――天高く馬肥ゆる秋、ね。
春はとうに過ぎ去り夏の翳りがようやく訪れ始めた九月上旬。早いもので一学期と夏休みを経て、始業式もついこの間済ませたばかりである。リリアン女学園という女の園でありお金持ちのお嬢様たちが沢山通うこの学校に、前世の庶民感覚が抜けきらない私のような人間が慣れる事が出来るかどうかの疑問は一応氷解しており、随分と染まったものだ。
『ごきげんよう』という挨拶もいつの間にか慣れていたし、同級生を『さん』付けで呼ぶことにも随分と慣れてきた。時折気が抜けて間違うこともあるけれど、私が高等部からの編入組であることはクラスメイトには周知の事実なので生暖かい目で見守ってもらっている。上級生の人たちを『先輩』ではなく『さま』付けで呼ばないといけないそうなのだけれど、生憎と部活動や委員会活動にも参加していないこの身では上級生の知り合いなど出来るはずはないので気楽なものである。
今のところ勉強に遅れることもないし、リリアン独特の行事もどうにかクラスの子たちの補佐を受けながら無難にこなしている。無知な私の相手は面倒だろうに見捨てないで世話を焼いてくれるのだから、クラスメイトには頭が上がらない。女子だけのクラス構成――女子校なので男子が居るのはあり得ないけれど――だから、下手をすれば輪の中から弾かれることを危惧していたけれど、杞憂に終わった。
一応クラス内での私の立ち位置も確保出来ているので、虐められたり除け者にされる心配はもうないだろう。品の良い人が多いから表に出さないだけで心の中ではどう思われているのか謎だけれど、疑っても仕方ないし疲れるだけだ。それなら仲良くなる努力をして『鵜久森樹』という人間を理解してもらいクラスの中に溶け込む方が賢いだろうと、特定の人に固執はせずいろんな人に話しかけている。故に特段仲の良いクラスメイトが居ないのは誤算だった。付かず離れずの距離を保って接しているのが現状で。一緒にお弁当を食べる相手が居ないのは、少し寂しくはあるけれどまあ良いだろう。何かが切っ掛けで距離が詰まることもあるだろうし、誰かと群れていないと落ち着かないという事はないのだし。
なるようになるさ。
心の中で唱えながら返却期限が迫っている本を返そうと放課後、図書室へと向かう。前世で本を読むことは滅多になかったというのに、こうして本の虫と化してしまったのは暇を持て余したからという単純な理由に過ぎない。
どうにも自ら外に出てはしゃぎまわるというのは苦手になってしまっていたし、パソコンやスマホ以前にインターネット環境がまだあまり普及していないから遊ぶものがないというべきか。ネットゲームが流行り始めるのにもまだ時間が掛かるだろうし、アニメや漫画ゲームも既知の物ばかりだから。なので手を出した経験のないハードカバーの書籍を選んだのは必然だったのだろう。家には家族が買ってきた本を収納するための書斎もあったことが原因だ。暇をつぶすにはちょうど良かったし、読み始めると面白かったし。前世で敬遠していたことが勿体なかったと少しばかり後悔するくらいには没頭しているものの一つだった。
引き戸のレール音が随分と大きい図書室の扉を開け、私に気付いた図書委員に軽く会釈をし、慣れたやり取りをこなせば本の返却は即座に終了。何か借りようかと本棚に視線をやったけれど、今日は随分と生徒が多い。ゆっくりと吟味するには不都合だと、踵を返して扉に手を掛け大きなレール音を響かせて図書室を後にする。
ホームルームが終わって暫くたった時間帯。運動場には部活動に勤しんでいる生徒の声に、どこか遠くから聞こえる吹奏楽の音。廊下ですれ違う生徒。どこか懐かしいのに、新鮮さを覚えつつ感傷に浸りながら廊下の角に差し掛かった時だった。
「きゃ」
「っ」
不意に視界に現れた人影になす術もなく正面からぶつかる。相手の口から洩れた可愛らしい声と紙束の落ちる音が数舜遅れて耳に入ってくる。相手の人が倒れなくてよかったと安堵しながら、考え事をしながら歩くものではないと反省するけれど、起こってしまった事に後悔しても遅いから。
「ごめんなさい。大丈夫ですか?」
「はい」
取り合えず謝ってしまえば勝ちだ、と考えてしまったのは私の悪癖なのだろう。少し乱れてしまったゆるいウェーブのかかった長く淡い色の髪を片手で直しながら、ぶつかった相手の視線は足元へと向けられていた。
「拾いますね」
ああ、不味いことをしてしまったかと反省しながら、しゃがみ込みながらズレた眼鏡の位置を直して散らばってしまった紙を拾い上げる。ぱっと見たところ同じ内容のもののようなので安心したけれど、枚数が半端ない。骨が折れそうだと苦笑していたら、少し慌てた様子で彼女も拾い始める。見てはいけないものなら目の前の彼女から注意されるだろうし、見たとしても内容には興味がないので半日もすれば忘れてしまうことだ。
「あの、ありがとうございます」
「いえ、考えごとをしていて前方不注意でしたから。私の方こそ申し訳ありません」
同級生なのか上級生なのか判断がつかないので、敬語で話す。中学校時代ならそんな事はあまり意識せず、ため口を利いていたものだけれど。周囲の雰囲気というかこの学校の独特の雰囲気に飲まれてしまったか、それとも染まってしまったのか。
慣れるものだね、と考えていれば散らばっていた紙は全て拾い終えていて。腕に抱えていた紙束を一緒に拾い集めていた彼女に渡そうと、立ち上がった彼女を見れば既に結構な量の紙を抱えていて。恐らく教室にでも行くのだろう。そう遠くはない距離であるけれど、腕が疲れてしまいそう。
「どう……――どちらまで?」
どうぞ、という言葉を留めて別に言い換える。線の細い彼女にそのまま渡して、この場でサヨナラするのは気が引けてきたからだ。
「え?」
意図が掴めなかったのか、私の言葉に大きな瞳をきょとんと見開いて戸惑う姿は年相応に見える。
「ぶつかってしまった贖罪、は大袈裟ですね。暇ですしついでなので運びます」
「いえ、ご迷惑を掛ける訳には……」
遠慮なんてせず『お願いします』と一声出せば良いだけなのに。単に遠慮しているだけなのか、人付き合いでも苦手なのだろうか。このままだと堂々巡りになりそうだ。こういう時は強引に事を運んだ方が良いだろう。勝手に足を進め始める。
「あ、あのっ!」
困った様子で私の背を見つめる彼女を私は知る由もないけれど。
――そうそう、大事なことを忘れてた。取り合えず振り返る。
「何処に運べばいいですか?」
無理に事を進めるリリアン生らしくない私の言葉に諦めたのか一つ息を吐いて、困惑した表情を浮かべる。何故そんな顔をするのかはわからないけれど。
「"薔薇の館"までお願いします」
聞いたことがあるような、ないような。記憶を手繰り寄せるけれど、見つからないので自力で思い出すよりも聞いた方が早い。
「わかりました、と言いたいところですが……何処ですか其処」
「えっ」
どうにか聞こえるほどの小さな声は、何故知らないと言いたげな様子で。ちょくちょく聞くような気もするけれど、気にしていなかったから覚えていない。その場所に今の今まで用はなかったし、別に優先して覚えることが沢山あったし。名前からすると薔薇でも育成しているのだろうか。でもそんな場所に何故紙束が必要なのだろう。とはいえ、彼女が嘘を吐く理由はないし、後をついていけば問題はない。
「場所がわからないのでついて行ってもいいですか?」
「え、ええ。それは勿論。――こちらです」
と足を向けた先は私が行こうとした道の逆方向。そりゃ困惑して慌てるのは当然かと納得して、ゆっくりと揺れる長い髪を見ながら歩を進める。彼女と歩き始めた最中にふと違和感を感じた。何故かすれ違う生徒に視線を向けられるのだけれども。私が廊下を歩いていても気に留める人なんて居やしないというのに。
となれば少し前を歩く彼女が原因かと推測する。よくよく思えば奇麗な人だったから注目されるのは仕方のないことなのだろう。本人は気にも留めないで、すたすたと歩を進めているけれども。なら私も気にしても仕方がないと割り切って、彼女の横に並ぶ。無言のまま『薔薇の館』とやらに辿り着くのは味気ないし、せっかく接点を持てたのだから、はいサヨナラでは寂しいし。
「あー……えっと。私は一年の鵜久森樹です。お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
姉妹制度なるものが存在するこの学園。校則には記載されていない生徒独自のルールで、古くから続く伝統なのだそうだ。そんなものがあるが故に上級生と下級生の線引きが明確で、上下関係は厳しいとのこと。上級生に失礼な態度を取れば、何処からともなくお叱りの言葉を頂いてしまう……らしい。
上級生との接点を持ったことがないので、真意は不明だけれど、この学園ならばあり得そうと思ってしまうくらいには現実味を帯びていた。なので横に並ぶ彼女が目上の先輩ならば、それなりの態度が必要という訳だ。荷物持ちを手伝っている事から、少しばかりの無礼なら許してもらえるだろうけれど、私が今年からの編入生だと彼女は知らないだろうし。
さてはて彼女の学年を知るにはどうすればと咄嗟に考えたのは自己紹介だった。
無難すぎるけれど、可もなく不可もなくといったところだろうか。私は彼女の事を知らないし、彼女も私の事を知らないだろうから。
「同じ一年の藤堂志摩子と申します」
同学年ということは知れたのだしもう少し口調を崩してもらいたいものだけれど、リリアンの生徒はおしとやかで礼儀正しい為なのか。硬いままの彼女にむず痒さを覚えながら、同じ一年だし気を張る必要もないだろうと私は早々に猫を被るのを辞めた。正直、このまどろっこしいやり取りは苦手なのだ。
「志摩子さん、でいいんだよねこの学校的に」
「――ええ。樹さんはもしかして編入生なのかしら?」
視線の位置は大体同じ。小さく首をかしげて質問を返してくれたことに安堵しながら、話が続きますようにと願う。
「あ、やっぱり分かるもの?」
「薔薇の館を知らない人なんて珍しいもの」
微笑む志摩子さんは、本当に同じ一年生なのだろうかと疑問に思えるほどに随分と大人びている。美人系の顔の造りがそう思わせるのかもしれないけれど、なんというか目に付く所作が学生の物とは思えないほど奇麗なのだ。前世の高校生活時代、こんなにも大人びてはいなかった。寧ろ馬鹿をやらかして大口開けて爆笑してた方だし、類は友を呼ぶのか周囲も同じような人が多かったし。通う場所や学校でこうも違うものなんだなと実感しながら、二人並んでゆっくりと歩く。今だ視線を感じるときもあるけれど、気にしたら負けだ。
クラスメイト以外と喋るのは初めてのことで、新鮮だった。どうやら志摩子さんは聞き手に回るタイプのようで、一方的に私が喋っていたような気もするけれど。
主にこの学校の習慣の愚痴を聞いてもらっていたのだけれど、志摩子さんも中等部からの編入生で初めは戸惑ったとのこと。少しばかりのアドバイスを貰いながら、いつの間にか目的地にはついていたようだ。校舎の間にある中庭の一角に『薔薇の館』だと思われる二階建ての木造建築が鎮座していた。先ほどの会話の中で『薔薇の館』は生徒会室だということと、生徒会は『山百合会』と呼称されているそうで。
「ここが薔薇の館です」
校舎の中の一角ではなく、独立した建屋で運営をしているとは思わなかった。てっきり別の校舎の中に入っていくのだろうと勝手に決め込んでいたのだけれども。
「――大型台風とかきたら吹っ飛びそうだね」
余りにぶっちゃけた私の言葉に目が点になっている志摩子さん。いやだって年々自然災害が多くなるのは目に見えてるし。怖いし。
「あ、いやゴメン。気にしないで」
苦笑いをしながら空いている手で頭を掻く。仕方なさそうに笑って流してくれる志摩子さんに感謝しながら、中へと進む。いろいろと思うことはあるけれど、二度目のやらかしは流石に不味いだろう。随分と派手な軋みを立てる階段を無言で登り、会議室とかかれたプレートの部屋の前。私を見て一つ頷き、慣れた感じで志摩子さんはドアノブに手を掛けて静かに回す。それと同時、蝶番が擦れる小さな音とともに部屋の中へと進む志摩子さん。
「ただいま戻りました」
その声で志摩子さん以外の生徒会役員が部屋の中に居るのだと理解して、志摩子さんの後に続いた。
「失礼します」
腹に力を入れてしっかりと声を出す。挨拶なんてものは相手に聞こえなければ意味がないし、どんな人がこの部屋の中にいるのか分からない以上無言での入室は不躾だろう。が、この学園で大声はしたないと言われてしまうから、気を付けないと。気を抜くと随分と音量の大きい声を出している自分がいるのだから。軽く一礼して部屋へと入る。抱えている紙束をどこに置くのか、志摩子さんを視線で追っていた。
「あら志摩子。そちらの方はどなた?」
通る声の主に視線を向ければヘアバンドを付けた気怠そうな様子の和風美人の姿が。どこかで見たことがあると記憶を掘り返せば、この学園における生徒会役員幹部の一人だった。リリアン女学園高等部は『生徒会長』なるものは存在せずその代わりに『薔薇さま』と呼ばれる三名が生徒会代表を名乗り、姉妹制度における妹が生徒会役員を担うそう。
何度か校内で見かけたことがあるし、学校行事ではちょくちょくと生徒の前に立つ人の一人である。名前は知らないけれど『ロサなんとか』と呼ばれていた気がする。窓際に立ち仕事をしている様子がないけれど、メンツが集まるまで待っているのだろうか。
「私と同じ一年生の鵜久森樹さんです。ご厚意で荷物を半分持って頂きました」
「そうだったの。手伝っていただいてありがとう、樹さん」
「いえ。曲がり角でぶつかった責任もありますし」
ぶつかったことを無かったことには出来ないと自ら白状する。とはいえ何が変わるというわけでもなく、私の気分の問題だ。紙束をテーブルの上へと乗せた志摩子さんに続いて私も抱えていた紙束を置く。半分だけとはいえ、結構疲れてしまうもので自由になった腕が悲鳴を上げていた。ここまで一人で運ぶつもりだった彼女は大丈夫なのだろうか。
「ぶつかった?」
「はい。曲がり角で……」
「二人とも怪我はなかったの?」
こういう返しが即座に出来るのは上級生故だろうか。ぶつかったけれど衝撃は大したものじゃなかったけれど、もしもがあるかもしれないから心配なのだろう。それなら部外者である私が答えるよりも、志摩子さんが先に答えた方が良いだろうと視線を向ける。
「はい」
「そう。なにかあればすぐに保健室に行きなさいね」
「了解です」
私の返事に少し驚いた様子を上級生は見せたけれど、一瞬のことだった。リリアンでは場違いな返事だったかと反省するけれど、口から出た言葉を飲み込むことはできないので、これ以上私の印象が悪くならないようにこの場からそそくさと撤退するのが良策だろう。
「それでは私は失礼します」
「手伝ってもらったお礼がてらにお茶でも飲んでいけばいいのに」
「お気遣いありがとうございます。予定があるので申し訳ありませんが、これで」
少し前に暇だと言い志摩子さんから無理矢理荷物を奪ったけれど、予定があると嘘を吐く。この後は家に帰るだけだし、帰った後の予定は今日の授業で出た課題と予習復習くらい。
志摩子さんは私の矛盾した言葉を不思議に思うかもしれないが、言葉の綾ということで見逃して欲しい。これ以上引き留められると逃げられなくなるので、足早に進み扉に手を掛け退室の礼をして、ゆっくりと扉を閉める。
私が部屋から立ち去った後、志摩子さんから上級生にその事実が伝わる可能性もあるけれど、嘘を吐いた張本人はもう既にいないし。逃げたもの勝ちだったなと、短い廊下を歩き軋みの酷い階段を今度は降りなければならないのかとゲンナリして。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
考え事をしながら薔薇の館の階段を降りようとした時、声が掛かり何事かと顔を上げる。視線の先には編入生説明会で最初に出会った上級生と、新入生歓迎会でオルガンを弾いていた人が階段を上がってくるところだった。確かこの人たちも生徒の皆から『ロサなんとか』と『ロサなんとかなんとか』と呼ばれているのだけれど、正直覚えられる気がしない。取り合えず『ごきげんよう』と随分と慣れて、反射的に出るようになった挨拶を交わして階段を降りて中庭へと出る。
「ふう」
新鮮な外の空気を肺一杯に取り込んで、薔薇の館を見上げる。今頃、館の中に居る人たちは仕事を始めているのだろうか。
遊びたい盛りだろうに誰かの為にと自分の時間を犠牲に出来ることは誰彼が出来ることじゃない。生徒会に所属した経験なんてないから、彼女たちがどんな苦労をして忙しさに追われているのかは分からないけれど。
――凄いよね。
ヤケを起こして遊び惚けていた高校生時代の『わたし』は生徒会になど目を向けることなんてなかったし、ソレに所属している人たちは進学の為の点数稼ぎだろうと鼻で笑っていた。思い返せば随分と恥ずかしい考えをしていたものだ。こうして記憶を保持したまま生まれ変わらなければ、今みたいな気持ちを持つことなんてなかっただろう。
部活動や委員会活動をしていない私が、この場所を訪れることはない。でもこの場所でより良い学生生活が送れるようにと奮起している人たちが居ることを、きっと……忘れてはいけないのだ。
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話が進まないorz
次話で祐巳さん以外が出てくる予定。