東方千年探 ~魔理沙のはじめての文通~   作:ふーてんもどき

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二十四話

 

 

 

 地の底から厚い岩盤を貫いて屹立する白亜の摩天楼。幻想郷において類を見ない科学技術の結晶、その最奥では核融合の実験すら行われている地下間欠泉センターである。

 そこでは今も最新鋭の科学と魔法を用いた壮大なエネルギー実験をしている最中なのだが…………。

 

「ちょっと魔理沙、出力が不安定よ!」

 

 変換術式を調整しながらモニターを見ていたパチュリーは、目まぐるしく変化する異常な数値に叫び声を上げる。彼女にしては珍しい、悲鳴に近い大声だった。名を呼ばれた魔理沙はミニ八卦炉に両手をかざして必死に制御を試みているが、結果は芳しくないようであった。

 

 パチュリーが機器操作を担当している河童のにとりに実験の緊急停止を告げる。にとりは即座に了承。停止スイッチを押すと、魔法によって強化された安全装置が滞りなく作動し、場は事なきを得た。

 荒ぶっていた数値が落ち着き、計器類も軒並み0の値を示したところでパチュリーは深い安堵の息を漏らす。しかし次の瞬間には立ち上がって魔理沙の元へ歩いて行く。肩を怒らせ、ずかずかと大股で歩む姿は普段の彼女らしからぬ迫力に満ちている。

 

「魔理沙、あなた……!」

「ごめんパチュリー……ごめん……」

 

 魔理沙は呼吸を乱し、その場にへたり込んでいる。苦しそうに俯いて謝罪をこぼす様は何ともみすぼらしく、叱ろうとしていたパチュリーも毒気を抜かれたようだった。

 

「どうしたの最近。調子がひどく悪いけれど」

 

 今回だけではなく、もう何度か同じようなことが起こっているらしい。パチュリーの問いに魔理沙は答えず「ごめん」と弱々しく言うばかりだ。

 

「さとりから日雇いの仕事も急にしなくなったと聞いているけど、それも何か関係があるの?」

「……」

 

 尚も答えない魔理沙にパチュリーは嘆息する。

 永遠亭の高価な薬を買うために、魔理沙は人里以外の方々で日雇いの仕事をもらっては働き詰めの毎日を送っていた。それがここ暫くはパタリと途切れ、今もやっているのは地底での実験手伝いくらいのものである。

 詳しいことを知らないパチュリーは体調が悪いのかなどと聞くが、魔理沙は頑として答えなかった。

 

 やがて魔理沙から事情を聞き出すのを諦めたパチュリーは、今日はこれ以上実験を続けられないだろうと判断した。

 

「今日はもう帰って休みなさい。次までにはちゃんと体調を整えておくように」

 

 魔理沙が膝に手をついて立ち上がる。目は依然として伏せており、パチュリーの方を見ようとはしない。そのまま出て行こうとする魔理沙を、実験の様子を見ていたさとりが呼び止めた。

 

「魔理沙さん、これは本日の」

 

 そう言いながら渡そうとした給料袋を魔理沙は固辞した。

 

「いいよ、お金は。今日は役に立たなかったし。ごめんな」

「いえそれは仕方がないと言うか、働いていることに変わりはないので、こちらとしては貰っていただきたいのですが」

 

 さとりが穏和に言うも魔理沙は受け取らず、短い別れを告げて実験室を出て行ってしまった。強引に引き止めることの出来なかった二人は心配そうにその背中を見送った。 

 

「仕事は減らしているのに体調は悪くなっているだなんて、どうしてかしら」

 

 パチュリーがため息混じりにそう言う。さとりは腕組みをして暫く考え、一つ提案した。

 

「霊夢さんに頼んで、魔理沙さんの様子を見て来てもらうのはどうでしょう。あの二人は親友らしいですから」

 

 

 

 

 

 

 魔法の森の上空、巫女服の長い袖をなびかせて博麗霊夢が飛んでいた。その表情は固く、頭上にある灰色の曇り空は今の彼女の心情を写したかのようだ。

 

 霊夢が向かっているのは魔理沙の家だった。先日、魔理沙の様子を見て来てほしいと、奇しくも二人の人物から同時に頼まれたからだ。

 

 一人はパチュリー・ノーレッジ。仕事をしている時の魔理沙がどうにも変だからと霊夢に相談してきた。本にしか興味がないと噂の魔女が他人を、それも半人前の人間の少女を気遣うことに、霊夢は少なからず驚いた。

 いや、それ以上に驚いたのは魔理沙が真面目に働いているのを知ったことだが。

 

 そしてもう一人というのは魔理沙の兄で、博麗神社を訪ねて来た彼は思い詰めた表情をしていた。きっと魔理沙との間で何かあったのだろう。霊夢は深く聞かなかったが、それくらいは分かった。

 

 霊夢の顔色は優れない。先の弾幕決闘のせいで魔理沙に対して引け目があり、それがまだ尾を引いている。しかし複数の人物から真剣に相談されては重い腰を上げないわけにはいかなかった。

 

「まったく、なんで私が……」

 

 渋面でそう呟く。言いながらも、自分くらいしか魔理沙に気軽に会いに行ける人間はいないのだろうと分かっている。客観的に見れば当たり前のことだ。

 魔理沙の親友である、自分くらいしか。

 

 木が生い茂っている中に、少し拓けている場所がある。ぽつんと長いレンガの煙突が伸びているそこへ、霊夢は憂鬱な思いを抱えたまま向かって行った。

 

 小さな庭門の前に降り立つ。蔓草が野放途に絡み合っている庭を進み、霊夢は玄関扉の手前で立った。呼び鈴を鳴らそうとした手が、しかし直前で止まる。

 どのように声を掛けようか。

 そんならしくもない悩みがふと湧いて出る。いつも己の直感を頼りにし、何の迷いもなく生きてきた彼女にとって、未知とも言える気持ちだった。

 

 魔理沙は自分を許しているだろうか。いやきっと許していないだろう。やはり謝るべきなのだろうけど、何と言えばいいのかまだ分からない。ずっと考えているのに。

 

 霊夢はしばらく扉の前で考え込んでいた。考えれば考えるほど正解から遠ざかっていくような気がする。何かが胸の奥につっかえていて、そのせいで思考が堂々巡りをしている。

 

 しかしやがて、霊夢は悩みから脱却した。より正しく言うなら無理矢理蓋をした。自分は博麗の巫女として依頼を受け、それを遂行しに来たのだ。自分に言い聞かせるように心の中でそう唱える。

 息を深く吸い、えいと気合いを入れて呼び鈴を鳴らす。鋳鉄製の鈴の音が静かな森の中に響く。

 

 魔理沙は出てこなかった。留守なのだろうかと霊夢は思いつつも、念のためもう何回か間を置いて呼んでみた。二回、三回と繰り返しても家はシンと静まり返っている。

 

「居ないなら、仕方ないわね」

 

 そう言って踵を返そうとした霊夢だったが、立ち去りはしなかった。はたと思いとどまるように、その場で足を止める。

 魔理沙が留守だと分かった瞬間、心のどこかでホッとしたことを霊夢は自覚した。今まで何度も魔理沙の家には遊びに来ている。呼び掛けても返事がないこともあった。そんな時、自分はどうしていたか。扉が開いていたなら勝手にお邪魔するくらいの気安さがあったではないか。なのに今の態度はどうだ。

 認め難い感情だった。仕方がないと、まるで言い訳のように、つい口を突いて出た言葉が霊夢は許せなかった。

 

 魔理沙の家の扉に向き直る。もう一度だけ、強く呼び鈴を鳴らすがやはり反応はない。霊夢は再び深呼吸をし、思い切って声をかけた。

 

「魔理沙ー、いないのー?」

 

 しかしそれでも返事はなかった。家の中からは物音一つもしない。本当に留守なのか、それとも寝ているのか。はたまた、居留守を使われているのか。

 霊夢は最後の可能性をあまり考えないようにしながら、試しにドアノブを捻ってみる。すると何の抵抗もなく、扉は簡単に開いてしまった。キイと蝶番の軋む音が鳴り、隙間から家の中が見える。

 相変わらずガラクタに溢れている居間は灯りがついておらず薄暗い。ただでさえ森の中に建っている上に天気が曇りなので、昼時と言えども何かしら灯りを点けているべき暗さだった。二階の窓を見上げるが、そちらも照明が灯っている様子はない。

 

「入るわよ」

 

 よく通る声で一言断ってから、霊夢は家の中に足を踏み入れた。

 人がいる気配は無い。埃っぽい居間は外から見た印象よりも尚、様々な物が乱雑に散らかっている。心なしか荒らし回った後のように感じるのは気のせいか。

 霊夢は後ろ手に玄関扉を閉め、床に散らばっている物を踏まないよう気を付けながら歩く。少し躊躇った後、屋根裏部屋となっている二階も確認してみたが、ベッドはもぬけの殻で魔理沙はいなかった。どうやら出掛けているらしい。

 文机の側にある窓は開け放されていて、レースのカーテンがはためいている。雨が降ってきたら大変だろうと思い、霊夢は窓を閉めてやった。机の上に置いてある便箋等は極力見ないようにしながら。

 

 一階に戻ると、そちらの窓も開いていたことに気付き、雨戸まで閉めて錠をおろす。外からの明かりが閉ざされて部屋はすっかり夜のように暗くなった。霊夢は手持ちのお札を一枚使い、霊力の灯火を手元に出した。青い光が室内を冷たく照らす。

 

 霊夢は魔理沙がどこに行ったのかということに考えを巡らせる。

 扉に鍵がかかっていないことはままあるが、今にも雨が降りそうな空模様なのに窓も全開とは、魔理沙であっても些か不用心過ぎるように思った。何もかも放ったらかして、急いで出掛けたような雰囲気だ。霊夢の直感がそう告げている。

 

「博麗神社ってことは、無いと思うけど」

 

 魔理沙の様子が変だというのは十中八九、件の文通が原因だと察しはつく。きっとその関係で慌てて家を飛び出ただろうということも。ただそれで何処に向かったのかまでは、さしもの霊夢も分からなかった。

 

 今日は帰って出直そうかと思った霊夢だったが、悩んだ末に魔理沙が帰って来るまで待つことに決めた。一度会って話すと決めたからにはそうしなければ気が済まない。博麗霊夢はそんな人間だった。気まずさに負けて堪るかと、意固地な感情が霊夢の中に燻っていた。

 

 しかし待つとは言っても、勝手に家に上がったままでいるわけにはいかない。以前、魔理沙を出し抜くような形で紫たちの未来探索を手伝ったことが思い出される。その轍を踏むようなことは避けたかった。いつ帰って来るかも分からない相手を外で待ち続けるのは相当堪えるだろうが、霊夢にとって図々しく魔理沙の家の中でくつろぐよりはずっとマシだった。

 

 外に出て玄関扉を閉め、そこに背もたれる。霊夢は少なくとも日が暮れるまではそのまま待つ所存だった。待つと言ったら待つ。彼女の厳しい表情にはそんな融通の利かない思いが現れていた。

 

 腕を組んで空を見上げる。一層灰色の濃くなった曇り空を眺めながら、魔理沙は今何をしているのかしらと、霊夢は考えるのだった。

 

 

 

 

 

 

 その日、風見幽香は暖炉の前で編み物をしていた。外は曇りで、今にも雨が降りそうだった。晴れているなら葡萄棚のテラス出る。それ以外なら家の中に篭ると決めている。

 

 本来、他を圧倒する大妖怪である彼女が糸を編む必要はない。しかし随分昔、暇に任せて手慰みにやり始めてから、自分の性に合っていることを知った。

 

 幽香が紡ぐ毛糸は仄かな光を帯びている。微量の妖力を流し、まじないを掛けながら編んでいるのだ。つまり魔道具を作成しているのである。

 どうせ作るのなら良い物を、と本人は思っているのだが、決してそのような気楽さでやるものではない高等技術だった。

 そうやって今までに退屈しのぎに作った魔法の品々が、幽香の家の倉庫に眠っている。蒐集家である森近霖之助が知れば慌てて買い取りに飛んで来ることだろう。

 

 幽香はふと手を止めて、だいぶん編み上がったマフラーを掲げて見る。熟練の技による編み目は細かく規則正しい。満足そうに頷く。

 

 ただ作って、いたずらに置いておくだけというのも勿体ない。懐っこい人間の少女の顔が思い浮かび、彼女にでもあげようかしらと幽香は考える。これからだんだんと寒くなってくる時期だ。幻想郷の冬は厳しい。贈り物としてはふさわしいだろう。

 

 一息ついてお茶でも淹れようと立ち上がったのと、玄関からノックの音が聞こえたのは同時だった。来客自体が珍しいので、幽香は一瞬反応が遅れた。

 

「まあ」

 

 扉を開けてみると、そこに立っていたのは今しがた頭に過った少女、霧雨魔理沙だった。

 

「いらっしゃい。ちょうどお茶でも淹れようと思っていたところなのよ」

 

 さあ上がって、と温かく歓迎しようとした幽香だったが、どうも魔理沙の様子がおかしい。かなり急いで来たようで息を切らせている。特徴的なとんがり帽子を被っておらず、髪もボサボサだ。何よりも、はつらつとした印象にそぐわない、今にも泣きそうな顔で幽香を見上げてくる。

 

「どうしよう幽香。これ、全然送れなくて」

 

 魔理沙は鞄からガラス瓶を取り出して幽香に見せた。中にはリボンで括られた紙が入っている。幽香は怪訝そうにそれを見つめた後、取り敢えず魔理沙を中に入れた。

 

「まずは落ち着いて。ちょっとここで座って待っていてちょうだい」

 

 暖炉の前にもう一つ椅子を持ってきて魔理沙を座らせる。少しして幽香が出したお茶を啜って呼吸を落ち着けても、その表情は依然として暗かった。

 

「それで、どうかしたの? その瓶は?」

「未来に手紙が送れなくなっちゃったんだよ。幽香、私どうしたらいい?」

 

 どうやら以前言っていた文通のことらしいと幽香は理解する。本人は至って深刻そうだが、少女が文通で悩んでいるだけ。可愛らしいものだと思う。

 

 しかし、なだめながら話を聞くうちに、幽香も魔理沙の焦燥の理由が分かってきた。

 魔理沙は辿々しくもこれまでのことを幽香に話した。八雲紫が見た未来の真実を。そこに暮らす文通相手、八柳誠四郎の尽きかけている命を救うために試行錯誤したことを。

 

「それは……」

 

 事情を一通り聞き終えた幽香は言い淀んだ。余命幾ばくも無い男。そんな彼との文通が途絶えたことの示す意味。出せる結論は一つだけだった。

 

 八柳誠四郎はとっくに亡くなっている。

 

 きっと魔理沙も半ばそれを理解している。手遅れと分かっていながら、それでも認められず、どうにかしたいという一心で幽香の元を訪れたのだ。魔理沙の必死さがそう語っていた。

 

「魔理沙、残念だけど」

「そうだ、この瓶を調べて欲しいんだ。幽香なら何か分かるんじゃないかって思って」

 

 幽香の言葉を遮るように、魔理沙はガラス瓶を優雅に手渡した。幽香は言いかけたことを飲み込み、妖力の宿った瞳でガラス瓶を観察する。

 

 魔理沙の考えていることは理解できる。未来探索を成した八雲紫と同列に扱われる風見幽香ならば或いはと、そう思ったのだろう。

 しかしそれは初めから望み薄だった。幽香は手に取るまでもなく、このガラス瓶からは何も感じ取れないことを悟っていた。直接触れてみればより顕著に分かる。少なくとも幽香から見て、それはどこまでも普通の、何の変哲もないガラス瓶だった。

 

 八雲紫なら何かしら別のものが見えるのだろうか。長い時を生きた幽香でも、時空を超えるという体験はしたことがない。自分が読み取ることが出来ないだけか、それともやはり八柳誠四郎が死んだことにより未来との縁が切れてしまったから瓶の力も無くなったのか。理由は判然としない。

 

 ただ、幽香が魔理沙に告げられる答えは一つだけである。

 瓶をそっと魔理沙に返し、幽香は首を横に振った。魔理沙の目が大きく見開かれる。

 

「残念だけど、私には何も分からないわ」

「そんな……だって、もっとよく調べれば…………瓶がダメなら、直接私を向こうに送ってくれよ。そうしたらまだ可能性はあるから」

 

 魔理沙は縋るように幽香の袖を掴んで言う。切実なその様は、幽香だけでなく誰の目から見ても危うく見えることだろう。

 

『頼み事をされても不干渉を貫いていただきたいの』

 

 以前、八雲紫が釘を刺してきたことを幽香は思い出す。実のところ、幽香にはそんな口約束を守る気などさらさらなかった。魔理沙の考え方次第では協力するに吝かでないと思っていた。

 しかし今の魔理沙の状態を見て、幽香はあの妖怪の賢者の意見が正しいのだろうと知った。

 

 やんわりとした所作で魔理沙の手を離させる。そして幽香は屈んで、少女と視線を合わせた。

 

「よく聞いて。世の中には、どうしようもないことがたくさんあるわ。命は必ずどこかで終わるものなの。花も、人も、妖怪も。今は辛いでしょうけど、時間が経てば貴女もきっと」

 

 幽香は噛んで含めるように諭しながら、魔理沙の頭を撫でようとする。

 幽香の言葉にはたしかな重みがあり、そして母親のような温かさがあった。

 

 だからこそ、幽香の手を、魔理沙は振り払った。瓶を乱暴にカバンの中に突っ込んで立ち上がり、背を向けて駆け出す。

 

「魔理沙!」

 

 幽香の静止の声。魔理沙は立ち止まらなかった。走る勢いのまま玄関の扉を押し開け、外に立てかけておいた箒を取って跨る。真ん中辺りで折れた柄は蔓草で雁字搦めに繋げられていた。

 

 外はいつの間にか雨が降り始めていた。冷たい秋雨だった。

 追いかけてくる幽香から逃げるように、魔理沙は飛び出て行った。濡れるのもお構いなしに雨の帷の中に姿を消す。

 

 幽香は開け放された玄関の前に立ち、しばらくの間、魔理沙が飛んで行った方を物憂げに見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 降りしきる雨に打たれながら、魔理沙は無縁塚に立っていた。立ち尽くして自分の足元を見下ろしている。彼女の足元には手紙を入れたガラス瓶がある。それを無縁塚に置いてからけっこうな時間が経っていた。

 

 幽香の家を出た後、魔理沙は無心でこの無縁塚まで飛んで来た。もはや擦り切れた、望みとも言えない虚無的な期待に賭けて。

 

 頭からつま先までぐっしょりと濡れた魔理沙は、呆然と瓶を眺め続けている。

 やはり消える様子はない。

 

 背筋を上る寒気にぶるりと体を震わせる。雨にぐっしょりと濡れ、体が芯から冷えていた。明日には風邪を引くかもしれない。まあ、どうでもいいことだ。いっそ風邪でも何でも拗らせてしまいたい気分だった。

 ふと近くにあった古い鏡に映る自分の姿を見て「なんて惨めだろう」と魔理沙は思った。

 

「無理だな、もう」

 

 無機質な呟きは雨音に混じって消えた。魔理沙はメッセージボトルを一瞥する。拾い上げようと伸ばしかけた手を止め、踵を返した。

 壊れた箒に跨り、無縁塚から離れていく。猫背で俯きながら、頑として振り返らず、魔理沙は帰路に着いた。

 

 もう二度とここに来ることはないだろうと、冷えた心で思いながら。

 

 

 

 

 

 

 自分の家に帰った魔理沙は、箒を捨てるように玄関先に投げ、ズカズカと家の中に入って行った。

 魔理沙を待っていた霊夢は、ずぶ濡れで鬼気迫るような魔理沙の表情を見て、咄嗟に軒先の物陰に隠れてしまった。そのため魔理沙は霊夢がすぐ側にいることを知らない。

 暗い部屋で灯りも点けず、魔理沙は濡れて重たい服を脱ぎ捨て、その辺に落ちているくたびれた部屋着に着替えた。風呂に入って温まりたいと思ったが、湯を沸かす気力も、今は無かった。タオルで乱雑に頭の水気を拭き、床に転がっていた椅子を立ててそこにどかりと座る。

 

 終わりとは、こんなにも呆気ないものか。

 

 魔理沙は固く目を瞑った。不思議と涙は零れなかった。悲しみも寂しさも無い。ひたすらに気力だけが失われていた。

 

「はあ」

 

 もう寝てしまおうかと思い、魔理沙は二階へと上がった。雨戸まで閉められた屋根裏部屋は真っ暗だ。ベッド横のサイドテーブルにあるランタンに火をつける。

 そのまま寝床に倒れ込もうとした魔理沙だったが、ベッドの上には紙が散らばっていた。八柳誠四郎からの手紙だった。読み散らかしてそのままにしていたらしい。

 

 手紙を拾い集めて角を揃える。ついでに文机の方に保管してあるものも持ってくる。魔理沙はベッドに座り、ランタンの灯りの元、おもむろにそれを読み始めた。やり取りを始めた最初。まだ時間旅行など半信半疑だった頃の手紙から。

 

「はっ」

 

 笑いが漏れる。誠四郎の手紙を読んでいると、それに自分がどう返事をしたかも克明に思い出され、魔理沙をむず痒い気分にさせた。今して思えば青臭い内容の手紙を何通も飽きずに送ったものだ。

 楽しさに彩られていた八柳の手紙はしかし、ある日からほんの少しずつ、その内容に陰りを帯び始める。それを読むにつれて魔理沙の表情も固くなっていく。

 

 

『霧雨さんの押し花はどれも綺麗ですね。写真に写っている元の花と見比べるのは大変楽しいです。これが緑の草原に生い茂る季節があるというのですから、私は堪らず、昨日はつい夢にまで見てしまいました』

 

『ご心配なさず、と言っても優しい貴女のことですから、きっと心配して下さるのでしょう。けれど私は大丈夫です。魔理沙さんからの手紙が来るたびに生きていて良かったと思います。それはもう、望外な喜びです』

 

『原子核融合の実験が順調とのこと。本当に凄いことです。魔理沙さんのおっしゃる通り、その技術があれば僕のいる世界も変わっていたかもしれませんね』

 

『魔理沙さんの心遣いはとても嬉しいです。思わず涙が零れました。ただ、どうかこちらに来ることはお止めください。ここは危険です。もう、人の住む場所ではないのです』

 

『最近、なんだか体が軽いような気がします。呼吸も楽です。魔理沙さんが送ってくださる薬のおかげだと思います。お母上にも同じ薬を送られたとのこと。必ず良くなられることと思います』

 

『ふと思ったのですが、こんなに凄い薬はとても高価なのではないですか。私のために無理をされていませんか。そればかりが心配です』

 

 そして最後の一通を読んだ魔理沙は、痛いほどに唇を噛んだ。

 

 

 

 

 

 

拝啓

霧雨魔理沙様

 

お手紙ありがとう。薬も助かっています。ここ最近、喀血が治まってきて苦しいことが減りました。これも魔理沙さんのおかげです。

 

一つ、そろそろ魔理沙さんには伝えておかねばなりません。きっと、僕はもうすぐ死ぬでしょう。自分の体のことですから、何となくそんな予感がするんです。この手紙が最後になるかもしれません。

魔理沙さんが送ってくれる薬には本当に助けられました。苦痛が和らいだように感じます。これならば安らかに逝けるのだろうと思います。

 

魔理沙さん。今までありがとう。本当に感謝しています。貴女がいなければ、僕はこの世界に絶望しながら死ぬしかなかった。魔理沙さんには十分すぎるほどたくさんのものを貰いました。手紙も押し花も写真も、全部大切にとってあります。それを見るたびに、僕は自分が幸せなのだと分かるのです。

 

これが最後になるかもしれない、と書きましたが、改めます。最後にしましょう。勝手に決めてしまいすみません。

でも、だから魔理沙さんもどうか自分の人生を前向きに歩んでください。それが僕の一番の願いです。魔理沙さんは立派な女性で、たいへん素晴らしい魔法使いですから、きっと充実した人生を送れるものと確信しています。

 

短い間でしたが貴女との文通はとても楽しかったです。お体には気を付けて、いつまでも壮健でありますよう。

それでは、さようなら。

 

敬具

八柳誠四郎

××××年×月××日

 

 

 

 

 

 

 短い手紙を読み終えて、魔理沙は肺の空気を全て出し切るほど長く息を吐いた。

 順繰りに読んだ手紙を再びまとめて文机に置きに行く。

 

「ああ…………」

 

 魔理沙の嘆息は、机の上に向けられたものだった。いつも綺麗にしているはずの文机には便箋や書道具が散乱している。手紙を書き殴った後、放置してしまっていたのだ。今まで大事に使ってきた筆は墨が乾き固くなってしまっている。

 

 魔理沙はそれを持ってまた階段を降り、台所の水汲み場でタライに水を張り、そこへ筆を浸した。墨がきちんと溶けるには数日ほどかかるかもしれない。

 きっともう、ちゃんと使うことはないのかもしれないが。

 

 台所の暖簾をくぐり、魔理沙は自宅の居間を一望する。まったくひどい有様だ。どこもかしこも散らかって、まるでゴミ溜めではないか。

 

「なんだ、これ」

 

 使い方も分からぬ機械部品を拾い上げ、魔理沙は皮肉気に笑う。こんな、何の役にも立たないものが数え切れないほどこの家には転がっているのだと思うと、笑うしかなかった。

 

 文通が終わり、魔法の勉強などする気も起きず、何もすることがなくなった魔理沙は今度こそ片付けをしようと決めた。ずっと面倒くさがってしなかったことだ。それを思うと、今は絶好の機会だった。

 

「これいらない。これと、これも」

 

 物置から大きな麻袋をいくつも持ってきて、そこにガラクタを詰めていく。見れば見るほどいらないものばかりだ。無縁塚に落ちていた機械も、香霖堂で買った魔道具も、全部が全部。

 

「これもゴミだな。この辺も。ハッ。ゴミばっかりだな、私ん家」

 

 目についたもの全部をゴミ袋に放り飲込む。一杯になった袋はその場に捨て置き、新しい袋を広げてまたそこに入れ始める。

 魔理沙の行軍は階段を上り二階にも及んだ。だんだんとその手つきは乱暴になっていった。まるで叩き付けるようにゴミを捨てていく。

 

「これも、これも、これも、これもゴミ」

 

 それは側から見れば投げやりな姿にしか見えなかっただろう。しかし現実にそれを知るのは、家の外にいる博麗霊夢ただ一人だった。雨の中、家から響く荒れている物音を聞きながら、霊夢は辛そうに目を閉じた。

 

「これ、は……」

 

 床に転がっていた、液体の入っている小瓶を捨てようとした魔理沙の手が止まった。それには『ごちゃまぜ』と書かれたラベルが貼ってある。おそらくは魔理沙が自作した薬が入っている。

 この瓶を見つけてゴミ箱に捨てたのが、ちょうど八柳のメッセージボトルを無縁塚で拾った日だったのに気付くのと、これがどういう薬なのかを思い出したのは全くの同時だった。

 

 咳止めの薬だった。

 作ったのはもう二年も前になるか。魔法の森に越してきたばかりで、まだ空も飛べなかった頃、魔理沙は薬学の本にかじりついて薬の勉強をしていたのだ。確かに使命感に燃えて、あれこれと試していた。

 

 それは何故だったか。母のためではなかったのか。

 

 結局は何も成功せず送れなかった母への贈り物。持病を治す霊薬を完成させると息巻いていた日々。その失敗作の一つであった。

 

「馬鹿か私は!」

 

 叫んで、小瓶を麻袋に投げ捨てる。薬品用の丈夫な厚手のガラス瓶は他の物にぶつかり、固く冷たい音を鳴らす。

 

「全部ゴミだ! 全部!」

 

 魔理沙は荒れた。やたらめったら、もう片付けの体すら成さず、自分に鞭を打つように今まで集めてきた宝物を捨て続ける。

 

「これも……ッ!」

 

 それが何かも確かめずに捨てようとした魔理沙は、しかしそれをゴミ袋に叩き込むことは出来なかった。

 魔理沙の手にはミニ八卦炉が握られていた。

 

 捨てようとする。けれど捨てられない。こんなもの、と思い切って捨てようとする。それでも捨てられない。

 

 それは魔理沙だけの物ではなかった。霖之助の、パチュリーの、大切な人たちが作ってくれた自分の身には余る魔道具だ。自分の力では無いそれを、後ろめたくも今まで相棒のように何時如何なる時も側に置いてきた。

 

 結局、魔理沙はミニ八卦炉を捨てられなかった。胸に抱いて床に蹲る。

 

「ゴミは私だ!!」

 

 魔理沙の慟哭は張り裂けんばかりだった。屋根を打つ雨音をかき消し、部屋中に響き渡った。

 

「クソッタレの、何も出来ない……何が魔法だ! 何がマスタースパークだ! 一人も助けられなかった! ただの能天気のバカだった!」

 

 思いつくままに魔理沙は自分を罵倒した。もうめちゃくちゃに叩き潰して、いなくなってしまいたかった。

 

「ゴミみたいな五年間だった!!」

 

 涙でくぐもった叫びが魔法の森に広がる。

 空に被る雨雲と、外の壁に背もたれて顔を伏せる霊夢だけが、魔理沙の嘆きを聞いていた。

 

 


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