霊夢が朝起きて顔を洗っている時、藍からの念話が届いた。紫の式神としていくつかの能力を有している彼女は霊夢と違って御札が無くても自在に念話を飛ばせる。ずるいなあ、と思いつつも霊夢はまだ半分寝ぼけた頭のまま応答した。
「おはよー」
『ああ、おはよう霊夢。魔理沙はまだそっちにいるか?』
挨拶もそこそこに質問が飛んできた。霊夢は「んー」と呻って寝室に行き、さっきまで隣で寝ていた魔理沙の様子を伺う。襖を開けると、今ちょうど起きたのか布団の上で座り込んでいる魔理沙が欠伸交じりに手を振った。霊夢もあいさつ代わりに手を振り返してから洗面所へと戻り、藍に答える。
「いるわよ。今起きたっぽい」
『そうか。ならば引き続き、こちらからの合図があるまで引き留めておいてくれないか』
矢継ぎ早に下された指令に霊夢は怪訝そうな顔をする。
「どういうこと? もう一晩経っているのよ。まだ終わってないの?」
藍の無言が肯定の意を示す。霊夢は呆れるようにため息を吐いた。「なにをやっているのよアイツは」と眉間を揉む。
『心配するな。こっちの術式は安定している。紫様はちゃんと帰って来られる』
「…………別に心配なんて」
『では、頼むぞ』
「あ、こら。ちょっと待————」
一方的に念話を切られ、霊夢は不機嫌そうに「もう」と言う。寝癖でぼさぼさの頭を掻く。とりあえず朝の支度を整えようと髪を櫛でとかし、寝間着から巫女服に着替える。
そうこうしている内に魔理沙も洗面所にやって来た。彼女はまだ眠そうに目を擦りながら憚ることなく大きな欠伸をする。
「霊夢―。飯はー?」
「昨日の余りの味噌汁とご飯でねこまんまでもしたら。自分でやってよね」
「あいー」
魔理沙は間の抜けた返事をしながら顔を洗い始める。
「そういえばさ。さっき誰かと話してなかったか?」
冷たい井戸水を浴びて目が覚めたのか、さっきよりしっかりとした口調で魔理沙が聞いた。洗面桶を譲るように一歩引いて髪を結っていた霊夢は、ぴくりとその手を止める。
「別に。夢でも見てたんじゃない」
霊夢の口から出た咄嗟の誤魔化しに、魔理沙は「うーむ」と首をひねる。彼女自身、起き抜けの時のことは夢と区別がついていないらしい。魔理沙が昔から朝に弱いことを知っている霊夢は密かにホッと息をついた。
「あ、そうだ。朝飯食ったら私はもう帰るから」
安心したのも束の間、魔理沙の一言に霊夢は再び髪結いを中断せざるを得なかった。宴会などで博麗神社に泊まる時はたいてい昼間まで寝ているというのに、何故今日に限って早起きして、その上さっさと出て行こうとするのか。
「い、いや。もうちょっとゆっくりしていけば?」
いきなり窮地に立たされた霊夢が咄嗟にそう言うも、魔理沙は「用事あるし」と取り付く島がない。
「あー。やっぱり朝ごはん用意してあげるわよ。ちょっと時間かかるかもだけど待っててくれる?」
「いや猫まんまでいいよ」
「え、えっと。そういえば味噌汁残ってなかったかも」
「どう見ても残ってただろ。つーか昨日の味噌汁は私が作ったし」
飯関連はダメだ。もっと別の切り口はないか、と思案する霊夢の顔を魔理沙が怪しむように覗き込む。顔を洗い終わって、変な問答も交えたことにより魔理沙の鳶色の瞳はぱっちりと冴えている。霊夢は「うっ」と言葉に詰まりたじろいだ。
「なんか変だな、今日の霊夢」
「そ、そんなことないと思うけど。それより用事があるって言っていたわね。どんな用なの?」
露骨に話題を変えた霊夢をさらに訝しみながらも、魔理沙は寝ぐせを直しつつ答えた。
「まあ霊夢にはもうバレてるから言うけど、ほら、文通だよ文通。そろそろ向こうからの返事が届いているはずだから無縁塚行って確認するんだよ」
よりにもよって未来関連の用事。無縁塚は魔法の森の中にあるので手紙の有無に関わらず、荷物や昨日買いこんだ食料を片すために魔理沙は家に帰ることだろう。霊夢は合理的に阻止する理由も思いつかず「そう」とだけ返すことしかできなかった。
〇
「なんで霊夢まで付いてくんだよ」
朝から何かと話しかけてきて、結局無縁塚まで付いてきた霊夢に魔理沙が言う。
「いいでしょ。ちょっと暇してたのよ」
「巫女の仕事大丈夫かよ。朝だったら参道の掃除とかするんじゃねーの、普通」
「べ、別に毎日しなくても平気よ、そのくらい。誰も困りゃしないって」
「なんつー巫女だ」
話しながらも魔理沙は目的の場所に向かって真っすぐに進む。対して霊夢はどうにか魔理沙の気を引こうと努めていた。
「ほら魔理沙。けん玉あるわよ」
「お前好きだなあ、それ。前も拾ってなかったっけ」
「どっちが多くできるか勝負しない?」
「いやしないよ。忙しいの、私は」
「負けた方が勝った方に今度ご飯奢るとかどうよ」
奢りという言葉に反応してか、魔理沙が足を止めて振り向く。
「ご飯って、どんなのだよ」
「え? うーん。ねこまんまとか」
「止めとくわ」
景品のあまりの貧乏くささに魔理沙はそっぽを向いてしまった。メッセージボトルの出現定位置でしゃがみ込みガラクタの囲いの中をごそごそと漁る。ほどなくして薄汚れた瓶を拾い上げた彼女を見て、霊夢は思いつく限りのことを捲し立てた。
「あー、あー! 今の無し! そうだ、うどん! 人里のうどん屋さんで好きなの奢ってもらえるっていうのならどう!?」
人里のうどん屋と聞き、魔理沙は再び興味を示した。昨日食べ損ねたうどんにまだ未練があるようで、ごくりと喉が鳴る。
「天ぷらもつけていいのか?」
「もちろんよ。海老天、かしわ天、椎茸にナスまで何でも頼んでいいものとするわ」
「出前というか、負けた方に買って来させることも出来る?」
「敗者は勝者に従うのみよ」
魔理沙は次々に注文を付けていく。魔理沙の興味を引きたい一心の霊夢は調子に乗って全て承諾する。最終的にただの奢りとは言い難いところまで行き着き、魔理沙は「よしやろう」と首を縦に振った。食欲に光る眼は、やたらめったらに具をのせた絢爛なうどんを狙っているに違いなかった。
「じゃあ私から」
ようやく時間稼ぎができる、と内心で安堵した霊夢はけん玉をぽんぽんと乗せ換える。少しでも長く続けるために自身の有り余る才能を遺憾なく発揮している霊夢の手元に狂いは無い。子気味いいリズムは一定で、機械のごとく正確無比に回数を重ねていく。最初は勝気な顔でそれを眺めていた魔理沙だったが、百回辺りから困惑し始め、二百回を超えてもなお止まる気配のない霊夢に青ざめ始めた。魔法を使ってインチキをしても勝てそうになかった。
「320、321、322…………」
「れ、霊夢さん?」
魔理沙の呼びかけに霊夢は全く反応しない。自分の手先に全神経を使っている霊夢の真剣な表情は、妖怪退治をする時の比ではない。魔理沙は「霊夢がこんなに張り切るなんて、一体どんな恐ろしい要求をされるのだろう」と戦々恐々とする。一方で霊夢はさっさと紫が用を済ませることを願いながら時間稼ぎに努める。両者の思考は無慈悲なまでにすれ違っていた。
「498、499、500、501…………」
風が吹こうが声をかけられようが一向に霊夢の快進撃は止まらない。魔理沙はもはや涙目だった。「もういいよ。私の負けだよ」と言う。しかし霊夢には止めたくても止められない理由がある。魔理沙の自尊心とうどん代は必要な犠牲だったのだ。
しかしどれだけ待っても藍からの連絡は入らない。内心で業を煮やした霊夢は、懐に忍ばせておいた御札を使った。けん玉をしながら手も触れずに御札へ霊力を流し込めるその技量は、さすが博麗と言う他にない。いじける魔理沙の横で、霊夢は藍に念話を繋げた。
『霊夢か』
「ねえ、まだなの?」
念話とは言っても術式の関係上、相手と話すには声に出すことが必要である。けん玉をこなしながら唐突に口を開いた霊夢を見て「いや、もう充分だろ」と魔理沙が言う。回数は既に六百を超えていた。
『そろそろお帰りになると思うが…………もう少し持たせられんか』
「もう限界なんですけど」
念話をしているとは知る由も無い魔理沙は「限界なら止めろよ」と半ば呆れる。念話の先には藍、目の前には魔理沙。二方向からの会話に板挟みにされて霊夢の手元が狂い始めた。気もそぞろとなり、玉の動きが不安定になる。自分なら大丈夫と思っての行動だったが完全に裏目。己の才能を過信したあまり窮地に陥り、博麗霊夢の集中力がついに底を見せた。
「分かった、よく分かったよ霊夢。お前もそんなにうどん食いたかったんだな」
「そ、そんなに食い意地張ってないわよ」
『食い意地? 何の話だ』
「こっちの話」
「は? 何言ってんだ霊夢。今日のお前やっぱり変だぞ」
「別に変じゃないわよ。そっちこそ変なこと言わないで」
『む、私は変な発言などした覚えはないが。訂正してくれないか』
「あんたちょっと黙っててくれる?」
「なんだよ、態度悪いな」
『その態度はどうかと思うぞ霊夢』
「あんたらうっさいわねえ!」
あっ、と声を上げたのは霊夢だったか、それとも魔理沙だったか。
耐えかねた霊夢が叫ぶと同時、けん玉の赤い球は皿の淵をぐるりと一周し、外へこぼれて落下した。垂れた糸の先で玉がゆらゆらと揺れている。実に呆気ない幕切れだった。
魔理沙が目を細めてじいっと霊夢の顔を見つめる。霊夢は無表情のまま静かにけん玉を置くと、念話に回していた霊力の流れを閉じて、お説教モードに入りつつある藍をシャットアウトした。「うるさい」と言われたのが心外だったらしく向こうから連絡をかけ直してくるが、それも繋がる前に撥ねつける。いわゆる着拒である。
「霊夢さ、あんたらって、なに?」
魔理沙の問いは鋭かった。答えず、目線も合わせようとしない霊夢に重ねて質問する。
「私以外の誰かと話していた? でもここには誰もいないし、もしかして念話で? いやそもそも、なんでこっそり念話で話す必要がある?」
魔理沙は霊夢の念話の発動条件を知っている。普通は念話用の御札を指に挟んで用いることも。
下から覗き込まれて、霊夢はダラダラと汗を流しながら目を左右に反らした。しかし魔理沙の視線からは逃れられない。
「ひょっとして私に隠し事でもあるんじゃないか。そういや今朝からやけに引き留めたがっていたよな。私が帰るって言ったら慌てだしたりして…………」
魔理沙はそこまで考えを口に出した瞬間にハッとして、回収したメッセージボトルを懐にしまい込むと箒に飛び乗った。どうやら一つの結論に達したらしい。霊夢が焦って待ったをかける。
「ちょっと、どこ行くのよ」
「私ん家だ! お前変なこと企んでるだろ!」
「けん玉勝負はどうすんのよ!」
「知るかそんなもん! 無効だ無効!」
言うが否や、魔理沙は無縁塚から飛び立ってしまった。残された霊夢は小さくなっていく友人の背中を見ながら「ああもう」とぼやきつつ後を追った。動きの正確さでは他の追随を許さない霊夢だが、直線での速さ比べなら魔理沙に軍配が上がる。
「あたしゃもう知らないわよ」
全ての元凶、今は幻想郷から遠く離れたところにいる妖怪の賢者に対して、霊夢は諦念を多分に含んだ声で呟いた。
〇
魔法の森の住処に帰ってきた魔理沙は制圧部隊のように家の中に突入する。さっと一目で一階には誰もいないことを確認すると、ミニ八卦炉を片手に階段を駆け上る。二階の屋根裏部屋には案の定、不埒な侵入者がいた。突風のごとくやって来た魔理沙を気まずそうに見つめる九尾の式神は、魔理沙も知っている顔だった。
「ま、魔理沙…………」
「なんで藍が私の家にいるんだよ! その魔方陣なに!?」
魔理沙の指さした先には、床に書かれた円状の術式がある。真ん中に水の入った小瓶が置かれたそれは、現在進行で発動しているのか赤い光を帯び、複雑な文字列が物理法則に反してゆっくりと回っていた。
「お、落ち着いて話を聞いてくれ。これには訳が……」
「ワケもワカメもあるか。紫はどこだよ。どうせあいつが変なこと企んでんだろ」
「紫様は今この場にはいない。この術は紫様が帰って来られるのに必要なものなんだ。どうか今しばらく待って————」
藍がそう言いかけた時、魔方陣が停止し、瓶がパリンと割れた。空間に一本の線がすっと走り、両側に割けて異空間へと繋がる深遠な闇を覗かせる。その中から、八雲紫がとぼとぼと猫背で現れた。
「あー、疲れたあ。こんなに疲れたのは久々よ。さあ藍、さっさと帰ってお饅頭でも食べてお昼寝を…………って、え? 魔理沙? なに? Why?」
スキマから出てきた紫は実に分かりやすく狼狽した。威厳も何もあったものではない。言い分によっちゃ斬り捨てる、とでも言わんばかりだった魔理沙もこれには唖然として閉口せざるを得なかった。妖怪の賢者で、幻想郷の管理者で、深謀遠慮の底知れぬ大妖怪。そういった外面としての八雲紫しか知らなかったので当然の反応と言える。
しかし紫もだてに賢者と呼ばれてはいない。混乱したのも束の間。状況を瞬時に把握しすると、巧みに開いた扇子で口元を覆うと背筋を伸ばし、平然とした態度を取った。その胆力には部下の藍も呆れ返るほかない。
「あら魔理沙。ご機嫌麗しゅう」
「あら、じゃねえよ。ご機嫌も麗しくない。なんであんたらが私の家に上がり込んでいるんだよ」
紫はちらりと天窓の方を見る。太陽の光が差し込み、部屋は明るかった。出発したのは深夜。行って帰って来るまでに紫が体感した時間はものの数時間だったはずだが、幻想郷では既に半日ほどが経過しているらしいということを悟る。規則性があるのかは定かでないが、こちらと未来との間で時間にズレがあることは確かなようだった。おかげで家主の少女も帰ってきてしまい、紫と藍の体裁は非常に悪い。
「魔理沙、落ち着いて。何もあなたに害を為しに来たわけではなくてよ」
「信じられるか! 霊夢まで使ってコソコソと忍び込んだくせに」
憤慨する魔理沙をなだめつつ、さてどうしようかと紫が頭を悩ませているところに、魔理沙のさらに後ろから声がした。
「もう洗いざらい話しちゃいなさいよ」
ようやく追いついたのか、霊夢が会話に割り込んできた。魔理沙は振り向いて霊夢を睨み、藍と紫はその発言が意外だったのか目を少し見開いた。
「禍根を残さないためにもこの際きちんと話しておくべきでしょ。何をしていたのかも、紫が何を見てきたのかもさ」
「…………そうね。たしかに霊夢の言うとおりだわ。魔理沙には知る権利がある」
霊夢の進言を聞き入れた紫が頷く。なんの話なのかいまいち要領を得ない魔理沙は怪訝そうに顔をしかめるが、紫は魔理沙に向き直って言った。
「まずは謝罪させていただくわ。留守の間に忍び込むなんて無作法なことをしてごめんなさいね、魔理沙」
真っ向から粛々と謝られて、さすがに魔理沙もたじろぐ。紫は返答を待たずに続けた。
「それでわざわざ貴女の家に上がってまで何をしていたかということだけど、おおよその察しはついているんじゃないかしら」
「…………もしかしてとは思っていたけど、行ったのか?」
魔理沙に関することで、あの八雲紫が直々に動くほどのこととなると、必然として候補は限られる。いや、一つしかないと言っていい。先ほど紫がスキマから現れたことも、魔理沙の推察の正しさを補強していた。
あえて目的語をぼかした言い回しであったが、紫は頷いた。
「千年後の未来、そしてあなたの文通相手である八柳誠四郎が如何なるものかを観察しに行ってきたわ」
魔理沙の目が皿のように大きく開かれた。推測こそしていたがにわかには信じられず霊夢の方を見ると、沈黙で以て肯定される。
「ただ、いくら私でも何の足掛かりも無しに行くのは不可能。そこで失礼ながら、彼の手紙を触媒にしてスキマを開かせてもらったの。あなたの家に上がる必要があったのはそういうわけ。ああ、心配しないで。手紙の中身は読んだりしていないわ。傷やシワもつけていない」
文机の上を確認すると、たしかに誠四郎からの手紙はきちんと揃っている。いや、もはや問題はそんな所にはない。勝手に家に入られたことも、大切な手紙に触られたことも今は些末事だった。
「それで…………見てきたんだな」
「ええ。しかとこの目で」
魔理沙がごくりと唾を飲みこむ。無縁塚で初めてメッセージボトルを手にしたあの日から、思いを馳せない日は無かった。行くことは叶わないと半ば諦めて尚、想像して止まなかった未来の真実が、実際に目にしてきた者の口から語られようとしている。それは魔理沙にとって大変に期待させられる、垂涎の話題だった。
そうして千年後の世界がどのような場所だったのか話し始めると思われたが、紫は扇子で口元を隠したまま黙ってしまった。彼女が何を目にしたのか知らない藍と霊夢はその重苦しい沈黙に首をかしげる。
「先に言っておくけれど、あなたが期待するような話ではないわ。きっと……いいえ、必ず傷付くことになる。聞くからにはそれを覚悟しておいてちょうだい」
不穏な前置き。一瞬、困惑するように魔理沙の瞳が揺れたが、ここまできて聞かないという選択肢はない。無言で話の続きを促してくる魔理沙の顔を見据え、紫は扇子を静かに閉じた。
「千年後の未来。そこはね、生物が絶滅した世界だったわ」
〇
紫は先ほど実際に見てきたことを余さず、詳細に語って聞かせた。
瓦礫の山が累積し、海も空も灰色に包まれている景色。降り注ぐ死の塵と、大妖怪の生命すら脅かしかねない濃度の放射線。増長しすぎた文明がもたらした星の終焉。そして、そんな世界の片隅でたった独り生き残ってしまった青年、八柳誠四郎。
そこには情報の不足も、誇張した表現もない。紫自身が目で見て、肌で感じた客観的事実が淡々と述べられていく。
魔理沙だけでなく霊夢もその話に聞き入っていた。あまりに荒唐無稽で、幻想郷という箱庭しか知らない彼女たちからしてみれば到底受け入れがたい事実だったが、紫の毅然とした語り口調には冗談めかした雰囲気など微塵もない。
「これは私個人の見立てだけど、彼の余命はもう幾許も残されていないわ。時間にズレがあるみたいで正確なことは言えないけれど、冬を迎えるまで持たないでしょうね」
一通り話し終えた紫は、そう言って締め括った。時間は正午を回っており、窓から入る光の角度が変わっている。放射線などの説明も踏まえての話だったので気付けばかなりの時間が経っていた。
場には沈痛な空気が漂っている。紫は「何か質問はあるかしら」と言外に魔理沙を真っ直ぐに見続ける。対して魔理沙は帽子を目深に被り、顔を伏せていた。少女にとっては実際に見てもいない架空のおとぎ話。しかし感情に任せて否定しないのは、彼女自身、手紙をやり取りする中で思い当たる節がいくつもあったからだろう。
「信じるか信じないかはあなたの自由よ。私から話すことは、もう無いわ」
紫はそれだけ告げると、何も言わない魔理沙の横を通り抜ける。藍も床に書いていた術式や割れた小瓶の破片を綺麗に消し、主人のあとに続いた。霊夢はこちらに来る紫と、魔理沙の背中を交互に見つめている。
「待って」
魔理沙が声を上げた。紫が足を止める。
「その…………今の話が本当だったとしてさ、紫なら、あいつを助けてあげられるんじゃないのか」
「無理よ」
魔理沙の申し出を、紫は一言で斬り捨てた。その無慈悲な返事に魔理沙はバっと振り向き、声を荒げる。
「な、なんでだよ! 実際に未来には行けたんだろ!? 向こうから誠四郎を連れてくることくらい…………!」
「彼の身体や魂が時空移動に耐えられないわ」
すぐに返ってきた簡潔な答えに魔理沙はぐっと言葉を詰まらせるも、語気を強めて言った。
「じゃ、じゃあ誠四郎を治してやってくれよ! そんで回復したら、連れて来られるんだろ?」
「確かに私の能力であれば、生と死の境界を操って死者すら蘇らせることも出来るわ。当然、彼を死の運命から引き離すことだって」
「だったら…………!」
「それをすると彼は人どころか、生き物ですら無くなるけれどね」
魔理沙は今度こそ絶句した。生死の操作。八雲紫が語るその末路の悲惨さに言葉を失う。
物事は境界によって線引きされているからこそ、はっきりとした実態をもって存在できる。生きるということは死ぬことと表裏一体。死の概念を取り払われることは、生の権利を剥奪されることと同義なのだ。そうして世の理から外れた者の魂が輪廻の中にいられるはずもない。現世はおろか、天国にも地獄にも居場所は無いだろう。すなわち、永遠の孤独に陥ることを意味する。
死者の蘇生。死の運命からの脱却。それは八雲紫をもってしてさえ犯しがたい禁忌の領域だった。
「質問は以上かしら」
黙ってしまった魔理沙から視線を外し、紫は出て行こうとする。しかし魔理沙は再三、提案を口にした。いや、それは提案とも呼べない、藁にも縋るようなものだった。
「せ、誠四郎に手が出せないならさ、私を向こうに連れて行ってくれよ。幻想郷にも迷惑はかけない。それなら————」
うわ言のように呟く魔理沙に、式神の藍はこれ以上は聞くだけ無駄と判断してか「すまないが無理なものは無理だ」と言いながら前に出て、二人の間に入る。
しかし紫がすっと片手を挙げて忠実な従者の言葉を遮った。再び魔理沙の方に振り向いた彼女の口元がまた扇子で隠されている。扇子の奥で細まった鋭い眼光は無力な少女を強かに射抜いていた。
「行ってどうする気? あなたに何ができるの?」
「そ、それは」
「救えもしないのに、悪戯に会いに行って何になるというの。それとも彼と無理心中でもするつもりかしら」
「心中なんて…………私はただ…………」
「そもそもの話、彼が救いを求めているかどうかすら定かではない。にも拘らず無理を押して、何もできないあなたが行くことは、ただの自己満足ではなくて?」
痛烈な正論は魔理沙を完膚なきまでに打ちのめした。子どもの癇癪。無知ゆえの生き急ぎ。無意識に目を反らしていた事実が少女の心に突き刺さる。
「何にせよ幻想郷の管理者という立場である以上、幻想郷の民を危険と分かっている場所にわざわざ連れて行ったりはしない。下手な期待や、希望的な考えは捨てることね」
紫はそう言い残すと、空間移動用のスキマを開く。行き先は彼女の住まいか、博麗神社のどちらかだろう。「行くわよ」と藍と霊夢を促し、自身は一足先にスキマの中へと入っていく。藍も、今回の不法侵入に関しては別の形で埋め合わせるという旨を簡潔に伝えると、紫の後を追って姿を消した。
最後に残った霊夢は俯いたままの魔理沙を見つめていたが、結局は何も言うことはなく、八雲の二人に続いてその場を立ち去った。スキマが閉じるその最後まで、霊夢は打ちひしがれている様子の友人に視線を送っていた。
〇
紫たちが立ち去った後、魔理沙はベッドに腰かけて八柳誠四郎から送られてきた手紙を読み返していた。古い順に、無縁塚で初めてメッセージボトルを拾ったあの日から貯め続けてきた交信の記録を一枚ずつ、じっくりと目を通していく。
魔理沙は千年後の未来を自分の目で見てはいない。しかし手紙に書かれている一文字一文字は、たしかに八柳誠四郎が生きた証なのだ。そうして今もきっと、自分からの返事を待っている。全てが滅び去った、家族も友人もいない、万に一つの希望も無い世界でただ一人、黙々と。
最後に、今回送られてきた、いつも通り他愛のない内容が綴られている手紙を読む内に、魔理沙は自分の胸に熱いものが込み上げてくる感覚をおぼえた。
「いいよ。だったら私だけでもやってやる」
呟いたその声には並々ならぬ意志が込められている。今までだって、一人でも逞しく生きていこうと決意してやってきた。たとえ協力を得られず、他人から無力だと言われても、魔理沙はそれで諦められるような性格はしていなかった。
「私が、私の魔法で、あいつを必ず救ってやる。そんで誰にも文句は言わせない!」
勢いよく立ち上がった魔理沙は階段をけたたましく駆け下りて、乱雑に散らかった本の山をかき分け始めた。
やがて見つけた目当ての一冊は、時間や時空といった概念を研究していた近代の魔術師の著書、その和訳本であった。それを持ってまた二階に上がり、文机に向かう。
魔理沙の充血した瞳が、意地と執念によってギラリと光った。