深夜まで及んだ魔理沙との弾幕ごっこの翌日。霊夢が目を覚ました時にはもう太陽が西に傾いていた。布団に俯せになったまま、光の透ける障子をボーっと見つめる。
寝ぼけた頭で、どうやら一日をふいにしてしまったらしいと理解した霊夢は大きなため息を吐いた。日課である境内の掃き掃除をしていないし、先日人里から注文を受けた魔除けの護符の作成にもまだ手を付けていない。小腹が空いている気もしたが、妙に食欲が湧かず眠気を覚ますことはなかった。
ぼんやりした脳裏に過るのは、昨晩の弾幕ごっこのこと。無理と知っていて尚も追いすがってくる魔理沙の必死な姿が思い出されて、霊夢は顔をしかめた。
とにかく疲れた。何もする気が起きない。今はもう寝てしまおう。
諸々の感情を打ち消すようにそう思い切り、布団に潜って目を瞑る。
「あら、また寝るの?」
聞き慣れた声がして、霊夢はガバッと起きた。見ると布団のすぐ側に八雲紫が座っていた。たった今スキマから現れたのか、それともずっと横にいたのかは定かでない。座布団の上で正座している紫は微笑みを浮かべている。
「もうお昼過ぎよ。珍しいわね、こんな時間まで寝るなんて」
霊夢が苦々しい顔をする。いつもは紫の寝汚さを注意しているのに今は立場が逆転してしまっている。
紫はそんな霊夢の表情を何故だか好まし気に見つめながら言った。
「何も食べてなくてお腹空いたでしょう。余り物でご飯作っておいたわよ」
紫が立ち上がり、霊夢も続いて布団から起きあがった。依然として食欲はあまり湧かないが、食事の準備があると言うなら腹に入れておくに吝かではなかった。
居間に入ると、ちゃぶ台に置かれている小ぶりの土鍋が目に入った。その手前には茶碗と匙も用意されている。紫が鍋の蓋を取ると湯気が立ち、卵とネギの入ったおじやの良い匂いがした。出来立てのように熱々なのは紫の能力で今しがた温め直したからだ。温冷の境界を操れば造作もないことである。
それを甲斐甲斐しく茶碗によそってくれる紫を見ながら霊夢は思う。何故紫がここにいるのかと。しかも霊夢の枕元で起きるのを待っていたかのように。
まあ考えるまでも無いことである。なにせ昨日の今日だ。追い返した魔理沙のことで話があるのは明らかだった。
ただ霊夢が疑問なのは、わざわざこうして報告を聞きに来る必要があるのかということだった。紫なら霊夢と魔理沙が弾幕ごっこを行ったことも、その結果もすでに知っているはずである。何なら二人の様子をスキマの陰から見ていた可能性もある。その上で何故か食事まで用意して自分が起きるのを待っていた理由が霊夢には分からなかった。
「昨日、魔理沙が来たわ」
ちゃぶ台の前に座った霊夢はそう言った。相手の行動にどんな理由があるにせよ、本題があるならさっさと終わらせてしまおうと考えて自分から話題を振った。
「ええ、そうみたいね」と紫。
「やっぱり見ていたの?」
「随分と長くやっていたもの。あんなに何回戦も、暇を持て余した妖怪でもあまりやらなくてよ」
どうやら一部始終を観戦されていたらしい。そうなると魔理沙に対して声を荒げてしまった場面も見られていたのだろう。霊夢は気まずそうに紫から視線を逸らす。
「じゃあ私の報告を聞くまでもないでしょ。あれだけ徹底的にやっておけば、魔理沙でもまた来ることは無いと思う。あいつも、現実の厳しさを知っただろうし」
「現実の厳しさね。それを教えようとしたわけね、霊夢は」
「…………紫だって、そのつもりで魔理沙を追い返すように言ったんでしょ。私は博麗の巫女としての仕事をした。それだけ」
紫がふと困ったような淡い苦笑を浮かべる。霊夢に注がれる視線には深い慈愛が満ちていた。もっとも、顔を背けていた霊夢本人はそれに気付かなかったが。
紫は無意識にしてしまった表情の変化を隠すように扇を広げる。
「務めと言うには、少しだけ感情的だったようだけれど」
紫の言葉は今の霊夢に深く刺さった。心外だとでも言うように目を大きく開くも、紫の視線と交わると昂ぶりかけたその気勢が弱まり、唇をきゅっと結ぶ。
感情的になった。紫のその発言を真っ向から否定できず、しかし受け入れることも出来ない。周囲から年不相応な泰然自若とした態度で知られる霊夢にしては珍しい、迷いがあるような仕草だった。
やり過ぎた自覚はあった。紫に言いつけられたのは、魔理沙が無謀な嘆願をしてきた時に追い返すということだけ。十何戦と弾幕ごっこをやらなくとも霊夢がにべもなく断るだけで済んだ話だ。それ以前に、昨日のような厳しい言葉をぶつけず出来るだけ柔和な姿勢を取った方が事は穏便に済み、魔理沙との仲もひどく拗れるようなことは無かったかもしれない。
合理的に考えれば対話だけで解決するべきだった。しかし現実にそうすることはなかった。何故そのような選択肢を取ったのか自分でも判然とせず、不快感が胸に残り続けている。そんな自分自身に、霊夢は言いようのないもどかしさを感じていた。
一つはっきり言えることがあるとしたら、弾幕ごっこをするような雰囲気を作ったのは自分の方からだったということだ。弾幕ごっこを始める前、空の向こうから魔理沙が博麗神社にやって来る気配を感じた時に、霊夢は「徹底的にやろう」と心のどこかで決めていた。魔理沙を門前払いするだけなら他の方法もあったのに、その時は勝負以外の手段がすっかり思考から抜け落ちていて、自然とあの運びになった。
そして、傍から見れば感情的と思えるほど苛烈に、魔理沙と対立した。
居間に気まずい沈黙が流れる。いや、気まずいと思っているのは自分だけだろうか、と霊夢は紫の様子を視界の隅で確認しつつ思う。物心つく前から親身になって育ててくれた彼女が今の自分をどのように思って言いるのか、霊夢に計り知ることはできなかった。
「おじや、冷めちゃうわよ」
少しして紫が言った。霊夢の働きを労うでもなく、咎めるでもない。尻切れトンボとなった話題にモヤモヤとした気持ちを抱きつつも、霊夢は黙って食事にありついた。
ほぼ丸一日なにも食べていなかったせいか、素朴なおじやが大変に美味しく感じられた。今は食欲なんて無いと思っていたのに、いざ一口食べてみると唾液腺が刺激され、口の奥がすぼまって痛いほどだった。
「これ紫が作ったの? 藍じゃなくて?」
「失礼ね。私だっておじやくらい普通に作るわよ」
「ふうん。何気に初めて食べたかも、紫の料理」
霊夢がそんな感想をこぼすと、紫は「まあ!」とひどく驚いた顔をする。
「あなたが小さい時は私もよく作っていたのよ」
「そうなの? あんまり記憶にないけど」
「寂しいわあ。外の世界から料理本まで持ってきて色々やったのに」
「……なんかごめん」
冗談めかした口調の紫に、彼女の料理の味を思い出せない霊夢は取り敢えずといった風に謝る。「まあほとんどは藍に任せきりだったんだけどね」と紫が言い、やっぱり謝るべきではなかったとちょっぴり後悔した。
霊夢がもくもくと食べる間、紫は霊夢のことを見つめている。私が何かしら自分から話すことを待っているのかしら、と霊夢は思案する。食べ始める前に流れた沈黙とどこか同じ空気だ。それがどうにも居心地が悪い。
「ねえ紫」
霊夢が食べる手を止め、口を開いた。
「魔理沙は、これからどうなると思う?」
質問は要領を得ず、声もか細い。しかし紫は霊夢の意図を汲み取ったのか聞き返すようなことはしなかった。
「きっと後悔するでしょうね。幻想郷という箱庭に嫌気が差してしまうかもしれない」
紫の歯に衣着せぬ言葉に、霊夢は表情を一層固くする。
「おそらくは、暫くしない内に未来との交信は途絶える。私が言えた義理でもないけど、その時の魔理沙の心境を考えると不憫に思うわ」
未来との交信が途絶える。それはつまり八柳誠四郎の死を意味する。
霊夢は断片的なことしか知らないが、文通を始めてからの魔理沙の生き生きとした表情を見ていれば、自ずと彼女の思いの丈が分かるというものだ。その反面、相手が亡くなったと知った時の悲しみは如何ほどか。
そう考えた霊夢だったが、紫は別の可能性があることを告げた。
「このまま行くと彼の死期を待たずに、彼我の縁は切れるはずよ」
「……どういうこと?」
「霊夢には詳しく説明していなかったわね。実際に幻想郷と未来とを行き来したから分かったの。魔理沙と彼の”縁“はとても脆弱で、けれど確かな法則によって結ばれているわ」
話を促すように、霊夢は黙って紫の言葉に耳を傾ける。
「まず始めに、八柳さんは誰かと話したい一心で海に手紙を流した。きっと長い時間、延々と海を漂っていたのでしょうね。何年も待って、本人でさえ手紙のことを忘れた時、この幻想郷と繋がる条件が整ったのよ。正確には、無縁塚に流れ着くための条件と言うべきかしらね」
無縁塚はその名の通り幻想郷に迷い込んだ外来人のための墓地であり、そのせいか外界で忘れ去られた物が自然と引き寄せられる土地として有名である。
しかしただ単に人から忘れられれば無縁塚に至る条件を満たすのかと言えば、そうでもないと紫は説明する。
「あの場所は物の意志を引き寄せる。誰かが大事にしていた物だったり古い謂れがある物だったりね。すると、付喪神がそうであるように、物自体に意志が宿るわ。感情があるのかは分からないし、宿している人の思いもそれぞれ違うだろうから一概には言えないけれど、切れた縁を求めてやって来ることだけは確かなのよ」
それは霊夢も知るところだった。いつだったかは忘れたが、魔理沙に同じようなことを言った気もする。
「時間の流れも越えたということは、彼の手紙には相当な思いが込められていたのでしょうね。それを魔理沙が拾って返事を書いたことで縁が繋がり、ガラス瓶を触媒として未来との交信を可能にした。八柳さんの人と関わりたいという思いと、魔理沙の彼に報われて欲しいという思いがあって初めて、それは成り立ったのよ」
——どちらかが少しでも欠けていたら、文通をすることは叶わなかったでしょうね。
紫の口調は静かで、しかし確信めいていた。人の思いなどという曖昧なはずのものを確かな存在として捉えるその瞳には、様々な人間模様を見守ってきた超越者だけが持ち得る深い見識が滲んでいるようだった。
「じゃあ相手が亡くなる前に縁が切れるっていうのは」
霊夢の口をついて出た言葉に紫は頷く。
魔理沙と八柳のどちらの意志が欠けるのか。その答えは明らかだった。
「あの子は焦っているように見えた」
紫は一カ月前に対面した時の魔理沙を思い浮かべながら言った。
「努力が報われないというのは、とても悲惨なことよ。誰にとっても身近で当たり前にある恐怖。それに囚われると周りが見えなくなってしまうことがあるわ。努力しても努力しても、目標に辿り着かない。焦りが視野を狭めて、いつしか目標が何であったのかさえ忘れてしまう。そんな状態では何事も上手くいかないものよ。あとあと気付いたとしても、引き返せなくなってからでは遅すぎる」
霊夢の脳裏に、昨晩見た魔理沙の顔が過る。何回も何回も、気を失って倒れるまで鬼気迫る表情をして立ち向かってきた親友。幼い頃から一緒にいたが、あんな様子の魔理沙は見たことが無かった。
「霊夢も昨日のことは色々と思うところがあるでしょうけど、後は見守るしかないわ。誰が何を言っても仕方がないこともあるのよ。結局、一番大切なことは自分で気づく他に無いんだから」
「…………紫も、そういう時があったの?」
「長く生きているもの。挫折の一つや二つあるわよ。幻想郷を作る時だって、私の力だけじゃ何一つ出来なかった。それを納得するのに苦労したものだけどね」
「あの時は大変だったわ」と屈託のない笑顔で言う紫を、霊夢は信じられないと言うように見つめる。比類なき大妖怪、八雲紫の能力は誇張無しに万能である。身近にいる霊夢でなくとも、この幻想郷に住まう実力者であれば当たり前に知っている事実。なにせついこの間も、千年の時を跨ぐというバカげた偉業を成し遂げたばかりだ。
そんな彼女をして挫折や、一人では何もできないという言葉がこうもすんなり出てくることに霊夢は少なくない衝撃を受けていた。
「今回の件がどう転ぶにせよ、魔理沙にとって自分を見つめ直すきっかけになれば良いのだけど」
紫は眩しいものを見つめるように目を細める。彼女の言葉に何を感じたのか、霊夢は考え込むように俯いて黙ってしまった。
ややあって、持ったまま冷めてしまっていた茶碗が何故か温まっているのに気付き、霊夢は顔を上げた。どうやら紫が能力を使って再び温め直してくれたらしい。紫は霊夢の視線に答えるように優しく微笑んだ。
〇
「お疲れ様です魔理沙さん。これ、今日の日当です」
もう何度目かになる地下間欠泉センターでの魔法実験を終えた魔理沙に、さとりが給料袋を渡す。礼を言って受け取った魔理沙はそれを大事そうに懐にしまい込んだ。
未来行きを断念してからというもの、魔理沙は仕事に精を出していた。主にはこうして間欠泉センターでの実験手伝いをし、他にもさとりから温泉街の下働きの仕事を斡旋してもらったり、パチュリーに頼み込んで書庫の整理や掃除などの雑用を任せてもらったりと手広くやっている。
それこそ、休日など無いほどに根を詰めて。
「いつもありがとな。仕事もたくさん回してもらってさ」
「いえ、魔理沙さんはよく働いてくれていますし、私の方こそ助かってはいるんですが……」
さとりは浮かない顔で魔理沙を見つめる。
「大丈夫ですか? ここ以外でも働いていると聞きましたけど、休んでいますか?」
「平気平気。私って要領良いからさ、適当に力抜いてるわけよ」
「まあ魔理沙さんがそう言うなら、私からとやかく言うこともありませんけど」
心を読み取れる覚り妖怪を前にして、魔理沙はいつもと変わらない気楽な口調で話す。しかし魔理沙の目元には隠しようのない濃い隈が浮かんでいた。明るく、四方が真っ白な実験室内では尚更目立つ。
「平気なわけないでしょう。ちょっとは休みなさい」
さとりに代わってそう言ったのは、実験記録をまとめていたパチュリーだった。魔理沙に歩み寄り、彼女の手首を無造作に掴む。突然のことに魔理沙が驚いて声を上げた。
「ちょ、な、なんだよ」
「魔力の流れが良くないわね。きちんと休養をとっていない証拠よ」
「パチュリーだって別に休んだりしないじゃんか。何日も徹夜で本読んだりしてるじゃん」
「種族が違うんだから当たり前でしょう。私は魔法使いで、あなたは人間」
「人間だって徹夜くらいするよっ」
理路整然と説き伏せるパチュリーの手を振り払って、魔理沙は「ちょっとくらい大丈夫だってのに」と文句を垂れる。
「そんなにお金ばかり稼いでどうするつもり?」
「いいだろ、そんなことは。色々と要りような年頃なの」
子どもが親の小言を嫌がるように、親の小言を魔理沙は早々に話を切り上げて出て行こうとする。そんな彼女をパチュリーが「ちょっと、忘れ物」と言って引き留めた。魔理沙へと差し出したパチュリーの手には、今しがた実験に使ったミニ八卦炉がある。変換炉の台座に置いたまま忘れてしまっていたらしい。
魔理沙はそれを受け取ろうと手を伸ばしかけるも、触れる寸前で動きを止めた。どうしたのかとパチュリーが魔理沙の顔に視線を向ける。
「いや、いいよそれは。これからも実験で使う物なんだし、パチュリーが預かっておいた方が良いだろ」
魔理沙本人のものとは思えない発言に、パチュリーは内心呆気にとられた。魔理沙の言っていることは、表面上は合理的だ。現在ミニ八卦炉が一番活躍しているのがこの地下間欠泉センターでの実験であることは間違いない。それにパチュリー個人としても、希少なヒヒイロカネを使った万能変換炉はとても魅力的な研究対象であり、預けてもらえるというのであれば願ってもないことだ。
しかしあの魔理沙が、ミニ八卦炉をいつも肌身離さず持ち歩き、決してぞんざいに扱うことが無かった魔理沙がそれを他人に預けるなどと、あり得ることなのか。
パチュリーが確認の意味を込めてさとりの方を見ると、さとりは難し気な顔をしていた。魔理沙の言葉が本心から出たものなのか、否か。心を読めるさとりの表情を伺ってもパチュリーがそれを知ることは出来なかった。
「……それは魔理沙さんが持っておいた方が良いと思いますよ。少なくとも、今は」
さとりが言葉を選ぶように言った。魔理沙が「なんでだよ」と食い下がる。パチュリーは逡巡した後、さとりに話を合わせた。
「そうね、魔理沙が持っているべき。これはあなた専用にチューニングされた物だし。なにより魔法使いが自分の物を軽々しく人に渡すのは感心しないわ」
納得していない様子の魔理沙の手にミニ八卦炉を持たせる。魔理沙はまだ何か言いたそうだったが、二人の視線に観念してか「わかった、わかったよ」と言いミニ八卦炉を懐にしまった。
まるで聞き分けのない子どものようだ。理解しかねると言った風に、パチュリーは手をこめかみに当てて言った。
「最近は紅魔館にもすっかり顔を出さなくなったし、ちゃんと魔法の勉強はしているの?」
「独学でやってるよ。今まで通り。心配しなくてもここの仕事だって真面目にやっているだろ」
「そういう事を言っているんじゃないけど……」
殊更明るい口調で答える魔理沙に、パチュリーは顔を顰める。
「とにかく私は忙しいから、もう行くぜ」
「ちょっと話はまだ————」
魔理沙はこれ以上説教されてはたまらないとばかりにパチュリーが引き留めるのも聞かずその場を立ち去った。
「まったく、何をあんなに急いでいるのかしら……」
魔理沙がさっさと出て行ってしまった後、パチュリーはため息交じりに呟いた。未来に強い興味を示していたのは知っているし、柄にもなく生真面目に働いて金を稼いでいるのはそれに関係しているだろうという事くらいは察しが付く。
ただ魔女として長い時を生きられるパチュリーには、魔理沙が何故ああも駆り立てられるように生き急ぐのかどうにも理解しきれなかった。ミニ八卦炉を遠ざけるような態度といい、少女の急な心境の変化についていけない。魔術書に書かれていることばかりに知識が偏っているパチュリーは不思議に思うばかりだ。
「まあ、ああいう時はそっとしておくのが一番ですよ。特に私たち外野は」
パチュリーの心でも読んだのか、さとりはそう言った。
「睡眠不足のようだったわ。それに栄養も十分ではない。人間は脆いのだから衰弱死が危ぶまれるわ」
本で得た知見をそのまま読み上げたようなパチュリーの言葉にさとりが苦笑する。
「ああいう時期は誰にでもあるものです。人間だけでなく妖怪にだって。生きる上で誰しもが一度は直面する心の問題です」
「心ね。魔法ではまだほとんど解明されていない分野だわ」
「複雑ですからね、とても」
〇
夕陽が魔法の森一帯を黄金に染めている。箒に乗ってその上空を飛んでいるのは魔理沙だった。柄に結んである風呂敷には、先ほど香霖堂で霖之助から買った米や芋などの食料、それから永遠亭に行き手に入れた薬が包まれている。薬とはもちろん、未来にいる文通相手、八柳誠四郎に送るためのものである。
日雇いの仕事をしては薬を買い、僅かに余った金を食料に換える。そんな生活がここしばらく続いていた。そして向こうからメッセージボトルが送られて来れば、すぐに手紙を書き、薬を添えて送り返す。手紙の内容に悩んで次の日に持ち越すようなことはしない。自分の都合で返信が遅れて誠四郎が薬を飲めなくなっては何の意味も無いからだ。
無縁塚は相変わらず何の役に立つとも知れないガラクタで溢れている。初めて訪れる人であれば目を白黒させて呆然と立ち尽くしそうな中を、魔理沙は慣れた様子でひょいひょいと進んでいく。
迷わずある地点まで来た魔理沙は、足元にガラス瓶が落ちているのを目敏く見つけると嬉々とした面持ちで拾い上げた。しかし透明なガラス越しに中身を見ると同時、顔が曇り眉間にはしわが寄る。
「あれ、おかしいな。まだ届いていないのか」
メッセージボトルの中には八柳誠四郎からの新しい返事ではなく、先日自分が書いた手紙が入ったままだった。蓋を開けて中を改めて見れば、確かにそれは魔理沙が書いた手紙に違いない。同封してある薬もそのままだった。
ここ最近になって、こうしたことが多くなっていた。以前であれば無縁塚に置いた手紙は一晩も経てばその場から消え、もう暫くすると相手からの返事が届くといった具合が常だったが、今は一日経ってもなかなか向こうに送れないことがある。長い時では三日ほどガラス瓶がそのままだったこともあり、魔理沙はかなり焦れたものだった。
まあ、不安定なのは仕方がないことだ。何せこの文通は幾つもの偶然が折り重なって成り立っている摩訶不思議な現象なのだから。
魔理沙は何となしにそう考える。そう考え、胸に過った一抹の不安に気付かないふりをする。自分にはどうせ分からないことだと、ある種の諦念を覚えながら。
今日買ってきた薬も前回のと一緒に瓶に入れ、そのまま所定の場所に安置し、魔理沙は無縁塚を後にした。ゆるゆると箒を飛ばしながら、欠伸交じりの大きな溜息を吐く。猫背に丸まった背中からは、老婆のような疲れが滲み出ているようだった。