三題噺   作:むかいまや

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2回目


蛙、家来、誘蛾灯

 ぼさぼさの長髪を掻き上げながら、彼はベランダから外を見渡す。一面に真夜中が広がっていた。

 彼は東京から辺鄙な地方へと引っ越してきた。彼は思わず故郷の夜を想起し、ため息をついてしまう。それもその筈、進学の為に選んだ場所とは言え、彼は都落ちも良いところだとさえ考えていた。

 彼の成績は別に悪い訳では無い。むしろ偏差値で言うなら上位に入る。何故地方の国立大学に進学したのか? という問は彼にとって最悪の質問だった。

 彼は自身の遍歴に苛立ちを改めて覚える。

「……ちっ」

 思わず舌打ちをし、彼は指に挟んだ煙草を咥え、火を点ける。

 浪人すること二回。全て東京大学を目指しての挑戦だった。それを彼は後悔していない。それについて尋ねられても平然と答えられる。日本最高峰の大学。それは誘蛾灯の様に彼を魅了していた。

 しかし、二回目の浪人が決定した時、親から一言言われた。東大は諦めろ、と。

 彼は激高し、逆上し、絶望した。十代の最後の時期を全て勉学に費やし、失敗し、尚諦めず、成功を望んだのに、それを諦めろと言われたのだ。無理もない。

 親からの言葉に対して彼は数日もの間、向き合った。そして決めた。

「国立の医学部なら文句ねーだろ? 受かってやるよ」

 彼の両親は怪訝な顔をしながらも、承諾した。

 そして彼は大学を選び、そこひとつに目標を絞って勉学に励んで、合格したのだ。

 両親は口々に彼を褒め称える。東京に残った友人も、東京から出た友人も、かつての恩師も、皆、彼を褒め称えた。しかし、彼は合格の通知に喜ぶそぶりさえ見せなかった。達成感すら抱けなかった。

 

 結局、彼にとっては『東京大学』以外『大学』では無いのだ。学部云々の問題ではない。

 

 ぐわぐわと蛙の鳴き声で、真夜中は満たされていた。

「医者、ねぇ……」

 彼は煙草の煙を深く吸い込んで、長く吐き出した。

 彼が医学部を目指すと宣言してから少し調べたことがある。それによって生まれた偏見が彼の中に満ち満ちているのだ。そしてその偏見は、他者からしてみれば明るいはずの未来に陰を落とし続けていた。

 開業医でもなければお偉いさんに家来のようにひっついて、出世を目指す……という偏見。

「くっだらねぇ」

 彼は外に持ち込んだ灰皿に、煙草を力任せに押し付けて呟いた。

「俺は……俺は……」

 自分の人生を生きたかった。自分の力ひとつで成功したかった。彼は脳裏に浮かんだ言葉を繰り返す。

「……」

 けれども、医学というのも悪くない、と思い始めていた。そもそものことを言ってしまえば「東大に生きたいから東大に行く」という以外の考えなど抱いていなかったのだから、学べさえすれば何でも良かったのだ。

 暗記と暗記と暗記。彼はそれが嫌いではなかったし、知らない知識ばかりに晒される事も気持ちを昂ぶらせさえした

 知識の獲得が彼にとっての生きる原動力だった。

「しゃーねえ、やるっきゃねえか……現場になんか興味ねえしな」

 彼は担当教授との会話の中でひとつの筋道を見つけていた。大学院へ進学し、研究職を目指すという選択。大学進学で挫折して、初めて見つけた目標になりうるものだった。当然、彼は東京大学大学院へと進み、今までの失敗を巻き返そうと考えた。

 結局、院だろうと研究職だろうと上司に媚びへつらうのは変わらないかもしれないと思いながらも、かつて目指した夢は諦められないのだ。

 そうと決まれば、と彼は呟く。

「勉強、すっかな」

 彼は灰皿を手にし、部屋へと戻った。

 そして、真夜中にペンの走る音が微かに混じる。




知らない世界なので妄想過多

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