夏の空はずいぶんと高く見える。太陽の光は目に痛いほど強烈なのに、それに照らされている空の色はどこまでも優しい。長いこと見つめていると、あの澄んだコバルトブルーが宇宙の果てまで続いているような気さえしてくるから不思議だ。
遠くには、こんもりと積もった入道雲が聳え立つ。威風堂々としたその様は、まるで噂に聞くエベレストのようである。抜けるような青空にうず高い雲の白色がくっきりと映り、それが何とも芸術的に見える。
野原に仰向けで寝転んでいる魔理沙は、空を見ながらそんなことをつらつらと考えていた。青空や、そこに浮かぶ雲をじっと眺め、情緒的な文を思い浮かべてはたまに独り言として呟いたりしている。
やがてそれに飽きたのか、ごろんと寝返りを打って体を横にする。
「なんかイマイチだよなあ。宇宙とかエベレストとか無駄に壮大にし過ぎたな。うん」
そう言いながら、持ってきたカバンをごそごそと探り、中から一枚の紙を取り出した。先日、千年後の未来の人間である八柳誠四郎から送られてきた手紙だった。折り目など付けないようにしてはいるが、もう何度も読み返したようで便箋の端が少しよれている。
空が青いなんて当たり前のこと、どう表現すりゃいいんだか。
魔理沙は内心でぼやく。いざ相手に読まれると思うと、なかなか筆が進まなかった。
八柳は手紙の中で熱く、自然の景色が知りたいと語っていた。どうにも未来では植物や虫さえ珍しく、晴れた青空すらお目にかかれないという。あまりに自分の知る現実と乖離しすぎているので、魔理沙はその光景をしっかりと思い描くことが出来ない。
手紙から目を放し、もう一度空を見上げながら、あれが全部灰色だったらと考えてみる。どんなに寂しいだろうと想像する。
しかし魔理沙の頭に浮かぶのはただの曇り空で、別段なんとも思わない。連日曇ってばかりなら確かに憂鬱だろうなとは思うが、晴れて欲しいと熱望する感覚はどうにも理解しがたかった。ほっときゃその内晴れる、という楽観視がどうしても無意識に混じる。
「想像力無いのかなあ、私」
ガッカリしたように魔理沙は言う。
この幻想郷の景色を見てみたいなら、いっそ連れてきてしまえばいいんじゃないかと思い立ち、八雲紫に協力してもらうべく霊夢に仲介を頼んだのは三日ほど前のことだ。それから一晩経って意気揚々と博麗神社まで返事を聞きに行ったが「ダメだって」と霊夢に言われた。
発案した魔理沙自身、その結果はなんとなく予想していたので気落ちはしなかったが「じゃあどうやったら、景色の美しさなんかを文で伝えられるのかしら」という問題に直面した。今もこうして大自然の中に身を投じて肌で味わっているが、この心地よさまでも手紙に写すのは困難に思われた。
自分が未来の世界のことなど想像できないように、向こうも説明されたところでよく分からないのではないか。そんな中で相手の喜びそうな手紙は何だろうと考えれば考えるほど、いよいよ書くべきことが分からなくなっていく。
そうして「空が、雲が」などと呟いている内に、魔理沙の表情がだんだんと緩み、瞼が降りてくる。うつらうつらとし始めた、そのすぐ後には寝息を立て始めてしまった。
のどかな草原の、木陰の下。太陽が白熱してはいるが、吹き抜ける風は涼しく乾いていて、絶好の昼寝日和だった。
シロツメクサがさわさわと揺れる野原の中で、魔理沙は心地よさそうに夢の世界に落ちていった。
〇
うすぼんやりとした意識の中で、自分は夢を見ているのだと魔理沙は思った。
周りには何もない。くすんだ灰色の靄みたいなものが広がっているばかりだ。いや、靄の奥に巨大な建造物らしき影が見えるが、それが何であるか定かではない。ただそこに人が住んでいる気配はなく、廃墟となった街にいるかのような荒涼とした寂しさだけが満ちていた。
さざ波の音が聞こえた。
振り向くと、そこは水平線の見える海岸であった。海はやっぱり灰色で、空との境目が曖昧だ。魔理沙は夢の中であるにも関わらず臭いを感じた。今までに嗅いだことのないような酷い汚臭だった。
見渡すと建造物の影は無くなっており、代わりに山のような瓦礫が連峰のごとく積み重なっている。
そんな中で、ふと海岸線に誰かが座り込んでいるのを見つけた。誰だかよく分からない。その人を知っているようでもあるし、全く知らない気もする。シルエットがぼやけていて、男か女かも判然としない。ただ、なぜか異様に痩せこけていて、骨に皮がべったりと張り付いている物悲しい背中だけが、魔理沙には克明に見えた。
その人が今にも死んでしまうんじゃないかと思って、何か声をかけようとするが言葉にならない。言っても相手には聞こえないような気がしたし、そもそも自分がふさわしい言葉を持っていないようにも思えた。
そうやって迷っているうちに、魔理沙の意識はだんだんと夢の世界から離れていく。灰色の景色に黒が混ざり始め、いつの間にか瓦礫の山も無くなった。
もうちょっとなのに。あと少しで届くはずのに。
自分でも訳が分からないまま、魔理沙は強くそう思った。燃えるような衝動の中に、それを凍てつかせる無力感がこびりついていた。
涙を浮かべる魔理沙の視界が暗転するその瞬間、力なく項垂れて座り込んでいたその人物が不意にこちらを向いた。やはり誰かは分からない。
でも微笑んだように見えた。彼は、彼女は、たしかに魔理沙を見て優しく笑った。
何かを言っている。聞き取らなきゃ。
そう思いながらも魔理沙はとうとう夢から弾き出されてしまった。あの人が何と言ったのか、結局聞くことは出来なかった。
「魔理沙…………あなたは……………………」
〇
魔理沙は跳ねるように起きた。心臓がバクバクと脈打っていて息も荒い。服が寝汗でびっしょりと濡れてしまい大変気持ちが悪かった。
辺りを見渡せば、当然のことながら寝る前と変わらぬ草原が広がっている。青い空に輝いている太陽はまだまだ高いところにある。時計を見ると小一時間ほどしか眠っていなかったらしいことが分かった。
見慣れた景色。子どもの頃も遊んだ記憶のある草原。
そんな場所なのにどことなく違和感を覚えつつも、魔理沙はさっきまで何の夢を見ていたのか思い出せず首をひねった。悪夢に近かったような気がするが、内容をちゃんと憶えていない。
まあ、憶えていないならそこまで大したものでもなかったのだろうと、自分に言い聞かせる。
「あっ!」
鞄もすぐ側にあることを横目で確認したと同時、魔理沙は自分の手に握られているくしゃくしゃの手紙に気付いた。寝ている内に握り締めてしまっていたらしい。風に飛ばされるよりはずっとマシだが、落ち込まずにはいられなかった。
「あー、やっちまった」
しょぼくれながら、どうにか真っ直ぐになるように便箋を伸ばしてみる。破れたところはなく、手汗で文字が滲んだりしていないのは不幸中の幸いだ。しかしすっかり萎れてみすぼらしくなってしまった手紙からは、そこはかとない哀愁を感じる。
家に帰ったら本を重石にして伸ばしてみるかと考える。または香霖堂で、こういう手紙なんかを保管するのに便利な外の世界の道具でも探すのが良いだろうか。
そんなことを考えながら手紙を伸ばしていると、魔理沙の脳裏に一つのひらめきが天啓のごとく舞い降りた。周囲に生えているシロツメクサに目を向け、その内の一つを摘み取ってまじまじと見つめる。
「そっか。そうだよ。何も送るのは手紙だけじゃなくても良いんだよな」
昔、まだ魔理沙が右も左も分からず実家の近所で迷子になって泣いてしまうような子供だった時分、寺子屋に通わされていたのは勿論のこと、家の中でもさまざまな稽古事をさせられたものだ。
魔理沙が毛筆の扱いに長じているのもそのためだが、書道の他にも茶道や華道など、良家の女性が嗜むようなことはだいたい習わせられた。嫌気の差した幼き魔理沙があの手この手でさぼろうとしたのは言うまでもないことである。
華道の先生と差し向かいでお稽古をしていた折、押し花の作り方なんてものを習った覚えがあった。先生は「ごらんなさい」と言ってシロツメクサで作った押し花を見せてくれた。硝子張りの小さな額に収まったそれがとても可愛らしくて「欲しい欲しい」と駄々をこねて畳の上を転げ回った記憶が、うすぼんやりと魔理沙の海馬から蘇る。
いや、そんなことはどうでもいい、と恥ずべき過去に蓋をする。
とにかく魔理沙は、未来で物寂しそうにしているであろう誠四郎に押し花を送る所存のほぞを固めた。摘んだままの生きている花を送れる可能性は低いが、ある程度保存できる物なら試してみる価値はある。
「でも普通のじゃつまらないもんな。折角だから、どデカいことやってみっか」
魔理沙は草原の向こうにある、こんもりと盛り上がっている小高い丘を見つめた。太陽の畑と呼ばれるそこは幻想郷でも類を見ないほど肥沃な土地であり、夏になればヒマワリが丘の頂上一面を覆い尽くす屈指の名所だ。
今の季節はちょうど初夏。あの丘の上は黄色い大輪の花で満ちていることだろう。
「問題は幽香だけど…………まあタダじゃくれないわな、きっと」
魔理沙は丘を見据えながら「うーむ」と呻った。
太陽の畑はたいへん肥えた土地であり、低級の妖怪が出る心配がほとんどないにも関わらず、そこを訪れる者はほとんどいない。むしろ皆無と言っても良い。人足の少なさは無縁塚にも勝る。人里に住む人間はもちろん、霖之助やアリスなどの変わり者、知能の低い妖怪ですら近寄ろうとはしないのである。
それはひとえに、太陽の畑を縄張りとする存在がいるからに他ならなかった。
『大妖怪、風見幽香』
花妖怪という極めて珍しい種族にして、その力も比肩するものはないと謳われる、幻想郷において屈指の実力者だ。彼女の可憐な容姿と、四季折々の花を司るとされる優しげな能力だけを見るならば、誰も幽香を畏れたりはしないだろう。
しかし幻想郷で生きる者たちにとって、幽香は紛れもなく畏怖の対象であった。誰もが彼女を畏れている。かの妖怪の賢者と同等か、あるいは上回るとすら目される桁外れの妖力を。そして何よりも、長きに渡って語り継がれている残忍極まるその性格を。
だからこそ人も妖怪も彼女を忌避し、太陽の畑には近づこうとしない。人里では風見幽香の縄張りには決して行かないようにと、子どもたちに口を酸っぱくして言い聞かせるほどである。魔理沙も小さい頃からそう言われて育った。太陽の畑にある花を荒らしたが最後、どんな恐ろしい目に遭うとも知れないからだ。
「殺されたりはしないんだけどな」
魔理沙はそれが自然なことのように呟いた。その顔はまるで確信を持っているかのようだった。
風見幽香が管理している太陽の畑に踏み入り、あまつさえ花を貰おうとするなど、一般人が聞いたらそれだけで卒倒しそうな話である。
しかし魔理沙は「手土産の一つでも用意した方がいいかな」などと言いつつ、幽香のもとを訪ねることに決めたのだった。
〇
魔理沙は箒に乗って、鮮やかな黄色に覆われている丘の上にやって来た。一様に太陽を仰ぐようにして屹立しているヒマワリの群れの眺めは壮観だった。
上空からだと太陽の畑の全体がよく見える。確かに群生するヒマワリが目立つが、他にも様々な花が咲いていたり蜜柑や桃の木が点々とあったりと、彩りがとても豊かなことを魔理沙は初めて知った。
そこから少し奥へ行けば、小さな一軒家が建っている。三角の屋根をした西洋風の可愛らしい家で、白いコンクリート壁には植物がツタを這わせている。裏口にあるテラスはぶどう棚で覆われていて、その下に簡素なイスとテーブルが置かれているのが見えた。そこが風見幽香の住まいだった。
魔理沙は深く息を吸ってから、箒の柄を斜めに下げて、すいっと地上に降下した。ヒマワリ畑の中に立ち、自分の背丈よりも高い花々を見上げて「おお」と感嘆の声を漏らす。空からでは分からなかったが、その威風堂々とした立ち姿は、夏の花の王様と呼んでも過言ではない貫禄があった。実物を前にして「これを贈れば誰だって驚くぞ」と魔理沙は自分のサプライズ計画に改めて感心した。
あっちにもこっちにも生えているヒマワリを見回しつつ、魔理沙は幽香の家に続く小径を進んだ。
「久しぶりだな」
石段を上り、アーチ型の玄関の前に立って、そう呟く。頬がわずかに紅潮しているのは夏の暑さのためだけではないだろう。胸に当てた手から伝わってくる心音が、自分が緊張していることを知らせてくる。
魔理沙はいったん自分の腕を嗅いで、汗臭くないか確認する。一度家に帰って水浴びをしてきたので今はサッパリとしている。他にも服のほつれや前髪の先っちょを直し、土産の団子が包みの中で崩れていないか確かめる。
いつになく念入りに身だしなみを整えた魔理沙は、胸に手を当てて深呼吸した。
準備は万全。意を決して扉をノックする。少し待つと、家の中からコツコツと靴で歩く足音が聞こえてきた。ドアノブが回り、蝶番をキイと鳴らして扉が開かれる。
「あら」
中から現れた女性は、魔理沙を見て驚きの声を上げた。
整った目鼻立ちに薄い唇。背丈は魔理沙と比べて頭一つ高いくらいで、膝より少し長いスカートの裾からは細く白い足が見える。夏らしく袖のない涼しげなブラウスを着こなしていて、ただ立っているだけの姿勢やちょっとした仕草までもが実にたおやかである。その声音も慎みのある可憐なもので、威圧感など一切ない。
そこだけ切り取って見れば、誰だって彼女を淑女だと思い込み、警戒などするはずもないだろう。
しかしこの女性こそ、あらゆる存在から畏怖される大妖怪、風見幽香その人であった。淑女然として力強さなど微塵も感じさせないその細腕で、幾百もの強者を打ち倒し伝説を築き上げてきた怪物の中の怪物。
魑魅魍魎も裸足で逃げ出すと云われる彼女は、急な来訪者をきょとんと見つめている。
やあ、と魔理沙は遠慮がちに挨拶をした。
「久しぶりだな、幽香」
「ええ、本当に久しぶり。元気だった?」
「ぼちぼちかな」
最初こそ面食らったように固まっていた幽香だったが、言葉を交わすうちに柔和な表情を見せ始めた。そればかりか「よく来たわね。暑かったでしょう」と、はるばる遠路から泊まりに来た孫を迎えるようなセリフまで言う。どこまでも大妖怪には似つかわしくない穏やかな対応だった。
それで魔理沙も緊張が解けたようで、無意識に張っていた肩肘からストンと力が抜けた。
「あのさ。今日は幽香に頼みたいことがあって来たんだけどさ」
魔理沙がモジモジとしながらそう言うと、幽香は「そう」と微笑んだ。
「立ち話もなんだし、とりあえず家にあがったら?」
幽香が扉を大きく開き、魔理沙が通れるよう半身になって促す。
少し悩み、魔理沙は幽香に誘われるまま、彼女の家に入っていった。