これから起きる未知の体験への不安にユイちゃんは少し身体を震わせていた。無理もない。彼女は女性どころか男性とさえ、こういった経験がないんだから…。
怖がらせないように口付けしゆっくりと洋服を脱がしていくと、やがて曝け出された美しい肢体に私はため息を漏らした。大理石や陶磁器を思わせる白い肌。まだ誰の色にも染められたことのないそれは、私専用のキャンバスにも思えた。
私はこれからここに地図を描いていくのだ。私という人間の通った場所に証が残り、それが目印となってあちこちに風景が生み出される。どこにどうキスをして、舌を、指を這わせたのか。次にユイちゃんに触れた人はその地図を手掛かりに、ユイちゃんだけでなく私をも知るのだろう。
その人が、この子は素敵な経験をしたんだなと想像するかどうかは、私次第。
未開の土地を手探りで歩くように、少しずつユイちゃんの反応を探る。リラックスしてるとは言い難いが、それでも持ち得る限りのテクニックで開拓していくと、ユイちゃんの身体はしっかりと私を受け入れてくれた。
僅かに開かれた湿地帯から指を引き抜きウェットティッシュで拭う。浮かび上がった真紅のラインは私がユイちゃんの初めての相手であるという一つの事実を鮮明に記録していた。
鎖骨に、胸に、お腹に、キスで出来た赤い斑点を咲かせて微笑むユイちゃんはとても美しく、サナギから蝶へと羽化した少女の持つ独特の匂いが鼻腔をくすぐった。
「大丈夫? 痛くない?」
「全然痛くないって言ったら嘘になるけど、マユミさんが優しくしてくれたから平気です」
「そっか。それなら少し安心した」
時間を掛けて慎重に挑んだのもあって痛みは少なく済んだみたいだけど、そろそろユイちゃんをお家に帰さないとまずい時間だ。
「ユイちゃんだけでもシャワーを浴びておいて。その間に私はタクシー呼んだりするから」
「でもそれじゃマユミさんが…」
「私は大丈夫。それよりユイちゃんを送っていく方が大事だから」
ヨタヨタと覚束ない足取りのユイちゃんをシャワーまで連れて行くと、私はスマホを取り出しタクシーの手配を始めた。
「あっ、この辺でお願いします」
ユイちゃんの家の近く。運転手さんには待ってもらうようにお願いしておいて一緒に車を降りる。私の最寄り駅から数駅となりの駅にある住宅街が彼女の家だった。
日も傾き蒸し暑さも通り過ぎたのか、なかなか気持ちのいい風に吹かれながらユイちゃんと向かい合う。夕方の日差しに照らされて彼女の顔が赤く染まり、潤んだ瞳が私を見上げていた。風で揺れる黒髪が身体に纏わり付いた時シルクのような肌触りだったことを思い出しながら少し立ち話。
「私、明日も同じ時間の電車に乗ります。それだけ言っておこうと思って」
「分かった。私もそうするよ」
私の言葉をユイちゃんはどう受け取ったのか。それは彼女にしか分からないことだけど、ハッと目を見開いて目尻に涙を浮かべたその姿は文句なしに尊いものに思えた。
抱き着いてきたユイちゃんを受け止めると、ふわりと漂ってきたのはホテルの備品のボディソープの香り。行為の残り香と言えなくもないそれを身に纏いつつ、柔らかな唇の感触を残してユイちゃんの姿は曲がり角に消えていった。
待たせていたタクシーに乗り込み行き先を告げると、シートに寄りかかって静かに目を瞑る。
1度だけ。そんな約束が守られる保証なんてどこにもないのに、つい免罪符のように口にしてしまった。自分でも分かってる。これがただの言い訳であると。
ユイちゃんはまだ高校生だ。これからいくらでも恋愛する機会はある。当然男性との関係もそこに含まれているはずなのに、私は彼女を歪めてしまった。本来手にするはずの普通の女の子としての未来。それを奪ったのは紛れもなく私で、人生を狂わせたと言っても過言ではない。
(でも…ちゃんと責任は取るよ。ユイちゃん)
さあ、帰らなくちゃ。ケイコが家で待ってる。
鍵穴に差し込もうとしたカギが、カチャカチャとうるさく音を立てる。情けないことに手が震えてカギを上手く入れられないでいた。自分の家の前だというのにほんと笑っちゃう。ユイちゃんとあんなことをしておきながら、カギ一つ入れられないなんて。
正直言うと逃げ出したかった。このままUターンして、どこかのビジネスホテルにでも泊まりたかった。だけどそんなことは許されない。
「ただいま」
その一言を言うだけで口の中がカラカラになった。けれどシンと静まり返った家の中からは何の反応もない。鉛で出来てるんじゃないかってくらいに重く感じる靴を脱ぎ捨て廊下を進み、ケイコの部屋の前へ。
ドアをノックすると少し掠れた声で「おかえり」と返事があった。
「入るよ」
「ごめんね。本当は玄関まで迎えに行こうと思ってたんだけど」
「いいよ。それより、いつものやつ」
ベッドに横になっていたケイコの身体を起こし、抱擁しながら口付けを交わす。
「ユイちゃんとのお出掛けどうだった? って聞かなくても分かるか。マユミの身体から私以外の女の子の匂いがする。それも凄くエッチな匂い」
私の背中に手を回し、首筋に顔を押し付けてたっぷりと息を吸いながらケイコはそう呟いた。
「写真…見た?」
「うん、見たよ。可愛いねユイちゃん。きっとマユミとお出掛けするから張り切ったんだね。お洋服はとっておきのを着て、普段はしないメイクまでして。これでコンタクトだったらモデルさん顔負けかも。ねぇ、どうだった?
「綺麗だったよ。若くて、瑞々しくて、臆病なのに、どこか大胆で。惹かれちゃった」
「そっか。うっ…、ごめん、ちょっと咳する」
一気に喋ったからか咳き込むケイコの背中をさする。無理しないよう言ったものの言葉はなおも紡がれた。
「ああ、悔しいなぁ。言い出したのは自分なのに、凄く悔しいよ。バカだね、私」
ゴホゴホと再び咳をする彼女に私はどうすることも出来ない。
「自分では気付いてなかったかもしれないけど、マユミ、綺麗になったよ。ユイちゃんを助けてヒーローになってから、マユミは溌剌(はつらつ)とした。ユイちゃんの前ではカッコつけようと頑張って、いつもよりも張り切ってさ。エネルギーが内側から溢れそうになって、身体を突き破っちゃいそうだった。誰かに好かれるのって凄く良いことなんだよ。相手の好意に組み込まれた栄養を…吸い取っちゃうの。ユイちゃんがマユミを好きになればなるほど、マユミは綺麗になってく。今のマユミはとびっきりだね。ゾクゾクする」
咳が治まったのを確認してから、ベッド脇にある湯冷ましを飲ませていると、ポタリとベッドが濡れた。それはコップから零れたものじゃなくて、ケイコから零れたものだった。
零れ落ちた涙がベッドにポタポタ落ちて吸い込まれていく。これ以上ケイコの涙を奪われてたまるかと、頬を伝う滴をツゥーっと指で掬い上げ口に含んだ。涙はしょっぱかった。そのしょっぱさがケイコの悔しさだと思うと愛おしくて仕方がない。
涙が溢れて指では追いつかなくなると、私は顔を近付け直接舌で舐め取った。それでも間に合わないのは、私の分も加わったからなのか。数を増してくベッドの染みが憎かった。
こんなことになったのは、私がユイちゃんを痴漢から助けた日まで遡らなければならない。
あの日ケイコが私にお願いしたのは、新しいパートナーを作ることだった。
「どういう…こと?」
あの日、私は幸せの絶頂にいたはずなのに、いきなり奈落へと転落したかのように目の前が真っ暗になった。
「私が仕事ばっかりだから、愛想尽かしちゃった? もしそうなら私もっと家事頑張るよ?」
「違うよ。そうじゃない」
「ならなに? セックスが物足りなかった? それとも他に好きな人が出来た? ちゃんと教えてよ」
半狂乱し、矢継ぎ早に言葉を繰り出す私の口をキスで塞いで押し倒し、上になったケイコは悲しそうな、なんともいえない表情で語り出した。
「この前健康診断受けたでしょ。会社のやつ。あれで実は再検査するように通知が来てね、マユミに内緒で病院行ってきたの」
「嘘…だよね?」
膨れ上がる最悪の予感が、鼓動する私の心臓を掴んで押し潰そうとする。
「ケイコ。ねぇケイコってば!? なんともなかったんでしょ。私を驚かせようとしてるだけなんでしょ? そうだって言ってよッ!!」
「ごめん」
「なにがごめんなの?」
「ずっとマユミと生きてくって約束したけど…守れない。だからごめん」
「嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。ウェディングドレス着て誓ったじゃん。ずっと一緒だって。お婆ちゃんになっても隣にいてねって…誓った…のに」
既に泣き出そうになって嗚咽の混じった私の声にケイコはフーッっと息を吐いて天井を見上げた。
「なんの病気なの? 治療に何億円掛かったっていい。私がケイコを助けるよ。仕事だって増やすし、借金だってする。知り合いに土下座してでもかき集めてみせる。だから…」
「膵臓。膵臓がダメなの。もう手遅れなんだって」
「手遅れ…? なにそれ。私はそんなの信じない。きっとそいつがヤブ医者なんだよ。そんなはず…ケイコがそんなはず…」
「いくつも行ったよ。でもみんなお手上げだって」
「なんで? 今だってこんなに元気そうなのに。身体だって瑞々しくて…」
必死で耐えてたんだと思う。でもいよいよ張り詰めていた糸が切れたのか、私の胸に顔を埋めるようにして泣き出したケイコを見て、私も堪えられず一緒になって大声で泣いた。
涙が枯れるまで泣いた後、ケイコは私にもう一度お願いをした。
「私、マユミが誰かと幸せそうにしてるのを見届けたい。でも誰でもいいってわけじゃなくて、ちゃんとマユミを愛してくれる人がいい。私が嫉妬しちゃうくらいラブラブになって、これなら大丈夫だって安心して死にたい」
「分かった。私頑張るよ。ケイコのために幸せになる」
「うん、うん…。好きだから。マユミのこと愛してるからこんなお願いするんだからね」
そして時間は今に戻る。目の前のケイコはあれから随分と痩せてしまったけど、命の最後の灯火が燃えているのか、不思議と元気で、綺麗に見えた。
「ありがとう。私のお願いを叶えてくれて。でもユイちゃんには私のこと話しちゃダメだよ。せっかくの初恋なんだから、あの子に重荷を背負わせないようにね」
「自分の心配をしなよ」
「私はもう長くないからさ。先に逝って二人を待つよ。言っておくけどすぐに来たら怒るからね。ユイちゃんと仲良く皺くちゃのお祖母ちゃんになってからおいで。そしたら私は二人を見てヨボヨボだねって笑ってあげる」
シャレにならない冗談を言ってケイコはケタケタと笑った。
思えばこのお願いは、私がケイコの後を追って自殺しないように、という一種の呪縛的な意味もあったのかもしれない。ユイちゃんにとっての私が大人であるのと同じで、私にとってのケイコもやはり大人であり、私も彼女の手の平で踊る少女であった。
ケイコが病院で息を引き取ったのはそれからほどなくしてのことだった。痛みを緩和するケアがあったとはいえ、その最後は医者たちも驚くほど穏やかなもので、眠るようにして天国へと旅立っていった。
「久しぶりだね、ケイコ」
彼女の墓前に立ち、私は明るく声を掛けた。
あれから私はユイちゃんと結ばれ、ユイちゃんが大学を卒業した暁には役所に届出をしようと考えている。
「私…今幸せだよ。もうすぐユイちゃんと結婚するんだ。やだな~、怒らないでよ。幸せになれって言ったのはケイコじゃない。そっちは季節とかあるのか分からないけど、楽しく過ごせてるのかな?」
ここにいると、ちょっとした風のざわめきとか虫の声とかが、ケイコの声のような気がしてくる。だから私も少しだけ饒舌になって、いつもより口数が多くなってしまう。
「ねぇケイコ。私もっと幸せになるよ。ケイコが嫉妬して化けて出てきたくなっちゃうくらい、絶対幸せになる。だからね…ありがとう。私にお願いをしてくれて」
そこから私の近況報告とかを交えながら時間ぎりぎりまでケイコとお喋り。次に来るのは来月の月命日あたりかな。
「それじゃあそろそろ行くね」
私はこれからも生きていく。ユイちゃんというケイコに勝るとも劣らない伴侶を得て。でもそれはケイコを忘れるというわけじゃなくて、ずっと背負っていくということ。
なによりそれがケイコの願いでもあるから。
私は貴女(ケイコ)の望むがままに
これからも幸せに生きていきます。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
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