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その名を初めて見たのは春休みに行われた編入生説明会で配られた資料の一枚、編入生名簿の中でだった。準備の為に赴いていた先生方の声で意識は直ぐにそれてしまったけれど、あまり聴き慣れない名字に目を引かれた。そうして打ち合わせは終わり、あとは説明会を滞りなく終わらせればその日は解散となる。所用で一旦講堂を離れ少し早めに戻ってきた入り口前、私服を着込んだ黒髪の少女が一人。学園内で制服や運動部のユニフォーム以外を纏っていなければ学園関係者か、部外者か。自ずと絞れるのだが、今日は特別だ。
『ごきげんよう』
中等部から当たり前のように、自然に流れるように口から出るようになったリリアン特有の挨拶。私の声に気が付いて振り向いた女の子は少し驚いた様子で、軽く一礼をして『おはようございます』の声。ごきげんよう、と返ってくるのが当たり前だと思い込んでいた自分に、いつの間にかこの学園に染まり切っていたことに改めて気付かされた。
編入生説明会は何事もなく終了した。教師の方々やシスターたちの出番がほとんどで山百合会としての仕事は殆どなかったようなものだ。リリアンに通う生徒としての挨拶と困ったことがあれば気軽に頼って欲しいと伝えただけ。
一週間後に入学を控えた編入生の子たちは、目を輝かせながらメモを取ったり配られた資料に目を通しながら私の言葉を聞いていた。ただその中で一人だけつまらなさそうな顔をして椅子に深く腰掛けていた子は、随分と良い性格をしていた。
「紅薔薇さま、口元」
「あら、黄薔薇さまこそ」
山百合会の手伝いをして欲しいと願った本人は、この部屋からもう去っている。集まってもらっていた山百合会のメンバーにも帰ってもらった。この場には薔薇さま三人しか居ない。昨日、彼女を手伝いにと言い出した江利子は楽しそうに笑みを浮かべたままだ。かくいう私も笑っていたようだけれど。
「あの子、了承してくれるかしら?」
「ご両親次第でしょうね。本人の意見は聞けなかったから、どう思っているのか謎だけれど」
一年生が部屋から出ていった後に祥子が彼女の態度に苦言を呈していたけれど、あの程度は可愛いものである。リリアン生とは思えない言動ではあったが、しっかりと自分の考えと意見を伝えてくれたことは評価しなければならないだろう。
『薔薇さま』の称号を持つ私たちに、ああやってはっきりとモノをいう子は珍しい。それ故に祥子は怒ったようだが、いきなり彼女を薔薇の館に呼びつけた私たちにも非はあるのだ。面識のない上級生――生徒会役員だと知ってはいるだろうけれど――複数人に囲まれている状況だったのだ。委縮してその場で『YES』と答えなかったことは、喜ばしいことだ。
「白薔薇さまはどうお考えになって?」
椅子を窓際へ移し、外の景色を眺めている聖に問いかける。
「……好きにすればいい」
視線だけ私に寄こして、直ぐに外へと向けてまた沈黙してしまう。
まったく、困ったものだ。聖の態度は今に始まった事ではないけれど、もう少し最上級生として薔薇さまとして自覚を持って欲しいものだが。志摩子の件――それ以前に起きたことを含めて引き摺っている彼女に余裕がない事は百も承知なのだけれども。一年生のあの子に山百合会を手伝って欲しいと願ったのは、志摩子の負担を減らすという目的もあるというのに。
黄薔薇のつぼみの妹である由乃ちゃんに無理はさせられない。必然、一年生である志摩子に力仕事の配分が多くなる。令や祥子も居るけれど、部活動をしている令は山百合会の仕事をいつも手伝える訳もなく、由乃ちゃんの付き添いで帰る事が多々ある。
祥子は生粋のお嬢様で力仕事があまり得意ではない――本人は苦にしていないが――し、一人で作業に赴かせると祥子に憧れる子たちと小笠原の関係者たちが手を貸そうと躍起になり、色々と問題が生じてしまう。絆を結んだ妹だから助けたい思いは強くあるが、祥子は小笠原の看板を一生背負っていかなければならないのだ。社会に出ればより一層そういうものが強くなるだろうし、慣れておかなければならないものだ。心配事が山積みではあるが、目の前のことを一つ一つ片づけねばなるまい。
兎にも角にも、山百合会は根本的に人数が不足している状況なのだ。
同学年の友人たちは受験生なので、気軽に声を掛けるには適していない。令や祥子に頼んでも良いのだけれど、仲の良い友人の話をとんと聞いたことがない。令は由乃ちゃんにかかりっきり。祥子は小笠原の名前が邪魔をする。二人とも顔は広いが、付き合い自体が深くないし、誰か特定の人物と仲良くなりたいという気配もないのだ。
気軽に手伝って欲しいと願える相手が居ない。それは私たちも同じかもしれないが、大事な妹たちには苦労をして欲しくないと思うのは姉として当然だろう。由乃ちゃんも同じ理由で、なかなか友人と呼べる子が居ない。まだ山百合会メンバーではない志摩子も人付き合いを得意としていないし、聖との関係をどうするかを決めかねているから他の事に気を回せというのは酷だ。
もう少し生徒たちの山百合会への敷居が低くなれば良いのだけれど、特別視している彼女たちには難しい注文なのだろう。純粋培養で育った生徒たちは、幼い頃から憧れていたものがようやく高等部にあがり、それが目の前にあるのだから。夢見がちだと言えばそれで終わりだが、憧れを否定することもないのだし。
「――はあ」
「どうしたの蓉子」
「いえ、ね。……江利子は何故あの子を選んだの?」
沢山居る生徒の中からの一人なのだ。山百合会を手伝っている志摩子には明確な理由があるが、あの一年生には無いと言っていいだろう。
「さあ? 何となく。あえて言うなら勘かしら?」
「貴女……」
もう一度盛大な溜息を吐く。何か理由があるのかと思えばコレだ。勘で振り回される私の身にもなって欲しいものだが、いつもの事だと諦めてしまった自分は悪くはない筈だ。
「ああ、そうだったわ」
「?」
「志摩子には『暇だ』と言って、私には『用がある』って逃げたんだもの。捕まえたくなるのは当然じゃない」
その為に山百合会を使わないで欲しいのだけれど――という言葉は飲み込んで。にやりと薔薇さまらしくない表情で笑う江利子は、私の気持ちを一つも理解しちゃいないのだろう。
もうすぐ体育祭があり、三人欠員状態の山百合会だから猫の手も借りたい状況だ。一年生が訪れたのは渡りに船だったから、こうして私も一緒に彼女を手伝いにと誘った側面があるけれど。江利子に捕まってしまった一年生には同情するが、リリアン生らしくない彼女は江利子に対してどう出てくるのか興味はある。普通ならばあの場で了承していただろう。一も二もなく。それが普通だ。だからこそ江利子は余計に喰い付いてしまった。
「江利子の思い通りになるかしら?」
「断られても、それで関係が終わる訳じゃないもの。また捕まえれば良いだけだわ」
そのしつこさを聖に少し分けて欲しいとは口にしない。それを口にすれば私たちの横で静かに外を眺めている聖の機嫌が急降下してしまう。わざわざ煽る必要はないのだし、一年生がもし『了』と返事をしてくれた場合、彼女のあずかり知らぬところで遺恨を残してしまう。とっつきにくい聖だ。ファンの子たちには良い顔をしているが、山百合会という少し気を許している場所で聖はその顔を見せないだろうから。
「さっきと同じ質問になるけれど、聖はあの一年生をどう思う?」
白薔薇さまとしてではなく、一個人の佐藤聖としてだ。察しの良い彼女だから、私の言葉の意図を理解してくれるだろう。
「悪くはない」
こちらに顔を向け直ぐに視線を戻した。
「あら、珍しい」
「そうね。誉め言葉じゃない」
少しわかりにくい言い方をした聖だけれど、今の彼女の最大限の誉め言葉だ。随分と柔らかくなったが気難しいところがまだ残っている聖から、その言葉を引き出せたのは僥倖。あとは祥子が問題だろうか。ああいう態度を取る下級生に免疫がない我が妹は、過剰反応を見せているし。まあおいおい慣れるだろうし、いい経験にもなるだろう。
「……用は終わったんでしょう? なら、帰る」
「そうね、帰りましょうか」
「ええ」
聖はさっさと薔薇の館から出ていき、江利子も部屋の施錠をしてそそくさと出て行き。鍵を職員室へ返す面倒な役目は、当然のように私の役目となってしまった。
というよりもあの二人は鍵を返すという事を欠片も頭にない気がする。私を頼りにし過ぎているが、それもまあ悪くはないと思えてしまうのは腐れ縁故か。さっきの一年生がどういう答えをくれるのかまだわからないけれど、江利子の言うように何故か面白いことになりそうだと私の勘が告げている。
――良い出会いになりますように。
と、願うしかないだろう。ひどく軋む階段を降りて扉を開き外へ出る。扉の鍵穴に差し込んで、慣れた手つきで『かちり』と音が鳴るまで鍵を回し。そのまま鍵を抜いて、薔薇の館の入り口がきちんと閉まっていることを確認して歩き出す。
手に握りしめた鍵は金属製だというのに使い込まれて丸みを帯びている。何人もの人がこの鍵を手に取り、この場所で過ごして。何を思い、何を考え、何を残してきたのか。私も何かを残せるだろうか。ふと姉やおばあちゃんと呼んでいた先輩がたの顔が浮かび、懐かしさが溢れ出す。あの人たちに敵う日が来ることはないだろうけれど、近づくことはできるだろうから。
広い中庭、どこからともなく吹く爽籟が私の髪を撫でていた。
◇
荷物を持ち込んでいて正解だった。
薔薇の館から出てきた私に、部活やらなんやらでまだ学園に残っている生徒の視線が降り注いでいるのだから。これで教室に戻ろうものならクラスメイトから質問攻めにでもあっていただろう。生徒会室に呼ばれていただけなのだ、直ぐに忘れ去られる出来事だろう。
部活動の報告や各学級からの陳情にと様々な理由で出入りのある生徒会だ。たった一人の生徒が短時間身を寄せることなど、多々あるだろうし。昨日の出来事でたまたま縁を持っただけの事だ。気にしても仕方あるまい。
早く家に帰って、母の手伝いやら勉強にとやらなければならない事は沢山ある。校門近くのバス停で時間が来るのを待ち、いくらか少なくなったリリアン生の中に紛れ込み帰路へとつく。通学鞄に仕舞い込んでいた文庫本を取り出して、静かに目を通していれば目的のバス停までは直ぐで。凝り固まった肩を解すように何度か首を振り、バスを降りて慣れた住宅街を歩く。土地代も家代も高そうなこの場所にはもう慣れた。最初は住む場所が違うと心が叫んでいたというのに、現金なものだ。慣れただけで、私がこの場所に馴染んでいるのかは謎だけれども。
独特の金属音を鳴らして門扉を開き、重くシッカリとした玄関の扉を開けて家へと帰る。
「ただいま」
「――おかえりなさい、樹ちゃん」
少し時間をおいてキッチンから玄関へと赴き聞こえてきた母の声はいつも優しい。
恐らく夕飯の準備をしていたのだろう。専業主婦の母が家の事に手を抜くことはない。
「何か手伝おうか?」
「もう仕込みは終わったから大丈夫」
少し残念に思いながら、今日の出来事の為に意見を聞かなければならないと我が家の大黒柱である父は帰宅するのだろうか。
「そっか。――今日って父さんは帰ってくる?」
「ええ、そのつもりだって朝言っていたけれど、どうなるやら」
目じりにしわを寄せて笑う母。時折手を込んで作った晩御飯が急に入ってしまった案件で無駄になる事があるから、そのことを考えているのかもしれない。勿体ないから余ってしまった父の分は、みんなで分けて食べるか保存がきくものなら冷蔵庫へ入れられるけれど。
「わかった、ありがとう母さん」
「何かあったの?」
「大したことじゃないんだけれど……」
私の言葉に小さく首を傾げる母。勿体ぶる必要はないだろうと生徒会を手伝って欲しいと頼まれたことと、その返事は家族の許可が必要だと言ったことを伝えた。あらあらまあまあ、と呑気に言葉を口にする母は嬉しそうに笑ってる。どうしてそんなに嬉しいのか理解できない私の様子を見て、リリアン女学園高等部特有の生徒会について教えてくれた。曰く、幼稚舎や初等部からの純粋培養組は特に山百合会を神聖視しており憧れの存在であると。何故か薔薇さまと呼ばれる方たちは、眉目秀麗で文武両道のカリスマの高い人が選ばれやすいことが拍車をかけていると。
「そんな偶然が続くものなの?」
「不思議よねぇ。お姉ちゃんの時も薔薇さま方は奇麗な方だったそうよ」
「母さんの時も?」
「ええ、勿論。美しい方ばかりだったわ」
「凄いねぇ」
呑気な母と私のやり取り。学校での出来事が気になるのか母はお茶を淹れてくれ、着替えもしないままリビングで話し込んでいた。
そうして夜になり仕事から戻った父と兄と姉を含めて、もう一度放課後に起こったことを話す。男性陣はリリアンの事に詳しくないから、少し引き気味な雰囲気を見せていて母と姉とのギャップが可笑しかった。まあ男の人にこの手の話は実感はないだろう。男性社会だと見目で優劣を判断することは少ないだろうから。それでも生徒会を手伝うことは成績に影響がない限り、良いことだから無理のない範囲で手伝って構わないと一応の了承は両親から貰えた。
「で、樹自身はどうしたいんだ?」
「え?」
「気づいてないのか。樹がどうしたいのか一切言っていないからな」
父の言葉にふと気づく。ああ、そういえばそうかもしれない。普段の素行に問題でもあって、てっきり締め上げられると考えていた私の脳味噌はきっと八十年代的思考だったのだろう。いったいどこの世紀末なのかと自身に問いかけたくなるが、それは脱線してしまうので棚の上に置いておこう。
「手伝うことは別に。ただ何で私がって気持ちが強かったから、ちょっと意地を張ったかも」
あの場違い感甚だしい薔薇の館の中。四面楚歌もいいところで、有無を言わさぬ雰囲気だったのだから、意地くらい張りたくなるじゃないか。
「今代の薔薇さまがどういう子なのか知らないけれど、急な話よね」
「人手が足りていないみたいだから仕方ないんじゃないかな」
白薔薇さまと紅薔薇の妹が姉妹契約を果たしていないことを姉に告げると、納得したようだ。学校行事を把握している姉だから、さらに頷いていたけれど。父と兄は理解が出来ず、目を白黒させていてちょっと面白い。リリアン特有のしきたりを説明してみても、いまいち掴めない様子に、女性陣からは苦笑が漏れる。
「面倒だなあ……」
ストレートに言葉を零した兄に罪はないだろう。実際、姉妹制度とか実感のない私には『面倒』なものがあるな、くらいにしか思えないし。ちなみに父と兄が卒業した花寺学院高校にも似た制度があるらしいのだが、親分と子分のような関係となるそうなのでリリアン女学園のように尊く美しいものという認識は薄いらしい。
食後のお茶を飲みながら行われた家族会議はそのまま雑談へと移り、リビングのテレビをザッピングしながら面白い番組はなさそうと判断した私は部屋へと戻り。明日の授業の予習復習を済ませて、お風呂に入ればいつの間にか就寝時間になっていて。ベッドに入った私が深い眠りにつくのにそう時間はかからなかった。
――次の日。朝。
いつものように準備をし、いつものように家を出て、いつものようにバスに乗り込み、いつものように背の高い門を潜り抜け。一年生の教室が並ぶ廊下に差し掛かると、何故か視線が降り注ぐ。志摩子さんと一緒に歩いた二日前や昨日とは違い、私自身に視線があたる為に居心地が良くない。心当たりはあるにはあるが、何故そんなことでこんなにも注目されなければならないのか。教室に入った時、どうなるのやらと溜息を零した。
「ごきげんよう、樹さん」
ごきげんようと次々に声が掛る。声を掛けてくれるクラスメイトの瞳に映り込んでいるのは『好奇』の文字。いつもより多い声の多さに引きながら、己の席に着いて鞄の中身を引っ張り出し机の中に仕舞い込んでいく。
「樹さん、ごきげんよう」
そう声が掛り顔を挙げれば、昨日お昼を一緒に食べたトップの子の姿。
「朝来て早々で申し訳ないのだけれど、今日もお昼をご一緒しません?」
にっこりと奇麗に目を細めて笑うトップの子に、苦笑をしながら『わかった』と返事を返して。やれやれ何を聞かれるのか、なんて考えは無粋だろう。きっと昨日起こった山百合会での出来事を、洗いざらい話す羽目になるのだろう。母や姉から聞いた一般生徒にとって山百合会は高嶺の花という言葉に今更ながら納得するのだった。
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男の人なら『ジュース一本おごるから手伝ってくれや』くらいで済みそうなものですが、女の子だと途端に面倒になるのは何故だろう。