それは単調な一本道で、どこまでも真っ直ぐに続いていた。行けども行けども白く細い線が暗闇の先に伸びている。
緊張に体を強張らせながら歩く魔理沙は、その道のりが八雲紫の辿ったものとはまるで違うことを知らない。
時空は捻じれることなく整然と連なり、秩序と混沌の渦巻く多次元空間の暗黒は霧雨魔理沙という存在の定義を侵食してくることがない。真に縁起を結んだ者だけが辿れる一条の綱。
道理を知らずとも資格と覚悟を有している少女は、その上を慎重かつ正確に一歩一歩進んでいく。
気付いた時には闇が途切れていた。唐突に固い地面を踏む感覚があり、暗闇ばかりだった視界にはいつの間にか灰色の荒廃した世界が広がっていた。
空をのっぺりと覆う雲。巨大なビル群が倒壊してできた瓦礫の山。倒れていない建物のいずれにも明かりは灯っておらず生活感はまるで無い。
あらゆる自然を排除した、見渡す限りの廃墟。八雲紫が話した未来の景色がそっくりそのまま、なんの偽りもなく魔理沙の目の前に広がっている。
鈍色の空からは綿埃のような細かい雪が降っている。いや、これこそが毒か。大気に迸る乱雑で異様なマナの流れは話に聞く放射線によるものだろう。霊夢が集めて来てくれてた装備が無かったら今頃死んでいたかもしれない。
どんな歴史を辿ればこんな世界が出来上がるのか、魔理沙にはこれっぽっちも理解できない。ガスマスクの下で嫌悪に顔をしかめる。
かつて夢にまで見た千年先の未来の光景を眺めていた魔理沙は、背後で波の音がすることに気付いた。振り向くとそこには黒々とした海がある。塩水の代わりに石油を満たしたような海には生命の母と呼ばれた面影など無く、僅かな漣を立てるだけで沖の方は暗くのっぺりと澱んで見える。
しかし魔理沙は、生まれて初めて見る海にほとんど意識を割かなかった。
舗装され尽くした岸辺で、一人の人間が座り込んでいる。白い服にすっぽりと身を包んでいるその人物は海を眺めているのか身じろぎ一つせずそこにいた。まるで誰かが訪れるのを待っているかのように。
間違いない。間違えようはずもない。
魔理沙は興奮と緊張に胸を高鳴らせながらゆっくりと近付く。足音に気づいていないのか、座っている彼はまだ振り向きもしない。
「誠四郎……さん?」
恐る恐る尋ねる。反応はない。聞こえなかったのだろうかと思い、今度はガスマスク越しのこもった声でも聞こえるようにハッキリと名前を呼ぶ。八柳誠四郎と。
それでも振り向かないので、もしかして既に死んでしまっているんじゃないかと魔理沙が不安に思い始めた時、彼がピクリと動いた。下がっていた頭をのそりと上げ、暫くしてからようやく後ろを振り返る。老人より緩慢な動作には生気がほとんど見られない。
しかし彼は、この滅びきった世界でたった一人取り残された彼は今も確かに生きていた。生き抜いて、初めて文通相手の少女と対面を果たしたのだ。
「その、はじめまして、で良いのかな。こういう時って」
魔理沙が気恥ずかしそうに言う。八柳誠四郎は魔理沙の方を振り返ったままの姿勢で固まっている。驚きのあまり声も出ないのだろう。
傷だらけのフェイスメットの奥にある顔はひどく痩せこけているが、それでも優しそうな青年であることが伺える。呆然としたその表情が、信じられないものを目の当たりにしたと物語っていた。
「分かるかな。私、魔理沙だぜ。あんたと文通していた霧雨魔理沙」
「っ……ど、どうして……」
やっとのことで絞り出した誠四郎の声は、喉が錆びついているかのようにしわがれている。長らく人と話さなかったのもあるが、声を出すのもやっとなほどに衰弱していることは明らかだった。
魔理沙は誠四郎のすぐ側まで近寄って膝を折り、「ちょっとごめんな」と一言断って彼の肩に手を置く。感じ取れる魔力は皆無に等しい。特殊繊維の防護服越しであることを鑑みても、それは異常なことだった。すでに死んでいても何ら不思議ではない。今こうして生きていることが奇跡だった。
魔理沙は唇を噛みしめる。ガスマスクのせいでちゃんと顔を合わせられないのは残念だが、泣きそうな表情を誠四郎に見せなくて済むという点では幸いだった。折角会えたのに此方が悲しんでいては彼に無用な気遣いをさせかねない。
「手紙に書いたことあるだろ、幻想郷には凄い力を持った奴がいるって。その人に頼んでここに送ってもらったんだ。どうしてもあんたと……誠四郎と話がしたかったからさ」
魔理沙は簡潔に、誠四郎でも分かりやすいように言葉を選びながらここまで来た経緯を話した。一人でも行こうと無茶をしていた自分にたくさんの人が協力してくれたこと。そのおかげで今も放射線や毒に侵されず誠四郎と対面できていることを。
帰る方法はあるのかと誠四郎に心配されたが、それも大丈夫だと説明する。科学ではついに叶わなかった時空旅行を成し遂げた存在を前に、誠四郎はただひたすらに驚愕するばかりだった。
「向こうでは何人か誠四郎のことを知っている人がいるんだぜ。私が色々言いふらしちゃったからさ。まあ半分くらいは妖怪なんだけど」
「そう、か。そうか……」
最初、呆気にとられるばかりだった誠四郎だが、段々と目の前にある現実を受け入れ始めたようで感嘆に震えながら頷いていた。
幽香から貰った花束も誠四郎に渡した。
驚く彼にそれが本当のひまわりであることを伝える。ガラス細工を扱うように、慎重に黄色い花弁に触れる誠四郎。小さくとも立派に咲いているひまわりの花を見つめるその顔はひたすらに穏やかだった。過去も未来も変わらない。人は自然に触れた時、同じ顔をする。
ずっとこの海岸にいたのかと魔理沙が聞く。あまり記憶が無い、と誠四郎。気付いたら地下のシェルターではなく海岸に来ていたという。食料が底を尽き、命綱である除染浄水器も数日前に故障したらしい。
「最後だからさ。暗い地下よりは、こっちの方がマシだと思ったんじゃないかな。よく覚えていないけど」
誠四郎が言う。たぶん僕は君を待っていたんだろうな、と。その口調に悲哀は無かった。死ぬことを受け入れた達観と、ある種の安堵が彼の浮かべる淡い微笑みに映っていた。
魔理沙が旅立つ時期があと少しでも遅かったら。或いは誠四郎が無意識にも外へ出ることなく地下深くのシェルターで力尽きていたら、この出会いはあり得なかったかもしれない。偶然か、それとも運命か。恐らく後者だろうと、魔理沙は直感で思った。自分はこの人の最期を看取るために来たのだと、強く思った。
「そういえば、文通の時とはずいぶん口調が違うね」
「ああ、うん。びっくりしたろ。素はこっちなんだけど文だと変にかしこまっちゃう癖があってさ。ちょっとダサいよな」
「いや、素敵だよ。手紙で想像していたよりずっと」
照れ隠しの自嘲に率直で嘘のない誉め言葉で返され、魔理沙は恥ずかしそうに苦笑した。
もっともっと他愛のない会話をしたい。この人とたくさん話がしたい。
そう思うも、残された時間はあと少しも無いようだった。誠四郎が大きく咳き込み崩れ落ちそうになる。魔理沙は慌てて彼の身体を支えた。もはや自力で体を起こしているのもやっとのようで、地面についた手が震えている。
誠四郎は支えてくれた魔理沙に礼を言いながら、やつれた青白い顔で笑ってみせる。
「来てくれて本当にありがとう。僕はもうこれで、何も思い残すことなく逝ける」
きっとそれは心からの言葉なのだろう。魂も擦り減る孤独の中で生きてきた彼にとっては、もう十分すぎるほどの奇跡が起きたのだろう。
しかし魔理沙はそんな誠四郎を見つめながら、胸を締め付けるような痛みを感じていた。
見える景色は一面の灰色。無機質な瓦礫の山に黒い海、空を閉ざす分厚い雲。冷え切った世界に、八柳誠四郎が夢に見た自然の風景は一欠片も存在しない。
ここでこの人は死ぬのか。こんなところで。空の青さも知らぬまま。
そう思った瞬間、胸の痛みは憤怒に変化した。
何度となく手紙を交わした魔理沙は、誠四郎がどれほど自然の風景や青空を見たがっていたかを知っている。それを思うとこのままではやり切れなかった。誠四郎は喜んでくれたが、暗い空の下では幽香の素晴らしい花束さえ霞んで見えてしまう。日の光を浴びてこその向日葵だろうに。
何もかもが気に食わない。穏やかに死ねるならそれで良いなどと、馬鹿にしているにも程がある。
そう思った瞬間には、魔理沙は立ち上がっていた。考えるまでもなく自分が何を成すべきか心が告げる。
「魔理沙…?」
「誠四郎。あんたに見せたいものがある」
つかつかと歩いて距離を取る魔理沙に誠四郎が戸惑った声を上げる。魔理沙は大丈夫だと頷いてみせ、空を見上げる。どこまでも厚く覆う雲睨み付ける。
「ごめん母さん。ちょっと無茶するよ」
魔理沙は僅かに、唇もほとんど動かさず小さく呟く。目を瞑って深呼吸をする。そうして再び開いた瞳には何にも揺るがない決意が宿っていた。
外套の内側、懐から取り出したるはミニ八卦炉。
希少なヒヒイロカネをふんだんに使った、あらゆるエネルギーの変換を可能にする唯一無二の魔道具。パチュリー・ノーレッジと森近霖之助が共同で改造したそれは魔理沙個人のためにこれ以上ない調整が施されている。
辺り一帯の、果てしなく広がる荒んだ景色に対し、魔理沙は思う。確かに世界を救うなんて土台無理な話だったと。いくら強化したところで、この小さな八卦炉で出来ることなどたかが知れている。
けど、それでも……。
ミニ八卦炉を強く握り、天に掲げる。魔理沙の魔力を初動力として八卦の紋様がその機能を発揮し始める。
呼応するように裏側に刻まれた七曜の術式も起動する。似て非なる論理によって構築された二つの魔法は、反発するどころか互いの欠陥を補い合い、加速度的にその効力を高めていく。
八柳誠四郎は瞠目した。魔理沙を中心にして渦を巻くように風が吹き始めていた。それは気付くのも難しい微かなそよ風から始まり、段々と速さを増す。強く、大きく、瞬く間に台風の如き勢力となって尚、規模を広げる。
少女の手にも収まる程度の小さな魔道具が、この世界に満ちる不条理を際限無く吸い込んでいく。空から降る死の灰も、大妖怪にさえ危険を及ぼす放射線も。それどころか半減期という常識を無視して、汚染された放射性物質から放射能を根こそぎ抜き取ってしまう。
生命を脅かす歪んだ莫大なエネルギーの全てが、熱と光の魔力に書き換えられていく。
「まだだ。まだ……っ」
エネルギー変換の仲介役と、魔力暴走を食い止めるバランサーとしての役割を同時にこなす魔理沙の手が震え始めている。既に通常のマスタースパークが持つ熱量は超えている。何倍にも何十倍にも膨れ上がり、しかし今も止まることなく熱量を蓄え続ける。
まだ足りない。これでは届かない。
あの空を穿つには限界の先に到達するしかない。
歯を食いしばり、魔理沙は前人未到の領域に踏み入った。
ミニ八卦炉に施されていた自動制御機構を解除する。リミッターの破棄。七曜の術式の導入、そして魔理沙専用にチューンナップするという強化を経て大幅に増した蓄積魔力の上限をとっぱらい、青天井にしてしまう。
「〜〜〜っ!」
ピシリ、と嫌な音が聞こえた。ミニ八卦炉のどこかが壊れかけているのだ。無類の頑丈さを持つヒヒイロカネですら耐えられない圧倒的な魔力の奔流。
このままいけば二度と使い物にはならなくなる。魔法使いを目指してから今まで、片時も手放したことの無かった相棒との別れ。半人前の自分を魔法使いたらしめてくれた寄る辺の喪失。
それを理解しながらも魔理沙は決して思い悩み止まることなどなかった。ただ一つ、霖之助に心の中で謝る。
ミニ八卦炉から魔法陣が展開される。八卦の紋様が巨大な光の輪となって魔理沙の頭上に広がる。それを起点にしていくつもの魔術式が円陣を成して上へと伸びていく。
出来上がったのは巨大な砲塔だった。全長十メートルにも及ぶ光の大砲。それを形作る魔法陣の一つ一つに恐るべき魔力が備わっている。
ミニ八卦炉がついに臨界点に達した。辺り一帯のマナはことごとく吸い尽くした。蓄えた魔力の総量を表すとしたら天文学的な数値になるだろう。
気を抜いた瞬間に暴発しそうなそれを、魔理沙は一つの魔法として収束させる。
一度限り、空前絶後の奥義を今ここに。
狙うは直上。大気圏の遥か彼方。
八卦七曜を束ねて一と成し、遮る一切を灰燼に帰す。
穿て、貫け、突き抜けろ。
「マスタースパアアァーク!!!」
満を持して放たれた、渦巻く七色の光線。
いや、それは光線と呼ぶにはあまりに太く強大だった。宙空に漂う毒を巻き上げて焼き尽くし、何層にも重なった分厚い暗雲を紙切れのようにいとも容易く突き破る。
遠目であれば、天空をそれ一つで支える巨大な柱にも見えたことだろう。
圧倒的な熱量は天を衝くだけに留まらず、周囲の雲さえも吹き飛ばしてしまった。
長く続いた放射が終わり、光の柱はだんだんと細く薄くなり、最後は粒子となって散り散りに儚く消えてゆく。
そうして魔理沙が手を下ろした時、頭上を遮るものは何も無かった。ひたすらに青い空が広がっているばかりだ。百年以上もの間、人工雲が覆い隠していた先には、太古から何も変わらない空の色があった。降り注ぐ太陽の光が冷めた大地を温める。
空を見上げる誠四郎は声すら出なかった。思い焦がれ、しかし決して見ることは叶わないと諦めていた光景が現実として視界一杯に広がっていることに彼の思考はついていけなかった。ただただその美しさに心を奪われている。
魔理沙は喘ぐように息をしながら自分の手のひらを見つめる。
持っていたはずのミニ八卦炉はそこに無かった。マスタースパークを撃ち終えたと同時、使命を果たしたと言うように砕けて塵となり、サラサラと跡形もなく消えてしまったのだ。
その名残を惜しんで拳をぎゅっと握りしめる。涙はこぼさなかった。今は堂々と胸を張り、笑うべきなのだと知っているから。
乱れたマナの気配はもう無い。未来に降り立ってからずっと稼働していた霊夢のお札も鳴りを潜めている。今なら大丈夫だと魔理沙は確信していた。
「誠四郎!」
呼びかけなければ死ぬまで呆然としていそうな誠四郎を振り向かせ、被っているガスマスクに手をやる。何をしようとしているのか察した誠四郎が止める間も無く、魔理沙は顔を覆っていたマスクを颯爽と脱ぎ去った。
「どうだ、これが魔理沙様の魔法だぜ!」
腰に手をやって仁王立ち。満面の笑顔で魔理沙は高らかに告げた。
生命線であるガスマスクを取るという、この世界の常識では考えられない自殺行為じみたことをやってのけた少女は、死ぬどころか平然と笑ってのけ深呼吸さえしている。
「誠四郎もやってみろよ。綺麗な空気だぜ」
信じられないとでも言うように見つめてくる青年の側に行き、魔理沙は外套も脱いでひらひらと振ってみせた。
誠四郎は恐る恐るといった様子でヘルメットに手をかける。しかし脱ごうとしても手が震えて持ち上げられない。
精神的な要因だった。空気が汚染されきった時代に生まれた誠四郎は、これまで外へ行く際は必ずマスク等を着け、肌も一切露出させてこなかった。それは世界の隅々にまで浸透している疑う余地のない常識である。何せそうしなければ呼吸器系に異常をきたし、最悪の場合はころっと死ぬのだから。
目の前に安全を証明してくれている少女がいても、集合的無意識にまで及ぶ常識には抗えない。心でどう思おうと魂が拒絶する。
「そりゃ」
見かねた魔理沙は気の抜けたかけ声と共に誠四郎のヘルメットを取ってしまった。慌てた誠四郎の手が宙を掻き、咄嗟に息を止めて目を閉じる。
魔理沙はそんな彼の両肩に手を置いてあやすように言った。
「大丈夫。大丈夫だから」
しばらくして少しずつ呼吸を始めた誠四郎がゆっくりと目を開いていく。その顔は驚嘆でいっぱいだった。
「息が……」
「な、良いもんだろ?」
慣らすように何度か息を吸っては吐き、魔理沙のように深呼吸をした誠四郎は、その瞳から涙を零した。透明で、喜びに満ちた温かい涙だった。
生まれて初めて吸う綺麗な空気もそうだが、ありのままの目で見る青空のなんと美しいことか。防護ヘルメットのガラス越しでは決して気付けなかった、自然で澄んだ青。
片手には魔理沙が先ほど渡してくれた花束を抱いている。小さなひまわり。太陽の下で見るそれはまるで別物のようにキラキラと輝いているように思われた。空も花も初めて見るはずなのに、誠四郎は不思議と懐かしさを感じていた。堪らなく、泣きたくなるような郷愁がそこにはあった。
「本当に、君の手紙にあった通りなんだな」
「うん。同じだよ。誠四郎の故郷の空も、幻想郷と同じなんだよ」
「そうか。そうか…………」
誠四郎につられて涙ぐむ魔理沙。
誠四郎は噛み締めるように「そうか」と何度も言う。全てが報われたと分かったその表情は柔らかく穏やかで、まさしく幸福そのものといった様子で……。
と、そんな彼の身体が突然力を失った。
にわかに感動も忘れて、魔理沙は彼に手を伸ばす。後ろに倒れそうになるのを肩を抱いて支え、そっと横に寝かせる。
彼の頬に手を添えた魔理沙は息を呑んだ。ただでさえ少なかった誠四郎の魔力、つまり生命力がどんどん失われていっているのだ。先程測った時とは比較にもならない。まるでバケツの底が抜けたように、彼を生物たらしめているものが零れていく。
「誠四郎!誠四郎!」
魔理沙が叫んで肩を揺さぶる。誠四郎は閉じかけていた目をうっすらと開け、己の防護服を指し示す。「ジッパーを」と力のない声で呟く。魔理沙は苦労しながらも誠四郎が着ている防護服の上半身部分を脱がせてあげた。服越しにも分かる痩せ衰えた誠四郎の身体が外気に触れる。
誠四郎は骨と皮ばかりの手を、自分を支えてくれている魔理沙の手に重ねた。とうに死んでいたはずの命。花をたむけ、空を見せられたことは奇跡に等しい。彼がここまで持ち堪えてくれたことに魔理沙は運命と呼ぶに相応しい巡り合わせを感じていた。
今目にしているのは、肌で直接感じているのは、この世界でたった一人生き残った彼が最後に見せる命の輝きそのものだった。
八柳誠四郎の目はだんだんと虚ろになっていく。それでも最後まで目を開けていようとしているのは、青空の色を一秒でも長く見るためか。
いや、彼の目は魔理沙に向けられていた。泣きそうな魔理沙を見つめ、穏やかに微笑む。これまで凄惨な人生を送ってきたであろう青年の笑顔はあまりに満足そうで、一片の後悔すら感じさせない晴々としたものだった。
「魔理沙……」
掠れ声はもはや蚊が鳴くように小さかった。手に伝わる魔力から、魔理沙は感じ取る。これが最後なのだと。今まさに自分は、この人の遺言を聞こうとしているのだと。
しかし何事かを言いかけた誠四郎は声を絞り出すほどの力も残っていないらしかった。胸が上下していない。息も心臓も止まっている。
「なんだ誠四郎。聞いてるよ。私ちゃんと聞いてるから」
彼の手を握り、懸命に声をかける。
すると息絶えたかに思われた誠四郎の手に微かな力が戻り、ぎゅっと魔理沙の手を握り返した。唇を僅かに動かし、魔理沙の耳元でそっと囁く。
それを最後に、ついに八柳誠四郎の全身から力が抜けた。滑り落ちそうになった彼の手を魔理沙が掴む。
薄く開けたままの目はもう瞬きをしない。微弱にも鼓動と共に手から伝わってきた魔力の脈動も感じ取れない。
彼女だけが知る、一人の男が最後に遺した言葉。それは魔理沙の心を満たすに十分だった。
まだ一人前など程遠い。魔法使いと名乗るのも烏滸がましい。それでもここまでの道程が決して無意味などではなかったのだと、心から思うことが出来た。ありがとう、と。天に還った八柳誠四郎の命に惜しみない感謝を告げる。
魔理沙は顔を上げ、天を仰いだ。世界を包む雲はいまだに大穴を開け、太陽は幾ばくかの光を恵んでいる。
誠四郎に言った通り、幻想郷と全く変わらない。遥か昔から生命を育んできた陽光が、崩れた廃墟も、暗い海も、その真ん中にぽつんといる二人の人間も温かに照らす。
抜けるような青空の下、魔理沙は誠四郎を抱きかかえたまま、静かに涙を流していた。