「だまされた……」
なんということだ。
このアンゼリカさんが、かくも簡単に罠にかかってしまうとは。
もしかすると、などと疑うまでもない。冷静になって考えれば考えるほど、これは都合よく押しつけられたというやつに間違いないと思えてくる。
「ええそうですよ! 好きに過ごしていいって言われましたよ! なので私の好きにしちゃいますよ! フリーダム万歳的な、ですよ!」
膨張した不満が一気に破裂したかのごとく。憤然とした勢いで、アンゼリカはそう叫んだ。
いくら大声を出そうが、遠慮なんかする必要はない。好きにすると決めたのだ。
どうせ耳を傾けてくれる人はいない。というか彼女以外に誰もいない。
「わ・た・しがMVP、じゃないんですかー! めっちゃ重い投網をちゃんと害虫に命中させて、大活躍したのはこのアンゼリカさんですよー?」
頑張った。巨大害虫を倒す場面では、むちゃくちゃ頑張った。
というわけで、差し出した労働力に対して報酬はちゃんと支払われるべきだし、受け取りを拒否するつもりもない。
そして期待どおり、ご褒美をもらえた……はずだ。
その結果が――
正式に騎士団が所有することになった、城外にある屋敷。その滞留権(無期限)。
簡単にいえば、つまり騎士団が本格的に運用を開始する前の管理を任された、というわけだった。
「でもなんですかこれ! なんで私を置いてみんな帰っちゃうんですかー!」
現実は厳しい。たいへん厳しい。
アンゼリカへの委任を見届けると、仲間たちはさっさと本拠地へと帰ってしまった。
誰かひとりくらい残ってくれる人がいてもいいじゃん、と心のなかで愚痴をこぼしつつ……いつもの調子でこの屋敷を報酬にと、さながら欲望丸出しといった感じで要求してしまった自分の姿を思い出す。
そのうえ、ならばと団長から役目を言い渡されると、後先考えずに自信満々かつノリノリで引き受けてしまったのも否定できない。完全に自業自得だった。
不本意な部分はあるものの、いずれにせよ念願の大きな屋敷は手に入れた。騎士団のものだけど。
だが、ひとりきりではさすがに手に余りまくる。ぼっちで過ごすには広すぎるのだ。
いろいろと面倒をみてくれるはずのメイドさんや使用人もいない。
そろそろ自力で食事の用意をしないと。叫んだぶんだけお腹が空いてきた。
「……今ここで餓死とかしたら、まるでこの屋敷が棺桶みたいだよね。大きくて立派な棺桶。なかなか入れるもんじゃない。……冗談だよ?」
「うおうっ!? プルモナリアさん、いたんですか?」
「……わたしだけじゃないよ。もうひとり、すぐ横にいるじゃん」
「うー……。そりゃまあ、そうなんですけどー」
プルモナリアの言うことは正しい。
とはいえ、人数にカウントすべきなのだろうか。非常に悩ましい。
子供の幽霊。
館の元所有者の息子であり、戦死した花騎士の弟でもある、まだ小さな男の子だ。
彼だけがなぜか成仏せず現世に残ってしまった。……どころか、他の仲間たちが屋敷から引き払ってしまってからは、不思議とアンゼリカの隣から離れようとしなくなっていた。
「……アンゼリカさんって、子供に好かれるタイプなんだね。意外すぎるけど」
「意外すぎるって、ひとこと余計ですよねー。……いやいや、っていうか私だってはじめての経験ですよ! いつもなら親御さんのほうから近寄っちゃいけませんとか言われるのに!」
「それ、自分から言ったらダメだと思う……」
アンゼリカのどこが気に入ったのか、その様子はべったりと付きまとうというような、明らかな粘着ぶりだった。
幽霊になったからか、感情の起伏はほとんど見られない。子供らしく笑うこともなく、表情もまったく変わらない。
ただ短い会話はできるし、そこから無感情なりに喜んでいるのか不満があるのかなど、かすかな変化を推し量ることはできた。
「うう……。庭付きの大きなお屋敷! そしてVIP待遇! ……そう思ってたのに~!」
ところがどっこい。自分がお世話してもらうどころか、子供(の幽霊)の世話までしなければならないとは。
しかも、いつまで続くのか見当がつかない。成仏してもらおうにも、心残りとなっている理由がさっぱり不明なのだ。
「……仕方ない、とりあえず夕食の準備でもしようか。アンゼリカさんはどうする、自分で作る?」
「あ。作っていただけるんでしたら、よろしくお願いしやっす、プルモナリア先輩!」
◇ ◇ ◇ ◇
〇月×日
救助要請のあった村に到着した。
とても小さな村で、害虫の襲撃で村人のほとんどが逃げてしまい、残った者はわずかしかいない。逃げた、といっても害虫から無事に逃げることができたのだろうか。
一軒だけ村の景観から明らかに浮いた、大きな屋敷に滞在することになった。もとは村の長の一家が住んでいて、害虫の襲撃で真っ先に全員逃げ出してしまったらしい。
〇月△日
何日か滞在してみたが、救助要請があったわりには不思議と害虫の襲撃はない。
しかし、それどころではなかった。村人のうちの数人が、忽然と姿を消してしまったというのだ。
害虫の姿は影すら見ることができないから、その線という可能性は非常に低い、というのが我々の結論だ。とすると我々が救援に来たところで心穏やかになれず、彼らも村を捨ててどこかに逃げてしまったのだろうか。
そのうえ奇妙なことは、村全体の様子だ。人がいなくなったというのに、あまりに関心が薄いように感じる。騒いでいたのは我々ばかりだ。
〇月□日
依然として害虫の襲撃はない。そしてまた村人が消えた。
しかも今度は全員だ。全村人が、一夜明けると我々の前からふっと姿を消してしまったのだ。
どういうことだ。何が起きているのだろう。
まるで村に取り残されてしまった我々数名は、本格的に調査を開始した。
〇月■日
なんということだ。我々のメンバーからも、ついに調査に出かけたきり帰らぬ者が現れてしまった。
×月%日
今日もまた行方不明者が出た。残りわずかとなった、我々の大事な仲間のひとりだ。
日に日に、暗雲が我々の頭上に重く広がるようになっている。村を見捨て、撤退しようという意見も真剣に検討されているほどだ。
ただ今日は、この絶望的な状況に比べればわずかなほどでしかないが、光明もあった。村の近くを流れる川。そこから異常が検知されたというのだ。
ただ惜しいことに、それを発見したメンバーは先ほど急死してしまった。
彼の死と川の水の異常とは関係があるのだろうか? 村で普通に生活用水として使われていた水だ。
×月×日
今日、激しい戦闘があった。害虫との戦いではない。我々人間同士の戦いだった。
村人たちが帰ってきた。そして、行方知れずとなっていた我々の仲間も。
ただ、彼らを……仲間だと、そして同じ人間だと、そう呼ぶことはできない。
彼らには生命の気配をまったく感じなかった。動きはするが生きてはいない、そんな感じだった。
×月▽日
昨日の日記を書いたあたりから、体調が優れない。
一晩眠れば回復する。そう信じていたものの、今ははっきりと間違っていたことがわかる。自分の中に、自分とは違うなにかがいる。
この日記も明日からは文字で埋まることはなく、ずっと空白が続くことになりそうだ。これが最後になるだろウ。
今日もまた、村は襲われている。害虫でハなく、かつての村人たちにだ。
昨日も書いたが、彼らはすでに彼らデはない。人間のようでいて、別のなニか。
まだ戦えるほんの数名の仲間が防戦ニ出ていったガ、無ダな抵抗だ。ホら、今も悲鳴が上がっタ。
みンな、すまナい。こコまでガ限界のよウだ。
自分デあっテ、自分でハナイ。それガ、ワかルようにナってキた。
ジンるイのテキは、ガいちューではナイ。真のテキは――
あああああ……ぞんび……
「……はっ!? ごく普通の花騎士の物語のはずが、いつの間にかめっちゃホラーストーリーにっ!?」
ふと我に返るなり、アンゼリカは愕然となった。
すらすらとネタが湧いてきた自分の才能が恐ろしい。ただし内容はというと、どうしてこうなったのか。
「……おーい。アンゼリカさん作の渾身のお話、聞いてますー? っていうか寝てるしー!」
かつてリビングとして使われていたという部屋。
夕食をすませ、きちんと食器類を片付けたのち。特にすることもないので、ずっと子供の霊の相手をしていたのだ。
けっきょく一日中、こんな調子だった。トイレや入浴といったプライベート以外はずっとアンゼリカにつきまとい、ぴったりとくっついたように離れようとしない。
あまりに露骨に彼女を慕う子供の霊の態度に、プルモナリアはちょっと傷ついたようだ。今夜はもうすべてをアンゼリカに任せると言い残し、用意しておいた自分の部屋へと引っ込んで早々に就寝してしまっている。
「……にしても、本当に花騎士の話が好きなんですねーこの子。っていうか、それ以外の話にはほとんど興味を示さないし……」
かつて生きていたときも、姉と一緒に父である館の主から花騎士の物語を好んで聞いていたという。
今もまた、アンゼリカにせがんできたのはその手の話ばかりだった。そしてネタが尽きたアンゼリカが苦しまぎれに即興話を語りはじめると、いつのまにか勝手に寝てしまっていたというわけだ。
「興味……かあ。なんでこの子、プルモナリアさんじゃなくて私に興味あるのかなー?」
リビングテーブルにこてんと頭を預け、すっかり眠ってしまったように見える子供の霊。
幽霊にも睡眠が必要なのかどうかはわからないが、こうして眺めると本当にただの小さな子にしか見えない。
「まー。それもこれも、にじみ出る人徳の差ってやつですかねー。やー、生まれついての大物な私! でもってまだ小さいのにそれを見抜いちゃうこの子もすごくないですかね実は!?」
幽霊だろうとなんだろうと、寝顔はあどけない。
ちょっとした悪戯心に導かれて、その小さな頬を指先でつついてみる。
「むー……」
幽霊であることをすっかり忘れていた。
ぷにぷにとした反応が返ってくるかと思いきや、すかすかと手応えがなかった。ろくに触れることすらできない。
――そもそも、この子はどうしてここにいるのだろう。どうして、父親の霊と一緒に成仏しなかったのだろう。
いまだに理由はまるで思い当たらない。しかし、なんらかの未練を抱えたままでいることは疑いようがなかった。
「そうですねー……。まー、この子の相手をするのもイヤじゃないですけどね。成仏しない理由がわかるまで、しばらくこのままでもいいんじゃないかな―的な?」
幼い寝顔を見ているうちに、ふとそんなことをアンゼリカは思う。
どのみち、時間は必要だろう。
今日一日だけでない。おそらくしばらくの間は、この屋敷に滞在することになるのは間違いないだろう。
騎士団が運用していくにあたって手を加えていくにしても、子供の幽霊を放ったままにはしておけない。そちらが無事に解決するまでの管理は、おそらくアンゼリカが中心となるはずだ。
ただ、ひとりきりで過ごすのはやっぱり寂しい。プルモナリアがいるにはいるけれど……明るく賑やかに過ごす相手としてふさわしいかというと、本人には悪いけれど期待するのは無理だ。
ならばいっそ、ここは逆転の発想をしてみるのはどうだろう。あえて少数精鋭というメリットが、何かないだろうか。
「……あれ? というかよく考えたら、むしろこれはとんでもなくチャンスなのでは!?」
屋敷のどこかに眠る、隠し財産。その秘密なり手がかりなりを知る、いまや唯一となった元住人。
アンゼリカになついているのは幸いだ、さらに仲を深めて信頼を重ね、そしてゆっくりとその
「ふふふ……、アンゼリカさんってば優しいですからね。隠し財産を見つけたら、どーんとみんなにお裾分けしちゃいますよー。でもって財力と同時に人気も急上昇! ヤバイですね☆」
……それにしてもお裾分けって、一般的にはどれくらいなんだろう? 3割? さすがにそれはないか。それだと第一発見者の取り分が少なすぎる。
となれば、2割だけ分けてあげるのはどうだろう。いや、それでも多すぎる気がする。苦労しただけ功労者には大きなメリットが与えられなければ。とすればやはり1割が妥当……いや0.5割、つまりは5分。このくらいか。いやいやもうひと声で0.3割、それならむしろここまできたら0.1割でいっそ……。
…………
……
「……はっ!?」
目覚めた。
なんということだろう。正しく公平なる分配のために緻密きわまる計算をしているうちに、いつのまにか寝てしまっていたようだ。
窓の外を見れば、まだ明け方にはなっていないように見える。
不覚にもぐっすりと眠りこんでしまった……というわけではないらしい。数時間ほどの眠りだったと考えれば、おそらく真夜中といった頃合いだろうか。
「ええっと、あの子は……?」
そう言いながら視線をさまよわせる……こともなく、すぐそばに子供の霊はいた。
どうやらむこうのほうが一足先に眠りから覚めたらしく、じっと隣でアンゼリカを見つめている。
「こーら、ダメですよー。乙女の寝顔をそんなにまじまじと見つめちゃ。セクハラで訴えられちゃう的な? 罰金としてマニーをたくさんむしり取られちゃいますよー?」
軽くお説教するも、きょとんとしている子供の霊。
やれやれと内心で首を振り、アンゼリカは軽くため息をついた。
これ以上厳しく責めて、隠し財産の情報が得られなくなってしまっては元も子もない。
というより、邪心のまったくない小さな子供の顔を見つめたとたん、怒る気持ちなど急速にしぼんでしまった。
「んんんー……?」
ふと。なにかを感じた。
――あるかなきかの、ちょっとした違和感。
子供の幽霊の相手をするようになって、まだ半日ほど。それほど深く理解したわけでないし、そうなるには明らかに時間が足りない。
それでも、なにかが違った。
唐突に。子供の霊が、アンゼリカにむかって指を突きつけた。
いや、彼女の背後にある窓の外を指差したのだ。
「なになに……? あー……」
違和感のような感覚の、正体がわかった。
漆黒の闇が広がる屋外の一角に、なにか
「……これって、このあたりじゃわりとよくあることとか?」
ふるふる。
子供の霊が首を横に振る。ということは、どうやら珍しいケースらしい。
そりゃそうか、と思う。それだからこそ、城外でありながら普通の暮らしをつづけていられるのだ。
「んー……。こっちにむかってるという感じではなさそうですねー。群れからはぐれたというか……それより、ただふらふら酔っ払い歩きしてる的な?」
闇に目が慣れてくると、それが一匹の害虫だということがぼんやりと判別できるようになってきた。
ただ、小さい。アンゼリカひとりでも楽に相手ができる、そんな程度の害虫だ。
そのうえ明確な目的はないようで、まるで深夜の散歩とでもいった雰囲気でうろうろと徘徊しているだけのようだった。
「……無視しときましょー。めんどくさ……いやいやこんな時間だし、近所迷惑にならないように、ね?」
放っておいても害はなさそうだ。どこかの民家に押し入ってくるようなら見過ごせないが、そんなことも起こらないような気がする。
実害がないなら、そのままにしておいて問題ないだろう。
明日、明るくなってから他の花騎士たちに説明して討伐してもらえばいい。自分とプルモナリアをそのままにして引き上げてしまったぶん、それくらいはやってもらわないと。
そんな言い訳をしながら、アンゼリカはひとつ欠伸をした。
害虫などよりも、自分の健康と美容のためにこれからちゃんと寝直さないと。
…………
……
「……あのですねー。世の中には業務時間というものがあるんですよ。その時間を1分1秒でも過ぎたらはいお仕事おしまい! それ以上働かせたいなら追加のマニーをいただくという、それが大人の社会のシステムなんですよー」
こちらを見上げただけで、語りかけてくることはない子供の霊。
しかしずっと片手が上がっている。窓の外の害虫を指差したまま。
「いや、だから。『あれやっつけて?』みたいに言われても動きませんからね?」
………………
「……お父さんかお姉さーん! というか誰でもいいから、この子に労働と対価の関係についてレクチャーしてあげてー!?」
ほぼ一日、ずっと面倒をみてあげた。十分に合格点をもらっていいはずだ。
いくらつきまとわれても邪険にしたことは一度もなかったと思うし、花騎士の物語が聞きたいというから、いくつも語って聞かせてあげた(オリジナルストーリー含めて)。
我ながらよくやった。アンゼリカさん頑張った。だからもうこれ以上は勘弁してください。
泣きたい気分に襲われながらどう納得してもらおうかと思案するアンゼリカに対して、子供の霊はずっと微動だにしない。
かと思いきや。それが急に、新しい動きをみせた。
「……え? ついてきて、ですか?」
きょとんと首をかしげるアンゼリカ。
とはいえ、こんな夜更けに害虫と戦うことに比べたら、あまりにも大きな落差だ。これで子供の霊の気が少しでも晴れてくれるのなら、むしろお安い御用といってもいい。
ここはおとなしく連行されよう。そうアンゼリカは思った。
――そして、見覚えのある部屋に連れてこられた。
「ここは……? って、お姉さんの部屋じゃないですかー!」
かつて花騎士を志して旅立つ前に使っていたという、子供の霊の姉の部屋。
家具や調度品はそのままだが一度清掃を行ったので、だいぶ過ごしやすくなったはずだ。
この部屋が今後どのように使われていくのか、まだ決まってはいない。しかし決して手荒に扱うことがないようにしよう、とアンゼリカは不意にそんな気持ちが湧いてくるのを感じた。
と。
わずかの迷いすらないといったふうに、子供の霊が一直線にベッドに近づくと。
そこではじめて立ち止まり、枕元のある場所を指差した。
「あー、はいはい。置いてありますねー、絵が。あなたが描いたんでしたっけ、これ?」
こくり。子供の霊がうなずく。
たしか物語で聞く花騎士の姿を想像し、この子供なりに精一杯に表現した絵だったはずだ。
そしてそれをプレゼントされた姉は、こうしていつでも手の届く距離に飾っておいたのだ。
と考えれば、この一枚には姉と弟の双方の特別な想いがこめられているというのは、想像に難くない。
そうだ。
はじめて屋敷を訪れた日、プルモナリアがこの絵に手を伸ばしかけた瞬間。
忘れもしない。あのとき珍しく、はっきりとした意思を示してはいなかったか。
「……あれ?」
どう見ても稚拙な、花騎士というよりは天使を描いたような絵。
だが、見た目の良し悪しなど、それがなんだというのだろう。
ここに描かれた姿こそが、作者にとっては憧れの花騎士そのものの姿なのだ。
……そういえば。
戦死した花騎士の姉と、似ているような気がする。
生真面目な天使というよりは、まるで家族に微笑んでいるような。よくよく見てみれば、どことなくやわらかさのようなものが伝わってくる。
銀色の長い髪など、まさに姉とそっくりだ。
絵のモチーフとなる人物が、周囲に姉しかいなかったからかもしれない。しかし……なんとなく、それは間違っているように思えた。
姉しかいなかったから、ではない。最初から、花騎士となった姉の姿を描いた絵だったのではないだろうか。
「って……。これってつまり、ひょっとして……?」
そこで。
ようやくアンゼリカは気がついた。
◇ ◇ ◇ ◇
「……止まりなさい、害虫!」
押し包んでくるような夜闇を払いのけるように、凛呼とした声が響いた。
びくりと小型害虫の身体が一瞬だけ震えると、声のしたほうへと向きなおる。
「たとえ夜中だろうと駆り出され、年中無休が恨めしいこの稼業! 人々の安寧を脅かす
地上に降り注ぐ月光を背に、ひとりの花騎士が害虫の前に立ちふさがった。
色素の薄い銀色の髪が、まるで月の雫のように微細な光の粒子を周囲に振りまく。
「時間外勤務過重労働ダメ絶対! だけど小さな子に実は優しかったアンゼリカさん! ここまできたら、もうなんでもかかってこいやー!」
(あーも-あーもー! どーして私がこんなことしなくちゃいけないんですかー!)
心の内側であらゆる方向に文句の言葉を投げまくりつつ、子供の霊とともに玄関ホールへと急ぐアンゼリカ。
まったく、とんだ二次被害だ。子供の相手という面倒を押しつけられたのを手始めに、とばっちり以外の何物でもない。
(そもそも私、そういうキャラじゃないんですけどねー! 1マニーにもならないことをやったって、まるで意味ないじゃないですかー!)
けれど、気づいてしまったのだ。
子供の霊が異様なまでに自分のことを慕っていた、その理由が。
(まーたしかに、この子が私を天使のように思うのも無理はないですけど。なんたって、このアンゼリカさんですからねー)
プルモナリアとともにアンゼリカには見えていた、子供の姉の霊。
いま思えば髪の色などは、自分と非常に似通っていたと認めざるをえない。
加えて自身や2匹のお供の容姿など、絵のなかの人物との共通点を思わせるポイントはたしかにあった。
つまり……子供の霊はアンゼリカを重ね合わせていたのだ。
天使のように美しく、憧れの花騎士そのものとして活躍する姉の姿と。
「まったく……。いいですか、今回だけですからね? 一度だけの特別サービスですからね?」
こくこく、と小さく何度も首を振る子供の霊。
一度だけ首を振るこれまでとは、明らかに反応が違う。感情に乏しいと思っていたのはこちらの誤りで、彼の望むものをちゃんと理解しきれていなかっただけかもしれない。
きっと、姉のことが大好きだったのだろう。
そんな姉が、本物の花騎士になった。そのときすでに霊体になっていたこの子もまた、自分のことを見つけてもらえない寂しさを抱えながらも、館主と姉の隣で一緒に喜んでいたに違いない。
しかし、それだけだった。
大好きな姉が、これまで聞いてきた数々の物語に登場する花騎士のように、華々しく戦うところは一度も見ていない。
見たいのだ、きっと。
自分が空想し、絵に描いたような。天使そのものとなった姉が大活躍する、その光景を。
「まー、乗りかかった船ですからね? 毒を食らわば皿までといいますか……ここまで付き合ったら、もう最後までとことんやらないと、的な?」
誰に対して言い訳しているのか、自分でもわからない。
これからほんの少しの間だけ、いつもの自分ではなくなる。そのための、一種の前置きのようなものだった。
「……それじゃ、いきますよー! 一世一代のお姉ちゃんの戦いぶり、見せてあげますっ!」
勝敗はあっけないほど簡単に決まった。
もともと最初から、アンゼリカの敵ではなかったのだ。まとまった数で襲いかかられたのならともかく、単体が相手ならアンゼリカが負ける要素はどこにもない。
「さって、一件落着ですかね。……もうやりませんからね? どんなにアンコールされたって、絶対にもうやりませんからねっ!」
ゆっくりと消滅していく害虫にむかってそう口にしたあと、くるりと後ろを振り返る。ちゃんと子供の霊は見ていただろうか。
その心配は必要なさそうだった。屋敷の入口のところで、じっとこちらを見つめる姿があるのを確認できたからだ。
しばらくアンゼリカはその場で立ち尽くすと、どう声をかけようかと思案する。そして、ゆっくりと子供の霊のもとへ歩み寄った。
「……見ましたか。お姉ちゃんの、花騎士の戦いぶりを……?」
こくりと、子供の霊が大きくうなずいた。
それだけ。一回だけのうなずき。ただ、それまでの一回きりのうなずきとは、はっきりと違うように思えた。
「……ごめんね。本当は、本物のお姉ちゃんが活躍するところを見たかったですよね。アンゼリカさん、じゃなくて」
子供の霊が戸惑う。ほんの少し前よりも、なぜだかその気持ちひとつひとつが深く伝わってくるような気がする。
姉がすでにこの世の人ではないということは、彼ももう理解しているのだ。
しかし同時に、そんな姉に代わって目の前で戦ってくれたアンゼリカに感謝してもいるのだろう。そんな彼女に謝られて、どうすればいいかわからないといった感じだ。
子供の霊にむかって、アンゼリカは微笑んだ。
そして膝を折って目線を同じ高さに合わせると、優しく語りかける。
「……私もね、会いましたよ、あなたのお姉さんに。いやー、たしかに雰囲気が少し似ているといえば似てるかもしれませんねー」
団長にも見えたという、戦死した花騎士の娘の姿。
しかし、プルモナリアや団長だけの専売特許ではない。アンゼリカの脳裏にも、その姿ははっきりと焼き付いている。
「さっきの戦い、見ましたよね? あなたのお姉ちゃんも、きっと同じように戦ったんだと思います。嘘なんかじゃないですよ。だって私、ちゃんと会ったんですから」
――そういえば。
プルモナリアと団長にそれぞれ話しかけるのに気を取られてしまったが、ひょっとしたら自分にも、なにか伝えられたものがあったかもしれない。
そしてそれは、もしかしたら目の前にたたずんでいる、彼女の弟に関係することだったのではないだろうか。
「さあ――」
役目は果たせた。自分だけの役目を。そう思う。
「そろそろ逢いに行きましょうか。本物の、大好きなお姉ちゃんに」
……子供の霊の姿が、少しずつ。
まるで周囲の闇に溶けこむように、徐々に霞がかってゆく。
微笑んだ表情を崩さないまま、アンゼリカはそれをずっと見つめた。
館主や花騎士の姉とは違い、この子を見送るのは自分ひとりしかいない。
それでも、満足して成仏しようとしている。新たな世界へ旅立とうとしている。
しっかりと見守ろう。姉の代わりを最後まで演じきって――いや。今だけは、第二の姉として。
「……ん?」
最後のひとしずく。
完全に消え去る直前、子供の霊がアンゼリカの耳元に顔を寄せ、なにかを言葉にした。
そして……そのまま、消えた。
「そっか……。うん、いいこと聞けたなー……」
ゆっくりと立ち上がると、アンゼリカは月を見上げた。噛みしめるように、ぽつりとつぶやく。
隠し財産が眠る部屋についてではない。代々伝わる秘宝の在り処でもなかった。
ただ、それでもいい。自分でも不思議なほど、すっきりとした気持ちが今のアンゼリカにはあった。
「……まー、今回はこれでよし、ということにしましょうかね。報酬、ちゃんといただきましたよ」
今まであまり気にもしなかった、子供の名前。それと姉の名前。
記録として残る文書や文字などからではなく。
本人たちから直接打ち明けられた最後の人間が、アンゼリカということになる。
「……たとえ月明かりがなくったって、すぐに再会できますよ。家族思いのお姉さんみたいだから、きっと迎えに来てくれているはずです……」
視線を落とし、もう一度子供の霊がいた場所を見る。
そこはもう、黒々とした空間が広がるばかりで何もなかった。
――彼女はまったく気づいていない。
屋敷の中から、アンゼリカと子供の霊をずっと見守っていたひとりの花騎士の姿があったことを。
◇ ◇ ◇ ◇
翌日。
ふたたび屋敷へ赴くと、軽い驚きが待っていた。
子供の霊が、無事に父や姉のあとを追って成仏したというのだ。
彼らの無念を完全に晴らしたと思ったのに消滅しなかっただけに、正直かなり難航するものと想像していた。時間をかけてじっくりと向き合わねばならないだろう、そう思ってすらいたのだ。
だから本人には悪いが、はじめはなかなか信じがたかった。
こちらには霊が見えない以上、本人たちの報告を信じるしかない。それは承知しているが……。
「心配いらない。本当に、ちゃんと成仏させてあげたよ。わたしじゃなく、アンゼリカさんがね」
はっきりとそう断言するのは、プルモナリアだ。
「……意外と葬儀屋にも合ってるのかもしれないな、アンゼリカさん。ううん、それよりもベビーシッターに、かな」
いずれゆっくりと、この場所は形を変えていくことだろう。所有者が替わり、騎士団のものへと移った以上、避けることはできない。
だが、それでも。思ったより多く、そのまま残されるものが出てくるのではないだろうか。なんとなくそんな気がする。
安易にあれこれと捨て去ったり早急に変えようとするならば、彼女はきっと誰もが意外と思うくらいに反対の声をあげてくるだろう。
大広間の奥のテーブルの上に広げた図面を眺めながら、他の花騎士たちの改装計画に何度も首を横に振るアンゼリカ。
その姿を、プルモナリアは目を細めながら見つめる。
「さすが偉い人。いい目を持ってるね。これ以上ないってくらい、最高の人選だったよ」
……冗談? ううん、本当だよ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
全13回、アニメにするとちょうど1クール。
文字数を数えると約11万字。ちょうど文庫本1冊くらい。
全体として見ると、非常にいい感じのボリュームに収まったような気がします。
登場人物の誰もが納得したうえでのハッピーエンド。作者としてはそんなふうに、そうあってほしいと思っています。
これにて第六章は本当に完結となります。
もしも気に入っていただけましたら、評価やブクマなどをいただけるとめちゃくちゃ喜びます。