東方千年探 ~魔理沙のはじめての文通~   作:ふーてんもどき

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十三話

 

 

 

 久しぶりに訪れた人里の活気は相変わらずで、昼間の東大通りには露店が軒を連ねている。魔理沙が前回来たのは約一月前のこと。幽香に渡す手土産の団子を買いに来た時以来である。その時にみたらし団子を一本おまけしてくれた団子屋も、前と変わりなく繁盛しているようだ。

 

大小さまざまな建物が建ち並ぶ町を見渡すと、にゅっと突き出た鐘付きの火の見櫓が視界に入る。火事が身近にある長屋には必須の建物だ。目を凝らすと、真面目そうな番屋が櫓の上に立って里の様子を見守っている姿が見える。町の平和のために頑張っている番屋に向かって「ごくろーさまです」と魔理沙は小さく敬礼をした。

 

 さて、と魔理沙は気を引き締める。いかに感慨深かろうと、故郷の景色に浮かれている場合ではない。

 

 人里を訪れるというのは、魔理沙にとってなかなかに度胸のいる行為であった。それというのも、ひょっとしたら自分の家族に出くわす可能性があるかもしれないからだ。

 

 家出中の身でありながら町中で顔を合わせるというのは何とも気まずいものがある。

 

 いい歳になり、親から「いつになったら結婚するんだ」などと口酸っぱく言われるといった悩みは幻想郷でもよく聞く話で、結婚ではなくとも若い身空で社会の枠組みから半ば外れている魔理沙は、両親や兄の顔を思い浮かべるたびに複雑な心境になる。

 特に父なんかは「そろそろ真っ当に生きろ」などと言ってきそうであり、そのことを考えるだけで辟易とする。母にだってこの前の手紙の返事を出さずにすっぽかしたままでいるので、気まずいどころか居た堪れなくすらあった。

 

 今いる場所は人里の東大通り。魔理沙の生家はその反対側にあり、生活圏も少々異なるため家族や霧雨家の使用人たちがわざわざ此方に出向くことは少ない。

 

 それでもいつ鉢合わせるか分からないので、人里に訪れた際の魔理沙は内心穏やかではなく、周りの様子に気を配りながら素早く目的を達成して立ち去るのである。その気構えは戦場で刀を振るう剣士か、はたまた敵城に忍び込んだ忍者のごとし。

 

「あ、うどんだあ」

 

 藍色に染め抜かれた暖簾を掲げている店を見つけ、魔理沙は恍惚の表情を浮かべた。鉄の心構えは一瞬にして腑抜けと化した。

 

 店に近寄ってみると、なんとも言えない出汁の香りが仄かに漂ってくる。ここしばらく、山菜とキノコ以外でまともな食料にありつけていない魔理沙にとっては麻薬に等しい魔性の香りであった。店の中からは「天丼お待ち」という声が聞こえてくる。どうやら天ぷらも揚げているらしい。丼に張った黄金色の一番出汁にサクサクの海老天を浸して食べる様を思い浮かべ、魔理沙の理性はもはや風前の灯であった。

 

 今回の目的は食料の調達。断じて美食を堪能するために来たわけではない。もしも店の中で家族と出くわしてしまったらどうする。しかし、ああ、ここで本能を拒絶してしまうのはあまりに人間味に欠けているのではないか。魔法使いだけれども。

 

 そんな風に理性と衝動の板挟みにあって悶々と悩んでいた魔理沙はふらりとよろめき、うどん屋から出てきた客とぶつかってしまった。

 

「わっ、と、ごめんごめん」

 

 魔理沙が咄嗟に謝ると、相手も「いやこちらこそ」と返す。声の低さからして若い男のようだ。

 

 しかし魔理沙はその声にひどく聞き覚えがあった。

 

 恐る恐る見上げると、そこにはやはりと言うべきか、よく知った顔があった。相手方も魔理沙のことを半ば呆けて見つめ返している。

 

「に、兄ちゃん…………」

 

 魔理沙にそう呼ばれた男は「ああ、びっくりした」と朗らかに笑った。父譲りの金髪に、母とよく似た鳶色の瞳。

 

 彼こそは現在の霧雨店の店主であり、そして見た目からしても間違いなく、魔理沙の兄であった。

 

 

 

 

 

 

 立ち話もなんだから、ということで霧雨の兄妹は近くの茶屋の前に腰を下ろした。畳敷きの腰かけ台には大きな赤い唐傘が差してある。風が吹くたびに店の軒下に掛けてある風鈴が鳴り、日陰の下でその音色に耳を澄ませば真夏日であっても涼しく感じる。

 

「お前、昼飯は済んでいるのか?」

 

 兄にそう聞かれて、魔理沙は首を横に振ろうとするが、返事をするまでもなく腹の虫が鳴る。兄は大笑した。

 

「昼飯の邪魔にならないなら、団子でも食うかい」

 

「…………お饅頭が良い」

 

「わかったよ」

 

 茶を持ってきた娘に饅頭と軽い茶請けを注文している兄を、魔理沙は横目でちらりと見た。最後に会ったのは家を出る前だったか。十歳近く離れた兄は二年ほど前となんら変わっていないように見える。

 

「しかし久しぶりだなあ。二年ぶりくらいか」

 

 兄はのんびりと茶を飲みながらそう言う。

 

「二年と三カ月だよ」と魔理沙。

 

「そうか。そんなに経ったか」

 

 本当に久しぶりの再会だというのに、なんの気負いもなさそうな兄の横顔を魔理沙は訝しげに見つつ、運ばれてきた饅頭をかじった。

 

「なんで兄ちゃんがこんなとこ来てうどん食ってるんだよ。今はまだ店やってるだろ」

 

 魔理沙の言う『こんなとこ』とは、霧雨家のある西の大通りから離れた所、という意味である。

 

「儲かってないの?」

 

ぶっきらぼうな妹の問いに、兄は「まさか」と言って笑う。

 

「至って順調だよ。こっちに来たのは商談があったからさ。前までは骨董品専門だったけど、今は修理の依頼や内装の相談なんかも受けているから、儲け自体は増えたくらい」

 

「そんな手広くやって兄ちゃん一人で回せてるのか?」

 

「別に俺一人ってわけじゃない。従業員も女房もよくやってくれている。むしろ女房たちに比べれば、俺の力なんて微々たるもんさ。そこら辺は今も昔も変わらんね」

 

 そう答える兄に気負った様子は欠片も無い。魔理沙と同じく厳格な父に育てられたはずなのに、その気質は彼女とは全く異なっているようだった。

 

 老舗である大きな店の責任者なんて立場は、魔理沙からすると考えるだけで身震いのするものである。そんな跡目を何の不平も言わずに継いだ兄の心情は理解しがたいものがある。まあ、彼がつつがなく店を切り盛りしてくれるから自分は自由にできるのだけど、と魔理沙は複雑な気持ちを抱きつつそれを茶と一緒に飲み下した。

 

 兄は実際、万事上手くやっているらしい。母からの手紙にそう書いてあった。最近になって兄の妻はめでたく懐妊したようで、家族の喜びようが文面からでも手に取るように分かった。そうすると近いうちに魔理沙は叔母という立場になるわけだが、もちろんそんな実感が湧くわけもなく、祝いの言葉すらまだ満足に送れてはいない。

 

「魔法の修業は順調か?」

 

 兄にそう聞かれて、魔理沙は固い表情で「まあな」と嘘をついた。涼しい顔の裏で、魔理沙は鈍器で殴られたような衝撃を受けていた。そうだ、魔法の修業は行き詰っていたのだ、と兄の言葉で思い出した。八柳との文通に心を躍らせて、ここ最近はそのことをすっかり忘れていた。

 

「空とか飛べるようになったのか」

 

「出来るよ。とっくに」

 

「凄いじゃないか」

 

 何が凄いというのだ。魔理沙は密かに唇を噛みしめる。

 

 今までは子供の頃に見た憧憬をなんとなく追っていれば満足だった。けれど時を経るにつれて、それだけが全てではないように思えてきた。霊夢や幽香よりも強くなれれば満足なのか、満遍なく技術を習得すれば満足なのか、自分のことなのに判断がつかない。目的と手段がごっちゃになって行く末が見通せず、ただ焦りだけが募る感覚。

 魔理沙はそんなことを、目の前にいる兄に吐露する気にはなれなかった。

 

「そういえば、この前また母さんが手紙送っていたけど、届いたか?」

 

「うん。届いた」

 

「読んだら返事も書いてあげてくれよ。心配してたぞ」

 

「…………うん」

 

 手紙の返事を待っている母の姿を思うと、心がきゅうと締めつけられるようだった。これまでも魔理沙は母への返信を何度かすっぽかしたことがあるが、今なら待つ方の気持ちがどんなものか、少しは分かる。

 

 魔法修行のこと。家族のこと。これからの人生のこと。その全部が上手いこといくにはどうしらいいだろう、と考えて魔理沙は陰鬱な気持ちになった。光明は見えそうにもなかった。今唯一の楽しみである八柳からの手紙がこのまま来なかったら自分はどうなってしまうのだろう、と思うほどに。

 

 固い表情を浮かべる魔理沙を見ながら、兄はふと微笑んだ。妹の頭に手を伸ばしかけ、引っ込める。茶屋の娘がお茶のおかわりを持ってきたが「もう行きますから」と断って代金の支払いを済ませ、湯呑に残った茶を飲み干して立ち上がった。

 

「俺はそろそろ行くよ」

 

「仕事?」と魔理沙が聞く。

 

「うん。今日は他のところも何件か回らなきゃいけない。大忙しさ」

 

「そっか。じゃあ、またな」

 

 遠慮がちに手を振ってそう言う魔理沙に、兄もまた軽く片手を挙げた。

 

「ああ、また。今度はゆっくり話そう。というか里に来るなら家にも寄っていきなよ。みんな魔理沙に会いたがってる」

 

「ふうん」

 

 不愛想な魔理沙の返事に兄は苦笑して背を向けた。そうしてこのまま別れるかと思いきや「あ、そうだ」と振り向いて懐から麻袋を取り出す。さきほど茶屋にお金を払う時にも出していた小銭入れだった。そこから幾らか小銭を掴むと、魔理沙に差し出してきた。

 

「これで昼飯を食べてきなよ。そこのうどん屋、美味しかったよ」

 

 魔理沙の視線が、兄の手の平にある小銭から、さっき兄と鉢合わせたうどん屋のある方を向く。魔理沙の腹が小さく鳴る。

 子どもの頃から兄には何かと物を買ってもらっていた。父に内緒で水飴を買いに行ったことは数知れず、魔理沙の誕生日には兄が店の手伝いをして得た小遣いで綺麗なガラス玉や寄木細工のカラクリ箱なんかもくれた。昔と何も変わらない、魔理沙への親切。

 

 再び兄に視線を戻した魔理沙の目は、不機嫌そうに吊り上がっていた。

 

「いらない。私だってお金くらい持ってる。余計なお世話だぜ」

 

 そう言って魔理沙も立ち上がり、スカートをぱんぱんと叩いて箒を携える。

 

「もう子供じゃないんだよ。全部一人でやれるし、一人でも生きていける。魔法だって全部独学で覚えたんだ。もう心配とかしなくていいから、兄ちゃんはそのお金で義姉さんにもうどん食わせたり、生まれてくる子どもにお菓子でも買えよ」

 

 魔理沙はそう捲し立てて、足早にその場を後にした。兄がどんな顔をしているのか気になって仕方なかったが、魔理沙が振り向くことはなかった。

 

 何故だか心臓がうるさく、胸の内が痛んだ。

 

 

 

 

 

 

「兄貴にひどいこと言っちゃった」

 

「だからって何で家に来るのよ」

 

 ちゃぶ台に突っ伏して頭を抱える魔理沙を、霊夢が冷ややかに眺める。魔理沙の側には、空になった丼に箸が突っ込まれている。

 

 兄と別れた後、あのまま人里でゆっくりするのも気が引けた魔理沙は食料の買い出しだけ済ませると、昼飯も食べずにさっさと飛び去った。飛んで風に流されるまま、ふわふわと行き着いた先は霊夢のいる博麗神社だった。

 

 いつものように縁側で和んでいた霊夢は、やって来た魔理沙を見て「せんべいなら無いわよ」と言い放ったが、どうも魔理沙の様子がおかしい。いつもは天真爛漫な粗忽者のはずが青白い顔を浮かべているのを見て、これはただ事ではない、と察して家に招き入れた。

 

 しかし話を聞いてみれば、魔理沙は開口一番に「腹が減った」などとぬかす。さらに「うどんが食いてえ」と注文までしてきたので、霊夢は怒りを通り越して呆れかえり、乾麺を茹でてネギを浮かべただけのかけうどんを食わせてやった。天ぷらも欲しいという願いは当然のごとく却下された。

 

 そして遅い昼飯を食べ終わり人心地ついた魔理沙に詰問すると「兄貴と喧嘩した」と言って頭を抱えだしたわけである。

 

「なあ霊夢、どうしよう」

 

「知らないわよ。阿保らしい」

 

 兄と何やら気まずくなった魔理沙が人里から逃げるようにして博麗神社まで来たことは分かったが、実際にどう酷いことを言ったのか、何故そうなったのかは何も言わないので、霊夢はこの件について深入りするのを早々に止めた。博麗の巫女にふさわしい英断である。

 

 魔理沙は畳の上で大の字になって「うー」とか「あー」とか呻く。見ているだけであらゆる意欲が失われる光景であった。すっかり気の抜けたその姿に霊夢はへっぽこ妖怪を見つめるような視線を向けつつも、なんとなしに思ったことを口にする。

 

「しかしあんたも変わったわよね」

 

「えっ、そう? ほんとに?」

 

 親友の意外な言葉に魔理沙がパッと顔を上げる。

 

 

「冗談言ったつもりは無いわよ」

 

「他からは、昔と全然変わらないとか言われてんだけど」

 

 

「そりゃあ、やること成すこと行き当たりばったりだし、変な物拾う癖は昔からだし、そういうのは確かに変わらないと思うけどさ」

 

「なぜ唐突に酷評を?」

 

 友人からの散々な評価に軽くショックを受ける魔理沙。なまじ本当のことだから反論も出来ない。

 

 霊夢は頬杖をつきながら「でもそういう事じゃなくて」と話を続ける。

 

「少し前のあんたなら人と口喧嘩したくらいでそんなに思い詰めたりしなかったと思うんだけど」

 

「そうか?」

 

「絶対そうよ。むしろ相手が悪いって言って譲らない感じだったでしょ。唯我独尊、天衣無縫、傍若無人、四面楚歌…………みたいな」

 

「何がみたいな、だ。言いすぎだろ。あと最後のはなんか違うだろ」

 

 軽口を叩くうちに調子を取り戻してきた魔理沙を見て、霊夢はやれやれと言うように欠伸を噛みころした。

 

「それに相手がお兄さんなら尚更じゃない? 普通遠慮しないもんなんでしょ、兄妹って」

 

「そのへん複雑なんだよ。兄貴とは歳がけっこう離れているし、それに今回は久しぶりに会ったわけだから」

 

「ふうん」と霊夢。

 

 幼馴染と言っても、霊夢と魔理沙はお互いの家の事情にそれほど詳しくはない。子どもの頃は同じ寺子屋に通っていたし、霊夢が魔理沙の家に遊びに来たりしたこともあったが、家庭内でのことなど知る由もなし。魔理沙がどういった経緯で実家を出て今の生活に落ち着いているのか、霊夢もぼんやりと分かるような気がするくらいで、直接魔理沙の口から聞いたことはない。

 

 育った環境が違えば、今の境遇だって違う。霊夢は魔理沙の悩みにイマイチ理解が及ばない。

 

 しかし理解が及ばないということを自覚しているからこそ、無暗やたらに質問することもなかった。無難なところで一歩、距離を置いたのだ。霊夢はそういった機微に長けていた。

 

 二人の間に沈黙が流れる。縁側の向こうからは蝉の鳴き声がする。今はアブラゼミが隆盛を極めているが、すぐにツクツクボウシが鳴くようになって、やがて季節は秋へ、そして寒さの厳しい冬へと移ろっていくだろう。茶の間に吹いた一陣の涼風は、そんな残された夏の儚さを伝えてくるようだった。

 

「なあ」

 

「ん?」

 

 寝転んだまま手足を動かして畳の感触で遊んでいた魔理沙が、不意にその動きを止めて口を開いた。ちゃぶ台を挟んで向かいに座っていた霊夢もごろんと横になりながら適当に応える。

 

「霊夢って、将来の夢とかあるのか」

 

「将来? どうしたのよ、突然」

 

 聞き返された魔理沙は「何となく」と言う。

 

「将来も何も、私は博麗の巫女だし、他になにをするってわけでもないでしょ」

 

 当然と言えば当然の答えだった。しかし魔理沙はなおも話を続けた。

 

「でもさ。ずっと今のままってわけじゃないだろ。大人になったら次の巫女育てたりするんだろうし、そんでその子が正式に後を継いだら、霊夢はどうするのかなって」

 

「どうするって…………」

 

 霊夢は押し黙った。先ほどのように意図的に話を区切ったのではなく、単純に言葉が見つからないようだった。博麗の巫女を降りた後のこと。巫女ではなくなった自分の人生。それらは少女にとって想像も出来ないほど漠然とし過ぎていた。

 

「…………分かんないわよ。そんな先のこと」

 

 ややあって霊夢が答えると、魔理沙は「そっか」とだけ言った。霊夢は顔をしかめ、寝ころんだまま魔理沙に視線を向ける。

 

「そういうあんたはどうなのよ」

 

「私もよく分かんないよ。でも、今やりたいことがあるから、今はそれをやる」

 

「例の文通?」

 

 霊夢の質問に、魔理沙はこくりと頷いた。

 

「上手くいってるんだ。もう何回もやり取りしてる。それに今はまだ無理だけどさ、いつかお互いに行き来できるようになったら良いなって思うよ」

 

 魔理沙は目を瞑ったまま、夢想するように言う。本気で言っているのか、あるいは何となく思ったことを口に出したのか、その口調からは読み取れない。未来の科学がどんなに発達しているとかどんな建物が建っているとか、魔理沙は手紙で知ったことを思い出すようにぽつぽつと話した。

 

 華々しい未来の文明やそこでの人の暮らしを、霊夢は神妙に聞く。より正確に言うと、それを語る魔理沙を物思いに耽るような顔で見つめていた。

 

 

 

「ねえ魔理沙、今日の夕飯、うちで食べていったら?」

 

 しばらくして、魔理沙の話の区切りが良いところで霊夢はそう口を挟んだ。

 

「えっ、まあ私はいいけど、霊夢は万年金欠だろ」

 

「やかましいわね。食材ならあんたが持ってきたのがあるじゃない」

 

「えー! せこいぜ、それ! せこい!」

 

「ふん。さっきのうどん代よ。まずはその食べ終わった丼、洗ってちょうだい」

 

 有無を言わせぬ霊夢の指示に、魔理沙は「横暴だ、横暴」とぶつくさ言いながらも、空の丼を持って洗い場へと向かって行った。

 

 そうして魔理沙が客間から姿を消したのを確認してから、霊夢は一枚のお札を取り出した。念話を可能にする、霊夢の手製の品だ。草書体で書かれた呪文の中には『八雲』の二文字がある。

 

 指先から霊力を流すことでお札全体が淡く光り、その効力を発揮し始める。

 

「もしもし、紫? 今、魔理沙が神社に来ているわ。うん。夕飯食べていくって。分かってるわよ。泊っていくようにも言うから。決まったらまた連絡する」

 

 

 

 

 

 

 その日の夜のことだ。草木も眠る丑三つ時、静謐な魔法の森に建つ一軒家。森閑とした屋根裏部屋には、天窓から満月の淡い光が差し込んでいる。明かりの灯っていないそこに、家主である魔理沙の姿はなかった。今は博麗神社の一室で、霊夢と布団を並べて寝ていることだろう。

 

「霊夢は上手いことやってくれたようね。丁度よく魔理沙が訪ねたのもあるみたいだけど」

 

 突然のことだった。誰もいないはずの屋根裏に、二つの人影が夜闇からするりと抜け出るように立ち並んだ。一人は扇子を片手に持ち、もう一人は背後に九本の尻尾を揺らめかせている。月明かりしか光源がない部屋の中で、その二人の目だけが妖力によって光っていた。

 

「初めて立ち入るけれど、この子の家は……その、あまり綺麗ではねいわね」

 

「紫様はあまり人のことを言えないかと」

 

「何を言うの藍。私の部屋はいつも清潔そのものじゃない」

 

「私がいつも掃除していますからね」

 

 大妖怪である八雲紫と藍はそんなことを言い合う。「ぐぬぬ」と威厳の欠片も無い主人に対して、従者がため息をつく。

 

「まったく…………それにしても、こんなに回りくどいことをしなくても魔理沙に直接頼めば良かったじゃないですか。未来の調査に行くから触媒となる物を貸してほしいと」

 

「他人に手紙を見せろと言われて良い顔はしないでしょう。それに以前、あの子の要望を拒んだこともある。それなのに私だけが未来に行きたいからと協力を仰ぐのも、少しいやらしい話ではなくて?」

 

「どちらにせよ、留守の家に忍び込んだところで五十歩百歩な気もしますけどね」

 

 「はいはい」と従者の小言を聞き流しつつ、紫は部屋の隅にある文机へと足を向ける。部屋と相反するように整頓の行き届いている机の隅には、鍵付きの木箱や、便箋が収められている封筒入れなどが置かれている。

 

 紫はそこから便箋を一枚取って、紙面を指でなぞった。「どうですか」と藍が聞く。

 

「本物ね。微かにだけど、幻想郷にあるべき物とは違った感触がする」

 

 紫はそう言いながら、綺麗に折りたたまれた便箋を一枚一枚撫でていく。書かれている文章ではなく、便箋自体に隠された何かを読み取るように。

 

 一枚や二枚では確証を得られなかったが、こうも頻繁にやり取りをしていることから、未来の世界と幻想郷との繋がりは安定しているのだと分かる。()()()()()()()()()()()

 

 それぞれの手紙に残っている僅かな情報が統合され、紫の中で形を成す。大妖怪においても抜きん出た異質の感性が『縁』と呼ばれるあやふやなものを実態として捉えはじめる。千年先の異界へと繋がっている、その長くか細い道筋を。

 

「紫様」

 

 藍が紫の側に寄り、主の額に滲みだした汗を手拭いで拭き取る。当の紫はそれにさえ気付かない。凄まじいまでの集中力。もっとも妖力の高まる満月の深夜を選び、あの八雲紫を以てしてなお、それは至難と呼ぶべき業だった。

 

 やがて紫は「ふう」と息を吐き、藍に下がるよう命じた。

 

「見えたわ。今から発ちます。藍はここに残って、私の補助をお願い」

「かしこまりました」

 

 藍が懐から水の入った小瓶を取り出して床に置く。その瓶を中心に魔方陣を描けば、紫が帰還するための準備が整う。瓶の中の水にはあらかじめ紫の妖力が込められており、未来から引き上げる際にはその気配を伝って帰って来ることになる。

 

 藍の作業が終わったことを確認した後、今度は紫が動いた。紫の前方、何もない空間に一筋の線が現れ、パックリと割れる。その先は何も映さない暗澹たる闇が満ちているのみである。

 いや、闇の中に僅かな光の粒があった。それらは線を描くように時空の狭間を抜け、まだ見ぬ世界への道を示している。

 

 紫が一歩踏み出す。藍は「いってらっしゃいませ」と恭しく頭を下げて見送った。

 

 スキマが閉じた時、そこに紫の姿はなく、異常な力が行使された痕跡も残らなかった。

 

 主人の身を案じるように虚空を見つめていた藍は、ふと机の上に目を向ける。魔理沙が作ったのであろう、様々な種類の押し花が置いてある。それを眺めながら、藍は申し訳なさそうに目尻を下げて「すまんな」と一言呟く。

 

 

 

 

 ある夏の夜のことだった。

 妖怪の賢者は虫の音に紛れるようにひっそりと、千年の時を飛び越えた。

 


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