八雲紫は得体の知れないことで有名な大妖怪である。
一言で大妖怪といっても、力の程度はピンキリ。種族や性質の違いもあり、とても一括りには出来ない。
例えば同じ鬼であっても、四天王として数えられる星熊勇義や伊吹萃香らと、その取り巻きである部下たちとでは、腕力一つとっても大変な差がある。幻想郷では固有の特別な能力を持つ者も多くいるので、それも絡めるとさらに力関係は複雑かつ細分化されていく。
そんな中にあって、八雲紫の地位は絶対的だった。
妖怪の賢者として名高い彼女に、同族はいない。突然変異で生まれたスキマ妖怪という種族は、紫をおいて他には存在しなかった。
そしてこの世に生を受けると同時に天より授かった能力こそが、彼女を大妖怪たらしめる。
『境界を操る程度の能力』
遥か昔、誰もが彼女の力を侮った。よく分からん力だと嘲笑う物の怪が多くいた。鬼の大群が、賢者とやらの鼻を明かしてやると挑んできた。
その尽くが、今日に至るまで、八雲紫の前に屈することとなる。
紫が言うには、全ての物事には境界が存在する。
昼と夜の間。生と死の狭間。夢と現の境目。そこには人間では観測しえない線引きがある。それらを見極め、操り、定義する。
誰かが言った。それは森羅万象を根底から覆す脅威の力であると。新たな論理を創造し、既存の道理を破壊する、神にも等しい異能であると。
深謀遠慮にして天下無敵。音に聞こえた大妖怪『九尾の狐』すらも己の式神として使役する彼女を侮る者は、いつしかこの世のどこにもいなくなっていた。
そんな稀代の化生が作り出した世界こそが、幻想郷である。
八雲紫は長い研鑽の果て、日本のとある山の奥地に幻と現実とを分け隔てる術をかけた。それは山や森すら飲み込み、一つの箱庭を完成させた。
その術の名を博麗大結界という。龍神を奉る神社を中心として四方に張り巡らされた、八雲紫の最高傑作である。
人と妖怪が共存できる楽園。いつまでも平和が続く理想郷。
長年、夢にまで見たそれを、八雲紫は成し遂げたのだ。古今東西、世界中のどこを見ても、そのような大仕掛けが成功した試しは他に無いだろう。それほどの偉業の果てに、幻想郷という安寧の地は成り立っている。
一つの世界の創造主とも言える彼女を畏れ敬う者は数多くいる。なにせ見方を変えれば神と同義だ。そんな己の立ち位置を理解してか、紫はよほどのことがない限り、不用意に人里へ現れたりはしない。
着かず離れず、いついつまでも自分の作った美しい世界を見守っている。
それ故に彼女は有名ながら、得体の知れない人物————もとい妖怪と言われるのである。
珍しく人前に姿を見せることがあっても扇で口元を隠し、言葉巧みに他者を翻弄するので、いよいよその正体は闇の中。強大な力があるということだけが確かな事実であるために、人はいっそう彼女を気味悪がる。
だから大抵の人間や妖怪は、八雲紫が恐ろしい存在と信じて疑わず、また彼女の人となりを知ることもない。
当代の博麗の巫女、博麗霊夢の育ての親であることも、知る由も無いのであった。
〇
畳に敷いた布団の上で昼間からぐーすかと眠る美女がいた。
完璧と言えるほど整った美貌は絶世と称するにふさわしいが、だらしなく大口を開けてムニャムニャ言うので気品の欠片も無い。
寝相が悪いのか掛布団は明後日の方向に蹴飛ばされていて、ズレた寝間着の間から腹が見えている。眠りながら腹をポリポリと掻く姿は、三年寝太郎もかくやと思われる健やかさである。
寝る子は良く育つというが、育ち切ったこの女性が何故かくも寝こけているのかは大いなる謎だった。
この光景を見れば、ほとんどの人は呆れとも憐れみともつかない微妙な気持ちになるだろう。間違っても彼女が恐るべき大妖怪だとは思わないはずだ。
ましてや幻想郷の頂点におわします妖怪の賢者、八雲紫だとは到底考えが及ばないだろう。
しかし遺憾なことに、この眠れる残念美人は八雲紫であった。
最近のマイブームは昼寝。朝方の二度寝をこよなく愛していた彼女は西洋におけるシエスタ(午睡)という文化を知り、青天の霹靂ともいえる衝撃を受け、さっそく己の生活サイクルに取り入れた。従来の二度寝と組み合わせることで恐るべき相乗効果を発揮し、生活にメリハリが出るどころかよりいっそう怠惰に磨きがかかったのは言うまでもない。
妖怪の賢者としての貫禄は微塵もなく、幻想郷の創設者としての威厳も地に落ちている。むしろ現在進行形で地中深くに潜っていると言ってよい。
こんなところを誰かに見られたらお終いだということは当人もよく分かっている。でもやめられない、止まらない。そうして大妖怪・八雲紫は、今日も惰眠の限りを尽くし、幻想郷の平和を謳歌するのであった。
「紫様、起きてください」
そんな彼女に冷や水を浴びせるがごとく、夢の外から声をかける者がいた。
襖を開けて紫の自室に入ってきたのは、これまた美しい女性だった。その背後にはふさふさとした艶のある金色の尻尾が揺れている。全部で九本あるそれらは全て、女性の尾骨あたりから生えているものである。
彼女こそ八雲紫に仕える九尾の式神、八雲藍だった。
従者に呼びかけられても紫が起きる気配はない。むしろ嫌がるように、布団を手繰り寄せて頭から被り丸くなる。
藍のただでさえ切れ長の瞳がさらに細く鋭くなる。「こいつ本当は起きたんじゃないか」という思いがありありと顔に出ている。
「早く起きてください。お客が来ていますよ」
「今日は来客の予定はないはずだわ」
布団に埋まりながら紫が言う。藍は盛大にため息を吐いた。
「やっぱり起きているじゃありませんか。さあ、布団を畳んで身だしなみを整えましょう」
「起きてません。寝ています。なんなら今からでも眠れるわ」
「支離滅裂なことを言わないでください」
藍が布団を引き剥がそうとするも、紫はものすごい力で抵抗する。腕力だけなら九尾の狐である藍の方が強いはずなのだが、理不尽きわまる火事場の馬鹿力が働いていた。
業の深い主人の睡眠欲求に、藍はほとほと困り果てる。他人の前ではいつも余裕面でいるくせに、こんなことで必死になってほしくはなかったと腹の底から思う。
客が来ているというのにいつまでも布団の綱引きを続ける紫に呆れて、しまいに「もういいです」と言ってパッと手を放した。
「客というのは霊夢だったんですけどね。なんでも紫様に相談したいことがあると言っていまして。でも仕方がありません、霊夢には申し訳ないですが帰ってもらうとしましょう。紫様はお昼寝で忙しいからとでも言っておきます」
紫は起床した。
妖怪の身体能力を遺憾なく発揮し、文字通り跳ね起きて、つま先から着地する。同時に彼女の姿がまばたきの間に消え去り、いなくなったと思いきや次の瞬間には現れる。再び姿を見せた八雲紫は寝間着ではなく、裾の長い瀟洒なドレスを身に纏っていた。スキマ妖怪の能力を活用した、人智を超えた早着替えだった。
「霊夢は客間ね。藍、お茶を用意してくれるかしら。それと何かお茶請けも」
例のごとく扇子を手にして、全てを見透かすように目を光らせる彼女は、たいした知恵のある存在に見える。無論、さっきまでの寝姿を見ていなければの話だが。
もはや何も言うまいと藍は呆れて「はいはい」と面倒くさそうに炊事場へ向かった。
紫の「はい、は一回」という小言が従者の気苦労に追い打ちをかけた。
〇
紫が客間の襖を開けると、霊夢が座布団の上でちょこんと座り、茶を啜っていた。入ってきた紫の方を向き「やあ」と気安く挨拶をする。
「ごきげんよう。久方ぶりね、霊夢。けどいきなりで驚いたわ。あなたの訪問はいつでも歓迎するけれど、いささか急ではなくて?」
しずしずと歩きながら厳かに言う紫に、霊夢は「うわあ」と顔を歪める。明らかに引いていた。
「やめなさいよそのノリ。こっちまで恥ずかしくなるわ。まるで近所のおばさんが鏡の前で若作りしてるのを目撃しちゃった気分よ」
「ひどいわ霊夢…………ちょっと本当にひどくない?」
「酷くない。普通の反応です」
「嘘よ。昔はもっと優しかったわ。霊夢が小さい頃、寺子屋の宿題で手紙を書いてくれたことあったじゃない。あれ嬉しかったなあ」
「覚えてないわよ。いつの話よ」
「『ゆかりちゃんへ』って、私にくれたのよ。買ったばかりの筆でね、紫ちゃんのことを本当のお母さんだと思っていますって、全部ひらがなで————」
「わかった。思い出した。もういい」
輝かしい子育て時代を懐かしみ始めた紫を、霊夢が決死の表情で止めた。思春期を迎えた少女には自分の小さい頃の話を聞くなど堪えがたいことであった。
「まったく、寝起きだってのに元気ね、ホント」
「あれ。寝起きって、なんで霊夢が知ってるのよ」
「藍が言ったわ。紫様を叩き起こしてくるから客間で待っていてくれ、ってね。昼間から寝てばかりなんて、少しだらしないんじゃない」
先ほどの意趣返しとでも言わんばかりの霊夢に「ぐぬぬ」と呻る紫。地に潜った威厳の回復は叶わなかった。
そんなことを話していると、お盆を持った藍が部屋にやって来た。
「ちょっと藍。あなた霊夢に私が寝てたこと話したらしいわね」
「お腹を出していたことまで言いましたが、それが何か?」
恨めしく見つめてくる主人に「もう少しちゃんとしてくださらないと困ります」と言いつつ、茶菓子と紫の分のお茶を机に置いていく。牡丹に似せた上等な練り菓子だった。
それでは、とあまり邪魔をしないようにと立ち去ろうとした藍を、霊夢が引き留めた。
「せっかくだから藍も一緒に話しましょうよ」
「なんだ。わざわざ訪ねてきたから重要な話だと思ったが、いいのかい」
「ええ。巫女として来たわけじゃないし。ちょっと相談というか、お願いがあるんだけど」
お願い、と聞いた紫の瞳がきらりと光る。すでに手を付けていた和菓子を置き、居住まいを正してコホンと一つ咳払いをする。
「あなたが頼み事なんて珍しい。できるだけ力になるわ。何でもおっしゃい」
親としての沽券復活をしぶとく狙う紫にやれやれといった視線を送りつつ、霊夢は言った。
「時間旅行って出来ないかしら」
紫の目がそっと細められた。
〇
未来にいる文通相手に会ってみたいと言う魔理沙から「紫にとりなしてくれ」とお願いされて、霊夢は八雲紫のもとを訪ねた。着いてみると案の定、紫は惰眠を貪っており、藍にもてなされて客間に上がった。
待っているとやがて身だしなみを整えた紫がやって来たので、藍も交えて本題を話し始めた。
「魔理沙がヘンテコな拾い物をしてね」
魔理沙から聞いた話と、覗き見した手紙の内容を語る。千年後の未来とか、そこから手紙が届いたりこちらからも手紙が送れたりすることを話しても、紫たちは茶化さずに神妙な顔をして聞いている。
事のあらましを話し終え、魔理沙が文通相手を未来からこの幻想郷へ連れてきたがっていることを霊夢は言う。
「いやまあ、そもそもあれが未来から来た手紙かどうかなんて本当は分かんないんだけどさ。でもちょっと気になって。紫なら境界をいじくって、その辺のことも簡単に調べられるかなって思ったんだけど…………」
最後辺りは声が小さくなり、自信なさげに頬を掻く。妖怪や神様なんて存在が当たり前のように生活している幻想郷で育った霊夢をしても、時空を超えるなんてことはとても信じ切ることができなかった。
しかし紫は一笑に伏すこともなく、至って真面目な口調で答えた。
「確かに、不可能ではないと思うわ」
その言葉に霊夢は思わず顔を上げ、目を丸くした。
「私の能力であれば過去や未来へ飛ぶことも可能でしょう。逆にそういった別の時代から何かを引っ張ってくることもね。境界の定義づけがしっかりしていれば、妖力の続く限り大抵のことはできるつもりよ」
「マジですか…………」
思わず口調が変わってしまう霊夢。物心ついた時から親代わりとして育てられてきたが、それでも八雲紫という妖怪は底知れないと改めて実感させられる。
「本当に何でもありよね、紫って。でも良かった。それじゃあ今度でもいいから魔理沙と会って————」
そう言いかけたところで、紫に「いいえ」と遮られる。見ると、紫は眉根を寄せて、少し申し訳なさそうな表情をしていた。
「残念だけど、この件に協力してあげることは出来ないわ」
「なんでよ。さっき自分で出来るって言ったじゃない」
「ええ。可能か不可能かで言えば、たぶん可能。でも実際にやってあげるわけにはいかないのよ。幻想郷の管理者として、あまりにも不確かなことには手を出せないの」
紫は言う。世界とは実に複雑にできており、そして案外脆いものであると。ほんの少し新しい要素が混ざるだけで、水に落とした絵の具がサッと広がるように変化してしまうのだということを。
霊夢は昔にも同じような話をされたことを、ぼんやりと思い出した。まだ巫女になるための修業をつけてもらっていた小さい頃。紫からしきりに、分からないということは怖いことなのだと教えられた。幼い霊夢は「何でもできるのに何が怖いのかしら」と不思議に思ったものだ。
あの時は意味も分からず釈然としなかったが、今なら少しは理解できる。不確定な要素がこの幻想郷にどういう影響を及ぼすかなど、妖怪の賢者の知恵をもってしても見通せるはずがないということを。
多少のことは何とかなる。異変と呼ばれる様々な異常事態に見舞われた幻想郷だったが、今もこうしてちゃんと成り立っている。最初は侵攻を企てていた吸血鬼のスカーレット姉妹やその従者たちはすっかりここに馴染んだし、新しい神社や寺が出来ても変化としては以前にも増して賑やかになったくらいのものだった。
幻想郷は全てを受け入れるというのは紫の常套句であり座右の銘だが、本当に何でもかんでも見境なく、というわけにはいかない。外の世界から来たものが益となるのか厄介事の種になるのか、はたまた住人たちからは歯牙にもかけられず無縁塚のガラクタのようにただ累積するばかりなのか。それすらも見極めるのは困難である。
ましてや千年後の未来という想像すらつかない世界からもたらされるものが一体、幻想郷にどんな波紋を呼ぶのか予測できるはずもない。触らぬ神に祟りなし。紫の判断は幻想郷の管理者としては至極真っ当なものであった。
「あ、じゃあ魔理沙の方から未来に行くっていうのは?それなら向こうからの影響は気にしなくてもいいだろうし」
代案として魔理沙に言われていたことを口に出した霊夢だったが、それも首を横に振り却下されてしまう。
「ダメよ。魔理沙だって幻想郷の一員だもの。そこにどんな危険があるのかも分からないのだから、行かせるわけにはいかないわ」
幻想郷の一員。危険があるかもしれない。
そう言われては、気が強く意見をあまり引っ込めることのない霊夢でも黙るしかなかった。
紫は力になれなくて残念だと言う。個人としては協力したいが、世界の管理者として断るしかない。普段はあまり表に出さない、育ての親である八雲紫の苦労を、霊夢は垣間見た気がした。
「そっか。それなら仕方ないわよね。分かった。魔理沙にはちゃんと理由も説明しとくから」
「ごめんね、霊夢。文通だけなら今のところ問題もないようだし、続けて構わないと魔理沙に伝えておいてちょうだい」
場に漂っていた緊張感は解けて、和やかな空気になる。
「藍、あなたから他に言うことはあるかしら」
「ふむ。そうですね」
それまで黙って二人の会話に耳を傾けていた藍に、紫が話を振る。藍は口元に手を当てて少し考えてから言った。
「なぜ紫様は私の分のお菓子まで食べてしまったのですか」
三人の視線が紫の手元に注がれる。そこにはきれいに和菓子を平らげた後の皿が二つ並んでいる。霊夢の話に相槌を打っている内に、知らず知らず手を伸ばしてしまっていたらしい。
呆れかえる霊夢と藍に向かって「てへぺろ」と紫が自分の頭を小突く。
かくして彼女の権威は再び地に堕ちたのであった。
〇
しばらく茶を飲みつつ談笑してから、霊夢は帰っていった。見送ろうと屋敷の外まで出た紫と藍は、去っていく霊夢の背中をじっと見つめる。
「大きくなりましたね」
藍が言う。「ええ」と紫。
「でも、まだまだ子どもなのよね。きっとこれからどんどん変わっていくわ。あの子自身も、その周りも」
「心配ですか」
藍の率直な問いに、紫は「そりゃあね」と苦笑する。
「これでも親のつもりですからね。気にしているのよ。もう一緒に暮らしていないこととか、ね」
「仕方ありません。紫様は管理者として、霊夢は博麗の巫女として。お互いが幻想郷に対して中立を保たなければなりませんから。幼少期を過ぎたら過干渉をしないと決めたのは紫様ご自身ですよ」
「分かってるわよ」
「紫様はたまに霊夢を甘やかしすぎます」
「そうかもね。本当は娘の友達にくらい、力を貸してあげたいものだけど」
「我慢ですよ。我慢」
「分かってるわよ」
もう霊夢の後ろ姿も見えなくなった。屋敷に戻る紫のあとを追いながら、藍は訊ねた。
「それで、どうなさいますか。先ほどの魔理沙の件は」
「言ったでしょう。協力はしないけど、邪魔もしない。私はあくまで中立なのだから」
そこまで言って、紫はふと足を止めた。手に持っていた扇子を広げ、誰に見せるでもなく口元を覆う。細められたその瞳には妖怪の賢者にふさわしい叡智が確かに宿っていた。
「ただ、そうね。様子を見に行くくらいは、すべきでしょうね」