了解」
この人を魅了したケイコさんって、一体どんな人なんだろう? やっぱり美人なのかな? それとも案外普通だったりして。今度写真でも見せてもらおうかな。
僅かな嫉妬と、勝手な憧れを抱きつつ、私は会ったことのないケイコさんの姿を想像していた…。
トントントンッと画面をタップする指が楽し気に跳ねる。
<週末どこか行きませんか?>
かねてから考えていたお出掛けへのお誘いだ。どんな反応が返ってくるのか楽しみだけど、断られたらって思うと不安でしょうがない。すぐには返信が来ないと思ってスマホをベッド脇に置いて油断していたら思いのほか早くスマホが振動した。
<ごめ~ん、今週は無理なんだ。来週なら空いてるよ>
ピョコッと表示されたメッセージには残念ながら今週は無理との文言が…。
ん~来週か。土曜はたしか家族でお出掛けするってお母さんが言っていたっけ。だったら日曜なら平気かな。
<日曜でも>
あっ、途中で送信しちゃった。トンッ、トンッ、トンッと今度はさっきよりも落ち着いてタップする。
<日曜でもいいですか?>
スマホを見てるのかすぐに返信がきた。
<いいよ~>
<じゃあ決まりで>
<楽しみにしておくね♪>
やった。マユミさんとお出掛けだ。デートってわけじゃないけど、勇気を出して誘ってみて正解だったかも。
こうして約束を取り付けた私は、その日が来るのを指折り数え日々を過ごしていった。
そして訪れた念願の約束の日。昨日はワクワクして眠れないかと思ったけど、布団を被ったらあっという間に寝てしまったせいか体調はバッチリだ。
「おはよ~ユイちゃん」
「おはようございますマユミさん」
「早いね、まだ15分以上前だよ?」
「そういうマユミさんだって早いじゃないですか」
「あはは、それもそうだね」
駅前の待ち合わせ場所は、私たち以外にも家族連れやらカップルやら、休日を楽しもうという人たちで賑わっていた。
「今日のユイちゃん、いつもと雰囲気違うからびっくりしちゃった。すっごく大人っぽいね。可愛いよ」
「ホントですか!?」
「うん、どこのモデルさんかと思っちゃった。誰かに声掛けられたりしなかった?」
「いえ、そんな私…可愛くなんか。それだったらマユミさんの方が」
「えー? そんなことないよ~」
自分なりにオシャレに気合を入れたつもりだったから褒められたのが嬉しくて仕方ない。コンタクトはどうしても怖くて無理だったけど、着ているのはショップの店員さんにコーディネイトしてもらったやつだし、普段しないお化粧も薄~くだけどしてある。自分に出来る最大限の努力をしてきたつもりだ。
(少しはマユミさんとお似合いに見えるかな?)
ふと私とマユミさんが周囲にどう見えてるのか気になって辺りを見回してみたけど、みんな自分たちのことに夢中なのかあいにくとこっちを見てる人はいなかった。
もしからしたらと思ったけど、まぁ、カップルには………見えないよね、とちょっと自嘲気味にため息をつく。
「どうしたの? ほら、行こっ」
「は、はいっ」
周囲の人たちも待ち合わせが済んだグループから続々と街へ向かって歩き出していく。繁華街に繰り出す人の流れはどこか川のように見えて、それに溶け合うように私とマユミさんもその流れに加わった。
(あっ…。あの人たち腕組んでる)
たぶん見せ付けたくて仕方ないんだろう。女性が男の人にべったりとくっ付くようにして歩いている。男の人は少し歩きづらそうにしてるが、その表情はにこやかでまんざらでもなさそうだ。私は幸せです、ってオーラが身体から漂っていた。
いいなぁ。私もやってみたい。
チラリと横を覗いてみると隣を歩くマユミさんは私よりも結構身長が高く、ちょうどそのカップルと同じような身長差だった。ということはあんな感じになるのかとイメージが風船みたいに膨らんでいく。
素直に腕を組みたいって言えばマユミさんはあっさりオーケーしてくれると思う。でも、それだと少し子供っぽくてカッコ悪い気がした。ちょっとくらいはマユミさんをドキッとさせてみたい。
(自然な感じで。大人っぽく)
チラッ、チラッとマユミさんの腕と胴体の隙間をチェックした私は、勇気を振り絞ってそこに腕を差し込んだ。
「ユ、ユイちゃん!?」
「ダメ…ですか?」
「いや、ダメじゃないけど…」
「なら、このままで」
慌てるマユミさんはとてもキュートだった。私がそうさせたんだと思うとなおさら嬉しくて、その喜びを表現するようにキュッと両手を腕に巻きつける。もちろん、歩くのに支障が出ない程度にだけど。
これなら少しはカップルらしく見えるんだろうか? それともやっぱり見えないのかな? どっちかは分からないけど、腕を組めただけでも今日のお出掛けは収穫ありだ。
そのままぶらりとショッピングを楽しんだ後、映画の時間に合わせて少し早めにお昼ご飯を取ることになったんだけど、これが意外と難産だった。
まずお金を出す出さないで揉め、マユミさんが奢ると言ってどうしても譲らなかったので、有り難くご馳走になることに。続いて店選び。映画の前だしあまりガッツリ食べると眠くなるかも、と軽めにパスタとかを候補に挙げるも決め手に欠け、二人で散々悩んで歩き回った挙句、色んな点心が味わえる中華料理のお店を選んだ。
おかげさまで店に入った時点でタイムスケジュールがきつきつに。あ~でもない、こ~でもないと言い合うのは楽しかったけど、ちょっと疲れたかも…。
でも結果としてこれが大当たりで、セイロの中で湯気を立てる熱々の小籠包とか、エビが透けて見える薄皮の蒸し餃子なんかに舌鼓を打ちつつ、シメは量が少なめのミニサイズの麺類を食べてほどよいお腹加減となった。歩き回ってお腹が空いたのも食事を美味しくしてくれた一因かと思うと少し感慨深い。
「いや~美味しかったねぇ。それに楽しかった」
「ふふふ。マユミさん、結構可愛いとこあるんですね」
小籠包は本当に熱々で、レンゲに乗っけて食べたんだけど、溢れ出る肉汁に二人ともキャーキャー言いながらはしゃいでしまった。
「舌、火傷しなかった?」
「大丈夫です。マユミさんみたいにせっかちじゃありませんから」
「あ、言ったな~。もう連れてってあげないぞ」
「冗談ですってば、冗談」
「あははは。あっ、そろそろ時間だ。映画館行かないと」
スマホを見て歩き出したマユミさんの隣に並び、そっと手を伸ばす。さっきよりもスムーズに伸びたそれは、マユミさんの腕に絡みついた。
「行きましょう、マユミさん」
小さな一歩だけど確かな一歩。微かな自信を胸に私は微笑んだ。