キンギョソウが騎士学校を出立する、その数日前。
はじめて、彼女は医療施設内の一室に足を踏み入れることができた。
騎士学校での自室と同じく、殺風景な病室。
さして広くもない部屋で、半分ほどの面積を占めているベッド。上体を起こしてその端に腰を下ろし、ツボミはキンギョソウを迎えていた。
「先生……ごめんなさいっ!」
おそるおそる近づくキンギョソウ。
その彼女に向かって放たれた第一声は、意外なものだった。
「待って、ツボミちゃん。それじゃまるっきり……!」
「まるっきり反対、なんてことはないです。実際、先生の指示も聞かずに飛び出したのはわたし自身ですから」
そうであったとしても。その代償を、すでに彼女は支払っている。あまりに大きな代償を。
だから、もう充分なはずだ。そして次は、詫びを受ける立場であるべき……なのに。
それは違うと、彼女は首を横に振る。
「……わたし、ずっと考えてました。これからのことを、そしてそれ以上に、これまでのことを……ずっと」
「……」
「わたしね。実は先生に、隠していることがあったんですよ」
その表情は、とても穏やかで。
それでいて、胸に決然と何かを秘めているようにも見えて。
踏み込むべきなのかためらうキンギョソウに、淡く微笑みを投げかけながら――
ゆっくりと、ツボミは語り始めた。
「――きっともう、先生も知ってますよね。わたしがやってしまったのは、今回が初めてじゃないってこと」
「……うん」
「だから本当は、落第生も同然だった、ってこと……」
「そんな、落第生なんて……」
「だからわたし、最初はね。先生の立場を利用してやろうと……そう思ってたんですよ」
騎士団から来たばかりの、現役の花騎士。そんなキンギョソウに取り入り、気に入ってもらえたら、念願の花騎士になるために様々な便宜を図ってもらえるに違いない。
害虫を前にすると、とたんに我を忘れてしまう。それは身体能力や技術の面においていかに素質に恵まれていようと、花騎士として第一に忌避すべきなのは明らかだ。
だから実のところ、彼女には余裕がなかった。このままでは落第や留年はおろか、下手をすると不適格とされて退学、なんてことにもなってしまいかねない。
そんな危機感を募らせていたツボミにとって、キンギョソウはいわばラストチャンスにも思えたのだった。
「……正直に言ってしまうと、ドクログッズだって、本当は興味なんてないんです。でも、先生の好きなものだから……」
「……そっか。そうだよね……」
「一日でも早く本物の花騎士になれば、一匹でも多くの害虫を倒すことができる。まだ見習いでしかないわたしだけど、ひょっとしたら先生が所属している騎士団に連れていってもらって、そこで他の方の力を借りながら害虫と戦う場面があるかもしれない……」
戦う機会がなくったっていい。そのときは、騎士団内でさらに他の花騎士にも気に入られるように行動しよう。そうすれば、うまくすると他の生徒を飛び越えて、誰よりも早く正式な花騎士として加えてもらえるかも……。
「何もかも、すべて。ただひとつの目的が、これまでのわたしを支えてきました……」
両親の無念に対する、復仇の念。
あらためて、害虫に対する彼女の強い気持ちがそこには表れていた。
「……でも。それも、もう叶わないんですよね」
「それは、その……」
「いずれ時間とともに、筋力は取り戻すことができるとのお話でしたけど。だけど、ステップを踏むように軽快に動くことは、もう……」
「……ごめんね。こんなことになって、本当にごめんなさい……っ!」
感情が、一気にあふれ出た。
堰が決壊したかのように、
彼女の前に膝をつき、頭を垂れながら。ただ一心に、キンギョソウは自身の至らなさを詫びた。
「わたしこそ……わたしの方こそ、自分の勝手な打算に先生を巻き込んじゃってごめんなさい……っ!」
「そんなの、どうだっていいよ。気にすることなんてないよ……!」
嗚咽が、病室内にふたつ重なった。キンギョソウと、そしてツボミと。
いくら声を
閉ざされた、ひとつの未来。どこまでも深い、後悔とやるせなさ。
ひたすらに。ただ、ひたすらに。あふれる感情が涙へと変化するのを、抑えきれなかった。
――ひとしきり、互いに泣いて。
嵐のように吹き荒れる情動からようやく落ち着きを取り戻したのは、キンギョソウがこの病室へ足を踏み入れてから、どれくらい時間が経ったころだろうか。
思い返せばキンギョソウにも、この教師生活が自分にとっての転機になればいい、という期待があった。そしてそれは……まもなく、不本意な結末を迎えようとしている。
しかし――得たものは、何もなかったのだろうか。
彼女は、打算で自分に近づいたと言った。ドクログッズもそんなに好きではないと告白した。
けれど、今。自分と一緒に、大粒の涙を見せた。キンギョソウを
それさえも嘘だとは。絶対に、言えないはずだ。
「……ねえ、先生。最後にひとつだけ、お願いしてもいいですか?」
それから、しばらく。
思い思いに、余すところなくお互いの気持ちを語り合って。
その最後に、ツボミはおずおずとそう切り出した。
「騎士団へ戻られる先生の代わりに……ドクログッズ、ひとつわたしがもらってもいいでしょうか……?」
「え? だってツボミちゃん、本当は……」
「……たしかにわたし、本当はそんなに好きじゃありませんでした」
でも、とツボミは言葉をつづける。
「でも……先生と一緒に騎士学校で過ごした時間は、本当に楽しかった。それは、決して嘘ではないです」
花騎士への道が絶たれて。これから、新しい人生を踏み出さなくてはならない。
そのとき、自分の傍らにいてほしいのは……たとえわずかな間のこととはいえ、楽しかった思い出――
みずからが信じるかぎり、それはいつでも力強く、勇気と励ましを与えてくれるはずだ。
「……それじゃ、私からも。お願い、させてもらっちゃおうかな?」
「で、でも。今のわたしに、できることなんて……」
今の自分には何もない。そう告げるツボミに、キンギョソウはかぶりを振る。
「私はもう、ツボミちゃんの先生なんかじゃない。その資格を、私はもう私自身に決して持たせないようにしようと思う」
「そんな……。先生はわたしにとって、いつまでもずっと先生ですよ……!」
「ううん。決めたんだ……この気持ちだけは、絶対に曲げないようにしようって」
肩書も、身分も。
そんなものは、何の意味も持たない。必要ですらない。
「だからね。あらためて、ツボミちゃんにお願いしたいの」
欲しいのは、たったのひとつだけ。
だから、何度でも乞おう。
「これからは……私の『友達』に、なってくれませんか……?」
この想いが色褪せることは、きっと一生ないだろうから。
だから、いくらでも乞い願うのだ。
「……はい。喜んで……!」
ただ純粋に、本音でぶつかり合うことができる。
そんな相手に、お互いはじめて巡り会えたような気がしていた。
――それから。
ほどなくして、キンギョソウは騎士学校をあとにした。
◇ ◇ ◇ ◇
ごめんね。長話が過ぎちゃって。
でも、もう少し。あとほんの少しだけ、聞いていてほしいんだ。
――それから、月日が経って。
ツボミちゃんは、かつての両親と同じ道、農家としての人生を歩んでいくことに決めた。
といっても両親が所有していた田畑は騎士学校での生活のために全部売ってしまっていたから、なんらかの事情で放棄されていた別の農地をあらたに買い取って。
もちろん、私も協力を惜しまなかった。今の……この騎士団に転属する前の、当時の騎士団内を駆け回って、資金集めに苦しむツボミちゃんへの支援をお願いしたり。珍しい苗や種を見つけては活用できはしないかと、送ってみたりもした。
そして休暇のたびに、彼女のもとへ足を運んだ。
そんな、ある日のこと。
ツボミちゃんが、今の生活を志すようになった転機のことを、語ってくれたんだ。
「――野菜の悲鳴って、聞いたことあります?」
「……え? 悲鳴を上げるの、野菜が?」
「うん。どんな植物も、ちゃんと生きてるんですから」
ツボミちゃんは、私のことを先生とは呼ばなくなった。
それでも口調は、あいかわらず丁寧なままだけど。でもときどき、少しはくだけてきたかな?
――後遺症を抱えつつもだいぶ怪我も癒え、なんとか屋外も歩き回れるようになってきたころ。
誰にも伝えずひそかに郊外まで足を延ばし、害虫の出現はゼロに近いと認められている耕作放棄地に至ったところで、彼女はその声を聞いたのだという。
「ひょっとしたら別のどこかで、その農地を管理してる人が害虫に襲われたのかもしれません。だってそこは、作物が実ったまま放棄されてたから……」
「……」
「キャベツが、大きくなりすぎていたの。そうしたら……バリバリッて音を立てて、勝手に真っ二つに割れて……」
たしかに耳にした、痛切すぎる叫び。
人の手により育てられ、収穫を迎えることなくただ朽ちていく。その光景はあまりにも無残で、切なくて。
その姿を、ツボミちゃんはただ茫然と眺めるしかできなかったという。
そして、そのとき――
「……君にも聴こえたかい、彼らの声が」
背後から不意に投げかけられた言葉に、彼女はびくりとして。そして、あわてて振り返った。
そこには、ツボミちゃんの他にもうひとり。同じ光景を瞳に映して、旅装に身を包んだ人間が立っていた。
聞けば、どこかの騎士団の団長だという。そんな相手に声をかけられ恐縮するツボミちゃんに、その騎士団長は微笑みかけながら、逆に突然声をかけた自分の非礼を詫びた。
「……ひょっとして。その団長って、私のところの……」
「ううん、違うみたい」
このときのツボミちゃん。そうとう自信があったみたいで、すぐに別人だって断言したっけ。
そして、私は。このときの会話からしばらく後になって、今のこの騎士団に移ったんだよね。
「……だってその人、まだ騎士団長になったばかりだって。だからこれから花騎士を集めるために、今はまず各地の騎士学校をめぐって、それぞれの様子や特徴を学んでいるんだって言ってたから」
――その人物の瞳からは、強い意志と知性を認めることができた。さすがは騎士団長になる人だって、ツボミちゃんはひそかに感じ入ったという。
けれどまもなく、ツボミちゃんははっとした。その表情は暗く、眼前の光景にただ心を痛めるばかりのように見えたからだった。
精強な騎士団を作り上げれば、強力な害虫も撃退できる。人々の生命や、そして大切な財産を守ることができる。
それでも、無傷なままではいられなかった。人的にも物的にも、被害はどうしても避けられない。
「一度害虫に荒らされた土地が、何もしないまま、ただ自然に復興することはない。そしてまた、枯れた農地がふたたび息吹くには、騎士団や花騎士だけの力では、おそらく足りない。
……その力の及ばなさが、騎士団長として悔しいんだ」
収穫の機会に恵まれなかった作物だけではない。荒れかけた農地に膝をつき、片手に土をすくい取りながら、その団長はただ小さく首を左右に振った。
人の手が入らなくなり、ゆっくりと活力を失っていく大地を前に、今の二人は無力だった。
「……わたし、決めました」
「……何を?」
「わたしの、新しい戦場を。武器を手に害虫と渡り合えなくなったわたしが、それでもまだ戦うことができる場所を」
ひとりの少女にとっての、新しい世界。
自らの手で切り拓いていく、これからの未来。
「害虫の影響で、荒れ果ててしまった農地。
それを生き返らせることが、わたしの本当の戦いなんだと――そう思ったんです」
……それもまた、決して平坦な道ではないだろう。
大地との格闘も、害虫と同じように。果ての見えない、長い長い月日をかけての難敵となるに違いない。
「……後悔しないと、誓えるかい?」
覚悟を問う団長を前に、ツボミちゃんは力強くうなずいてみせた。
「今はまだ、分かりません。でも、きっと平気です。
だって、わたしは……以前、あの『花騎士』を目指していたくらいなんですよ?」
――これで、私の話は、やっとおしまい。
長かったけれど、話し終えた今は。団長さんに話せてよかったって、心の底から思ってる。
団長さん。
最後まで何も言わず、それでもちゃんと聞いてくれて、本当にありがとう。
強い意志と、知性を深く宿したその瞳は……今はただ私のことを、ずっと見つめてくれている。
だから、もうひとつ。
本当に、本当にありがとう。
私のかけがえのない親友に、道を示してくれて――