――どうにかなるものだ。
人生何が起こるか分からない。前世の記憶を待ったまま生まれ変わったりしたのだから、本当に。あと前世で無駄に終わったことが、まさかこんな時に役に立つだなんて。巡り巡ってどうなるかなんて、神様ですら分からないのかもしれない。いや、まあ信じていないのだから、神様の名前を持ち出すなんて変な話だけれども。
少し帰りが遅くなった夕方。空は茜色から濃紺色の空へと変化していた。
帰路を急ぐ学生に買い物帰りの主婦やサラリーマン。いつも利用するバスの中は、いつものようにエンジン音が鳴り、いつものように制服姿の学生たちが周りの迷惑にならない程度の声で楽しそうに青春を謳歌している。そんな彼女彼らの姿をなんとなく眺めながら、家に一番近い最寄りのバス停まであと少しの時だった。
「きゃあ!」
「誰か倒れたぞ!」
突然、バスの中で響き始めた悲鳴と怒声は、困惑を纏い動揺を広げていく。すわ何事かと顔を上げると、白髪交じりの還暦を過ぎているであろうスーツ姿の男性が胸を押さえ、バスの床へと倒れ込んでいた。思い掛けない突然の非日常に戸惑い混乱を極める車内は、倒れた男性を眺めているだけで、誰も彼もが立ち尽くしている。どうするべきかどうか少し逡巡したのち、私は座っていた席を立ちあがった。
「すみません、通してもらえますか」
人垣をかき分けてしゃがみ込んで、とにもかくにも声を掛けて意識の有無を確認するが、肩を叩こうが、さらに強く声を掛けようが反応が返ってこない。舌打ちをしたくなるのを我慢しながら、近くに居る人に運転手さんに路肩にバスを停め無線で救急車を呼ぶようにとお願いすると、血相を変えて飛んで行ってくれた。
人差し指と中指で男性の脈を確認をしても反応がみられないし、胸が上下する気配もない。倒れて横になっていた体を、仰向けにさせても何の反応もなかった。腕時計で時間を確認、ふうと深い息を一度吐く。流石にバスの中なので何かを食べていてモノを詰まらせたということはないだろうけれど、念の為に無理矢理に口の中をこじ開けて確認。――よし、何もない。
気道の確保の為に、顎先を上に上げ、次に、スーツとシャツのボタンを外して胸をさらけ出す。倒れた人が女の人だと、色々と気を使わなければならない場合があるので、正直男性で助かった。そうこうしているうちに、救急車が来てくれると運転手さんが声を出しながら、こちらへとやってきてくれた。バスも路肩へと停車したようで、揺れないのでこの方が助かる。
腕を伸ばして肘をまっすぐにし、倒れた人の上にかがんで両手を重ね、胸骨の下半分の部分にあて胸骨圧迫を開始した。一、二、三、四、五――同じテンポで腕に力を込めて、ぐっと胸骨を押し下げる。本当なら三十回胸骨圧迫をした後に、二回人工呼吸を行うというサイクルを繰り返すのだけれど、初挑戦の素人にそんな高度なことは無理なので、胸部圧迫のみに専念。
単純作業だというのに汗が直ぐに噴き出してくる。どうにか再び鼓動が蘇るようにと願いを込めながら、腕に力を何度も何度も込めるけれど、男性の意識が戻る様子はない。どんどんと体の中の酸素が奪われて、自分の思考が鈍くなっていくのが分かってしまう。額を伝う汗を感じ取り、誰か代わってくれる人は居ないのかと叫びたい気持ちを抑えて、ただひたすらに続けていた。
「お嬢さん、代わろう」
「すみません、お願いします」
はたと声を掛けられて、待ってましたとばかりに声を掛けてくれた中年男性と交代する。体内から失った酸素を求めはあはあと何度も肩で息をしながら、床へとへたり込んだ。腕時計を見てみると、たったの二分ほどだというのに、体感時間は随分と時間が経っているように感じたのだけれども。少し落ち着きを取り戻して、交代してくれた男の人を見ると、倒れた男性の命を取り留めようと無言で必死に胸部圧迫をしていた。
「代わります」
「すまない、頼む」
時計の時間と胸部圧迫を続けている男性の様子を見て、また交代した。そうしてまた何度も何度も無心で胸部を押し込む。まだ意識が戻らない焦りに、果たして自分がやっていることは正しいのだろうかという不安に襲われながらも、それでも続け、また先ほど声を掛けてくれた男性に代わり、少しした時だった。
「はひゅっ」
何の前触れもなく突然に、倒れた男性が息を吹き返した瞬間、車内がどっと沸き上がる。一応、脈を取って確認して、呼吸もあるのかどうかみてみると、どちらも弱くはあるけれど自発呼吸が出来ているし脈も少し早いけれど、きちんと反応している。どうにかなったかと安堵のため息を吐いて、一緒に救助活動を行った男性へ頭を下げると、彼もようやく笑顔で応えてくれた。
「救急車が来たっ!」
その声を皮切りにどこか遠くから響いていたサイレンが、だんだんと近くなる。緊張から解放されたバスの車内はみんな明るい。倒れた人はまだ起き上がることは出来ないけれど、息はしている。
前世で衛生管理者の資格や運転免許証を取得した際の講習で習っておいてよかった。知識だけを身に着け覚えていて、こうして実践したのは初めてだったけれど。
AED――自動体外式除細動器――があれば一番簡単で確実なのだけれど、この時代に普及してはいないから安易に手にするにはまだ時間が必要だ。何も知らないまま傍観者のままで終わるよりは良いだろう。ただこうして応急処置はしたものの、助かる確率は低いと聞いているから、男性の命を繋ぎ留められたものの、この後どうなるかは分からないし後遺症の心配もある。
ようやくやって来てくれた救急隊員は、倒れた人の意識が戻っていることを確かめて、色々と応急処置を施しながら救急車へと乗り込んで、病院へと去っていった。嵐が過ぎ去ったような車内。時折視線を感じるけれど、我慢するしかない。バスの運転手から、状況の説明と時刻通りの運行が出来ない旨のアナウンスを受けて、ようやくバスは動き出した。そうして家に帰った時間は、いつもより随分と遅く。母に何故こんなにも遅くなったのかと問い詰められて、バスの車内で倒れた人がおり、助けたことと救急隊の処置の為に待ちぼうけをくらったと説明すれば、ようやく納得してくれたのだった。
――次の日。
眠い目をこすりながら起き、今日のお弁当には何を詰めようかと考えながら、筋肉痛の腕を無理矢理に動かして卵を割り、菜箸で解きほぐし、目分量の塩と醤油を加えてさらに混ぜ、フライパンに火を入れ。母以外の家族分の弁当を作るのが当たり前となっている日常に感謝しながら、いってきますと鞄を手に取り家を出て学園へと向かい、自身の教室へと入る。
「樹さん、紅薔薇のつぼみが志摩子さんにフラれたって本当?」
教室へ入り数歩足を進めた時だった。いつもより幾分か騒がしい教室内は、にわかに色めき立っており、クラスメイトの第一声の内容に理解が追い付かなかった私の頭はエラーを引き起こす。
「え?」
事情も呑み込めずまともに答えを返せないまま、その場に立ち尽くすと、私に声を掛けたクラスメイトの他にも数人が私の周りに集まって期待の視線を向けてくる。
「ごめん、私はその話を知らないんだけれど、何かあったの?」
祥子さまも志摩子さんも、そんなことを周りに話す性質ではないからこうして噂が出回るはずはないし、姉妹宣言を周囲に人が居る場所で行うこともないだろう。だとすれば第三者、隠れて見ていた誰かが居て、その話を意図的に広めたか、くらいに絞られてくるけれど。
「昨日の休み時間の最中に白薔薇さまが紅薔薇のつぼみの教室へいらっしゃって、志摩子さんは渡さないって仰ったんですってっ!」
「……は?」
――この騒ぎの原因は聖さま自身かいっ!
と心の中で盛大な突っ込みをしてしまった私は悪くない。悪い方向に流れなきゃいいのだけれどと、色々と考えてどうするべきか一瞬頭を悩ませた私の時間を返して欲しい。そういうことならば怒涛の勢いでこうして噂が広がってしまっても仕方ないのだろう。何やってるんだあの人は。姉妹の絆を結ぶことは婚姻に近いといわれているリリアンで、聖さまは堂々と衆人環視の中で略奪宣言をしたようだ。先に唾を付けたのが祥子さまならある意味NTRでもあるような気もするけれど、まあ表現の仕方はこの際どうでもいいだろう。
「素敵よねえ……」
「私もそんなことを言われてみたいわあ」
きゃあとみんなと騒いで悦に入っているクラスメイトは放っておいて、我がクラスの学級委員のいいんちょを呼び止める。超がつくほど真面目なので、こういうことには興味がなさそうなのだけれど、一通りの噂を集めて情報収集をして何か起こるようなら助言をくれるのだから、抜け目のない子である。いいんちょの話を要約すると、さっきクラスメイトの子が言っていたことは本当で、休み時間終了直前に聖さまが志摩子さんを一年桃組の教室から連れ出したので、きっとそういうことなのだろう、と。
「これで白薔薇さまの妹も決まって、残すは紅薔薇のつぼみだけ。樹さん、これからいろいろと大変でしょうね」
「いや、流石に鎮静化するんじゃないの?」
三角関係の中に突如、四人目として放り込まれたからこその騒ぎだったように思えるのだけれど。見知らぬ人から声を掛けられたり、不躾な質問をされたりしたけれどようやく収まる。
「まさか、あり得ません」
「言い切らないでよ、いいんちょ。あとその根拠を教えてもらってもいいかなあ」
安堵したところにこれである。いいんちょも案外意地悪な部分もあるんだなあと、目を細めて笑う。
「祥子さまの妹候補最有力は樹さんになるでしょうから、祥子さまを崇拝している人たちはどう動くかしら」
「んー、祥子さまに直接アピールすればいいだけのような……」
「それが出来れば苦労しませんね」
そうこう話しているうちにホームルームの時間が迫ってくるので、いいんちょと別れて自分の席へと座る。この学園の生徒はチャイムが鳴ってから着席する習慣はあまりなく、みんな予鈴が鳴る前に自席に着いているのだから本当に真面目だ。チャイムの音と同時に担任の教諭が教室へとやって来て、ホームルームが始まり、そうして一限目の授業が開始される。学生らしく勉学に励みますかと、机に向かい真面目に聞いてノートを取っていれば、既に昼休みの時間になっていた。
『一年藤組、鵜久森樹さん、至急生活指導室へ来てください』
ようやく昼休みに入り、腹を空かせた自分の胃に早く栄養を放り込もうと、そそくさと弁当箱を持った時だった。突然入った校内放送。まさか自分の名前が呼ばれるとは思わず、呆けた顔になった途端、クラス中の視線が私に集中する。はて、何もやらかした記憶はないし呼び出される理由もない、と首を傾げるとようやく鈍い頭が動いたようで、もしかすれば昨日の事だろうとアタリを付けた。
「樹さん、なにかあったんですか?」
「さあ。思い当たることはないんだけれど、取り合えず呼ばれたからには行かないと」
何故か凄く心配そうに声を掛けてくれたいいんちょには誤魔化して申し訳ないと心の中で謝りつつ、いいんちょの私のイメージはどんなものなのか心配である。まあ四月からリリアンのルールに慣れなくて迷惑を一番かけてきたのはいいんちょなんだし仕方ない。行ってくるよと笑っていいんちょに伝えて、教室から出ようとした時。
「生活指導室って何処だっけ?」
私には縁のない場所だと思って、記憶から切り捨てていたから何処をどう行けばいいのか分からなかった。
大袈裟な溜息を吐いたいいんちょが、丁寧にわかりやすく説明してくれ、弁当箱を持ったままの私はどうにか生活指導室にたどり着いた。
「失礼します」
二度、扉を叩いて入室する。呼ばれているのは私だけだし、返事を待つ必要も無いだろうと勝手に入っていった。そこには学園長であるシスター村上と一年藤組の担任、そして数名のシスターと教諭が揃っていてものものしい雰囲気だった。
「さて、鵜久森さん。今日ここに呼ばれた理由は分かるかしら?」
椅子に座った学園長が、私を見据えて問うてきた。
「いえ、さっぱりと」
流石に、人命救助をしましたので誰かが連絡を入れたのでは、なんて恥ずかしくて言えるわけがないので、すっとぼけることにした。
「今日、学園に一本の電話が入りましてね、昨日バスの中で倒れた男性に人命救助を施した生徒がいると」
「はあ」
「少し現場が混乱していて、名前も聞くのを忘れていたけれどリリアン女学園の制服に身を包んでいたそうなの」
やんわりと微笑む学園長はゆっくりと語り、バスを運営している東京都や消防署から表彰したい、とか地元紙の新聞記者が取材をしたいとか、昨日の今日だというのに既に申し込みがあるのだそうで。嗅ぎつけるのがハイエナ並みだなあと、ため息を吐いてさてどうしたものか。私じゃないと言い張って逃げるか、それとも私だと伝えてもろもろを断るか。
「あの時間、乗っていたバスのルートで黒縁の眼鏡を掛けたリリアン女学園の生徒は貴女しかいないのよ」
なんて考えていたら、私が言い出さないことに痺れを切らしたのか、既に断定されていることが学園長から言い渡された。
「そうですか」
「貴女の口から聞きたかったのだけれど、嬉しくはないのかしら?」
「人命救助をした人が息を吹き返したときは、確かに嬉しかったですよ。どうにかこうにか記憶を掘り出して、怖さに手を震わせながら必死に胸部圧迫を施していましたから」
「あら、何か含みがあるようだけれど」
「助けた事実だけ受け止めても、その結果が最良だとは限りません。倒れた人は熟年の男性でした。持病や疾患を持っていれば、助かったとしても後遺症が残りやすいそうですから」
そう。息を吹き返しても健康体であるとは限らないのだ。先ほど言った通りに持病や疾患を持っていれば、いろいろと弊害が出てくる可能性が高くなるし、後遺症もあるかもしれない。極極一部だろうけれど、何故助けた、と恨みを吐かれる可能性だってあるのだから、ある程度の助ける覚悟は必要だろう。
「それに、助けたのは私だけではありませんから」
「ええ、その話はもちろん知っているわ。貴女の他にも男性が居たと。その方は消都や消防署からの表彰を受けるそうなのだけれど、貴女はどうしたいのかしら?」
なんだか表彰式の場にマスコミが居そうだし、目立ちたくはないし。
「出来るならば、お断りをしたいのですが」
「そう――」
「お待ち下さい、学園長。――ここは彼女に感謝状を受け取ってもらうべきではありませんか?」
学園長と私の話に割り込んできた一人の教諭。あまり生徒からの評判が良くなかったような気がするけれど、こういう所でもアレな人だったようだ。
「あら、それはどうしてでしょう?」
「ここで彼女に表彰を受けてもらえば、我が学園のイメージアップになり生徒数確保にも繋がります」
流石にこの会話に割って入る度胸はないので、黙っておく。我がクラスの担任は、申し訳なさそうに私を見ているので、教諭の中でもなにかあるのだろうと悟る。こうして何度かの学園長と教諭のやり取りは繰り広げられ、最終的には学園長の意見が通ることとなった。
それは私の意思が反映されているので文句はないのだけれど。まさか表彰式に私の代理として、かの教諭が参加することになったのは、なにをどうしてそうなってしまったのかよく分からない。まあ学園側にもいろいろと考えがあるのだろうし、私が目立たなければそれでいいのだ。
「鵜久森さん、どういう結果になったとすれ誰かを助けるという行為は尊いものですよ」
私が退出する直前に学園長に呼び止められ、にっこりと奇麗に笑うその顔は慈愛に満ちていた。
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※応急処置はネットで拾ってでっち上げたので、皆様はきちんと勉強してください。人工呼吸は、現在、救助者が心肺蘇生の訓練を受けていないか、胸骨圧迫の訓練しか受けていない場合には、胸骨圧迫単独による心肺蘇生が推奨されているそうなので、人工呼吸はしませんでした。描写を大分はしょったものの、面倒くさいから、この時代にAEDがあれば良かったのですが。心臓が動いているかどうか自動で判断してくれて、動いていると電気ショックは発動されないので。救急車も付き添いとか、名前が分かっているなら記入とかしなきゃならないはずなので、描写は適当にぼかしておりまする。
ところでこれってイキリ主人公になるのかなあ。ちょっとやりたいことがあるのでオリ主にイキってもらいました。
余談:読み上げ機能を使ってみたんですわ……。聖さまが『きよしさま』と読まれて草を生え散らかした私でございます。いや、そこはせめて『ひじりさま』ではないのだろうか。
あとオリ主の苗字を忘れ去りそうになってた作者がここに居ます。