そこはある地方都市から数十キロ離れた林の中にある。林は双子の様にそっくりなシルエットのふたつの山に抱かれて、ひっそりと佇んでいた。
朝には霧が立ち込め、夜には暗闇にどっぷりと浸かる。辺りには民家も無く、畑さえ無い。だから、生活道路のような道さえ無く、文字通りの無人。せいぜいが数ヶ月に一度の送電鉄塔の保守点検に来る集団がいる程度の、現世から隔絶された世界だった。
そんな林に女がひとり、やってきた。
彼女は羽虫をぶんぶんと手で追い払いながら呟く。
「うっわぁ……ホント、なんで来ちゃったんだろ……」
彼女は背負ったリュックサックをガサガサ揺らしながら、林を進む。思わず呟いたのは孤独への恐怖を紛らわすためだった。
そもそも彼女がここに来た理由は曖昧な好奇心だ。
当初は山々の風景のスケッチのためだった。その為に自宅から車を一時間以上走らせ、車載した自転車に一時間も乗ってここまでやってきた。
そして、山々に抱かれた林を見つめながらスケッチブックに鉛筆を走らせている内に、彼女は魅了された。林の中を探検しようという冒険心を捨てて鉛筆を走らせることに集中できるほど、彼女は大人ではなかったのだ。
道無き道を進むと、俄に大地に傾斜がかかり始める。
「……ん、山に入っちゃったかな?」
スマートフォンに表示した周辺地図に記された等高線の感覚はまばらだった。が、上り坂には変わりない。
彼女は後ろを振り返り、前を向き、地図を見る。林に入ってから、暫く歩いていた。もう少し進めば林は森へと変わるだろう頃合い。加えて、林の入り口は遠く隠れて見えなくなっていた。
「さて、と……この辺にしとかないとかなー……」
彼女は今日、森へ入る事も山へ入るこ事も想定していなかった。それはつまり、下手に踏み入れば遭難の恐れがあるばかりではなく、死の危険にさえ近づくことだ。それを判断し、帰路に着くことを選べる程度には、彼女は賢い……のだが、地図にある文字に彼女は心を奪われた。
「……っと、なにこれ、沼……?」
地図には『沼』とだけ書かれていた。
彼女はリュックサックから下がる水筒に口を付け、ぼやく。
「もっとこう……あるでしょ、ナントカ沼とかさ……」
名前すらない、現象だけとも言える漠然とした表記。ひと目見たいと思ってしまったら、彼女は自分を止められない。
「んーと……一キロも無い、か……それくらいなら、うん」
登道から東にほんの少し逸れた場所、彼女の地点から一キロ。それだけ確認して、彼女は進み始めた。
木の根や落ち葉、枝、石ころ、岩、ぬかるみ……そんな諸々を踏み越えて、十数分。彼女はそこに到着した。
「わお……」
林の終わりは、すなわち沼の始まりだった。下草の生える場所などは無く、いきなり水面が広がっている。注意深く進んでいなかったら、そのまま落水してしまうと彼女が思ったほどだ。
彼女は近くの木に手をあてて、周囲を見渡す。晴れ渡った空に、雲ひとかけら、遮るものの無い陽光は、辺りをまざまざと照らし出している。
沼を囲むように林が広がり、奥の方には露出した地面が見える。水面からは葦のような直立する植物が乱立していて、そこから漣のように波紋が広がっている。微風を受けて、葦がわずかに揺れているのだろう。
彼女から見て右手奥側では水面自体が緑色に染まる箇所があるが、恐らく浮草の類だろう。彼女はすぐ目の前、足元を覗き込む。水は非常に澄んでいたが、底は見えない。恐怖を感じこそしないが、仄暗い印象はどうしても拭えなかった。
冒険の成果、宝物。そんな言葉が彼女の頭を過る。足元に注意を払いながら、そっとしゃがみ込む。
「けっこー綺麗じゃない?」
誰にともなく尋ねる。答えは当然帰ってこない。
暫くしゃがみこんで景色を楽しんでいると、対岸の林から何かがぬっと現れる。真っ白な牡鹿だった。思わず彼女は息を呑んで、鹿を見つめる。
辺りを警戒しているのだろう、きょろきょろと周囲を見回し、耳を細かく動かしていた。神聖にすら思われるそれは、厳かに首を下げて水面に口を付ける。そして、数秒も経つと彼は首を上げ、顔を震わせた。頭部から生えた角が、儀式を執り行うかのように空を切る。
彼女はそっとスマートフォンを構えようとした。衝動的に光景を切り取りたかったのだ。が、その気配を悟ったのか、牡鹿はさっと彼女の方向を見つめ、踵を返す。彼女が神秘の儀式を妨害したと錯覚するよりも早く、牡鹿は跳ねながら林へと消えていった。
彼女はそれから数分の間、呆然としていた。
神秘に見えたこと、それを邪魔したこと。美なるものに遭遇したこと、それから認識されたこと。出来事への偶然、必然。そんな思いが彼女の胸の中で巡り続ける。
立ち上がった彼女の胸の中で、思いはひとつの答えになって止まった。
写真を撮って額に飾る、という邪な思いは叶えられなかった。ならば、どうするか。彼女は呟く。
「描こう……」
果たして彼女に自然の美しさがどれほど描けるだろう? 彼女にさえ自信は無く、恐らく、世界の誰もが首を振ったかもしれない。
けれど、胸に抱いた光景を、ゆっくりと寝かせ、熟成させ、形を新たに与えることが、彼女には出来るのだ。その幸いに、彼女は誇りを抱いた。