「あれ、モミジさん……?」
最初は、そのままの姿勢で眠ってしまっているのか、と思ったほどだ。
机に広げた本に視線を向け、まるで彫像のようにじっと動かずにいるムラサキハナナ。
それがようやく顔を上げたのは、モミジと彼女との距離がだいぶ縮まってからだった。
起こしてしまわぬよう。そして読書に集中しているのだと察してからは驚かせてしまわぬよう、そっと近づいたつもりだ。
はじめは気づかれぬように、気配を完璧なまでに殺して。そしてある程度の距離になってからは、反対に自然と気がつくように。
「……何をしているんですか、こんな時間に?」
そう言ったものの、ムラサキハナナからの返答を待つまでもない。
目の前の光景が、すべてを雄弁に物語っている。いくらモミジでも、そこから何も想像できないわけはなかった。
「えへへ……。その、明日からのために、少し確認をしておこうと思って……」
机の上には何冊もの本や地図のたぐいが積み重ねられ、いくつかの山を作っている。角度によっては小柄なムラサキハナナの姿が埋もれてしまうくらいだ。
夜更けの作戦室。
就寝前の軽い鍛錬をすませたモミジがその部屋の明かりに気づいたのは、浴室で汗を流し終え、自室へと戻ろうとしていたときだった。
食堂や書庫ほどの広さでないにせよ、ひとりきりでいるとぽつんとした寂しさを覚えてしまう。そんな部屋だ。
しかし今のムラサキハナナの雰囲気からは、彼女が寂寥感から怯えていたようには見えない。それだけ全神経を集中させ、没入しきっていたということだろう。
「すごい本の数……。これ、全部読もうとしてるんですか?」
「いえ。どの本や地図も、前に一度読んだり見たことがあるんですけど……」
「え、全部? こんなにたくさんあるのに……」
思わず聞き返してしまうと、今度は恥ずかしそうに小さくうなずくムラサキハナナ。
それだけでも驚きだ。同じことを自分がしようものなら、半分もいかぬうちに音をあげてしまうのは間違いない。
だが……モミジの衝撃は、それだけに終わらなかった。
「内容も、全部覚えているんです。わたし、記憶力には自信があって……」
すさまじい。それ以外に、まったく言葉が見つからない。
「全部覚えてるって、すごいじゃないですか! 記憶力に自信があるなんて言葉で片付けられるほど、簡単な話じゃないですよ」
「い、いえ! 力も弱いですし、わたしの取り柄なんてこれくらいで……」
才能というより、もはや異能というべきかもしれない。十分誉められてしかるべきものだろう。
なのに、モミジが感嘆すればするほど、かえってムラサキハナナは恐縮してしまうようだった。
控えめな性格で、ぐいぐいと自分から迫っていくタイプではないのだろう。
力が弱いと本人が言っているように、たしかに華奢に見える体格からは最前線で次々と害虫を薙ぎ払っていけるようにも見えない。
「……あれ? でも、本の中身を覚えてるというなら、わざわざ読み返す必要はないのでは……?」
「えっと、それは……」
モミジの疑問に、なぜかしゅんとなるムラサキハナナ。
――これまでにモミジが知る、彼女の性格。
さらには自身が花騎士となってから得てきた経験や観察眼。
それらを複合させて……なんとなく思い当たった。
「……なるほど、わかりました」
「……」
「明日からの遠征任務、やはり不安はありますよね。効果は期待できなくとも、何かせずにはいられない……そう考えてしまうくらいに」
「……はい」
モミジの推察を素直に認め、まるで悪いことをしたかのように頭を垂れるムラサキハナナ。
会話を始めてから、彼女にはずっと驚かされっぱなしだった。が、ようやくこちらが余裕を見せつけられそうだ。
事前にどれほどの鍛錬や準備を重ねていようと、前夜ともなれば、どこからか不安とか緊張といったものが忍び寄ってくる。
どれだけ場数や体験を積めば、そのような心の波と縁を切れるのか。そもそも完全に断ち切れるようなものなのか。モミジにすら、明確に答えることができない。
今回行われるのは普段あまり経験することのない、遠征したうえでの害虫討伐だ。いつもとは異なる力を肩先にこめ、余計な感情に振り回されてしまうのは無理もないことのように思える。
ムラサキハナナが豊かな実戦経験を持っているとは、さすがに思えない。それを考えれば、彼女の行動が理解できないモミジではなかった。
「……私も不安はありますよ。ムラサキハナナさんだけじゃありません」
「え、モミジさんも……ですか!?」
モミジの言葉があまりに意外だったのか、ムラサキハナナが弾かれたように顔をあげた。
「はい。だから今もこうして、鍛錬を行ってきたばかりですし」
軍師や作戦家を志しているとはいえ、根はきっと真っすぐで正直なのだろう。
驚きの表情をまるで隠そうとしないムラサキハナナにどこか安心感のようなものを覚えながら、にこりと微笑んでみせる。
――明日もまた、一番の戦果を挙げるのは自分だ。
そう信じているし、またそれを実現すべく日々の訓練にも人一倍身を入れているつもりだ。
しかし、仲間でありライバルでもある他の花騎士も、才能を次々に開花させ、実力を伸ばしてきている。うかうかしていれば彼女たちにやがて追い越され、一番の座にまったく手が届かなくなってしまうかもしれない。
それを不安と呼ぶなら……モミジとて、常に無縁ではいられなかった。
「……わたしの立てた作戦で、余計にみなさんを危険な目に追いこんでしまったら……。だから一度読んだ本でも、見落としたところはないかと不安になっちゃって……」
これまでに何回かムラサキハナナと任務をともにしたとき。彼女が提案した作戦で大きく失敗したことは、一度もなかったはずだ。
その年齢に見合わぬ秀抜な作戦だといつも感心しているし、また他の花騎士からも悪い評判は聞いたことがないように思う。
それでも、これまでも軽い気持ちで作戦を立案してきたわけでないということが、よくわかった。そしてまた軍師という役割が担う責務は、その小さな肩にはとても重たいものなのだろう。
だからこそ、身を削ってでも、何かをせずにはいられない。
気の弱そうなムラサキハナナを思えば、深夜の濃密な闇が漂う中を、この部屋まで来るだけでも勇気を必要としたかもしれない。
それから机に資料を広げ、読みあさっていた時間。きわめて高い集中力を見せていたのもまた、闇夜の重苦しさを精一杯振り払おうとしていたがゆえだったのかもしれない。
最初に彼女の姿を見つけたとき、悪戯心に驚かそうなどとしたりしなくてよかった。今になってモミジは、心から思った。
明らかに、ムラサキハナナは無理をしている。こうでもしないと押し潰されてしまいそうな重荷と戦いながら。
「あ……」
――気がつけば彼女の明るい薄紫色の頭を、ぽんと軽く撫でていた。
「……大丈夫ですよ、ムラサキハナナさん」
「モミジさん……」
気持ちが伝わったのだろうか。わずかなりとも安心してくれただろうか。
どことなく、ムラサキハナナの表情が柔らかくなったような気がした。
「頑張りましょう、明日。みんなで、全員で力を合わせて」
「……留守部隊にも軍師は必要だから、ワレモコウさんにも相談できなくなっちゃいますし。だから、わたし……」
「大丈夫ですから。ワレモコウさんだけでなく、みんな頼れる人たちばかりだから」
「……はい」
「いつでも相談してください。私にも、そして他の誰にでも」
作戦を構築するよりも遂行するほうが性に合っていると思うモミジには、さして力になれないかもしれない。けれどそんな自分を頼ってくれたなら光栄に思うだろうし、全力で応えたいとも思う。
知識も、そしておそらくは経験も。普通の同い年の少女と比較すれば、ムラサキハナナのほうが深いものを持っているに違いない。
先輩花騎士として、自分は彼女にどれくらいアドバンテージがあるのだろう。モミジ自身にも、それはわからない。あるいは思った以上にその差は大きくないのかもしれない。
ただそれでも、先輩なのだ。
「もっともっと。ムラサキハナナさんは先輩たちに頼っていいんだと思います」
戦場に立つ彼女とはまるで別人のような声で、モミジはムラサキハナナに優しく微笑んだ。
遠慮なんかしなくていい。仲間なのだから。
それにムラサキハナナのようなかわいい後輩に頼られたら、悪い気はしないはずだ。おそらくほとんどの先輩たちは嫌と断らないだろう。
もう一度、彼女の頭に手を伸ばして撫でてやる。
今度は驚いた様子もなく、かわりに目を細めながら嬉しそうな表情で受け入れるムラサキハナナ。
「えへへ……。モミジさん、まるでお姉ちゃんみたいです……」
そうか。
ひょっとしたら――
(お姉ちゃんも、いつもこんな気分になっていたのかも……)
カエデという名の本当の姉が、かつてモミジにもいた。
けれど、今はもういない。モミジを残して害虫討伐に赴き、帰らぬ人となってしまったのだ。
立派な花騎士として活躍する姉を、モミジは妹として尊敬していた。そんな姉のように自分もなりたいと独自に考えた鍛練を日課とし、騎士学校に入学もして。
……けれど、今になって思えば。姉と一緒にいるときは甘えている時間こそが一番長く、そして一番楽しかったような気がする。
ついに正式な花騎士となり、姉と最後に交わした「一番になる」という約束を果たすべく、害虫との戦いをがむしゃらにこなすようになった。そんな彼女を叱咤し、また支えてくれたのが、スズランノキとニシキギという2人だった。
今のモミジにとってはスズランノキはいなくなった姉のような存在であり、またニシキギには妹に対するような感覚で接している。
(ふふ……。ちょっと不思議な気分……)
ニシキギは、ちょっと手のかかる妹といったところだろうか。
スリルを求めてブレーキが利かなくなる場面があるのが彼女の癖で、モミジもまれにお説教したりする。
ある意味、行動力という点において過去のモミジ自身にも似ているような気がしなくもない。そう思うとせっかくのお説教も苦笑いに変わってしまいそうになり、あらためて表情を作り直したりしたものだ。
妹のように感じるにしても、相手によってずいぶんと違う。
ニシキギに比べると、ムラサキハナナは驚くほどしっかりとしている。ニシキギと同じ理由でお説教する機会など彼女には絶対に起こらないと、そう言い切れそうなくらいだ。
けれど今度は反対に、やや消極的な姿勢をたしなめる場面が訪れるかもしれない。本当にニシキギとはまったくの逆方向だ。
恵まれすぎているかもしれない。ふと、モミジは思った。
自分の姉のように、積極性がときに裏目に出てしまう妹をもった気分と。思慮深く、内面に沈みがちな妹を見守りつつ、ときに手を差しのべる立場と。
その双方の、姉という役割を味わえるかもしれない。
贅沢な話だと自分でも思う。けれど望まれるのなら、喜んで引き受けよう。いや、引き受けたい。
「……それじゃあ。お姉ちゃんとして、はじめに思ったことを言っておきますね」
「……はい」
「もっと自分に自信をもってください、ムラサキハナナさん。さっきみんなを頼っていいと言いましたが、みんなもあなたのことを頼りにしてるのですから」
「で、でも……!」
「姉の言うことが信じられませんか?」
「うう……。モミジさん、ちょっぴりずるいです……」
さっそく痛いところを突かれて頬をふくらませるムラサキハナナに、そうかもしれませんね、とにこやかに微笑むモミジ。
素直に不満をぶつけられるというのも、それだけ相手を信用しているという証だろう。だからこそ少しも嫌な気分にはならない。
――やがて、ぱたんという音が静かに響いた。
ムラサキハナナが広げていた書物をそっと閉じたのだ。
「……もう、大丈夫ですか?」
「……はい。ありがとうございます、モミジさん」
大したことはしていない、とモミジは首を横に振る。むしろ自分の方こそ、こうしてムラサキハナナとゆっくり話すことができて嬉しかった。
明日からもまた、全力で任務に当たろう。姉との約束を果たすため、団長のため、そして妹の笑顔のために。
遠くないうちに、彼女のことをスズランノキやニシキギ、そしてまたイフェイオンにも紹介する時がくるだろう。
案外どの花騎士ともすんなりと、思うより早く打ち解けていけるのではないだろうか。そんな気がする。
「あの、それで……。さっそくなんですけど……お姉ちゃんに、頼っちゃってもいいですか……?」
「いいですよ。なんでも言ってください」
自分から切り出したものの、どこか恥ずかしげに、言いづらそうにするムラサキハナナ。
それを急かすことなく、モミジはじっと彼女の次の言葉を待った。
「そ、それじゃ。へ、部屋に戻るまで、一緒に……来てください……」
「……はい。もちろん」
いつか、遠い未来――
一番になること以外に、もうひとつ。胸を張ることができたように思う。
自分には、2人の妹のような存在がいたということ。
そのどちらもが自慢の妹たちなのだと、誇らしく報告することがきっとできるだろう。
◇ ◇ ◇ ◇
かくして、明朝より。
イオノシジウム、ヒメシャラ、アンゼリカ、キンギョソウ、プルモナリア、イフェイオン、スノードロップ、カルミア。そしてモミジ、ムラサキハナナ。
……以上10名の花騎士とともに、あらたな任務がはじまる。
おなじ属名や種目がモチーフの花騎士って、血縁関係だったり仲が良かったりと何かしら関連づけられることが多いですよね。
では、同じ絵師(デザイナー)さんという場合はどうなんだろう。そんな回でした。
と、そんなこんなで出撃前夜編はこれにて終了!
ようやくといいますか、次回からはいよいよ遠征任務のスタートです。