秋の暮のある日のことだ。その日は冬の匂いのする冷たい風が吹いていて、気温が低かった。冬の始まりだと呟く人も居そうな、そんな日。
浜辺にひとつ、ハンモックが揺れていた。日本の、それも涼しいどころか寒さすら覚える日にわざわざこんなものを使うのは伊達や酔狂を通り越して狂人のそれである。
無粋にも思えるほどの簡素な作りで、折りたたみ式。そんなハンモックに寝転がり、風の吹くままに揺れる男は器用にベースボールキャップを顔にかぶせている。流石に彼は時期に合った長袖長ズボンの出で立ちだが、やはり、奇妙にさえ思える。
ざぶんと一つ、波が鳴る。
男は眠っていた。
数時間に及ぶ行軍を終えて安息の地に到着した軍人の様に、眠っていた。
話は簡単だ。彼は恋人と喧嘩した。それだけ。
けれど、彼なりに色々思うところもあったのだろう。夜通し車を走らせて、わざわざ浜辺に来てカッコつけるだけの何かは、少なくとも。
彼とその元恋人との付き合いは十数年に渡る。
中学生に入ってしばらくすれば、緊張ばかりしていた筈の学生たちは当然めくるめく新しい出会いに心を沸き立たせる。浮足立った彼は、小学校の頃から面識のあった女性に声をかけた。そこから先はとんとん拍子。男女ともに緊張と興奮と、ちょっとした背伸びをして、新しい付き合いに憧れていたのだから。
そんな興奮の時期はすぐに終わった組み合わせが多いのは、言うまでもない。所詮友達の延長線で、卒業までの時期の埋め合わせに過ぎない彼ら、彼女らの半歩進んだ関係など、当然長続きする筈が無いのだ。
だが、男は違った。
なんのかんのと性格が合い、趣味も似ている二人。学力は男が一段劣っていたが、運動は彼が一歩勝る。元恋人は割におおらかな人種だったのか、学生生活中のあれこれとした問題を飲み込むかのように対処し、彼らの間に亀裂が生まれることもなかった。
そんな具合で、中学生活が終わり、高校生活が始まる。問題もあるにはあったが、いずれも男が頑張る形で決着が付いた。彼は粘り強かったし、あの手この手と策を講じて、幸運も味方していた。そして、高校を卒業し、大学にふたりして入学、卒業、就職……順風満帆だった。
ふたりが一緒に暮らし始めて、六年を過ぎた頃のある日のことだ。
「ねぇ、そろそろさ……」
女が楽しそうに、けれど緊張しながら彼に尋ねる。
「そろそろ……ん、そうだな、話さないとな」
男も重苦しい雰囲気をまといながら、彼女に答えた。
「けっこ――」
「別れよう」
沈黙がふたりに訪れた。
「……は? どういうこと?」
男はソファに深く座り直し、視線を窓の外へと向けていた。
「そのままの意味」
「いや、それがわからないって言ってるの」
男は口を開かず、窓の外を眺めたままだった。何を言おうか、必死に言葉を探るようでもあったし、相手の急所を突く為に時を見計らっているかのようでもあった。
「ねえ、そういうのやめてって言ったよね? 別に、別に! 本当にそう思ってるんなら、良い……けど……理由を聞かせてよ」
困惑と怒りで語勢が強くなった女をなだめるように、男は口を開く。
「……転職する」
「それで別れる必要なんて無い。そうでしょ? 引っ越すにしても、私だって転職すれば――」
男は首を振る。
「お前の職歴に傷が付く。それに、今の職場はイイトコだろう? そこをわざわざ……」
女も首を振った。
半ば意固地になりつつある彼女は、深呼吸をしてから言う。
「……知らない、そんなの。……なんで?」
「別に何があったワケじゃない。大学の……佐藤って覚えてるか? 俺と同じ学部でよく飲み歩いてた男」
女は眉間にシワを寄せる。すぐに思い当たる人物が居たのか、数秒と経たずに彼女は頷いた。
「そいつが、起業するらしい。で、俺に声がかかった」
「だからって別れるなんて……」
男は勤めて落ち着いた調子で、彼女を説き伏せる。
「場所は田舎。引っ越しは避けられないし、お前の職場の出先なんかも無い」
男は一息置いて、続ける。
「農業系のベンチャー。収入も落ちる。一緒に来るならお前もだ」
女は躊躇う様子を見せながら「でも」と言った。男は彼女の言葉を続けさせない為に少しだけ語気を荒らげる。
「お前の為を思って――」
「何がわかるって言うの!」
彼女は涙を流していた。
彼には、なんと言えばよいのかまるでわからなかった。
「……外行ってくる。しばらく戻らん」
「勝手にして」
そうして、今に至る。
ざぶんとひとつ、波が鳴る。
不意に、彼の眠るハンモックの傍らに女性がひとりやって来た。そして、おもむろに彼の背中に手をかけて、ハンモックをぐるりとひっくり返す。
「ってて……だ、誰……お前か」
恋人だった。
「GPS、忘れてるでしょ」
彼女は車を親指で示しながら言った。
「……あー、なるほど」
失せ物を探す為に着けたキーホルダーが仇になったか、と彼は内心つぶやく。
バツが悪そうに男は頭を掻いて、立ち上がる。
「……で、何?」
「浮気じゃ、ないんでしょ? 嘘はついてないんだよね?」
男は呆れた様に息をつき、女を見返す。
「まさか、それを聞きに――」
「答えて」
一際大きく息をついて、彼は応える。
「俺が女にモテないの、お前が一番知ってるだろうに……あぁ、全部本当」
女は彼の顔を見つめる。彼が嘘をついているのか、いないのか、それを見定めるように。
「あいつから誘われなかったら、指輪買ってたところだよ。信じてくれって」
くすりと女は微笑む。
「じゃ、おっけーです」
ちくりと男の胸が痛んだ。
「……別れる、ってことで良いのか?」
二度目の言葉は、一度目のそれよりもずっと重く、痛かった。
男の頬が、べちりと叩かれた。
「バカ」
男は彼女に叩かれた頬を撫でて、女を見返す。
「バカって……お前……」
「付いてくってこと、わかる?」
女は勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
「仕事もやめて、そっちで探す。調べたら同業種で面白そうなの私も見つけちゃったし」
男はため息をついて、女に尋ねる。
「収入、悪くなるぞ」
「私が頑張る。あんたも頑張る」
「仕事から戻るの、遅くなるぞ」
「気にしない。何だったら迎えに行く」
「新しい環境」
「あんただって同じ」
「子供、作るの遅くなるぞ」
「気にしない」
「虫、多いぞ」
「……がんばる」
男は言葉に困り、口を開けなくなる。
「あのねぇ、子供の事気にしてくれるんだったら、最後まで責任取りなさいよ」
「まぁ……なぁ……」
そうしてふたり黙り込んで、海を眺め始めた。
数分か、十数分か、しばらくして男は口を開く。