匂いは記憶を呼び覚ます。嗅細胞を通じて大脳辺緑系に直接送られた嗅覚情報は、瞬く間に記憶を呼び覚まし、デジャヴにも似た感覚を人間に伝える。認知機能が低下した人間に特定の匂いを嗅がせたら、忘れていたはずの記憶を思い出した臨床例もある。
誰もが嗅いだ瞬間に記憶を呼び覚ます、思い出の匂いを持っている。水の匂い、木の匂い、あるいは硝煙の匂いや、マドレーヌを紅茶に浸した匂い。
私にとっては、タバコの匂いがそれにあたる。
思い出させる記憶も様々ある。楽しい記憶、悲しい記憶、悔しい記憶。人の数だけふと思い出す記憶は存在する。
私が思い起こす記憶が楽しかったものなのか、あるいは悲しかったものなのか。未だに判断しかねている。どちらとも言えない。猛烈な充実感と虚無感が湧いてきては私を惑わせるからだ。
喫煙室の前を通った折、そんな匂いに出くわした。それは私に考える暇を与えず、一瞬のうちに脳裏を駆け巡り記憶を呼び覚ましたのである。
まだドクターが記憶を失う前、アーミヤをはじめとする数人でロドスを立ち上げて、ようやく軌道に乗り始めた頃のことだ。
私はドクターが好きだった。
いつから私がドクターを好きだったかは分からない。どこを好きになったかも、今でも分からない。他のオペレーターたちが言うように、鉱石病患者を差別しなかったり、あるいは暗い人間が多い中で一人だけ底抜けに明るかったりと言うような奴の特徴に、自然と惹かれていったのかもしれない。いずれにせよ並々ならぬ感情を抱いてドクターに接していたことは間違いない。
しかしアーミヤが私の気持ちを知ってしまったら厄介なことになるのは明白だったので、私は心の中でもその感情を押し殺してドクターに接していた。私自身、大いなる目標の妨げになるという懼れからこの気持ちを何度も断ち切ろうとしたが、私の意志に反して大きくなるばかりであった。
ドクターと二人で仕事をする機会も当然度々あった。その度に私は自らの幸運に感謝していた。ドクターからは無愛想だと思われていたかもしれないが、私は表の仏頂面に反して有頂天だった。年甲斐もなく気分を高ぶらせていた。その間も容赦なく鉱石病は私の身体を蝕んでいったが、私はドクターと一緒に仕事ができるだけで幸せだった。
私の小さな幸せに転機が訪れるのは、それからすぐのことだ。
ロドスが武装し、ドクターがその指揮権を総覧したのである。最初の内はヘラヘラと笑っていたドクターが、徐々に精神をすり減らしはじめた。皆の前ではいつも通りの浮ついた笑みを浮かべていたが、無意識のうちに苦しい表情をするところを、私は何度も見かけていた。ずっとドクターを気にかけていた私には、それが何を意味するところのものなのか、すぐに理解できた。
ドクターは自分の行動に疑念を持ち始めていた。鉱石病を完治させるという大いなる目標を掲げてロドスをつくり、そして自分の生涯を支えるつもりで身を賭してきた。そこには人類の為という大義と自負があったに違いない。それが多忙を極めるドクターを支えていた。私にも多少なりとも同じ自負があったから、そこはすぐに理解できた。問題はドクターが戦闘指揮を執り始めたということにあった。大義と自負があったやつは、自らの命令で敵が命を落とすことに疑問を感じ始めていた。人を殺めてまで為す大義が、本当に大義なのか? それがまるで鉱石病のようにやつの精神を蝕んでいったのだった。
たちまちのうちに、ドクターは精神疾患に罹った。が、それを知っていたのは私とアーミヤだけだった。ドクターが他のオペレーター達には話さないでほしいと懇願してきたからである。おそらくオペレーター達の精神的支柱であることが、ドクター自身の精神的支柱となっていたのだった。私とアーミヤはその懇願を受け入れ、ドクターの精神疾患を隠していた。
だが精神衛生の悪化は止まることなく、ついにドクターの歯車を狂わせて行った。同時に他のオペレーターたちから、戦闘が厳しくなってきたという声が聞こえてきた。ドクターは戦場で考えることをやめて戦闘成果だけを求め、帰って来てそれを思い起こしのたうち回るようになりはじめた。私にとってもつらかった。
私は私が好きな人間が狂っていく様をただ傍観しているつもりはなかった。ドクターが一人でいる時は必ず定期的に声をかけ、また逐次行動を見守っていた。なにかあればすぐ対処できるように。
また、ドクターは他のオペレーター達の前では以前の平静を保っていた。完璧な演技だった。こいつにもこんな器用な真似ができるのか。と、私も驚いたほどだった。
そしてある日、やつは戦闘に失敗した。
多数のオペレーター達を亡くし、命からがら助けられてロドスに帰還した。
アーミヤはドクターのメンタルを気にかけて、数日の休暇を申し付けた。それを聴いたドクターは、完全に生気を失った目をずるずると引きずりながら自室へと帰っていった。
私は気が気でなかった。平静を装っていたつもりではあったが、ドクターが自殺でも企てたらと思うと仕事が手につかなくなっていた。そこでアーミヤから許可を取り、一人で見舞いにいくことにした。
私は精神安定剤と少しばかりの菓子を携えてドクターと向き合った。
ドクターは何も言わず、私も何も言わない。沈黙が続いた。それが数秒だったか、数時間だったかさえ覚えていない。やつはベッドの上で、何処を見ているか分からない目を下に向けたまま座っていた。昔のような余裕は完全に消え失せ、少し開いたままの口が狂気を醸し出していた。
「もう戦闘指揮はやめろ。アーミヤにも言っておく」
狂った目が私の方を向いて襲ってきた。両腕でベッドに押し倒され、次の瞬間には私に覆いかぶさるようにドクターが上に覆いかぶさった。
抵抗しようと思えばできたはずだった。Mon3trを出してドクターを羽交い絞めにすれば、いとも簡単にその状況から逃れることができたはずだった。しかし、私はしなかった。
私は、ドクターの欲望をあるがままに受け入れた。
人間は危機に陥ると生理的欲求が高まるという。実際、このところのドクターは食事量も睡眠量も増えていた。しかし、性欲まで増えていたとは思わなかった。
いや、そんなことはどうでもいい。重要なのは、私がここでドクターの醜い欲求を受け入れたというところか。
当然驚いた。だが、何かに期待している自分がいることにも気が付いていた。恋愛にしては多くの過程を飛ばしすぎていたが、ドクターと肌を重ねることが私にとって特別な意味を持っていたのだ。
事実、私は私にドクターの欲望が暴力的に吐き出されている間、経験したことのない充実感に満ちていた。恋愛をするには年を食いすぎていたから、そもそも多くを望んではいなかったのだ。ドクターの特別な存在に慣れれば、私はそれで幸せだった。その特別な存在になれる時がとうとうやってきたのだなという感慨が、私の中に満ちていた。これでドクターの気が少しでも晴れれば、これ以上望むものはないとさえ考えていた。
それが終わり、ドクターが一言だけ呟いた。
――すまなかった。
タバコを燻らせながらそう言った。ドクターが喫煙者であることは知っていたが、私の前で呑むのは見たことがなかった。いや、他のオペレーター達の前でさえも。
謝られる理由などなかった。私は幸せだった。
「謝ることはない。が、他のオペレーター達に同じようなことをされても困る。必要になったときは、私を呼べ」
自分でも無愛想な返事だと理解はしている。しかし、私もこれ以上ロマンチックな台詞を呟けるような器用さは持ち合わせていなかった。精一杯の愛情の印だった。
それから頻繁にドクターの部屋へと呼ばれるようになった。大体は戦闘が終わった後、ドクター憔悴しきって一人になった時間だった。私はその度にドクターの部屋へと向かい、奴の身体を慰めた。何度も抱かれた。なんでもした。多いときには一日に数回を数日通い、一日中私の身体がドクターの身体を覚えていることさえあった。
ドクターの部屋に行くたびに、タバコの匂いがした。ドクターが吸っているタバコ。「最も日の当たる場所」を意味する銘柄のタバコ。ほかのものとは違う、金属のような海藻のような、独特の臭気を持っているあのタバコの匂い。
当時の私にとって、あのタバコの匂いがドクターとの関係を象徴するものだった。
虚無感に襲われるのではないかと思っていたが、それはなかった。ドクターは私の身体を弄んだあと、必ず一言分だけ正気に返った。ありがとう。だの、すまない。だのと私を気遣ってくれた。それに最中には、私を褒めてくれた。
私にとってはそれで十分だった。若くもなくて、鉱石病で何も与えられるものがない私が、ドクターの特別になれたという幸福。少しでも正気に戻すことができたという誇り。それが私にとって、かけがえのない事実となった。好き。や、付き合ってほしい。などと言うつもりは毛頭なかった。そんな高望みをする気にはなれなかった。できることなら、この関係が一生続いてくれればいい。そう思っていた。
そしてある日、ドクターは帰ってこなくなった。待てども待てども、ドクターは現れなかった。
私の不安は日に日に募っていった。もしドクターが死んでいたら、私は私が見つけたもう一つの生きる意味を失くしてしまうことになる。それを失うことは、鉱石病で死んでしまうことよりも恐ろしかった。ドクターとの関係が、例え淡く脆いものだったとしても、私の人生を僅かに豊かにしてくれた。それを失いたくなかった。
しかし私はその不安を口には出せなかった。ドクターを失くして混乱していたのは、ロドスも他のオペレーター達も、アーミヤも一緒だったからだ。ほとんど崇拝と言っていい尊敬を向けていたアーミヤは、必ずドクターを探し出して助けると誓った。私もそれを密かに願っていた。他のオペレーター達と違うのは、心の中では再び私にその全てを向けてほしいという歪な気持ちでドクターの生還を待ち望んでいた。
しかし何日経ってもドクターは帰ってこなかった。私は自分の中の、本当に大事なものがポッカリと消えてしまったような喪失感を抱いて、アーミヤと二人でロドスを守っていくこととなった。
あの日、ドクターは多大な犠牲を払ってロドスに帰還した。私はこの日を心待ちにしていた。が、同時に少し不安でもあった。長い間会っていない想い人に、もう必要とされなくなっているかもしれないという不安が張り付いていた。その予感は結局のところ現実となった。
勇気をもって私はドクターに会いに行った。
ドクターは全てを忘れていた。
ロドスのことも、あの悩みも、そして私を必要としていたことも。全てを忘れ去った抜け殻だけが帰ってきたのである。
抜け殻という表現は正しくない。たしかにそこにはドクターがいた。昔のままのドクターが。暗い世界で自分と仲間のことを誰よりも肯定的に見て、大義のために動き、おちゃらけた笑顔で笑うドクターが。そこから私にとって、最も重要なものが抜け落ちているというところ以外は完全に昔のままのドクターだった。
それに気づいた途端、私は巨大な虚無感に襲われた。私がやってきたことは全て忘れ去られてしまい、何事もなかったかのように昔に戻ってしまったドクターの姿に、私は全身の力が抜けるのを感じた。
同時に沸々と猜疑心が湧いてきた。私の事を全て忘れてしまったことは許そう。私がささげたものを忘れてしまったことも気にはしない。だが、あれだけロドスを鼓舞しつづけ、身を賭してロドスを発展させて人々を救うと言い続けてきたドクターが、それら全てを忘れて帰ってきたことに不審が起こった。まるで免罪符だと言わんばかりの忘却は、ドクターが最も嫌っていた人生からの逃げとは違うのか。ドクターとロドスの記憶はどこか手の届かない遠くへと飛んでいき、残された我々の気持ちを考えてはいないのか。そんな怒りにも似た心が、勢いよく芽を出した。
そういえば、いつだったかドクターに尋ねたことがある。
「タバコ、やめないのか」
――こいつは「最も日の当たる場所」っていう意味のタバコなんだ。暗い奴が多いロドスにはピッタリだよ。
私はもう、貴様の特別ではないのか。
もう私に日を当ててはくれないのか。
つまらない記憶。聞いたところで面白いものは何もない。
ドクターは今私の隣で、何も知らない顔で執務をし、他のオペレーター達と楽し気に談笑している。私はもう、ドクターを信じられないかもしれない。信じて再び忘れられるのが怖いからか? 私はドクターには何も求めていないはずだった。ただ私から捧げるだけでよかったはずだ。忘れてほしくないという意思があったなら、なぜそれを言わなかったのか?
私はもう一度、あの匂いに包まれたいと思っているのだろうか?
自分でもまだ、答えが出せないでいる。