曇天のある日、霧雨店は通常通りに営業していた。豊富な骨董品を見て回る客は多く、店員は様々な要望に応えるため忙しなく動いている。
勘定台で番をしている店員もまたひっきりなしに来る客の対応に追われているが、会計を済ませる客の中にちらほらと、何やら物を預けていくだけの人々が幾人かいる。大きい風呂敷に包まれた荷物を置いていく奥方や、野辺に咲いているような可愛らしい花を持って来る子供まで、物も人も種々さまざまである。
店員はお礼を言いながらそれらを恭しく受け取る。持参した品を渡し終えた客は皆一様に「奥さんにはお大事にと」などと言って去っていく。どうやらそれらは全て見舞いの品のようだった。
そんな店内からは目立たない場所、応接間となっている奥座敷に通ずる襖が開き、霧雨店の店主である青年が出てきた。その後からは恰幅の良い中年の男が続く。ふくよかな顔に笑みが浮かんでいるのは商談が上手くまとまったからか。二人は「本日はありがとうございました」とか「いやいや、こちらこそ、またよろしく」などと話しながら店の外へ向かう。
勘定台の上にいる店員が二人に気付いて頭を下げた。店員の側には上等な布が敷かれ、そこに客から預かった見舞いの品の数々が置かれている。
それを中年の男が見て、自分も持ってきたことを思い出したのか「おお、そうだ。これを良かったら清さんに」と袖内から小さな包みを取り出して渡す。北の大通りにある有名な菓子屋の品だった。
「ありがとうございます。これは母の好物でして、きっと喜んでくれます」
頭を下げる霧雨の若店主に、「それは良かった」と中年は笑う。しかし今度は眉を八の字に曲げ、難しそうな顔をした。
「どうだい調子は。まだ良くはならないかい」
「ええ……かなり煙を吸い込んでしまったみたいで、まだ苦しそうにしていまして。熱も出てしまいましたから、今は侍女に付ききりで世話を頼んでいます」
「そうかあ。早いとこ元気になればいいがなあ」
「はい。永琳先生が言うには命に関わるわけじゃないそうですが……」
店主である青年の顔にはどれだけ上手に繕っても隠し切れない疲労が滲んでいた。「そんなに悪いのかい」と心配する中年に、困ったように微笑んで「いや違うんです」と答える。
「どちらかと言えば妹のことが気がかりで。母の話を聞きつければ飛んで帰ってくると思ったのですが、この前会ったらどうもひどく思い詰めた様子でろくに話も出来なかったものですから」
言わずもがな、魔理沙のことである。霧雨家のやんちゃ娘が家を飛び出て魔法の森に移り住んだというのは人里では有名な話で、中年の男もなるほどと納得したように頷いた。彼女がずっと実家に帰っておらず、鬱蒼とした森の中で魔法使いの修業に明け暮れていることは周知の事実だった。
ここ最近快方に向かっていた母親は不運な事故で容態が悪化し、妹は帰省しないどころかあまり手紙も寄こさず安否が気遣われる。今、若くして店を継いだこの青年の背には、家族が散り散りになってしまうかのような重苦しい不安が圧し掛かっているに違いない。
「大丈夫さ。魔理沙ちゃんは昔からお母さん子だったじゃないか」
「はい、その通りで」
「あの子だって何か事情があって会いに来られないんだよ」
人の良い中年の男は「君も元気を出しなよ」「きっと大丈夫だ」とひとしきり励ましの言葉を送ってから店の外へと出て行く。青年は父の代から何かと世話になっている男に感謝を述べて見送った。
「事情があって、か」
青年は側にいる店員にも聞こえないくらいの小声で呟いた。その事情とやらが分からないから心配せずにはいられないのだと、彼の表情が物語っている。
妹の魔理沙と香霖堂で出くわしたことは記憶に新しい。逃げられてしまいまともに話が出来なかったが、切羽詰まったような、後の無くなった人間がするかのような表情を実の妹が浮かべていたことは確かだった。夏の頃に会った時はまだ元気に見えただけに、この短期間で何があったのかと心配になるのは無理からぬことだ。
あの後、森近霖之助に事情を尋ねてみたがはっきりとした答えは返って来なかった。何か知っている風ではあったが霖之助もそこまで詳しい話を聞いたわけではないのか、説明に困っていた。しばらく考えて彼が言ったのは「まあ、なんとかなるだろう」と悠長なものだった。
それで余計に心配になった青年は、魔理沙の親友である博麗霊夢に様子を見て来てもらうよう頼んでいたのだが、まだその報告も聞けていなかった。近頃の魔理沙について知っていることがないか聞いても、常に泰然自若とした博麗の巫女には珍しく歯切れが悪かった。彼女と魔理沙の間に何かあったのだろうかと、青年はさらに不安を募らせるばかりである。
「大丈夫です。お客様の言った通り、魔理沙お嬢様はきっとお戻りになられますよ」
「……うん。そうだな」
表情を固くしている店主を心配してか使用人の一人がそう言って励ます。
帰って来るか、来ないのか。妹に対して真に心配しているのはそこではないものの、青年は笑顔を作って応えた。
いずれにせよ、魔理沙はまだ幻想郷から出て行ってはいない。しばらく前に珍しく向こうから送ってきた手紙には『ずっと遠くに行く。もう会えないかも』と実に不穏なことが書かれていたため霧雨家は一時騒然となったが、霖之助の伝手でどうも大事は無いらしいという事を知った。
消息を断つことが無ければ、いずれ好機にも相まみえる。母の容態も良いとは言えないが、決して死に瀕しているわけではない。
そう、いずれ。いずれ魔理沙と話し合い、昔のように家族団欒を…………。
突然、店の外からとんでもない轟音が響き、祈りにも似た青年の思考を吹き飛ばした。
何が起こったというのか、恐るべき風圧により重い暖簾がめくり上がり、それと共についさっき店を出た得意客である中年の男が間の抜けた悲鳴を上げながら倒れ込んできた。
いったい何が。
とにかく無事を確認しなくてはと青年が駆けつけたのと、金色の髪の少女が飛び込んできたのは同時だった。
「母さんは!?」
挨拶も何もかもすっ飛ばして襲来した少女、霧雨魔理沙が叫ぶ。血相を変えた彼女はどれだけ急いで来たのか、普段から愛用しているとんがり帽子は無く長い髪は散々に乱れている。
「兄ちゃんってば! 母さんは無事なの!?」
魔理沙に揺さぶられるも、青年はあまりのことに言葉を失っていた。
混乱した頭でどうしたものかと必死に状況を整理しようとする傍ら、不幸にも魔理沙に吹っ飛ばされてしまった得意客を心配してそちらに目を向ける。
中年の男は倒れたまま「ほら言った通りだろう」とでも言うように、兄妹の再開を祝し笑顔でサムズアップをして見せた。
〇
先ほどまで商談に使っていた応接間で霧雨の兄妹が向かい合わせに座っていた。魔理沙は気まずそうに俯いて出された茶を啜り、青年はそんな妹の様子をじいっと見ている。
いきなり帰って来たかと思えば「母さんに会わせて」と言って聞かない魔理沙を宥めるのに霧雨店の面々は苦労した。肺を患っている母は先ほど寝たばかりで今は安静にしなければならない。兄がそのことを根気強く伝え、なんとか今の状況に落ち着いた次第である。
「新聞、読んだのか?」
兄が聞いた。責める様子なんて欠片も無い、優しい声だった。
魔理沙がこくりと頷く。新聞の購読を止めていたこと、霖之助が持っていた朝刊を持ち帰ってしまい、それで初めて火事の件を知ったことをしどろもどろに伝えると、兄は納得したように「なるほど」と息をついた。
「心配だろうけど大丈夫だよ。永琳先生に診てもらえてさ、命に別状はないって話だ。今朝からはだいぶん呼吸も安定してきて寝苦しそうな様子も無くなったしね」
「そう、なんだ。良かった。ほんとに」
口調こそ固いが、魔理沙の言葉に込められている安堵は本物だった。それを察してか兄は嬉しそうに笑った。
「俺は魔理沙のことの方が不安だったよ。ほら、前に香霖堂であった時、様子が変だったから」
言われて、魔理沙の肩が震える。俯いて体を強張らせている様は、まるで悪いことをした子供が親の拳骨が飛んでくるのを今か今かと恐れているようである。
「前にもらった手紙も……なあ魔理沙。困っていることがあるなら家を頼っても良いんだよ」
それは兄の心からの言葉だったのだろうが、魔理沙は顔を下げたまま黙りこくってしまった。間を持たせるためにちびちびと飲んでいた茶もすでに飲み干してしまっている。
魔理沙は今、悩んでいた。
夢を諦めたことを言うべきか否か。
まだ年端も行かぬうちから家を出て魔法の森に住みついた自分のせいで、どれだけ家族に心配をかけてきたか。今ここで「魔法使いになることは諦めて家に帰る」と言ったなら兄を安心させられるだろうと魔理沙は思った。母も、きっと父も。もう迷惑をかけずに済む。
しかし一方で、それは耐え難く惨めだと、幼い自分が叫んでいることも魔理沙は自覚していた。在りし日、魔法の森に移り住んでまだ間もない頃の自分。独り立ちの興奮と、これからの躍進を想い胸躍った記憶はあまりに色濃く、はっきりと魔理沙の中に残っていた。
その日の自分が告げる。ここで「諦めた」と口にしたら、もう二度と戻れなくなると。
それは憧憬への明確な否定であり、夢を追い続けてきた過去との別離であり、もっと言うなら八柳誠四郎との文通や彼のためと東奔西走した日々の全てを『過ぎた事』として扱うことに他ならない。自分の夢を応援してくれていた人、それも血を分けた兄に面と向かって挫折を告白してしまえば、魔法使いの霧雨魔理沙ではいられなくなる。
昨晩、家を片付けて気持ちの整理も付けたと思っていた。すでに覚悟を決めたものと自分に言い聞かせていた。
だというのに土壇場になるとこうも簡単に心が揺らぐ自分を魔理沙は恥じた。あれだけうだうだと考えたのに、結局は一歩たりとも前に進んではいなかったのだ。
部屋はシンと静まり返っている。ちゃぶ台の下でスカートの裾をぎゅっと握り締める妹に何を思ったのか、兄である青年はしばらくしてその沈黙を破った。
「ひとまず、母さんに会って来ると良い」
「えっ」
魔理沙が初めて顔を上げた。
「でも、寝てるんだろ?いいよ。私はまた、今度来るから」
「無理に起こしたりしなければ大丈夫」
店に突貫してきた時とは打って変わって魔理沙の態度はしおらしい。反対に、兄の温和な口調の奥には有無を言わせぬ力強さが込められていた。
「母さんに会うために帰ってきたんだろう」
その一言で魔理沙は拳をいっそう固く握りしめた。香霖堂の時のように逃げ出したい衝動に駆られたが、なけなしの理性が打ち勝った。
「分かった。行ってくる」
兄にそう告げて部屋を出る。
住み慣れた実家は、久しぶりに帰ったにも関わらず懐かしいという感じはしなかった。板張りの廊下の僅かな軋みも、骨董屋特有のどこか古臭い匂いも、全てが幼い頃の記憶のままだった。
一歩一歩、階段を上がる魔理沙の足取りは重い。
兄との会話を挟んだことで焦燥がなくなった今、魔理沙はどんな顔で母親に会えばいいのか分からなくなっていた。
二階の廊下の突き当りに母の部屋はある。そのほんのわずかな距離がどうしようもなく長く感じる。
やっとの思いで廊下を渡った魔理沙は襖の取っ手におそるおそる手をかけて、決して音を立てないよう慎重に戸を開いた。
家の様子がそうだったように、母の部屋も数年前から代わり映えしていなかった。四隅に埃一つない清潔を保った床。折り畳まれた美しい着物がいくつも入っている檜の和箪笥。起き上がるのが楽なようにと設えた足の高いベッド。薄絹のカーテンが掛かった窓から見える大きな栗の木。
景色も、匂いも、肌に触れる空気の感覚さえも、昔のままだった。
そしてベッドに横たわっている母の姿も。
「母さん」
魔理沙の口から無意識に呟きが漏れる。足音を殺して歩み寄り、寝ている母の顔を覗き込む。
目を瞑り静かに眠る母を、魔理沙は息すら呑んで見つめた。二年ぶりに見る母親の顔はほんの少しだけ老いた印象を受ける。何一つ昔と変わらない部屋の中で、母だけが時を跨いだようだった。
布団から出ている母の手は瘦せている。魔理沙は起こさぬよう気を付けながらその手に触れた。伝わってくる体温により確かに母が生きているのだという実感が湧き、魔理沙の表情がほんの少し緩む。
小さい頃によく頭を撫でてもらったり、破いてしまった手拭いや着物などを巧みな針仕事で繕ってくれた手は、いま改めて見ると随分とか細くて小さかったが、それでも紛れもなく母の手だった。
魔理沙は母の手を握りながら、自分の胸の奥から深い愛情が湧いてくるのと同時、ずっと抱き続けてきた罪悪感が息苦しいほどに膨れ上がるのを感じていた。自分の身勝手でこの人をどれだけ心配させたのかと思うと、涙すら浮かんでくる。
そうして思わず握る手に力を込めてしまったからか、はたまた側に人がいる気配を感じたからか、眠っていた魔理沙の母がゆっくりと瞼を開けた。
「……魔理沙?」
やや眠たそうに、まだ半分夢の中にいるような声音で娘の名を呼ぶ。魔理沙は咄嗟に手を放して視線をさ迷わせた。母の顔がこちらに向くのを視界の端にとらえながら、ぎこちない言葉を紡ぐ。
「うん、その……ただいま。母さん」
人里を出てから今まで一度も会いに来なかった娘が突然枕元に現れたことに母である女性はしばらく驚いていたが、少しずつ状況を理解し始めたようで柔和に微笑んだ。
「おかえり、魔理沙」
温かく、当たり前のようにそう言われて、魔理沙は次に何を言えばいいのか分からくなり黙ってしまう。非難されるのも覚悟の上だったのに、実際に会ってみればやはりと言うべきか、兄も母も自分の帰りを喜んでくれる。それがどうしようもなくむず痒く感じてしまう。
「お見舞いに来てくれたの?」
「うん……火事のこと、新聞で読んだから」
「そう。ありがとね」
そう言いながら体を起こそうとする母親を魔理沙は慌てて止めた。
「あ、安静にしてなきゃ駄目だって!」
肩を掴んで強引に、しかし決して手荒な扱いはしないよう気を配りながら寝かせようとする魔理沙に、母は「大丈夫よ、起き上がるくらい」と可笑しそうに笑う。その笑顔にはあまり力が無くやはり弱っているのだろうと分かるが、兄が言っていたように命に関わることはないというのも本当らしい。
魔法を学んできた魔理沙には伝わるのだ。生き物であれば必ず持ち得る生命力、時に魔力とも言い換えられる、その脈動が。
先ほど母の手を握ったとき確かに感じ取った。母はまだちゃんと生きているのだと。自分が心配するようなことは無かったのだと。
「とりあえず、大丈夫そうでちょっと安心した」
「皆から随分と良くしてもらったもの。平気よ、このくらい」
「そっか……えっと。あのさ。急いで来たから花とか何も持ってこれてないんだけど」
「いいのよ。魔理沙の顔を見れただけで十分。こっちこそごめんね。いつもの手紙送り損ねちゃって、心配かけたわね」
「いや、私の、方こそ…………」
安心してしまった魔理沙は、次にどんなことを話せばいいのか分からなくなり、まごついてしまう。数年ぶりに会ったというのに兄の時と同様、普段の自分らしくもなくぎこちない態度になってしまうことが無性に腹立たしかった。
魔理沙がそうやって悩み沈黙し続けても、母は不思議と何も喋らなかった。温かく真摯な瞳を向けながら娘の言葉を待つその様子は泰然自若としたものだった。
魔理沙はそんな母の姿勢に覚えがあった。自分も兄も、子供が何か話したいことがあった時、それがどんなに下らないことでもちゃんと聞いてくれた。たったそれだけのことが幼心をどれほどに満たしてくれたことか。
今そこにいるのはまさしく、記憶にある母親そのものだった。家を離れて何年経ったとしても、やはり母は母だった。
「帰ってきたのはお見舞いのためでもあるんだけど、少し話しておかなきゃいけないことがあって」
暫くの逡巡の後、魔理沙はそう口にした。母が頷いて話の先を促す。
「私さ、ガキの頃に家を出てもう随分経つじゃん。それで、その、色々やってみたんだ。箒で空飛んだり、魔法の森のキノコで薬作ってみたり、弾幕ごっこの特訓したり、動く石像なんてのも作ろうとしたりさ。まあ最後のは全然できなかったんだけど」
取り留めもない思い出をぽつぽつと語る。魔法の森に移り住んで三年にも満たない、短くも濃かった日々を。
「でも最近分かってきたんだよね。なんつーかな、年取ってちょっとは大人になったっていうか、自分が客観視できるようになったていうかさ」
『好きなだけではやっていけない』
家を出る前、父親に嫌というほど言われた言葉。あの時は右から左に聞き流していたその説教が今になってこれ以上ないくらいの真実味を帯び、魔理沙の心の大部分を占拠していた。
「魔法ってあんまし役に立たないんじゃねえかな……なんて」
一つの物事を突き詰めるというのは大変なことである。やっていく内に、理想を語るばかりではどうにもならない現実の壁というものに突き当たる。自分の才能の底だったり、成長の限界だったり、様々に表現されるそれを知った時、凡人は理想の形というものを見失うのだ。
当初、未熟な頃に抱いた誇大妄想とも呼ぶべき理想は、経験を積むにつれて神秘のヴェールを脱がされていく。そうしてある時ふと、かつての情熱を失っている自分に気が付く。まだ叶えてもいないはずの夢が色褪せて見えることを知ってしまう。
知ってしまえば、平静ではいられない。先に待っているのは胸を苛むような苦しい葛藤だ。
そして大抵は折れてしまう。理想と現実のズレはいとも容易く、人の夢を砕き得る。掲げた夢が大きければ大きいほどに葛藤もまた強くなる。
魔理沙が今まさに直面している壁とは、そういうものだった。
「いや、本当に役に立たないわけじゃないんだけどな。実際にアリスとかパチュリーは凄いし。でもそれって、魔法の中でも一つの分野を極めているからこそなんだよね。魔法を極めるって私も家を出る前はしょっちゅう言ってたけど、よく考えたら滅茶苦茶大変なことだった。地味だし、忍耐力もいるし、掃除しないとゴミもすぐに溜まっちゃうし」
魔理沙は父が何故、魔法使いになることを反対していたのか理解した。老舗の骨董屋を切り盛りし、年相応に経験を積んだ父には分かっていたのだろう。人里の出の、なんの変哲もない少女の貧弱な足では、魔道という茨の道を突き進めないことに。
「役に立たないって言ったのは、その……つまり私のこと」
魔理沙の声が僅かに震え始める。母親と目を合わせていられず視線が泳ぐ。
「ほら、母さんも知っての通り私って飽き性じゃん。それなのに色んなことにすぐ興味持つから、あちこち目移りしちゃってさ。たぶん出来ないんだよね。一つを極めるっていうのが。結局どれもこれも中途半端で、一流なんか全然遠くて、一人の人間も助けられなくてさ」
おそらく自分以外の皆はとっくに分かっていたことなのだろうと魔理沙は思う。家族や森近霖之助はもちろん、霧雨家に奉公する使用人や魔理沙を知るご近所の方々、そして博麗霊夢も。
今まで散々わがままばかり言ってきたのだ。これを機に踏ん切りをつけなくてはいけない。過去の清算をしなくては、この先一歩も前には進めなくなる。
魔理沙の頭の中にはそんな考えがぐるぐると途切れることなく渦巻いていた。煮詰まった思考が他の一切を追いやって、口から言葉を吐き出させる。
「母さんや兄ちゃんには心配かけたし……あと父さんにも。だから、ごめん。今まで迷惑かけてごめん。母さんがこんなことになるまで家にも帰ってなくて、ごめんなさい」
俯いてこぼす途切れ途切れの謝罪は涙声だった。もう魔理沙は止まれなかった。ついさっき、兄と話していた時には土壇場で口にするのを躊躇った言葉が、喉でつっかえることなくスルリと上ってくる。
「もう満足したから、十分わかったから、だから私はもう、魔法は……」
そう言いかけた魔理沙は、はたと喋るのを止めた。自分でも気付かぬうちに膝の上でぎゅっと握り締めていた拳に、母の手が柔らかく被さっていた。
伝わってくる魔力はやはり弱々しい。自分よりもずっと。しかしそれと同時に感じる体温はとても温かかった。
「悩んでいるのね、魔理沙」
それまで魔理沙の話を真摯に聞いていた母は言った。
「……悩んでいるっていうか、悩んだ後っていうか」
思ってもみなかった言葉をかけられて魔理沙はたじろいだ。戸惑う中で、今の自分は悩んでいるように見えただろうかと考える。
すでに結論は出た。夢は諦めたのだ。
そう思っていたのだが母のたった一言に魔理沙の心は揺らいだ。何故か、核心を寸分の狂いなく射抜かれたような感覚があった。
「もういいって本気で思っている人は、そんなに苦しそうな顔しないわ」
苦しそうな顔を、しているだろうか。
魔理沙は母に何か言い返そうとしたが言葉にならなかった。もう自分が今どんな表情をしていて、どんな気持ちでこの場にいるのかも分からなかった。
「たくさん色んなことを知って、たくさん悩んだのね。母さんも父さんも知らないことを、いっぱい見てきたのよね」
「そんな……私は、何も……」
「母さんは魔理沙のように頑張れたことが無いからあまり大層なことは言えないけど、苦しいくらい悩むのはきっとそれだけ真剣だったからよ。ずっと頑張ってきたのよね、魔理沙?」
偽りの決心が脆く崩れていく。自分を納得させるために繰り返し唱えていた『諦め』の二文字が霞のように薄れて消える。見切りをつけたと思っていた気持ちが灰の中から蘇り、魔理沙の胸を焦がすように燃え始めた。
頬に何かが伝う感触がある。拭ってみて、魔理沙はようやく自分が泣いていることに気付いた。燃えるような胸の内から込み上げてきた熱い涙だった。
「ねえ魔理沙。あなたはどんな魔法が使えるの?母さんに教えて欲しいな」
虚飾さえ張ることのできなくなった魔理沙は記憶にあるがまま自分のできることを挙げ連ねた。
空を飛べることや熱を操れること。薬の調合や、パチュリーから借りた本で古今東西の民間療法を勉強したこと。アリスに手伝ってもらって小さな泥人形を僅かに動かしたこと。多くの人に協力してもらってミニ八卦炉を改良したこと。
成功したことも失敗したことも。今までの経験が魔理沙の口から自然に言葉として紡がれる。
段々と嗚咽交じりになっていく。魔理沙は止めどなく流れてくる涙を何度も何度も拭った。それでも拭いきれずポタポタと床に落ちる。
話すうちに魔理沙の脳裏にはかつての憧憬が、当時の感動をそのままに、色彩すら伴って蘇っていった。それは家を出る五年前よりも遥か昔のこと。子どもだけで里を抜け出して探検に出た、忘れじの記憶。
大妖怪・風見幽香と出会った日、初めて魔法というものを目にした。そして憧れ、自分も魔法を使えるようになりたいと思った。
今の今まで、力に魅入られたからだと思っていた。魔法使いになりたいという夢を抱いたのは、自分を助けてくれた幽香のようにカッコよくなりたかったからだと魔理沙は思い込んでいた。
でも違った。
あの日の出来事で何よりも鮮明に思い出せるのは、幽香におぶってもらった時の心強さと安心感。家に招かれてお茶をした喜び。そして幽香が持たせてくれた花を贈った時の、とても嬉しそうに笑った母の顔。
あんなにも幸せなことがこの世にあるのかと思った。この気持ちをこれから先何度でもと、そう思った。
だから、自分にとっての魔法は、きっと……。
「う、うう……ひぐっ、ぐすっ……」
もう魔理沙は言葉を続けられなかった。膨れ上がった感情を抑えようもなく、ただひたすらに泣くしかなかった。
母は起き上がり、泣きじゃくる愛娘を優しく抱きしめた。そんな母の目にもまた、一粒の涙が光っていた。
「本当にたくさんのことを経験してきたのね。色んな人に囲まれて、色んなことを知って。とても素敵なことを学んできたのね、魔理沙」
魔理沙はついに大声で泣き出してしまった。今まで溜め込んできたものを全て吐き出すかのような泣き声が部屋いっぱいに響く。
母は小さな子どもみたいに泣き続ける魔理沙を抱きしめたまま、泣き止むまでその背中を撫で続けていた。
〇
「落ち着いた?」
「うん……」
「やっぱり私、もうちょっとやってみるよ。本当の一人前になんて何時なれるのか分からないけど今までみたいに……ううん。今までより真剣にやってみる」
「そう。応援してるわね。お母さんも、皆も」
しばらくして泣き止んだ魔理沙は、赤く腫れた目元を恥じるように擦りながらも確固たる意志を込めて言った。
「あと、それとさ、このことは誰にも喋んないでくれよ」
「分かったわ。二人だけの秘密ね」
魔理沙のせめてもの口止めに、母は穏やかに答えた。秘密も何も、かなり大きな声だったので階下にいる人たちにも魔理沙が泣いているのは聞こえていただろうけど。
「なんか私、ずいぶん変なこと言っちゃってたな。そもそもたった数年で一人前になれるわけないのにさ。なのにごちゃごちゃ考えて、分かったようなこと言って……ほんと、冷静になってみると恥ずかしい」
「好きなことでも続けている内に悩みの一つや二つ出るものよ。お兄ちゃんだって、お店を継いでから暫くはすっごく苦労していたんだから」
「そうなの?」
魔理沙が目を瞬かせて聞く。兄が経営に苦労していたというのは初耳だったし、露ほども考えたことが無かった。以前、うどん屋の軒先で出くわして話した時は至って順調そうだったし、今まで母が寄こした手紙にもそんなことは書かれていなかったからだ。
「品物の管理のことでお父さんに怒られたり、仕事を間違えて得意先の方々へ謝りに行ったりね。何もかも初めてのことばかりだもの。きっと誰だって最初は大変よ。でも魔理沙もお兄ちゃんも、うちの子は二人とも立派に自分の道を歩いていて、母さん鼻が高いわ」
真っ直ぐにそんなことを言われて、魔理沙は照れ臭くなりそっぽを向いた。母が可笑しそうに笑う。
「そうだ、折角だもの。今日は家で晩御飯を食べていったらいいじゃない。魔理沙の部屋も昔のまま、綺麗にしてあるわよ」
母は顔を輝かせながらそう言った。やはり娘が帰ってきたことは嬉しいらしく、その喜びようが傍目にも伝わってきて恥ずかしいやら申し訳ないやら、魔理沙はなおさら内心で悶えた。
これまでに散々心配をかけてきた罪悪感はまだ拭えない。そしてこれから先、二度と同じような失敗は繰り返したくないと魔理沙は思うものだ。
であれば数年で出来た溝を少しでも埋めるべく久しぶりに実家で食事をするのも吝かではない。家族と和やかに食卓を囲むなどつい先刻までは考えもしなかったことだが、今の魔理沙は「そうしても良い」と思えるような心境を持っていた。
しかしそれはきっと、今日でなくとも良い。
「ごめん母さん。今日は無理」
「あら。どうして?」
「私さ、すぐにやんなくちゃいけないことがあるんだ。これから先に進むために」
魔理沙はそう言って椅子から立ち上がった。
夢の在り方を見つめ直した今、魔理沙は自分のやるべきことを明確に意識していた。
千年後の未来。その有り様を実際にこの目で見る。一度は完膚なきまでに挫折したが、だからこそ再び立ち向かいたいと魔理沙は心の底から思った。
自分の魔法で何とかする、頑張れば全部上手くいく。そんな思い上がりはもはや微塵もない。魔理沙の胸中にあるのは、合縁奇縁で結ばれた八柳誠四郎との関係をこのまま有耶無耶に終わらせたくないという強い意思。
誠四郎がいなければこうして自分を見つめ直すきっかけなと得られなかった。何かに熱中し希望を追いかけ壁にぶつからなければ、挫折を挫折とも知らず、進む覚悟も退く勇気も持てず、怠惰な日々がずっと続いていたかもしれない。
文通を交わす中で得たものはあまりに多い。空の青さも、花や木の香りも、身近に誰かがいる幸運も、当たり前すぎて気にも留めなかったことに目を向けるようになれたのは、紛れもなく誠四郎あってこそのものだった。
だからこそ行かねばならないと魔理沙は決心した。
いつになっても手紙が向こうに届かなかった事実は、今も気分を暗くさせる。きっともう亡くなっているのだろうと思うとやり切れない。
しかしそれでも、誠四郎が生まれ育った時代をこの目で見ることに意味はある。
自分にとっての魔法。それを確かに認識した魔理沙は所存のほぞを固める。一度深く関わったものに見て見ぬふりをし綺麗に忘れて生きていくことなどしたくはないと。そんな道を歩む気は毛頭無いと。
魔理沙の瞳には、溜め込んだ思いを吐き出す前とは打って変わり、迷いの一切を振り払った意志の光があった。目標をこれと定めた者にしかできない目。それを認めた母は静かに頷いた。
「分かったわ。いってらっしゃい」
「その、どこに行くかとか聞かないの?」
「どこへ行っても良いのよ。今の魔理沙ならきっと大丈夫だって信じているもの。それに、また帰ってきてくれるんでしょう?」
確信を持って尋ねる母に、魔理沙はもちろんと言うように強く頷いた。
「たぶん、今度は待たせないよ。どんな結果になっても、きっとすぐに終わらせられる。次帰って来る時はちゃんと説明もするからさ。だから母さんも少しは元気になっていてくれよな」
「そうね。魔理沙のお話、楽しみにしてる」
もう別れるような雰囲気だったが、言葉を交わした後、親子はしばらく見つめ合った。正確には魔理沙が踵を返さず、その場で何やらもじもじとしていた。娘の意図を察し、母が手を大きく広げる。
魔理沙はしばらく恥じらって迷った後、母に抱き着いた。先ほどの大泣きした時とは違う、温かい別れの抱擁だった。
「気を付けて行ってきてね」
「うん」
「あまり無理ばかりしては駄目よ」
「分かってる」
「本当に困ったときは周りを頼って。あまり力にはなれないかもしれないけど、お母さんにも相談してくれると嬉しいわ」
「うん。そうする。絶対そうする」
それほど長く抱き合わず、魔理沙は母から離れた。
「出掛ける前に、お父さんにもちゃんと挨拶しておくのよ。今日はたしか、書斎の方にいるはずだから」
最後の最後に目下最大の悩み事を突かれて魔理沙は苦い顔をした。それでも誤魔化したりはせず「分かったよ」と答え、母の部屋を後にする。魔理沙が敷居を跨ぎ、襖を閉めるまで、母は穏やかに手を振っていた。
廊下を歩く音が遠ざかって行き、部屋に静寂が戻る。魔理沙の母は薄いカーテンのはためく窓の外に目をやる。そこには霧雨邸の庭があり、一角にどんと大きな栗の木が聳えている。
地面から垂直に生え、枝中に栗の実をたわわに実らせているそれは魔理沙が誕生した翌日に、霧雨の当主——つまり魔理沙の父が手ずから苗木を植えたものである。
ひ弱で小さかった木は、今や霧雨邸の屋根すら追い越しそうなほど見事に成長している。その事実は、十数年という歳月の長さを推し量るに十分すぎるものだ。
まっすぐ育って、いつかたくさんの実をつけるように。
らしくもなく旦那がそんな願掛けをしていたことを思い出し、彼女はたまらなく幸せそうに微笑んだ。
「本当、大きくなったわねえ」