「なんでもないから」
あいつの対応はすばやかった。
手でさっと顔をぬぐい、息をととのえて、いつもと変わらない表情を向ける。
おれは、ソアのすこし充血した目を見ながら言った。
「誰に泣かされたんだ?」
「デリカシーないなぁ」ちょっと、笑顔が出た。「女の子は、ときどきこういうことがあるのよ」
「花粉症……じゃないよな?」
「うん。ちがうよ。悲しいことがあったから泣いてたの」
なにがあった、と深追いするのが、すなわちデリカシーがないってことだろうな。
おれはにぎったままのポケットティッシュをポケットにもどした。
「泣くってストレス解消になるって、知ってた?」
ソアが無理に――幼なじみのおれにはそう見えた――ほほえみながら、そんなことを言う。
「わたし、もうちょっとだけストレス解消していくから」
ベンチに座ったままで体勢をかえて、ソアは背中を向けてしまった。
しかたない。これは「さっさといってくれ」っていう無言のメッセージだ。
帰るしかないな……。
駅までは、だいたい閑静な住宅街をとおることにしている。
だからあまり物音がない。道を歩いている人の姿もない。
そこに、
「おーい、あほ」
うしろから。
すごくクリアに声が聞き取れた。
ふりかえると、二つの目を黒いレンズでかくした
「よろこびなさいよ。これ、差し入れ」
黄色い半透明の袋。ドラッグストアのもののようだ。
「はい」
とわたされたのは、湿布。
「授業中、ずっと背中とか腰のあたりをさすってたでしょ? いたいんじゃないの?」
「いたい」と、おれは素直に答えた。「廊下で一本背負いされちゃったから」
う。
ブラックのカーテンのせいで見通せないが、おれにはわかる。
確実に軽蔑のまなざしを浮かべているぞ。
「またそうやって、くだらないことを言う」す、とサングラス……じゃなくて、眼の病気予防とかの黒いメガネの
「はは」とおれは愛想笑い。「もらっていいの?」
「いいよべつに。ほかに買うついでがあったから、買っただけだし」
そう言うが、袋には湿布以外、入ってなかったみたいだったけど。
とにかく、ありがたいな。
あれ――?
(手がふるえてる)
湿布を持つ、おれの手が。
あわてて、スクールバッグにそれをほうりこんで、笑ってごまかした。
「帰るんでしょ」
行こう、とばかりに深森さんがあごをくいっと動かした。ハリウッドの女優みたいでかっこいい。
「それで……また、あの話を聞かせてよ」
「あの話?」なんのことだ、と、左を歩く深森さんを見た。
「ほら――告白を成功させないと卒業できない、っていう妄想の話」
おれはすぐに否定した。
だが深森さんは、はいはい、という表情を浮かべるだけ。
「そんなのカンタンじゃない」
彼女は、意外なことを言った。
「すでにいるでしょ? オッケーしてくれそうな相手が」
まさか。
まさか、だぞ。
これって、遠回しの告白なんじゃないか? いつのまにか深森さんが、おれを……。
その相手っていうのは――
「片岡さん」
ずるり、と地面をふんだ右足が前に数センチすべった。あぶない。ころんでたまるかよと左足でふんばる。
「
言うべきかためらったが、
「フられたんだ……」
と、思わず口をついていた。
時間的には、だいたい二週間ぐらい前、おれは
「え、そうなの」と、深森さんはケロっとしている。「へー」
「へー、って何」
「意外とがんばってるんだなー、って意味」サラサラのショートカットに
そこまでして、っていうのはおれの
女子といっしょに歩く緊張のせいではないと思いたいが、いつのまにか歩行速度が上がっていた。
「っていうより、カノジョができないと卒業できないんだよ」
「また言ってる」
背中に感触。
あ
ほ
と、指で書かれた。
反論しようとおれがそっちを向くと、
(――ん?)
前方に視点をさだめたまま、かたまっていた。
わん、と小さな鳴き声。長いリードを地面にひきずった小犬がトコトコあるいてきた。
めちゃめちゃかわいいじゃないか。
犬種にくわしくないから種類はわからないけど、黒い毛がモフモフした犬。
わん、とまた鳴いた。
どうしよう……飼い主の許可もえずに勝手にさわっちゃダメだよな、でもさわりたいな、ねぇ深森さんもそう思わない? と見ると、
(~~~~~っ!)
そんな感じで、声を押し殺して恐怖にたえているような様子。
犬がうごく。
するとその倍以上のスピードで、おれの背後に回ってかくれた。
「冗談だろ……」
という感想。
こんなの今どき、マンガでもないぞ。
大型犬というのならいざ知らず、ただの犬、ただかわいいだけの小型犬にすらおびえる女子なんか――
「い、犬はダメなのよ! 犬はっ!」
遊んでくれると思ったのか、おれよりも、彼女めがけて駆け寄る犬。
その数分後、飼い主がここにやってくるまで、深森さんと小犬がおれを中心にしてぐるぐると走り回りつづけた。
◆
つまらない。
と思いつつ二時間ガマンした。
三十年くらい前の映画。DVDプレイヤーから出して、ディスクをレンタル屋さんの袋に入れる。あと二つある。
しっとりとした恋愛模様をえがいた映画で、こういうの好きな人は好きなんだろうけど、おれの感性ではその面白さを理解できなかった。無念だ。
まあ、これは楽しむのが目的じゃない。
勉強だ。
遠峰さんと話を合わせるための勉強。テストのそれさながらに、登場人物の名前とかストーリーとかをノートにメモっている。
ベッドに座ると、
ズキン
と、腰がいたんだ。
そこには、差し入れられた湿布が貼られている。
まいったな。
明日には、よくなってるといいけど……。
スマホを手にとった。
小学生のときから使ってるあいつのメアドにメールを送る。
「元気か?」
すぐ返ってきた。
「元気」
これだけ。
まったく味気ないな。あいつらしいけど。
「ほんとに元気か?」
爆速のリプ。
「しつこい」
それだけ。しかしその数秒後、
「怒ってるわけじゃないよ。ヒロシならわかると思うけどね」
という追記が届いた。
違和感。
メールだからかもしれないが、いやメールでも、あいつはおれのことを「コクちゃん」とか「コク」とかで呼ぶ。
ちいさいときから、ずっとそうだ。
(そういや、おれって〈
家族以外で、こうやって下の名前で呼ばれたのは久しぶりだ。
「わかってますよ、片岡さん」
と、わざと〈さん付け〉でメールを送った。
返事はこない。
疲れたので、もう寝ることにする。
まぶたを閉じたとき、あいつの名前を入力する途中の変換候補で出てきた〈片思い〉の文字が、なぜか一瞬フラッシュのようにあらわれた。